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田辺聖子さん(2)

田辺さんを追悼するいろんな文章を見ていると、彼女が結局、ちゃらちゃらふわふわ夢見がちで優しくて、甘い楽しいお菓子のような人だったということになって行きそうでいやだなあ。

たしかにそういう魅力もあったが、それだけの人じゃないよ。
少女のような、とよく言われるが、そもそもだいたい少女というのは、残酷で厳格で冷酷で容赦なくてシビアで激しくもあるのだぞ。マラーを暗殺したシャルロット・コルデとか(待てよ、あの人けっこう年行ってたっけか、でもイメージとして)、太宰治が「お伽草紙」で書いた、カチカチ山の美少女うさぎさま(恐いよーほんと)とか。

だいたいそもそも、私だって、この年になってさえ、ときどき超たまに「少女のような」と言われちゃうこともあるのだが、それはもちろん、言ってる方が気づいてるかどうかは別として、私の中の最も危険で過激な部分をさしていると、少なくとも言われた私は感じている。まあ、それでいいのだけど。

毎日新聞の投書欄でどなたかが、田辺さんのその温かいほんわかとした魅力にふれて、「理屈で人をやりこめる」最近の風潮とは縁遠い人だった、と書いてるのを見て、そうか、ここまで、こういう風に使われるのか、理性的にきちんと戦う人たちを、野暮でみっともなくておろかで非文化的とけなす材料に、田辺さんを持ち出して定着させるまでになってるのかと思うと、はっきり言って怒髪天を衝いたね、はい。

私は田辺さんの本を全部読んでるわけじゃないが、彼女は許せないと思った相手には、社会的政治的なことでも積極的に理路整然と、激しく戦う人ですよ。
それも含めて「少女」だった。

かつて、妊娠中絶について、彼女は、「最後に言うが中絶反対論者を激怒させることを書くと、私は母となる女性が、生むという決意をした時点で初めて、母体の中の胎児は生命体になると考えている」と書いた。まったく記憶で書いているので、この通りの文章ではないが、言っている意味はこの通りだった。何しろたいがいのウーマンリブやフェミニズムの主張や文章を読んでも、自分の方がよっぽど過激といつも思う私にとって、あれはこれまでの人生でほとんど唯一の、おおっ、そこまで言うか、その発想は私にはなかったとのけぞった、爽快すぎる理屈だったから、よく覚えている。中絶廃止を訴えるトランプとそのとりまきに、耳の穴かっぽじって、しっかり聞けと言いたいよ。

それはもうずいぶん前の文章だし、田辺さんだって長い人生の中で、戦う方法や考え方はいろいろ変化しただろうから、最後まで、この通りだったかはわからない(この通りだったかもしれない)。
でも少なくとも、彼女はそういう発言をし、そういう発想をする人だった。ぽかぽかふわんとしているが、したたかで、正しく計算や策略もできる人だったことは、一番甘い優しい小説を読んでも、はがねのように鋭く貫かれた芯で、簡単にわかる。彼女が「理屈で人をやりこめる」ような人ではなかったなんて思ってる人は、いったい彼女の小説を読んだのか。「姥ざかり」で、お嫁さんたちその他をやりこめる歌子おばさんの議論好きを見ろよ。

一方で彼女はたしかに、生硬な議論や強引な説得、型にはまった主張を批判しおちょくり攻撃した。それも含めて彼女は極めて、理屈好きで理性的な人である。それと人生を楽しみ、ふわふわぽかんと優しく夢見がちなところと、どこが矛盾するというのだ、両立しないというのだ、ええ?

もうこうなったら、ついでに書くけど、私は最近見たDVDの「女王陛下のお気に入り」にうんざりしたのだが、それは以前にケイト・ブランシェットが演じたエリザベス女王の映画シリーズでもそうだが、女性の権力者、支配者の、それもそこそこ成功した人を描くとき、何で監督や脚本家は、清澄爽快豪快すこーんとした要素を全部排除して、変にまがまがしくおどろおどろしく子宮と女性ホルモンの化物みたいな風にしか描き出せないんだろ。それは田辺さんをふわふわほんわか理屈嫌いのイメージで塗り固めたい感覚と、びたっとつながっているようで、ひたすら腹が立つ。こんなことでは、きっと私も死んだあとに、ひょっとまかりまちがって伝記でも書かれたら、孤独でひとりで毎日淋しく酒のんでマスターベーションしてたとか描かれるんじゃないだろうな。どうしようか、カツジ猫くん。

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カツジ猫