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残党狩り

上の家で片づけをしていたら、またハガキが一束見つかってもはや笑ってしまう。
二年ほど前から、家中にあふれるハガキの類を、とにかく友人の一人に出しまくって、もう二百枚以上来てるよと彼女は言うのだが、さすがにそろそろ先が見えてきた感じで、残った一山のハガキにこの間からせっせと、これまた古い切手をはっては達成感に浸っていたのだが、ときどきまだこうして、部屋のあちこちから、思いがけないひとかたまりが見つかる。

でももはや、残党狩りでもしている気分で、あまりがっくりはしない。こうやって、まるで海の水か砂浜の砂のような膨大な量のものを、先も考えずに、うまずたゆまず少しずつ消費していて、そろそろさすがになくなりかけているのが、叔母や田舎の家が残した線香とマッチの山で、これも何とか私がボケたり死んだりする前に、新しいのを自分で買う日は来そうである。ふう。

このようにして、読んでない本や、書いていない論文や、使っていないカードも処理して行けたらいいのだが、もはや遅いかな。どうだろう。

ヤフーニュースで、週刊誌が紹介していた宍戸錠の「孤独死」の記事に、たくさんのコメントがついていた。それがもう、どれもこれも「全然悲惨じゃないじゃないか」「奥さんを見送りペットを見送り、12万円のマンションで、一人暮らししていて、近所付き合いもあって、理想的な老後」「コンビニ弁当を最後まで食べて暮らしてたのが悲惨みたいに書いているが、自分で最後まで歩いて買いに行って、しっかり食べていたって最高の幸福だろうに」「別居していた娘さんもちゃんと会いに来ていたのだし、家族で同居が幸せとは限らないのに」「変に孤独死や一人暮らしを悲劇にしたてあげるのはやめろ」みたいな意見ばかりで吹き出してしまった。

まったく同感だが、一人暮らしの人が増えたから、こういう意見が多数になるのだろうとも思う。私なんて本当にもう小学生のころから、家族や知人に取り囲まれて死ぬのなんて思ってもぞっとすると思っていて、絶対に一人で死にたいと願っていた。それはこれまで一度も変わらなかった。でも、そんなこと昔は絶対、理解されないどころか狂人扱いだったと思う。

だいたい、だからさあ、私はこういう孤独死が楽しい、死ぬとき誰かにそばにいてほしくないという感覚については長年の経験がある筋金入りだからわかるんだけど、少なくとも私は自分が死んで相手が生きてるのって、それ、相手が勝ちってことだとしか思えないのよ。だから、死ぬとき回りにいるやつって、勝ちほこって威張ってるやつとしか思えないのよ。こっちが負けた相手なんて、正直顔も見たくない。私にはもう味わえない光や風や食べ物や快感を明日からも味わえるやつの顔なんて、胸糞悪くて見る気もしない。

私が死ぬのに自分がまだそれを味わえるのが、申し訳なくて恥ずかしいんなら、せめてどっかに隠れていて、私が死ぬまで顔を見せるな。申し訳なくも恥ずかしくもない人間なんて、別の意味でも顔なんて見たくないし。

もし本当に私を死なせたくなくて、もっと長生きしてほしいんだったら、じゃあ自分の命と引き替えて、私を自分の代わりに生き延びさせろ。神さまでも医者でも、そんなことできるわけないと思って、だから安心して来てるんだろ。

本当に悲しんでるとしたら、それは私が自分にとって都合がいいし便利だし見て楽しいしつきあってうれしいから、そういう時間がなくなるのが残念で恐くてくやしいだけだろ。結局自分の都合のせいだろ。どこまで行っても、どうつきつめても、それ以外の理由なんてないだろ。
とか思いながら本や書類を片づけていると、ますますもう、残された時間がないし、したいことやすることは多すぎるなあと思う。やれやれ、いったいどうすれば(笑)。

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カツジ猫