1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. 日記
  4. 母と、母の母(20)

母と、母の母(20)

本当に久々に、昔、祖母が長崎の活水学院に行っていた母に出した手紙の紹介です。
 この手紙はかなり長いですが、特別に大きな事件があるわけではありません。叔母の進学に関する相談や報告、家に雇っていたお手伝いさんがやめたので親戚の人に頼もうとしている計画、などの細かい金曜報告です。

その親戚のチマという方、母の話に何度かお名前が出てきた記憶はあるのですが、どういう話だったか、思い出せそうでどうしても思い出せない。お会いしたことがあるかどうかもわからない。

私の小さいときにかわいがってくれた「とよべえ」という若い女性(ほとんど少女)もそうですが、祖母は自分の親戚の関係者をちょっと見下して使用人扱いしている気配があります。相手もそういう位置で接しているようです。ただ、それは婚家先に対する祖母の親族ぐるみの遠慮なのかもしれず、このへんの微妙な意識は私にはわかりません。
 唐突に思い出しますが、小さい時に私の友だちが遊びに来て、お菓子を個別に与えるとき、足りなかったら祖母は私にくれなくて、私は少し気を悪くしていました。祖母はそんな風に「身内にがまんさせる」という美意識だか作法だかを守っていたし、それは母も叔母も叔父(板坂元)も祖父も、家族や身内を後回しにして地域や職場やその他の他人、どうかすると社会や天下国家の方を優先するという姿勢が共通していました。それがわが家の作法だったか当時の社会が皆そうだったかはわかりません。身びいきを避けて、恥じる意識はなにがしか誰にもどこにもあったような気はします。自分の関係者の利益を最優先する今の政府とは、あまりにもかけはなれていて、まるで異国のようですが。

あと、父(私の祖父)や弟(叔父)にいろんなものを送り、身体の弱い妹(叔母)を守り、祖母とこうやって家政を打ち合わせる、まるで一家の出張所のような母の存在を感じるとき、その母が後に当時の死病だった結核に感染したとき、一家の動揺と当惑はかなりのものだったのではないかと察せられます。母はその時の皆の冷淡さを忘れずに以後は徹底的に家族に冷たくなるようですが、たとえば私が手術で入院するときに、まったくその事実を直視せず、別の話題ばかり話していて私にあきれられた母と同様、一家は皆の支えだった母の罹病を認めたくなくて無視しようとしてしまったのかもしれないという気がします。

そんな先のことは予想もできないまま、祖母は四人の子どもにまんべんなく目を配り、順調に進む一家の様子に幸せをかみしめつつ、世間の災害などにも思いをはせて悲しんでいるようです。雪害や海難事故の記録については1940年前後をネットで調べてみましたが、特定はできませんでした。この、いつも世界や社会を視野に入れつつ一家のことを見つめ、世界情勢と日常生活を地続きに語る姿勢も、母に、そして私に受け継がれているのかもしれません。

「神の浦」は長崎の神之浦(こうのうら)。祖母の母はもう亡くなっていたはずだから、これはチマさんのお母さんだろうか。それもよくわからない。

澪子ちやん 又しばらくお無沙汰して了ひました 今年の寒さとこの雪 皆がやむだろうといふ口の下からますますふるといふ工合で急にはやみそうもないのね 二人共かわりなく□達者でしょ 同じ日本でも雪の多い東北などあの通りの雪害又海上では大小沢山の船が暴風雨の為め沈ぼつしていたましいこと限りなく至るところで胸がふさがりほろりとさせられる事件が引きつゞき起きますがそれに比すれば私共はほんとうに幸せで感謝のほかありません 親子六人の内一人でも重病にかゝたり不幸なことになったりしたら何となりましょ 二人共わづらはないやうにして下さい 内をはなれてるあなた方三人が達者で勉強さへしてればそれ以上何も望みません 先日のカラーね とても工合がいゝからと御父さんがおよろこび成すって早速澪子によく出来たと云ってやってくれと仰言ったのよ それから南生ちやんの英語の勉強に付いて高森先生に手紙を上げてをいたと云ったでしょ あの返事がネ 高森先生代筆として植田先生からきたの そして主任の赤尾先生と相談したら大丈夫B組におは入っても今のまゝの好成績を上げられますから御心配お無用と云って来た 南生ちやんが安心するやうにその手紙は送ってやってるから見て御らんね でも御父さんは英語を勉強し度いといふのだから何とかしてやったらいゝじやないかとおっしゃるから折返し植田先生にお 世話かけた御礼と鶴田先生にお話して下さいとたのんで出しました 又鶴田先生にもくわしく事情をのべて一週に二時間か三時間でもいゝからお都合がつけば見てやって下さいとそれに例のバレーの件も勉強時間までぼうにふってやる必要はなし 身体も人一倍わづらひやすいからと小川先生までよく話して下さいとたのんでをきました もちろんお母さんからも直接書きますがね
それからね女中がこの廿日までゝ暇取りましたから又チマに手紙を出してます 三日にチマから手紙が来て今の内から暇が出ないからと云って来ましたから かわりを立てゝ是非くるやうに今度はチマがお嫁入りする時は箪笥の一さほも買ってやって出来る丈けのことはするからとかさねてくわしく出しましたし神ノ浦の母にもその通りいってやりましたから何とかくり合って来ますでしょ 御嬢様方が活水に御出とるとのことで一度おたづねして見度いとおもってるけど勝手がわからず町に出た時はもしかお嬢さまではないかと女学生さんを一人々見るてよ やはり長く一處に居た者はそれ丈けちがったものね それで南生ちゃんにもハガキを出しなさいと云ってたが澪ちゃんもハガキなり出して宇佐行きをすゝめて頂だい 處は櫻馬場町一五の光吉様方山口ちまです 今日あたりは雪もやみいくらか暖かです 最うこのまゝ春の候となるでしょ 兄さんも卒業前で勉強外に色々と忙わしいらしいの 卒業記念に阿蘇山に登りますとかで小使銭を送りました お母さんも三月二日には御礼方々佐賀までまゐります 昨春はあなた達の活水入学 今年は兄さんの大学行き 親の私共もたのしみです この後は一寸一息で元の学校行きまで静かなことでしょ あのお菓子は元が毎日毎日のたのしみであの箱にまゝ机の上にのせて学校から帰った時にしてまだ少しは入って居ます 又かきましょ          母より
  澪子さまへ

二月七日

写真は幼い私と母。背景はどこかわからないなあ。

Twitter Facebook
カツジ猫