玩物喪志
昨日、中野三敏先生を偲ぶ会が福岡であって、行って来ました。
コロナを警戒して、こじんまりとした集まりでしたが、久々に会う方々ばかりで、なつかしかったです。
もともとは芭蕉の研究者ですけど、今はカルチャーセンターで十六夜日記を楽しく教えている先輩や、三月で学部長の任期が終わるからその後は研究に専念すると宣言する後輩や、今は勤めもすべてやめ、家で読書や研究三昧で時間に縛られることもなく、こんな素晴らしい老後が待っていたとはと満足している同輩もいて、皆どことなく幸せそうで楽しかったです。
中野先生のご子息たちがご家族も増えて、すっかり立派になっておられるので、時間が流れたのはわかるのですが、同年代の人たちがいやに若々しくて、変わっていないので、何だか陽気なあの世にいるような気がしました(笑)。それも中野先生の人柄のなせるわざか、軽妙で大胆でこだわりのない、さわやかな風が吹いているような、妙に澄み渡った清浄な空間に身をおいてきたような感じがまだ残っています。
思い出を語るスピーチの中には、私の叔父の板坂元とその恩師の杉浦正一郎先生にまつわるものもありました。聞いてよかったと思いつつ、個人的にはあらためて悲しみも誘う話でした。それはまた、ゆっくり書きます。
記念に「玩物喪志」の文字が入った白いメジャーをいただきました。もともとは、物をもてあそんで志を失うという意味ですが、中野先生はむしろ研究者はそうあるべきだと考えておられた由。でも、それは学問に関してのことですからね。今の私のように、片づけにかまけて人生の目的(何かまだよくわからんけど)を見失ってる者には、本来の意味での戒めとして座右において、お守りにしとく方がいいのかもしれない。