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紀行全集のために(3) 富士山編解説

もうあまりにも長いことほったらかして、出版社に迷惑かけまくりの「紀行全集」の解説原稿です。

もうこのまま使うかどうかわかりませんが、とにかく、この種の原稿を片っぱしからアップします。なお、まだ表記の整理もしていないのでお見苦しいですが、すみません。いずれ訂正しますが、とにかく急ぎます。(20023.3.30.)

 

富士山編・解説

 

1 見上げる富士

〔遠目美人〕

 「富士山って遠目美人なんです。遠くから見るときれいだけれど、近くで見るとそうでもない。ボツボツで、ゴミだらけで。それに、休火山でね、底ではまだどろどろのマグマが燃えている」

 

 田口ランディの中編小説集『富士山』(文春文庫 二〇〇六年)の中の一編「ジャミラ」で、主人公の若い男性が同僚に語ることばである。

 また叢書『富士の研究』(古今書院 大正十二年)のⅠ『富士の歴史』で井野邊茂雄氏は、富士山に関する説話の一つとしてよくひかれる「常陸風土記」の記事(富士山は、昔、その客への冷遇ゆえに罰をうけて四時雪につつまれることになったのにひきかえ、客を歓待した常陸の筑波山が緑豊かな山になったという)にふれて、常陸の人々が地元の筑波山を愛する心境を推測するとともに、登って楽しい山ではない富士山の特徴についても述べている。

 

 又山其ものに就きていはゞ、今日と雖も筑波は依然として遊楽の地であるけれども、富士は昔ながらの寂しい山である。富士に登つて、花見気分のやうな歓楽の情を味ふものも、味はんとするものもない。筑波に於ては毛氈を布いて、遊び戯れるに適するが、あの溶岩や焼石で被はれた富士にありては、到底そんなノンビリした、長閑な心持にはなれないではないか。

 

そして次のように、「遠目美人」としての富士山の魅力を指摘する。

 

富士山の美的価値は其遠望にある。同じ程度の緩かな傾斜を以て、二等辺三角形を描きながら、藍翠滴るばかりなる富士の山影を天の一方に望んだ時、誰か又不快の念を抱くものがあらう。

 

〔二人の女性〕

 昭和二一年に創刊され、三二年に廃刊になった「婦人朝日」という女性誌があったのを記憶されている読者がおありだろうか。早めの廃刊は、マダム・マサコ氏の瀟洒なデザインの表紙をはじめ、洗練された雰囲気が当時の女性にはかえって受け入れにくかったのかもしれない。

 この雑誌に「私の作文」という読者の投稿欄があり、昭和三二年の六月号には梅崎春生氏の選で、「富士の裾野は日本一」という大土井瑞枝氏の文章が選ばれている。子どもの頃から北陸に住んで「一生に一度でいいから、富士山の全容を眺めたいという、切なる願いを持っている」という作者は、二六年の九月、上京の帰途「大奮発をして、身分不相応の『特急つばめ』の二等に乗って」東海道を下る。まだ新幹線のなかった時代だ。

 

 私は一心に窓外をみつめていた。が、大磯あたりを過ぎても、富士山は見えない。そのうち、列車の右方に、妙に広々とした景色が現われた。左右に拡がる緑の斜線は、山の麓のようでもあるが、一帯が畑になっていて、山とはいい難い。そして、その畑は中途でとぎれており、その上は雲である。連れの姉は、学生時代を三年間、東京で過しているので、富士山についても、私よりずっと先輩である。

 「ちょっと、お姉さん。富士山はまだ?」

 ときくと、変な顔をして、窓外を眺めている。

 「おかしいな。もう富士山は見えている頃なのに。とすると、これがそうかしら?」

 どうも先輩も頼りなくなって来た。

 

 結局、それが富士山だった。「北陸線の三等客なら、ここらで乗り出してくれるところ」なのだが、前の席のとりすました紳士は何とも言えぬ軽蔑をこめた視線で眺めただけで教えてくれず、後ろの方の席から「ああ、富士山は今日はさっぱりダメだな」という人の声が聞こえて、ようやく作者たちはそのことを知る。その後も何度か東海道を通ったが、「富士の全容は、まだ一度も拝んだことがない」と、この文章はしめくくられる。

 一方、江戸時代の才女として有名な土屋(三枝)斐子が、天明二年に江戸から夫の任地である堺に赴く旅で、富士を見たのは、吉原の付近である。彼女もまた富士山を見ることに強くこだわり、目にした後は「この君」と呼びかけて遠ざかりゆくこの山を慕った。

 

原、吉原をぞ行く。かねてもこゝに「不尽の根なごりなく詠めばや」とぞ、覆ふて見えず、「こゝらならん」と思ふ根かたばかり、けちえむなるものから、ほゐなく、こひしきことのかぎりなり。むなしう堤の春色のみ望みしが、早梅は夏をむかへて結び、残(じょ)春を送りて飛ぶ。朦々たる空のものむづかしきを、風少しこゝち涼しう覚ゆるに、とばかり見あぐれば、ただ(ここ)許の目のまへに不二なごりなくはれわたり、あなうれしとも嬉し。「けふ見ずばまたいつの世にかながむべき、命のほどもさだめなきを」とまでに思ひ入りつつ、まじろぎもせず。(引用は東北大学狩野文庫所蔵の写本「たびの命毛」による。帝国文庫『続々紀行文集』にも所収)

 

花水橋にしばしばかりのおもかげ(花水橋付近でちらと見えた富士山の姿)とは、やうかはりて、すそ野よりいただきに至り隈なく見ゆ。右のかたに愛鷹山をかけたり。其かげより宝永山つらなり見ゆ。卯月のけしきしるく、なからばかりより雪は消て、白き糸を引くだしたらんやうに見ゆ。ましろなるいたゞきも、只白きにはあらで、白きが中に濃淡あり。高きと低きと、くだりにすじを削成せる、たとへば白芙蓉の弁の、白きすじを引きたる如く也。高卑濃淡の、おのづからなる白妙のさまを、「などてよゝのゑだくみはかきわけざりけん」と、口をしういへど、げに少納言の「かきおとりするもの」といふにや、なずらへまし。しばしありて風やみぬれば、またたくうちに見えずなりぬ。あらぬここちに只おほぞらをのみ仰ぐ。「かう深き心をかぐや姫のあはれみ給ひて、しばし珍かなる姿を見え給ひつるや」と、いとかたじけなし。このかたにのみ心をいるれば、田子の浦人あびきするもみず、いとくちをしうのみ。「心多からんは、心にも目をつけまし」とて人々わらふ。

 

 「純白の頂上も、ただ白いのではなく、白芙蓉の花びらのように、上下に濃淡の筋が入っている」という、この部分の細かい描写は、都立中央図書館加賀文庫蔵「たびの命毛」に書き入れられた君山の批評に「比喩至妙」と賞賛されている。富士山に見とれるあまり、周囲の海岸の美景も見落としてしまって、一行の人々に笑われる始末だった。その夜の宿でも「明日が雨なら、あの方に会えない」と心配する。

 

 松原をはてなく行くに、いづくも右にのみ見ゆる不二の、恩ひもかけずしばし左に見ゆ。とばかりありて又右にうつりぬ。道は一すじなるを、そのうつり行くさまの早さは、幻の術ありて、ひきかくしつるかと、あやしさまでに覚ゆ。(中略)山を越はてたるを人々よろこぶ。われは、さるほどの苦しきも思ひやらず。「あすもふりなば、君を見まじ」と夜ひとよなげく。もろこしには竹をうつくしみて、「この君」とよびし人あなり。月をこひつつ「君」とうたひしおきなもありと聞けば、我も此山を「君」とやいはましなど、寝られぬままにあやなき思ひを尽す。

 

 幸い翌日、富士山は見え、遠ざかるにつれて近景とはまた異なる美しさで彼女を魅了する。

 

 「彼の恋しき君よ、いかに」と見あぐれば、きのふけぢかき姿には似ず、遠くて美しう、すそは八重山隔てつゝ、みがゝれ出たる、清らにいさぎよしとも、いへばおろかなり。

 

 現代と江戸時代、裾野しか見られなかった者と運よく全体を見られた者とのちがいはあっても、二人の女性のどちらもが、見る前から富士山のことをよく知って、遠目美人のこの山にあこがれていたのは共通する。

 

〔異国のまなざし〕

 それはまた、江戸時代に日本を訪れた外国人たちも同様だった。平凡社東洋文庫には、江戸時代に東海道を通過した外国人たちの紀行がいくつか収録されている。その中には次のような富士山に関する描写がある。

 

 日本で最も美しい山の一つは有名な富士山である。それは百年以上も昔から、火を噴き続け、一万一千ないし一万二千パリー・フィート〔一パリー・フィー卜は約三一・二センチ〕の高さがある。ゆるい傾斜をなしているこの巨像が、素晴らしい風景の中になだらかな裾野を消してゆく姿の美しさは、ご想像にまかせたい。六月まで富士山の頂上は常に雪に覆われている。八月は、人々が信仰にもとづき、ここに巡礼を行ない、頂上の石の祠の中に安置されている神々を礼拝するために、登山する唯一の時期である。私がこの目で実際見たところであるが、富士の姿を描いた多くの絵や、いろいろな種類の鋳物の類、また富士山を歌い、記した多くの小説や詩が証明しているように、日本人はこの山とその周辺の美しさと肥沃さに飽くことを知らぬくらい心酔しているということも、私には十分に理解することができることなのである。(一八二二年、フィッセル『日本風俗備考』中、「概観的序論 Ⅰ地誌と地形」 庄司三男・沼田次郎訳注・平凡社東洋文庫)

 

 天気は、これまでにないほどの素晴らしさであったし、富士山は、今やその全貌がすっかりわれわれの視界の中に見えてきたし、一方われわれはまたその山麓に沿って、最も美しくまた豊穣な地方で,私が心に描いていたものよりはるかに美しい環境の中の旅を休みなく続けた。日本人がこの山をさまざまな線画や写生画によって紹介しようとしていることは何ら不思議とするに当らない。われわれはその眺望に飽くことなく、幾度となく立止まっては、美しくまた誇るべき自然を賞賛したのであった。(同上、「雑録」一八二二年二月二十三日の条) 

 

 周囲の山々は富士山に比べると、ただ低い丘のように見える。それゆえ富士山は旅行中、数里離れていてもわれわれの道標となり、特に私の地図を作るに当って一つの規準として役立った。その姿は円錐形で、左右の形が等しく、堂々としていて、草や木は全く生えていないが、世界中でいちばん美しい山と言うのは当然である。あえて言うならば、大抵の季節には白い雪のマントを着ていて、次第に夏の暑さがつのるとたくさんの雪がとけるが、少なくとも一番高い山頂にはいつも雪が残っている。(中略)日本の詩人や画家がこの山の美しさをいくらほめたたえ、うまく描いても、それで十分ということはない。(一八九一年、ケンペル『江戸参府旅行日記』 斎藤信訳注・平凡社東洋文庫)

 

 曇り空のため富士山は見えない。しかし、昼ごろ天候が少しよくなり、まだ雪におおわれた富士山のそびえたつ山頂を思わず感嘆して眺め入った。いうまでもなく、この山の下に向かっている深い山ひだだけは雪におおわれていて、長く白い帯状をなして、山頂から山の背の半ばまで輝いていた。その山麓の非常に美しい景色をみるのもまた楽しかった。(一八二六年、シーボルト『江戸参府紀行』 斎藤信訳注・平凡社東洋文庫)

 

 われわれが江戸滞在中、たびたび見た富士は実にすばらしかった。とくに視界が澄んでいる朝の涼しい時には、この天にそびえるピラミッドの山は間近にあるように見える。古い火山的性質やまだ雪におおわれた頂上の陥没した火口がはっきりと見える。円形隆起や尖った峯の形をした山腹の爆発の傷痕が澄み切った大気の中にするどい輪郭を描いて目にはいってくるが、残念ながらほんの短い時間である。なぜならやがて昼の暖かみが増すにつれて、灰白色のヴェールが白髪の頭部をおおってしまうからで、白いちぢれ髪は次第に霧の中にかくれ、火山力のこうした巨大な作品をおおいかくしてしまう。(同上)

 

 それで私たちは老人の一室となっている階上の部屋に移動し、富士の眺めを楽しんだ。富士はここからだと非常に近くにあるので、山肌に刻まれたひだの一つ一つを全て見ることができる程だ。(一八七二年、アーネスト・サトウ『日本旅行日記』一八八一年八月十日の条 庄田元男訳注・平凡社東洋文庫 )

 

 昨日、落日の太陽光線の中で富士は鮮やかな赤色に染まっていた。その後次第に美しい赤紫に変わって行くのである。(同上、八月十一日の条)

 

 甲板では、しきりに富士山を賛美する声がするので、富士山はどこかと長い間さがして見たが、どこにも見えなかった。地上ではなく、ふと天上を見上げると、思いもかけぬ遠くの空に、巨大な円錐形の山を見た。海抜一三,〇八〇フィート、白雪をいただき、すばらしい曲線を描いて聳えていた。その青白い姿は、うっすらと青い空の中に浮かび、その麓や周囲の丘は、薄ねずみ色の霞につつまれていた。それはすばらしい眺めであったが、まもなく幻のように消えた。トリスタン・ダクーナ山-これも円錐形の雪山だが-を除いては、これほど荘厳で孤高の山を見たことがない。近くにも遠くにも、その高さと雄大さを減殺するものが何物もないのである。富士山は神聖な山であり、日本人にとっては実になつかしいものであるから、日本の芸術はそれを描いて飽くことがない。私が初めてその姿を見たのは、五〇マイルほど離れたところであった。(一八八五年、イサベラ・バード『日本奥地紀行』 高梨健吾訳注 平凡社東洋文庫)

 

これらを読むと、この山が当時の日本の人々に深く愛されていたこと、異国の人々もその存在を見る前からよく知っていたこととともに、そのような予備知識や先入観があってもなお、この山を実際に見た時に彼らが新鮮な感動を得たことが伝わってくる。この山容の美しさは異なる文化を持つ人々にも素直に理解できるものだった。近年のハリウッド映画「ラスト・サムライ」で、富士山は地理的な考証を無視して背景にそびえたち、日本の観客を苦笑させているが、それだけ日本の象徴として世界に熟知された山なのだろう。

 

2 愛されすぎて

〔知識人のこだわり〕

 しかし、この二人の女性や外国人のように、虚心に富士山にあこがれ感嘆することができるのは、むしろ幸福だったかもしれない。多くの芸術作品にとりあげられ、庶民にも愛された富士山は、それだけさまざまなかたちで国家や社会や集団や大衆に利用され、そのことによって富士山自身は関知しない拒否感や抵抗感をともすれば人々の中に生んだ。

夏目漱石「三四郎」中で広田先生が、

 

あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。所が其富士山は天然自然に昔からあつたものなんだから仕方がない。我々が拵へたものぢやない。

 

と発言するのも、太宰治「富岳百景」の主人公である作者が、

 

私はひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかった。

 

と思うのも、久保田淳『富士山の文学』(文春新書 平成一六年)をはじめとして、富士山の文学を語る時にはよくひかれる部分である。広田先生も太宰も決して富士山そのものを否定し嫌悪するのではないが、富士山を手放しで賞賛するにはあまりにもそのイメージには余分なものが附着しすぎているために、いきおい何らかの屈折した表現をとらざるを得ないのだ。

近代文学でも大衆小説の分野では、このような拒否感は薄く、独自の作品世界を作り出すのに使われていることは、横山泰子「時代小説と富士山」(『富士山と日本人の心性』岩田書院 二〇〇七年)にも考察されている。しかし、富士山頂の測候所を開いた野中至を描いた小説、橋本英吉『富士山頂』(昭和二十三年 鎌倉文庫)の語り手が冒頭で、

 

雄大、崇高、清純などとさまざまに形容される富士の美しさは、たつた一本の曲線で空を劃した単純で簡明な構図に負うてゐる。それゆゑ陰翳にとぼしい眺望は飽きやすく、車窓から見なれた人たちの賞讃は、おつきあひで義務的なことがおほいのである。伊豆に移り住んだ私も、初めの数日で忽ち富士の平凡さにあきてしまつた。それでも何となく気がかりで、かるい圧迫すら感ずるほどになつたのは、名山といふ伝統的な或るものが、私は気づかなかつたけれど潜在してゐたからだらう。私はうるさかつた。あらずもがなと思つた。

 

と述懐するように(この後には富士山へ傾倒する心情や美しい描写が続くのだが)、名山という常識そのものが、特に知識人や文学者にはこの山に対峙した時に虚心に嘆賞できないある種の身構えを呼ぶのが普通だった。

〔変化する意識〕

ただし、それらの人々が嫌悪した、俗化という概念や、それにともなう感覚もまた時代とともに変化する。太宰が俗化の象徴としてあげた「風呂屋のペンキ絵」も、銭湯の衰退によって現在では描く絵師が激減し、小田全宏『富士山が世界遺産になる日』(PHP研究所 二〇〇六年)によると「ほんの五人くらい」になっているそうで、むしろひとつの文化としての保存と継承が必要なのが現状だ。小田氏はこの本の中でペンキ絵の発生と歴史についても調査されており、「富士山お風呂アート」として高く評価している。そのような風呂屋のペンキ絵の美しい写真は、写真集『あっ、富士山』(メイセイ出版 一九九七年)に、江戸時代の富士山をあしらった装身具や絵画などのすぐれた美術品と並んで、数多く紹介されている。

 

〔国とともに〕

富士山のこういった、よかれあしかれ世塵にまみれがちな性質は、単に遠望される外見のイメージだけにとどまるものではない。

富士山麓の精神病院を舞台に人間の精神の深淵を描いた武田泰淳のダイナミックな長編小説『富士』(中公文庫)は有名だが、泰淳の妻武田百合子にはまた、夫妻が富士山麓の別荘で過ごした日々をつづる『富士日記』(中公文庫)がある。そこには富士山で生活するさまざまな人々が登場するが、その中には自衛隊の射撃場や、演習中の草や藁でカムフラージュした自動車、須走の町で演習をする自衛隊の描写もある。

 

自衛隊の出勤時間らしく、七時半頃の山北、御殿場あたりの町は、バス停毎に自衛隊員十人位ずつ待っている。小山あたりの上り坂は、バイクの自衛隊員がほとんどで、自家用車、トラックにも行きあわない。自衛隊のある須走の町の通りは、ぞろぞろぞろと自衛隊の学校に向って歩いている。籠坂峠を上りきって下りにかかると、今度は山中湖方面から、隊員がバイクに乗って上ってくるのにすれちがう。私の車以外は、全部自衛隊の出勤の人たちだ。(中公文庫上巻 昭和四十六年六月二十五日)

 

富士山のごみ問題に取り組む登山家野口健氏は、山頂の汚染状況と、それを改善する試みを述べて、こう述懐する。

 

私が富士山にこだわるのは、これが富士山だけの問題ではないからだ。富士山で起きているようなさまざまな環境問題は、日本中いたるところで起きている。日本のどこでも共通する問題だ。(『誰が富士山を汚すのか』 角川ONEテーマ21 二〇〇八年)

 

竹谷靭負氏『富士山の祭神論』(岩田書院 二〇〇六年)は、この山と新興宗教との関わりの深さを指摘している。

 

英傑に限らず、人々は富士山から霊感を受けたいと願うことが多い。新興宗教の教祖も、神山富士山のもつ霊力をに身に受けて、己の霊感を高めようとしてきた。現在でも、富士大石寺(富士宮市)はじめ、生長の家(河口湖町)、白光真宏会の富士聖地(朝霧高原)など、富士山麓を拠点とする例は、枚挙に遑がない。中には、それに便乗していかがわしい宗教を起こす輩も多く、最近ではオウム真理教(上九一色村)や法の華三法行(富士市)など、新聞種になった例も少なくない。

 

最初に引用した田口ランディの中編小説集『富士山』は、かつて山麓のカルト宗教の道場に暮らした青年(「青い峰」)、樹海を探険しながら秘密を告白しあう少年たち(「樹海」)、麓の町に住む老女のごみ問題に関わる若い市職員(「ジャミラ」)、仕事に悩みつつ御来光を拝む看護師(「ひかりの子」)をそれぞれの短編の主人公に設定しており、作品全体は彼らのさまざまな暗い部分をかかえこんでそびえる富士山そのものの物語でもあるかに見える。

自衛隊、自殺者、ごみ問題、カルト集団。富士山は、その遠景のイメージのみではなく、山岳自体も、日本の根幹につながる政治的問題や社会的事件と関わりつづけ、それらを自らの内部に存在させ続け、否応なしにそういった意味でも日本の象徴となってきた。

 

3 登ってみると

〔山の概容〕

このような富士山の俗化、大衆化と、それに対する一部の人たちの拒否感や屈折は、近代になって生じたものではない。また、山容の外見や山麓の生活に限ったことではない。江戸時代に登山した人々の紀行を読むと、山頂に至るまでの富士登山そのものにも今日まで共通するそういった傾向は見てとれる。

富士山の概容については、『日本山名事典』(三省堂 二〇〇四年)の、よくまとまった「富士山」の項目を、それでも長いので五分の一程度に要約すると、

 

富士山とは山形県と静岡県の県境にあって、富士吉田市、御殿場市等いくつもの市町村に所属する海抜三七七六メートルの日本一の高山である。フォッサマグマによって噴出したランクBの活火山で、第三紀の海底火山の噴出物の上に、二万年前まで噴火をくりかえした小富士等があり、その上にその後の火山活動による噴出物が堆積した。山頂には剣が峰等の八峰と直径約八〇〇メートルの火口がある。歴史上記録される火山活動は七八一(天応元)年以来十八回で、一七〇七(宝永四)年の爆発などが中でも大きい。「万葉集」「常陸風土記」「続日本紀」「竹取物語」などにその名が登場し、不尽・不自・布士・布仕・布自・布時・富慈・複慈などと多様の表記がある。室町時代、長谷川角行が冨士講の制度を作って宗教登山が盛んとなった。現在は七月と八月のみに登山が許可され、正面の富士宮口の他、須走口・吉田口等の登山口がある。

 

ということになろう。登山についてつけくわえると、頂上の火口を囲む八つの峰をぐるりと廻る「お鉢巡り」と、五合目附近で山の中腹を一周する「お中道巡り」が江戸時代からすでに行われていて、本書でとりあげる紀行にも登場する。

 

〔初期の登山者〕

山頂をきわめた最初の人物は、仙薬を探して海外から訪れた徐福、名馬黒駒に乗って天がけて空から頂上を見た聖徳太子は伝説の域に入るとして、中世の修行者役行者や末代上人の名がよく上がる。『富士の歴史』の井野邊氏は、伝説や記録を博捜しつつ、都良香の「富士山記」の具体的な記述について、

 

文中山上の状態を叙する点がカナリ詳細に亘つて居るのは、決して一人や二人の見聞に基けるものではない。継ぎ継ぎに此山に登るものがあつた事を明示せるものであらう。而もそれが遠い都にまで伝へられ、文人の筆に上れるを見ても、一朝一夕の事にあらざるを想像せしむるのである。

 

と、既に実際に登山していた人がいたことを推測する。井野邊氏は「かくの如き険難を冒して攀登を試みるのは、道楽でもなければ、物見遊山でもない。全く信仰の力である」と宗教性を重視するが、『登ってわかる富士山の魅力』(祥伝社新書 二〇〇八年)で、伊藤フミヒロ氏は、

 

登ろうと思えば比較的かんたんな山ですから、それこそ縄文人がシカを追いながらさくさくと山頂に立っていたかもしれない、などと私は勝手に想像しています。

 

と豊富な富士登山の体験から生まれた実感にもとづいて、狩猟生活の中で自然に登頂していた人々の存在も空想している。いずれにしても初登頂者を特定するのは困難だろう。

 

〔信仰の山〕

『山岳宗教史研究叢書9 富士・御嶽と中郡霊山』(鈴木昭英編・名著出版)などが述べるように、多くの日本の山と同様、富士山も古代には山そのものが神体としてあがめられ、更に山岳密教の厳しい修行の場ともなった。また、天応元年(七八一)から永保三年(一〇八三)に至るまで九回の噴火をくりかえし、特に宝永の大噴火では江戸まで灰を降らす大きな被害を与えた活火山でもあったから、荒ぶる山の怒りを鎮めるために、同じように火山であった信州の浅間山と同名の浅間神が祀られ、山のあちこちに浅間神社が建てられた。

中世に盛んだった山伏たちの登山修行「富士行」に代わって、江戸時代には江戸を中心とした、より庶民的な富士詣の信仰集団「富士講」が大流行する。そのあまりの隆盛に、危機感を感じた幕府が何度も厳しく禁じたほどだった。本書の紀行の作者にも、その参加者がいて、実態をよく伝える。

 

〔異境の象徴〕

富士山がこれだけ人々に親しまれたのは、日本の最高峰というだけではなく、最も交通が発達し繁華をきわめた東海道に沿っていたという地理的条件が大きい。したがってまた、それには、京都と並ぶ大都市として新興の江戸が成立し、二つの文化の中心が生まれたことも欠かせない。「伊勢物語」が富士山を、「その山は、こゝ(京都)にたとへば、比叡の山を二十ばかり重ねあげたらんほどして」とあくまで都を基準にして読者に説明するように、中世以前には富士山は当時の文化人、知識人にとっては日本の象徴というよりは、むしろ異国の山だった。スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」で、中盤近い舞台の背景に富士山は印象的にそそりたつが、映画「ラスト・サムライ」とそっくりの姿でも、この富士山は決して日本の代表ではなく、大和朝廷にまつろわぬ東国の世界を表現するものとして使われている。中世までの日本では、蝦夷や陸奥と同様に関東もまた辺境であり、富士山はその異境の不可解さ、無気味さを示す山でもあったのだ。

江戸時代になって事情は変わる。京都と江戸という新旧二つの都会の中心に位置する山として、富士山はごく自然に人々に認知された。更に、古都京坂へのそこはかとない対抗意識を持つ江戸の人々の、辺境であり異境であった「あずま」の記憶を残す山として、江戸を主とした多くの地域の人々から富士山は、かつてないほど愛された。

だが、それがまた、山頂にいたるまでの大衆化、俗化を生み、一部の知識人たちをしらけさせることになる。

 

〔登山客と強力〕

「江戸期山書翻刻叢書」全四冊は、国立国会図書館の展示会をきっかけに生まれた「国立国会図書館山書を読む会」による翻刻叢書で、興味深い山岳紀行が多く収録される。富士登山の紀行もいくつかあって、その中には、「所々に道造りの勧化人あり。参詣の人を見付ると室の内より出て、賽銭を乞ふ。たまたま施さぬ人あれば悪口を云かくる。斯る清浄の御山に居てさへかかるわざをとてわらひぬ」(五山駅程見聞雑記)、「さて(山頂の室のあるじは、我等を寝せ置、庚申待とやらいひて隣へ出行しが、程なく生酔の男歌などうたひ来て、くだらぬ事をくだ巻など、市中の交にことならず。仙境に入し思ひに、かかるさまもをかし」(三の山巡)、「此にも浅間の社祠を構、別当するものありて、山役銭なるものを取り、金剛杖とて山に陞る杖を売、或は二便(大小便)の不浄を祓為なりとて、紙符などを与て銭をとる」(富岳雪譜)などの記述がある。「富岳雪譜」の作者和久田叔虎は、富士登山のガイドをする強力たちの「草鞋を買え」という指導を拒否して、「其好む所に従ん。艱(なやめ)るとも汝の足を仮ず」と言い切って、はきなれた草履を買って登山も下山も押し通す。結局、草履の方が楽で、「私の言うことを聞かないとひどい目にあう」と脅かしていた強力は一言もなかった。このいきさつは得意げに細かく記されていて、金儲けをねらう観光システムに組みこまれまいとする作者の抵抗精神があらわれていよう。初登頂でこれだけ強力に対立できる作者の個性も強烈だが、それに閉口している強力たちの案外柔軟な姿勢も巧まずして浮かび上がる。

 

〔富士紀行の特色〕

このように、富士紀行には強力をはじめとしたさまざまな人間たちがよく描かれ、山岳紀行の中で、おそらくもっとも人間が多く登場する紀行と言っても過言ではない。登山する人の数が他の山と比べて、圧倒的に多かったため、最も険しい山でありながら、最も地上と共通する人間界の雑踏を感じさせる紀行が生まれる。粗末ながらも頂上の施設が整い、登山の手順が定まっているため、素人でもどうにか登ることができたことも、このような現象を生む原因だろう。その状況は、『登ってわかる富士山の魅力』『誰が富士山を汚すのか』などが指摘する、今日の実態と驚くほど一致している。

 本書に翻刻紹介する紀行の数々にも、日本の最高峰に至るという緊張や、神や自己と向き合うような厳しい孤独感はあまり見えない。それどころか、むしろ、いずれの作品もきわめて冷静で、日常性を失っていないのが目につく。

一般に江戸時代では、それまで信仰と結びついていた宗教的な色彩の強い登山が、近代につながる合理的なスポーツとしての登山へと変化して行き、近代以降と同じ合理性や日常性は、他の山の登山の場合にも共通して、近世の山岳紀行のひとつの特徴である(板坂著『江戸の旅と文学』ぺりかん社 所収「山の紀行」を参照)。しかし、富士山の場合には、他の山と比較してもそれが著しく、その人間くささ、賑やかさは独特でさえある。

 とは言え、むろんそういった人為的な面だけが富士山の特色ではない。宗教的な色彩を脱した近世紀行は、山そのものの魅力については、時には勇壮な山岳の威容を、時には乱れ咲く高山植物の美しさを描く。「遠目美人」の富士山では花々の描写が少ないが、代わりに、現代でも登山客の目的であるご来迎と呼ばれる日の出の美しさを中心に、壮大な頂上からの景色がよく描かれる。富士山は下界から仰ぎ見た美しさとともに、登山した場合には俯瞰した風景の壮大さがとりわけ強い印象を残すのである。

 

4 これまでの研究

〔大正期の名著〕

富士山については、多くのすぐれた研究書、解説書がある。その中に、「富士の研究」という叢書がある。「私が本格的に『富士山研究』にとりつかれたのは、大学時代のことだから、すでに五〇年近くになる」(『富士山の謎と奇談』 静岡新聞社 二〇〇七年)という遠藤秀男氏が『富士山 -史話と伝説-』(名著出版 一九八八年)の「あとがき」で、

 

いうまでもなく富士についての研究書は、昭和初年に大宮浅間神社で発刊した『富士の研究』全六冊をもってその第一とすべきだろう。それ以上の書はいまだでておらず、でることもなかろうと思う。だがそれすらも私は古典的名著の中に入れている。今では誤謬を指摘しなければならない面もあり、かつ難解な文章が一般的なものから遠ざかっているためだ。それでもこの書は生命を保ち続けている。それは現在のような売らんかな主義の安っぽい論文でなく、真摯な学究精神が著書の間にみちみちていたためである。私はこれらをひもとくたびに敬意の念を感ずる。富士の歴史にはじまって、信仰、地質、動植物、絵画、文学、遺跡にまでも及んでいる。

 

と高く評価された本だ。富士信仰の研究をライフワークとされた(『富士信仰と富士講 平野栄次著作集Ⅰ』岩田書店 二〇〇四年 坂本要氏の「はじめに」による)平野栄次氏の、「富士信仰研究史の回顧と展望」(同書「Ⅰ 富士信仰の成立と展開」)から、この書の紹介を引用する。

 

大正十二年、当時の官幣大社浅間神社(静岡県富士宮市所在、現在の富士山本宮浅間大社)は、「富士の研究」と称する六冊の著書の刊行を企画し、昭和四年までにそのⅠである『富士の歴史』、そのⅡの『浅間神社の歴史』、そのⅢとして『富士の信仰』の三冊の大著を刊行し、以後引き続き富士山の文学、美術、地理、地質、動物、植物について究明した書籍を逐次刊行した。

『富士の歴史』と『富士の信仰』は井野邉茂雄がこれを担当し執筆したが、富士山の登山史と信仰史の研究としては画期的な仕事で、いまだにこの書の右に出ずるものはないといってもよかろう。

 

富士山の研究に生涯を捧げられた両氏がこのように評価する『富士の研究』全六冊は現在では古本でしか入手できない。膨大で詳細な内容だが、富士山のすべてを惜しみなく調べて語ろうという、腰を落ちつけた精神が読者を信頼させる。遠藤氏のご指摘の通り、たしかに文章も古めかしくて今の人には読みにくいが、ていねいで詳しい記述はむしろわかりやすい面もある。

第一巻『富士の歴史』の序文には、この叢書を完成させるまでの長い苦労が綴られる。吉田神社宮司の林治一氏が紹介される、

 

顧れば大正十二年関東大震災の際には、編纂員の廣野氏は、家財一切を顧みる遑さへなく、社誌(『富士の研究』の一部。板坂註)の原稿のみ携へ、身を挺して遁れたが、途中進退谷(きわ)まり、その全部を墨堤(隅田川の土手。板坂註)に埋めて、漸く郷里千葉に走り、翌日またこれを墨堤に索(もと)めて、其大部分を獲たといふ奇蹟的話柄もあった。

併も震災のため此原簿は全部焼失したから、それ(廣野氏の守った原稿。板坂註)が再び得難い材料となつたのである。

 

という逸話には、その一端がしのばれるだろう。

 

〔さまざまな学説〕

今日ではもっと読みやすい解説書や、細かい研究書も多く出ている。だがそのどれにも、たとえば四千枚の富士山のスケッチの一部を紹介した荻野清士「富士山にぞっこん!」(清流出版 二〇〇八年)のように、程度の差や傾向の違いはあれ、この山に魅せられた人々の深い思いがこもっている。

更に富士山については、根本的な部分で疑問や議論が多い。たとえば三七七六メートルという高ささえ、遠藤秀男氏の『富士山の謎と奇談』(静岡新書)では、他に異なる記録が残ることが紹介される。噴火を鎮めるために浅間神社が祀られたという通説にも、前出の竹谷靭負氏『富士山の祭神論』が、精力的な考察を行って疑問を呈され、富士山の神体が女神であった理由、カグヤヒメからコノハナサクヤヒメに祭神が移行した過程など、民間信仰から伝承や文学までを視野に収めた広範で詳細な検証をされている。この解説では基本的には通説によったが、山名、噴火、歴史、自然環境、伝説などについても同様に多くの人の諸説があり、到底すべては紹介できないことをご理解いただきたい。

 

〔貴重な翻刻資料〕

なお、富士紀行そのものに関する書籍としては、前にあげた「国立国会図書館山書を読む会」による翻刻叢書「江戸期山書翻刻叢書」全四冊が出色である。富士登山のみならず、資料としても読み物としてもすぐれた山岳紀行が多く紹介されていて、重複をさけるため本書には採録しなかったが、ぜひ読んでいただきたい。とはいえ、部数も少なく閲覧入手しにくいのも残念で、ぜひ再刊してほしい本である。

 

7 本書の目的

〔原資料の重要性〕

 このように長く深く、時に激しくと言いたいほどに人々の愛憎の対象となった富士山に関して、新しい見解をつけくわえることは、この本の目的ではない。ただ、最近のさまざまな富士山に関する書籍を読んで、江戸時代を中心とした未翻刻の原文を使用したものが少ないことは私をもどかしく、淋しい気持ちにさせる。

 そのもどかしさには二つの理由がある。一つは私の大学時代の恩師中野三敏先生が最近ことあるごとに口にされる、「今、日本の研究者や知識人の中で草仮名の原文が読める人は、いったいどれだけいるのだろうか。歴史や古典文学の研究者を除けば皆無に近いといってよく、もしかしたら最近ではそういった分野の人でさえ、原文が読めない人がいるのではないか」という不安である。さまざまな研究書を読むたびに、これだけ鋭い魅力的な読み方ができる人が、なぜ未翻刻の原資料を取り上げないのか、それを読んだらどんなにすぐれた見解を出してくれるかもしれないのにと、くやしい思いをさせられる。

 

〔膨大な江戸紀行〕

 草仮名を読むことはそんなに難しいことではない。私が地域でやっている文学講座でも一般の方々が半年から一年で、それなりに読めるようになる。だが、いろんな事情からさしあたりそういう訓練ができない方が多いなら、せめて、多くの方々が活字で読める江戸時代の資料を少しでも多く刊行するしかないだろう。

だが、ここで私の第二のもどかしさがある。江戸時代の紀行というのは、従来、芭蕉の「おくのほそ道」のみが大きく評価されてきたこともあって、これまでの文学史では無視され冷遇されてきた。最近は少し様子も変わってきたが、それでも気軽に購入できる原文の紀行は実にまだ数少ない。

 富士山について、これだけ関心や興味を抱く方が多いなら、書籍も多く出されるなら、江戸時代の人々が書いた富士山に登った、または眺めた紀行をぜひもう少しでも読んでほしい。草仮名の勉強をしていただくのが一番手っ取り早くて私もうれしいが、せめて、活字ででも読んでいただきたい。

 江戸時代の紀行は、おそらく現存するだけで二五〇〇点ほどにのぼるだろう。その中から数編を紹介するだけでは、まったく、もっこの土を積んで富士山を築こうとするにも等しいささやかな試みではある。それでも、これらの紀行を読むことで、江戸時代の人々が書いたものを、そのまま読むことがどれだけ刺激的で魅力的か、味わっていただければと願う。

 

〔読者への期待〕

 これまで私は、いくつかの紀行の翻刻を刊行した。そのたびにすぐれた読者の方々が、私のまったく気づかなかった、その紀行の魅力を発見してブログで詳しく紹介して下さったり、小説にして下さったりした。私はそれを見て驚き喜ぶとともに、愚直に翻刻紹介するだけの自分がまったくわからなかった魅力を、それだけ感じて下さった方々がいたということで、平凡と思っていた恋人が有能なプロデューサーによって大スターになったような複雑な思いもかみしめたものだ。

 今回もそうなりそうな予感がする。富士山や、江戸時代を愛する読者にとって、この本で紹介する紀行の数々は、きっと私が感じるよりもずっと面白く役に立つだろう。そして私は、それと知らぬまま貴重な骨董や宝石を、その本当の価値のわかる人たちに手渡した大きな満足とかすかな情けなさを味わうことになるのだろう。そのことを私は予測し、期待している。(二〇〇八年九月二四日)

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カツジ猫