絶望。
◇とにかく何とか片づきかけてる二階のベッド周辺から、切り崩して行くしかないと、朝から曇り空など見ないふりして、そこにかける予定の古い布カバーを洗濯して干した。何とか陽ざしもさして来たようなので、ほっとして買い物に出かけた。
行きつけのスーパーにはパセリが切れていることが多い。この前から二度ほどからぶった。これが続けば私はきっとやけになって、花を植えるはずだった鉢全部にパセリの苗を植えることだろうよ。
代わりになりそうなバジルを買って店を出たら、表の敷石の上に、ミミズがのびていた。
きっと、すぐそばの花屋さんの鉢の土にまじって運ばれて来て、脱走したか排除されたかしたのだろう。人の行きかう舗道はからからで水の気配も土の気配もない。
私はこういう時に、しょうもない感情移入をするから自分で自分の首をしめる。たとえば、いけすの中を泳いでいる魚を見ると、彼ら彼女らが再び自由に戻れて生きのびていける海までの、空間と距離を思って、気が遠くなりそうになる。絶対に帰る望みのない故郷、行ける見こみのない目的地。あさり料理は好きなのに、ビニール袋の中でかろうじて生きのびている彼らが、やっと塩水にひたってほっとした直後にそれが熱湯に変わって行く時の思いを想像すると、なかなか買う気になれない。いやまあ、買うけど、食べるけど、おいしいと思うけど。
ミミズももう土に戻ることは不可能で、いつまでも、そこでそうして、ふみつぶされるか干からびるかするまでの長い時間をすごすのかと思うと、ゆううつになった。まあ、ちぎられて魚の釣り餌にされることだってあるんだからとも思ったけど、それはまだやむを得ない役割で、ここでのこの死に方は、どうにも意味がなさすぎる気がした。
バッグの中にいらない紙があったので、それでミミズをつまんで、買い物袋といっしょに、車に積んで帰った。ミミズはもぞもぞ動いて、まだ生きていて、私は庭のどこに放せばいいのかと帰りつくまで考えていた。草取りを頼んでいる若い人が、草を退治するのに熱湯をかけようかとか思案していたから、めったなところでは危ない。カツジ猫のいる金網の中の庭はその点安全だが、まさかそんな甲斐性はないはずだが、カツジが、おもちゃにしないものでもない。
とにかく持ち帰って、大丈夫そうな場所に穴を掘って水をかけた上に置いて、軽く枯葉と土をのせておいた。まあ多分生きのびるだろう。
私ががまんできなかったのは、見逃せなかったのは、ミミズの状況の絶望的なことだった。それが、そのままになるということを、なぜか許せないと思った。わかってる、この感覚は、きっといつか私自身の墓穴を掘る。でも、知るか。
◇ところで、それとつながるところもありますが、こういう署名が回ってきました。
ぜひ、ご署名と、拡散を。