母と野球
(共産党後援会ニュースに掲載されたものを再録しておきます。)
今でこそタカガールとかカープ女子とか、女性の野球ファンは珍しくないが、大正七年生まれの母が女子学生だったころ、野球に興味関心を持つ女性など、世の中には皆無だったそうだ。その中で母はプロ野球もだが、特に六大学野球に熱を上げ、ひいきの選手がプロに入って近くに訪れたとき、夜に彼のいる旅館を友人と裏の山からのぞきに行った。「宴会やってて、真っ赤な顔で酒を飲んでた」と話していたから、相当の至近距離まで接近したのだろう。
当時の大学野球はプロ野球以上の人気で、特に早慶戦は日本シリーズにもまさるほど人々を熱狂させた。母は縁もゆかりもない慶応の大ファンで、これまた何の関係もない早稲田の大ファンの弟が学校から帰って来るのを、庭の木に登って待っていて、枝の上から「元ちゃん、勝ったよ勝ったよ、慶応勝ったよ」と勝ち誇り、くやしがる叔父に試合経過を逐一教えて浮かれていたそうだ。
ラジオ放送だけの当時もそれなりのグッズはいろいろあったようで、母の死後遺っていた小さな金属製の野球人形の台座がとれてなくなっていたのを、私はカップに詰め物をした上につけて、窓辺に飾ってやっている。
出征して戦死した野球選手たちの名を母はよく覚えていて、指折り数えて私に教えた。「あの選手たちが死んだというだけでも、もう二度と戦争はさせてはいけない」というのが口癖だった。
(おまけで、つけ加えますと、この母がストーカーした選手の名前、私はちゃんと覚えていて、忘れるわけないと思っていたのに、忘れてしまって、ショックでした。この原稿を出したあとで、「六大学野球物語」という、母に買ってやった本が書棚にあったのを見つけて読みながら思い出していると、多分「高木」という人ではなかったかと思います。「タカギは真っ赤な顔をしてさ」と母が言っていた声がおぼろに耳の底に残っている気がするのです。)