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約束

おばあさん猫のグレイスが、あまりエサを食べなくなった。口の中に押し込んでやると一応飲みこむが、前のように自分で皿からは食べることがない。
痛み止めと抗生物質は飲ませているので、そう苦しいとか痛いとかいう風はなく、静かに寝ている。エサや薬を口に押し込むときも、いやがりはするが、変に落ちついた顔をしている。もうそろそろ、死ぬ気になっているのだろうか。でも、しっかり歩くし、ベッドに飛び上がるし、顔つきも普段と変わらない。要するにあいかわらず、いつ死ぬ気なのかわからない。

ツルゲーネフの「散文詩」の中に、死にかけたロシアの老婆が、最後の懺悔を聞いて祈りを捧げていた司祭が、彼女が息を引き取りそうになったので、あわてて祈りをはしょって早く終わらせようとしたら、老婆は不機嫌そうに「あわてないで下さい、間に合いますよ」と言って、枕の下に手をさしいれながら、そのまま死んだという話が紹介されていた。枕の下には司祭に渡すお礼のお金がちゃんとおいてあった。老婆はそれを取ろうとしたのだ。ツルゲーネフは「いや、ロシア人は実に驚くべき死に方をする」と、この話をしめくくっていた。

(今、「散文詩」をチェックしたら、この話はなかった。それで思い出し直したけど、きっと同じ作家の「猟人日記」の中の話だった。今度こそまちがいないはず。)

そう言えば、コミック「戦争は女の顔をしていない」でも、あちこちに、すごい名文句があったっけ。ベラルーシのおばあさんが、破壊された村の再建に身を粉にして働きながら、「死んだら魂はともかく、手は休めるのかねえ」と言うとか。こんなん誰も絶対考えつかんわというようなせりふが、随所にあった。あれって、やはり民族の才能みたいなものだろうか。昔読んだロシア文学の数々を、自然と思いだしたりしたのだが。

で、そのおばあさんの臨終にあわてた司祭じゃないが、グレイスと私がいっしょに過ごせる時間があとどれだけあるのか、さっぱりわからない。もう、あまりないことだけは、何となくわかるのだが。
このごろは、よくベッドから飛び降りて、隣の寒い部屋に行って寝ていたりする。熱があるのかと思ってさわってみるが、そうでもないようだ。だが体温も下がってはいない。寝ている場所の毛布を新しくして、きれいな敷布もしいてやったら、気持ちよさそうにその上に戻って寝ていた。
猫でさえこうなのだから、生活保護を受けてる人や高齢者やホームレスの人たちだって、すごく快適な環境においたら、長生きはもちろん、再出発とか健康回復とかすぐにできるんじゃないかと思ってしまう。

グレイスがいつまでもつか気になるのは、私はもう数年も前から、居間をきれいに片づけて、なるべくちょいちょいおまえといっしょに夜を過ごすようにするからね、とまだ元気なグレイスに約束しつづけていたからだ。それを果たさないまま、死なせてしまっては申し訳ないと、ここしばらく必死で片づけにはげんだが、まだ散らかっていて、快適な空間にはほど遠い。
それでも何とか、床は見えるぐらいになったから、この前の夜や今夜は、彼女の寝ている部屋との間の格子戸を開けて、居間に来れるようにしてやったら、しわがれた声で鳴きながら、ベッドを下りて、やって来て、じゅうたんの上に寝たり、私の横のクッションの上で寝たりしていた。私は仕事のための本を読みながら、彼女をひざの間に入れてやった。もふもふ猫のカツジとちがって、小さいからすっぽりひざの上におさまる。夜中までずっと、そうしていた。

一度、こたつの横に寝て、いっしょにふとんに入れてやった。何しろもう二十年いっしょにいるから、よく覚えていないのだが、彼女といっしょにふとんで寝たことは、一度か数度はあったかもしれないが、ひょっとしたらなかったんじゃないかと思うぐらいだ。
もちろん、そんな猫も他に何匹もいたが、おゆきさん、キャラメル、ミルク、シナモン、そしてカツジなどは毎晩のように私に抱かれて寝ていたのだから、あの世に行って、二十年もいっしょにいたのに、いっしょに寝たこともないのかとバカにされては気の毒だし、まあ私の自己満足ではあるけれど、そういう思い出も作っておいてやりたかった。
慣れてないせいか、彼女はあまり喜ばず、しばらくすると出て行ってしまったが、ひざの中は気持ちがよかったようで、ずっとそのまま寝ていたから、まああの世でも自慢の種はできたろう。何しろカツジなどは大きすぎて、私のひざには入らないんだから。

もうすっかりやせて、軽くなっているが、グレイスは昔と変わらない、丸い目の、しっかりした表情をしている。薄田泣菫の伝記を読みながら、その頭をなでていると、二十年とは長かったなあと、あらためていっしょに過ごした時間を思う。朝はそうでもなかったのに、もうグレイスの体温はかなり低くなっている気がする。
夜中になったので、ホッカイロで温めたベッドの上において来た。落ちついて寝ていたので、まあ明日までは大丈夫だろう。薬は一週間分もらって来ているが、もう病院に連れていって点滴とかするのはやめておこうかと思っている。とにかく、なるべく長い時間いっしょにいるようにしてやりたい。できるだけ、幸せにしてやりたい。うまく行くかどうかわからないが。

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カツジ猫