紀行全集のために(7) 「なまよみ日記」解説
もうあまりにも長いことほったらかして、出版社に迷惑かけまくりの「紀行全集」の解説原稿です。
もうこのまま使うかどうかわかりませんが、とにかく、この種の原稿を片っぱしからアップします。なお、まだ表記の整理もしていないのでお見苦しいですが、すみません。いずれ訂正しますが、とにかく急ぎます。(20023.3.30.)
「なまよみ日記」解説
【概略】
「幕末」の定義は、おおむね嘉永六年(一八五三)のペリー来航以後とされるが、この作品はここに収録した中では比較的古い時期に書かれた。
日蓮宗を信仰していた父の死後十四年目に、その遺志をついで身延山に参詣する十八日間の旅の紀行で、江戸を出発して甲斐の国を経由して身延山を参詣する。時代がやや早いせいもあってか、まだ特に世の中の動きや時代の変化は見えず、むしろ、平穏に過ぎて行く人々の生活がうかがえる。
題名の「なまよみ」は、万葉集第三巻高橋虫麻呂の歌「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の国」とはじまる長歌によるといわれる、「甲斐」にかかる枕詞である。
【作者】
作者松本文雅については不明だが、本文中に「わが師雀庵」と言い、序文に「さゝの屋の翁」と署名があるのは江戸の俳人加藤雀庵(1796-1875)であるから、その門人の一人だろう。
雀庵は寛政八年に生まれ明治八年十二月十日に八十歳で死去した。姓は田中、名は昶(きょし)、通称は弥四郎。篠廼屋、堤隣翁、白鷗、千声などの号がある。烏亭焉馬にまなび、藤の長房の名で狂歌も詠んだ。「さへづり草」など多数の随筆がある。
「さへづり草」には松本文雅についての記述はないが、橘南谿と古川古松軒の記事に関する長い考察や、他の紀行の記事もあり、和歌と同じく俳諧の作者たちにもとっても紀行がよく読まれていたことがわかる。
【行程】
以下に簡単な内容を記す。
八月十一日の早朝に、母や親族に見送られて江戸を出発、高井戸、府中、日野、を経て八王子に至る。この日は十三里を踏破し、足に豆ができたと嘆く。十二日、高尾山への関所で近所の茶屋の妻を同行者と偽って通過する。このような手法はさほど珍しくなかったのかもしれない。高尾山参詣後、甲州街道に入り、駕籠も使いつつ都留川を渡って野田尻に泊まる。十三日も駕籠で山道を進み、猿橋では芭蕉の句碑を見る。途中の寺では鐘の由来に興味を持ち、鋳物師かと問われたりする。谷村に泊まる。十四日には土地の伝説などを紹介しつつ、郡内絹を織る村の女性たちにも触れている。天候もよくない中、三つ峠に登り麓に宿をとるが、商人たちと同部屋で、蚤に悩まされる。十五日、雨中を進み、山中湖や古戦場を見て船津に泊まるが、十五夜の団子の代わりにうどんや芋をを食べ、瀬戸物の鉢を飯櫃に使うなど文化のちがいをおかしがる。十六日は船で湖水見物を楽しむ。十七日は富士川やその他の川を渡る。人足たちが水が荒いとしぶるのを頼みこんで雇ったり、土地の男が親切に渡してくれて宿の世話もしてくれるなどの体験が記される。期待した丸滝見物はさほどでもなく失望して下山の宿に戻る。
翌十八日は身延山参詣。寺の様子は非常に詳しい。宿も上等で三日ぶりに入浴できた。十九日は七面山参詣。ここで上巻が終わる。
二十日は身延山奥の院に参詣後下山する。八日市場を経て切岸に宿る。二十一日、雨の中を韮崎に向かうが、橋がすべて落ちて渡れず、土地の人に教えられて武田村の神主宅に宿を頼む。二十二日も増水で川が渡れず、土地の男たちに川を渡してもらう。御嶽山に参詣し、この日も宿をとるのに苦労する。二十三日、宿の主の妻に水晶を見せてもらう。武田氏の遺跡を見物し、案内の僧の吃音のひどさに笑いをこらえる。甲府に宿る。二十四日、酒折天神など近隣の社寺を参詣し、再び甲府に戻る。二十五日、石和、栗原を経由し柿や栗の実るのを見ながら塩山の温泉に至るが、温泉は冷たく、宿にも困る。二十六日、勝沼から笹子峠を経て猿橋に泊まる。相宿の人たちと談笑する。二十七日、同宿の男と道連れになって、天保八年の一揆の折の体験談を聞きつつ八王子に着く。二十八日、暗いうちに出発して十三里を踏破、四谷まで来て足が痛むので船で大川をのぼって帰宅する。
【特徴】
長途かつ長編の紀行であっても名作とは限らない。事実を細かく羅列しても平凡で退屈な場合もある。膨大な見聞や体験の中から何を選択して記すかに紀行作者の手腕が問われる。
この紀行は、江戸紀行がともすれば書き落としがちな、足の豆とか痛みとか数日入浴できない不快感とか身体的なことを多く記すのが珍しい。また、月見の夜の食物など、たとえば東北や九州のような遠隔の地でなくても三都の文化とは大きく異なる風習に注目し、柿や栗、水晶や郡内絹といった、旅先の土地の産物にも注目している。さらに、快適な宿から劣悪な宿までのさまざま、また宿が取れないいろいろな状況、渡河に際しての苦労や土地の人々の協力などを活写し、他の紀行ではあまり登場しない従者の存在も随所にうかがえる。
社寺参詣の記事は退屈になりやすいのだが、作者は個人的なこだわりとして寺の鐘に注目したり、案内者の様子を描くなどして、特色ある記事を作っている。
宿を貸す人や川を渡してくれる人など、皆親切で良心的なのも、幕末とはいえ穏やかで平和な日常がしのばれる。その中で、関所の検問が形骸化しつつあるのがうかがわれるのと、最後に道連れになる男の一揆の体験談が、わずかに時代を反映している。天保八年(一八三六年)の凶作の中、甲斐国都留郡で米屋の打ちこわしから始まった騒動は甲斐一国一揆、天保騒動とも呼ばれ、甲斐国全体に波及して甲府勤番、代官所では防ぎきれず信濃高遠の藩兵も出動して鎮圧された。
作者が男の話を詳しく記さなかったのは、公への遠慮もあったのだろうが、それでも一応書き留めているのは当時の紀行がになっていた、興味ある情報の伝達という役割を意識していたからだろう。
なお、作者は「甲斐名勝志」(萩原元克 一七八三)「甲斐叢記」(大森快庵 一八四八)の二書をしばしば引用し、参考文献として使用する旨を冒頭に述べている。ともに大部の書なので、携行したとは考えにくく、おそらく多くの紀行作者と同様に、帰宅後に旅中の備忘録を紀行としてまとめる際に参照したのであろう。
その引用や利用のしかたも冗漫ではなく、知識の披瀝や考証に過度に走ってはいない。これは土地の風習や産物について記す場合も同様で、たとえば江戸時代初期の貝原益軒のように、そのような観察や記録が至上命令となって意識されている様子はない。
知識も観察も作者はすべて、自らの体験の中に溶かしこみ、読んで快い文学作品としての紀行を書こうと心がけている。その点でこの作品は、江戸時代の紀行が到達した、最高の標準を保っていると評価してよい。
【書誌】
使用した底本の書誌は以下の通りである。
国会図書館103-2-141。写本二冊。二三・五✕一六・七cm。十二行書。
国会図書館後補の茶色表紙。左肩子持ち枠白題簽。外題「南満余美日記 上(二冊目は「下 止」。
中表紙(原表紙)は茄子紺色表紙、左肩黄題簽。
第一冊は外題「那麻與美日記 上」、内題「奈麻與美日記 上」 本文に朱が少々入る。全二十九丁、墨付三十八丁。
第二冊は外題「南満余美日記 下」、内題「奈麻與美日記 下」 全二十九丁、墨付28丁。
(※以下は「短縮版」です。)
「なまよみ日記」解説
題名の「なまよみ」は、万葉集第三巻高橋虫麻呂の歌「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の国」とはじまる長歌によるといわれる、「甲斐」にかかる枕詞である。
作者松本文雅については不明だが、本文中に「わが師雀庵」と言い、序文に「さゝの屋の翁」と署名があるのは江戸の俳人加藤雀庵(1796-1875)であるから、その門人の一人だろう。
日蓮宗を信仰していた父の死後十四年目に、その遺志をついで身延山に参詣する十八日間の旅の紀行で、江戸を出発して甲斐の国を経由して身延山を参詣する。時代がやや早いせいもあってか、まだ特に世の中の動きや時代の変化は見えず、むしろ、平穏に過ぎて行く人々の生活がうかがえる。
その中で、冒頭間もなくの関所の検問が形骸化しつつある記事と、最後に道連れになる男の天保八年の一揆(天保八年の凶作の中、甲斐国都留郡で米屋の打ちこわしから始まった騒動は甲斐一国一揆、天保騒動とも呼ばれ、甲斐国全体に波及して甲府勤番、代官所では防ぎきれず信濃高遠の藩兵も出動して鎮圧された)の体験談が、わずかに時代を反映する。
なお、作者は「甲斐名勝志」(萩原元克 一七八三)「甲斐叢記」(大森快庵 一八四八)の二書を参考文献として使用する旨を冒頭に述べて本文中にもしばしば引用する。ともに大部の書なので、携行したとは考えにくく、おそらく多くの紀行作者と同様に、帰宅後に旅中の備忘録を紀行としてまとめる際に参照したのであろう。
【書誌】
使用した底本の書誌は以下の通りである。
国会図書館103-2-141。写本二冊。二三・五✕一六・七cm。十二行書。
国会図書館後補の茶色表紙。左肩子持ち枠白題簽。外題「南満余美日記 上(二冊目は「下 止」。
中表紙(原表紙)は茄子紺色表紙、左肩黄題簽。
第一冊は外題「那麻與美日記 上」、内題「奈麻與美日記 上」 本文に朱が少々入る。全二十九丁、墨付三十八丁。
第二冊は外題「南満余美日記 下」、内題「奈麻與美日記 下」 全二十九丁、墨付28丁。