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紀行全集のために(8) 「岩下方平旅日記」解説

もうあまりにも長いことほったらかして、出版社に迷惑かけまくりの「紀行全集」の解説原稿です。

もうこのまま使うかどうかわかりませんが、とにかく、この種の原稿を片っぱしからアップします。なお、まだ表記の整理もしていないのでお見苦しいですが、すみません。いずれ訂正しますが、とにかく急ぎます。(20023.3.30.)

 

「岩下方平旅日記」解説

 

【作者】

「国書人名辞典」(岩波書店)、「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)、この紀行を所蔵する東京大学史料編纂所所蔵の和装本「岩下方平事蹟」(四一四四/一八九)等によれば、作者は

文政十年三月十五日に薩摩藩士岩下典膳の長男として生まれた。典膳は祖父で、父は亘とするものもある。明治三十三年八月十五日に七十四歳で没した。名は方平、方美。通称は佐次右衛門、左二、左次兵衛、号は南谷。薩摩藩の家老として活躍し、慶応二年のパリ万国博覧会には幕府の使節団とは別の薩摩藩琉球国太守政府の代表団として参加した。この紀行はその帰途の船旅の折のものである。翌三年に帰国して上京後、十二月九日に明治政府の参与となり、以後京都府権知事・大阪府大参事などを経て、明治十一年に元老院議官、二十三年に貴族院議員となった。

 

【背景】

 東京大学総合研究博物館発行の日仏修好条約締結百五十周年記念特別展示「維新とフランス ―日仏学術交流の黎明」は、日仏交流史について解説し、この博覧会についてもふれている。とりわけ、これに先立つ文久三年の幕府遣欧使節団に参加した当時十六歳の三宅復一の「欧羅巴エノ日記」が全文紹介されていて、ほぼ同じ航路なので方平の記述と比べると興味深い。また同時期の幕府の使節団については「徳川昭武遣欧使節団略伝」(仲田公輔)に詳しく記され、薩摩藩の使節団との軋轢の様子などもわかる。

 また現在、「1867年パリ万博に薩摩琉球国として参加した使節団一向の子孫によって設立準備中の任意団体です。150周年を記念し関連情報発信や子孫同士の交流促進を目的としています」としてsatsuma1867という組織が立ち上げたツイッターが、この使節団について貴重な情報を多く発信している。

 作者は、この紀行ではおそらくは意図的に両国の上京や万博に関する記事はまったく記していないが、船旅の体験だけを綴ったその内容が、かえって鮮やかな印象を残す。

 

【書誌】

底本は、東京大学史料編纂所蔵の写本一冊(島津さⅡ三―一二七)。茶色表紙。左肩子持ち枠白題簽。外題「岩下方平旅日記(自慶應三年七月二十九日マルセイユ 至同年九月廿二日長崎) 全」。中表紙題は中央打ち付け書「岩下方平旅日記(自慶應三年七月二十九日マルセイユ 至同年九月廿二日長崎)」。二七・二×一九・〇cm。「公爵島津家編輯所」の黒罫紙使用。十行書。二十五丁。

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