1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. 日記
  4. 漠然とめげる

漠然とめげる

東北でまた地震があったそうで、漠然とめげている。
少し前から、もうこういう災害があった時に、国だか政府だかが、まったくまともに取り合ったり向き合ったりしてくれないという実感が次第に肌身にしみて来ていて、だって復興ができてないのは外国には見せないで、オリンピックをしたがる一方だった、あの姿勢がもう目にやきついてしまったからだが、そうなると、全国どこの地域でも、どんな災害でも、ひどい目にあったらもう切り捨てられるんだって気分が私の中で根付いてしまった。

もしかしたら、災害だけじゃなく平時でも、病気や倒産、犯罪、その他いろんな不幸にまきこまれたら、それでもう見限られておしまいという感覚が、たくさんの人の中で実感になりつつあるのかもしれない。
私は昔がよかったと思うことはまずなくて、今の方がはるかにましと、たいがいのことでは感じる人間だが、少なくとも災害に関しては、昔は「気の毒だ」「大変だ」「明日はわが身かもしれない」とか思っても、こんなに「どうするんだろう、どうなるんだろう、そして私もいつどうなるんだろう」みたいな気分にはならなかった。
災害ということの持つ意味や、与える印象が、どこか昔とちがって来ている。

昔だったら、たとえ自民党だろうと何だろうと、一応政府は全力で、被災地に目を向けて、なりふりかまわず何かはするだろうと思ったし、それを信じられたし、国民全体も、それについては支援し支持したし、自分たちも何か支援する余裕もあったのじゃないかと思う。

でも今は、それが信じられないし、人を助ける力が皆の中で弱くなっている。助けてもらえないのがわかっている世の中で、人を助ける力はなかなか生まれて来ない。

アウシュヴィッツで、顔色が悪かったり弱ったりしたら、即ガス室送りになってしまうのがわかってる中で生きているような気分だ。こけたり弱ったりしたら、それでおしまいみたいな世界は、たとえ自分が無事でいても、ちっとも救われた気分にならない。

しかも、こんな時にまた、外国人が井戸に毒を入れているなどという、アホらしすぎるデマを流す人もいるらしいから、もう本当に、主語を何にしていいか迷うが、いろいろ終わってるとしか思えない。

フェイスブックで、現地にいる知人の一人の無事が確認できたのがせめてもだ。私はこういうSNSの使い方とかよくわからないで、適当にやってるが、こういうときはありがたいと思う。

とにかく、よくわからないが、自分にできることをさがして、何かすることにしよう。私まで政府につきあって、だめになったりしてはおしまいだ。

Twitter Facebook
カツジ猫