母の葬儀での私の謝辞。
(母の葬儀の最後の、会葬者への私の謝辞なのですが、こうして書くと、あまりの長さに我ながら目まいと寒気が。お経より長かったんじゃないだろうか。もっとも当日は少し省いたところもあり、通夜のあいさつで言ったことも加えているのですけど、一応こんなところです。)
皆さま、年の暮れの、この忙しいときに母の葬儀においで頂き、本当にありがとうございました。
母は五年前まで、岩崎の川沿いの家で一人で暮らしていました。私が仕事で帰れなかった分、こちらの皆さまにはいろんなかたちで、大変なお世話になりました。私の知らないところで助けていただいていた方もあると思います。あらためてお礼申し上げます。
五年前、九十三歳のときに母は一人暮らしは無理ということで、宗像市の私の家に近い、ライフステイ宗像という施設に入りました。今日、そこに立派なお花もいただいていますが、映像でもごらんのように、とてもよくしていただいて、母は楽しく過ごしていました。特に歌をよく歌って、歌詞をすべて覚えているとヘルパーの人たちは感心していました。
母は昔から三浦洸一の歌が大好きで、葬式の時には流してくれといつも言っていたので、葬儀社の方にお願いして、先ほどからその歌をお聞きいただいています。
ずっと元気にしていたのですが、半月ほど前から風邪をひいて気管支を悪くし、もともと肺が弱かったので、咳と痰で苦しそうにしていました。私が昨日こちらに帰って来て家の片づけをしていたら、施設のお医者さんから電話があって、血圧が下がって今夜旅立たれるかもしれないが、咳はおさまってとても気分よさそうに眠っておられるので、それは安心して下さいと連絡があり、まもなく亡くなったと知らせがありました。私が最後に会った時も、咳はおさまっていたので、最期は安らかに眠ったままだったのだろうと思います。
母はあきらめのいい人で、帰りたいとは言ったことがなく、今の生活に満足していましたが、宇佐のことはいつも気にかけていて、私がこちらに帰るたびに、皆は元気ね、宇佐は変わりはないねと聞いていました。年末の忙しい時、こちらで葬儀をすれば皆さんにご迷惑をかけるとは思いましたが、やはりここで最後の時間を過ごすのが母は幸せだろうと、葬儀社の方といっしょにゆうべ迎えに行って、連れて来ました。こうやって皆さまにおいでいただき、お盆のたびにお話をしていた、萬徳寺のご住職にお経をあげていただいて、母はきっととても満足していると思います。
母は中国で生まれ育ちました。祖父が大きな病院をしていて、現地ではぜいたくな暮らしをしていたそうです。その後、南京事件の時に中国兵に攻め込まれ、日本人は街の建物に集められ、廊下に並べられて銃で撃たれました。威嚇射撃で死者は出なかったけれど、当時小学生だった母は「あの時以来、私は何かを恐いと思うことはまったくなくなった」と、よく言っていました。
それでも母は、ずっと中国も中国人も好きでした。「地平線が見えない風景はものたりない」といつも言っていたし、最近テレビなどで中国人の悪口が言われると、ヘルパーさんたちに「中国の人は皆いい人よ」とくりかえしていたそうです。
その事件の後、着の身着のままで家族は船で日本に引き揚げ、いろいろ苦労をしたのちに、この村で祖父が病院を開き、ずっとそこで暮らしました。母は長崎の活水短大に行き、すべて先生は外国人という中で、キリスト教や英語の文化に親しみました。
そんな母でも戦時中は軍国少女で、アメリカ兵が落下傘で降りて来たら竹槍で突き殺すと真剣に考えていたそうです。戦後、母は、戦争はそのように人を変えてしまう、平和は絶対に守らなければならないと、いつも言っていました。また長崎の原爆で、親族の多くや下宿していた家のご夫婦も死んだので、原爆記念日には原爆資料館に行って、「ここが私の原点だ」と言っていました。
戦争が起こるときは、本当にあっという間に世の中ががらっと変わって一気にそうなってしまう、今もそうなりかけているようで心配だと言って、平和のための運動に熱心に取り組んでいました。同じように平和を願う人々が時に意見のちがいから対立するのを「まじめな人たちだから、そうなるのだけど」と、よく私に向かって残念がっていました。
母はまた、祖父の病院の事務を手伝うかたわら、家で子どもたちに英語を教えたり、ゲートボールや川柳や老人クラブの活動や編み物のパートなどで、たくさんのお友だちと楽しく過ごしていました。
恐いものがなくなったと言うことばどおり、母が何かを恐がったのを私は見たことがありません。泣いたのも見たことがありません。ため息をついたのも見たことがありません。
母はいつも怒っているか笑っているかでした。怒っているのは大抵、強い人や上に立つ人に対してでした。「けんかをしたら、強い方が折れるべきだ」「どちらが正しいかわからないときは、とりあえず、弱い方、負けそうな方に味方する」というのがモットーでした。笑う方でも、いたずらが好きで、ゲートボールの友だちのおじいさんが夕方、家に来るころを見計らって、脅かそうとシーツをかぶって木の下に立っていたりしていました。そのおじいさんももう亡くなっておられるので、母はまたあの世でいたずらを計画しているでしょう。
母がいなくなって淋しいでしょうと皆さまが言って下さいます。けれど通夜のときにも申し上げたのですが、私には、母が不自由になっていた身体をはなれて、今とても自由にのびのびと、私や皆さまの回りを飛び回っているように思えてなりません。私を守ってくれていると言いたいところですが、母はいつも身内をあとまわしにして、遠くの人や見知らぬ人を助けようとする人でした。少なくとも私よりはずっと皆さまの近くに母は行っていると思います。特に皆さまの困ったときや大変なときは、きっとそばで何とかしようとしてくれているはずと思います。
母が長いこと暮らし、皆さまがよく訪れて下さった、川沿いの二軒の家ももう人手に渡ります。新しく住まれる方もどうぞ母同様に迎え入れていただきたいと思っています。今日おいでになれなかった方がお参りしていただく仏壇もここにはないので、残念に思われる方もいらっしゃるかもしれません。お墓はご存じの山の上の墓地にあって、四十九日には納骨する予定ですので、そこに行って下さってもよいのですが、山の上まで行くのは皆さまも大変だと思います。ですから、そこまで行かなくても、どうぞ、今おられるところで、平和な暮らしを続け、幸福で、お元気で、長生きをして下されば、それがもう母への何よりの供
養です。母が犬や猫を連れて歩いていた、このあたりの道、ビラ配りや署名集め、また川柳やゲートボールのために歩き回った、この村のすべての場所が、母の墓と同じ、思い出の土地です。そこで皆さまが幸せでいて下さることを何よりも母は喜ぶはずです。
参列して下さっている方の一人が、以前、母のことを小説に書いて、その中で母の川柳を使って下さったことがあります。「日めくりや今日の幸(さち)捨て明日の夢」という句です。母は年をとってもいつも今にこだわらず、未来に顔を向けていました。
葬儀社の方が、母のよく着ていたセーターや帽子を母に着せて下さって、母は今、棺の中で、その句の通り、さあこれからやるぞ、行くぞというような、楽しげな顔をしています。どうか最後に見てやって下さい。本日は本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます。