何だかあせる
昨日はどしゃ降りって予報だったのに、雨らしい雨は降らず、今朝は外に出てみたら、いつの間にか降ったらしく、木々の葉っぱがぬれていた。洗濯物を干しに行くとき、茂りすぎたユキヤナギの枝が身体にひっかかって、びしょぬれになるので、ここだけでも刈り取っておきたいのだが、時間がとれねーよー。でも、この前、近くのナフコで、ひからびて死にかけて、ようこんなの売るなというようなハーブ類の苗が、八割引になってたのを、二十本ほど買いこんで鉢植えにしといたら、雨のおかげで、それはどうやら、元気に根づいてくれた模様。
今日という今日は、たまったメールのお返事を一気に書こうと思っているのだが、もうお昼近い。やれやれ。
…と書いてから、すでに一日半。やるべき仕事がどれもこれも終わってないので、それどころか、とりかかれてもいないので、不安と焦りで、何かもう吐きそう。
もうずっと前なのだが、明け方にいやな夢を見た。もうとっくに改築してなくなった、田舎の家の昔の古い台所がそのままで、もう誰も住んでいないのだが、私が入って行くと、土間に茶色の汚れたきじ猫がいて、エサを探していた。うちにいた、どの猫でもなかったが、何だかうらわびしく、その猫が出て行くのを見ていると、外の庭に、小さい男の子がうろついていたが、もしかしたら成長していない大人なのかもしれなかった。
別に悲惨なところも恐ろしいところもないのだが、目がさめてから、ロビン・ウィリアムズの出た「奇跡の輝き」という映画で、彼が奥さんを探しに行く地獄の描写を思い出した。地獄は阿鼻叫喚の場所とかではなく、奥さんが生きてるときに暮らしていたままの自宅と庭で、ただそれが変に暗くて索然としてすさんでいるのだった。何の生命力もなく、何の意志も感じられない。
私は夢の中でも、わりと起きているときとあまり変わらず、議論したり行動したりしていることが多い。そこがどんなところか、何を自分がしようとしているか、わりとわかっている。それがあの夢にはなかった。最近、大田洋子やその他の人たちの原爆小説をよく読んでいたのだが、原爆が落ちた直後は妙に静かで無彩色の世界が広がっていたように描かれていて、そういうものとも似ていた。
何だかちょっと、その夢のような気分。するべきことが、できてない。勉強をしたい。論文を書きたい。それができない毎日は、何をしていても、灰色の無音の世界にいるようだ。
とか思いながらスーパーに行き、カツジ猫にわけてやる、おかずのおさしみと、昨日の残りのブロッコリーとサラダにするエビを買って帰宅しました。
民教連の原稿締切を忘れていて泡を食いましたが、今日いっぱい大丈夫なようで、一安心。ネタはあるので、何とかなりそうです。