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猫のいぬ間に

朝、目が覚めて、手を伸ばしたら、いつも隣の枕の上にいる猫がいません。
天気もいいので、外に出て行ったようです。
猫は掃除機をかけると音がいやなのか、すぐ出て行くので、私の方は遠慮して、つい掃除をやめてしまうので、今の間にと思って、数日ぶりに掃除機をかけました。

いつも、よく見に行く、リベラルな人たちのツイッターやフェイスブックが、このごろよく、意見のちがいで議論になっています。
それはそれで、健全なことだと感じます。
最近では、首相のツイッター改竄をめぐって、事実かデマかが論争になっていました。

どうやらデマだったようですが、著名でリベラルな方も何人か、間違いの記事をリツイートしていたようで、私も信頼していた方の記事をそのまま紹介する時は、気をつけなくてはと思った次第です。

もちろん首相や、それを支持する人たちは、平気で嘘を書くし発言するので、それに対抗するのに、ここまで良心的に厳密になるのは引き合わないのですが、同じようになってしまうわけには行きません。

私自身、論文を書く時には絶対誤りの余地がない検証を、すべて原資料にあたって行います。政治や社会に関しての発言では、専門分野以外ですから、それが十分できません。それでも書かなくてはならないことがあると割り切って、九条の会のチラシや教育大に関するコメントを書き続けていますが、自分でどこまで事実を確認できるかわからない部分を残した文章を書くのは、常に非常に苦痛です。

学者や研究者と言われる方々が、様々な時事問題について発言を避けられるのは、きっとこういう事情もあるでしょう。

私の場合、恥をしのんで、それでも書いてはいます。けれど、やはり、毎回忸怩たるものがあります。慎重に書きすぎれば曖昧で意味不明になって、それもまた良心的ではありません。論文同様、それは許されないことです。だから毎回、苦しみます。長く続けていると、自分が腐って、汚れて行くような気分になります。

このブログにしても、他の文章にしても、書いても思い直して消してしまうことが、よくあります。どんな文章でも、数回は書き直します。生まれてからずっとそうでした。事実誤認はないか。人を傷つけないか。不要な情報を与えないか。誤解を与えないか。間違って読まれることはないか。

言い換えれば、傷つける時は、そうしようと思って書いています。その覚悟がなければ書きません。常にぎりぎりの計算の上で言葉を選びます。

しかし、最近、もうそれにも疲れて来ました。
一切の執筆を断って沈黙することも視野に入れつつ、新しい方向を探しています。

今、「ケーキの切れない非行少年たち」という本を読んでいます。周囲への怒りを言葉にできずに抱え込んだまま爆発して犯罪に走る少年(専門用語に従って少女のことも少年と表現しています)たちのことが書かれています。心の内を文章に書けるようになるのは、この少年たちにとっては救いにつながる糸口です。

作文教育にも、同様の要素があるでしょう。しかし同時に私は書くこと、語ることの害毒も今感じています。非行少年とはまた違った意味での沈黙が人には必要だと考えます。それに伴う熟考もです。それがない、発言や文章は、今の政府やヘイトスピーチに典型的なように、犯罪であり凶器にもなり得ます。

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カツジ猫