終わりよければすべてよし、と言いたいが
◎数日前にちょっと書いた牛久の入国管理局の問題ですが、私の方も時間がなくて実態がどうなのか、よく調べられません。
一応見かけたページを下に紹介しますので、皆さんごらんの上、ご判断下さい。
http://matome.naver.jp/odai/2139619915934142901
これは私がたまたまネットで遭遇した事柄なのですが、それとは別に、動物殺処分に反対の署名をして以来、さまざまな署名のお願いがそれこそ山のようにメールで届きます。こちらなりに最低限の情報確認はしたいと思うのですが、とても追いつかず、ほとんど署名をしないままです。
私はもともと、何かを訴えたりお願いしたりするときに「相手を選んでお願いする」というのが本当に嫌いで、こういう署名も「この人ならするだろう」と思われているのが、妙に気分がよくないです。その一方で「この人がするはずはない」という署名ははじめから私などには来ないで、そういう署名をしそうな人ばかりに送られているのだとすれば、世の中がどんどん気の合うどうしで盛り上がって、わかりあえないどうしはどんどん遠ざかる、格差というのも差別というのもちがうでしょうが、どこかそれに似た構図が、どんどん推し進められているようで、落ち着きません。
恐いよね~、こんなときに「女性を差別しましょう」「動物を殺して毛皮を着ましょう」「外国人を殺しましょう」などという署名が来たら、きっと私はうれしくて、署名してしまうのではないかしら。そうしたら、それ以後どんな署名のお願いが来るのか、そのことを知りたいというためだけでも、そういうことをやってしまいそうだ。
署名してくれそうな人だけに、そういう署名を送りつける、この安易さ、機械的反応、無駄を省く整理と決めつけ、どれも私は大嫌いで、ゆきうさぎさんがよく言っている、「ちょっと寄付とかすると、もうそれ以後、あたりまえのように集中的に、こちらがぶちきれて縁を切るか、ぶったおれて滅びるかするまで手を休めずに金をむしりとりに来る」精神と同様の怠惰さを感じる。
いろんな訴えが本当に正しいか、鵜呑みにしないで判断しようと思ったらそれなりの時間が必要だ。私が条件反射的に即座に寄付や署名に応じる団体や個人は、皆それなりに、それまでの活動や交流で私に知識や情報や信頼関係を与えている。そういうものがまったくなしで、いきなり門口に立たれても、ま~、ジャン・バルジャンを助けたミュリエル神父ならともかく、いやいや宿や食事だけじゃなくて、何かを支持して賛同するというのは、もっと責任もともなう行為で、とてもそう簡単に応じられるものではない。
◎先日、必死に探し回った書類を弁護士事務所が保管していて脱力安心したのもつかのま、昨日と今日は四月から授業が始まる非常勤先の大学からの授業日程その他の資料が見当たらず、またまた家じゅうひっくりかえしていたら、今朝、郵便配達の人が来たあと、ポストを見たら入っていた。例年こんなに届くのが遅かったかしら。どっと安心したついでにまるで一仕事すんだような錯覚にとらわれて、カツジ猫の寝ている脚をひっくりかえして肉球占いなどしながら、ぐだぐだ昼寝してしまった。今夜はもうちょっと仕事をするぞ。