1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. 日記
  4. 苦い、苦い、苦い思い出。

苦い、苦い、苦い思い出。

◇毎日新聞の今朝の朝刊に仲代達矢さんがブレヒトの「肝っ玉おっ母と子供たち」を再演するという記事が出ていた。前に一度1980年ごろ上演していて、そのときは仲代さんは50代だったとのこと。
本当にうれしいし、成功してほしいと思うし、絶対に見に行こうと思う。

だが、その一方で苦い思い出もある。私は初演のとき、その舞台を見て感動したしパンフレットも買った。とても大事にしていたのだが、そのころよく地元でいろんな講演をしていて、何かの劇の上演のとき、その予習もかねて自治体がやった演劇についての講演のとき、少しでも演劇を身近に感じてもらおうと、買いためていたたくさんのパンフレットを回覧したら、この「肝っ玉おっ母と子どもたち」のパンフレットが返って来なかった。誰かが持ち帰ったのだろう。

自治体の人たちは、私がパンフレットを回覧するのは予想していなかったようで、返ってきた分をていねいにチェックしてくれたが、もし前もってわかっていたら、何かもっと注意をして下さったのかもしれない。だが私は持ち帰られるということに、まったく何の警戒も予想もしていなかった。それまで何十回となく地元でそういう講演をして、貴重な資料も回覧して、そういう事故はそれまでに、まったく一度も起こらなかったからでもある。

今思えば、それまで起こらなかったことが幸運で僥倖だったのだろうか。たしかにそのときは、かなり人数も多かったし、いつも地元で私がする講演とはちがった人たちも来ておられたようだから、そういう事故も起こったのかもしれない。

同様の講演会で回覧資料を持ち帰られたという話は、偉い先生からもたまに聞くし、そういうときにその大先生たちは、特に恨みも述べられなかった。「なくなってしまいましてねえ」と、皆さん笑みを浮かべて話しておられた。それが本当の品格というものだったろう。私もだから何となく、恐縮する自治体の担当者に「ああ、いいですよ」と笑って、それきり文句も言わなかった。

◇だが、それ以来私は、同様の講演で、資料の回覧はやめた。そして次第に講演自体を断るようになって来た。忙しくなって時間がとれなくなったことももちろんある。だが、私はいつもそうだが、自分自身にさえ気づかせないほどの強い怒りと冷たい絶望と激しい拒否を身体の奥に抱えこむ。表面には絶対に出さなくても、自分でも気づかない内に、自分を傷つけ大切なものを奪った存在からは遠ざかる。これもその一つだったと気づいたのは、ずっと後になってからだった。

つくづく、理不尽なことだと思う。それまで数えきれない多くの人が、貴重な資料を大切に見て、傷つけず返してくれた。その人たちにして見れば、たった一人の人がたった一冊のパンフレットを持ち帰ったことで、本物に触れる機会も学ぶ機会も奪われるのだから。
その人たちと私を隔てたことなど多分今も何も気づかないまま、パンフレットを持ち帰った人に対する私の怒りは、多分きっと憎悪に近い。そして、そんな人の愚かさと低劣さにまんまとはめられ抵抗できずに、多くの良心的な人と隔てられてしまった自分の弱さと意気地なさと教育者としてのにせもの度に対する憎悪は、それよりもはるかに深い。

今でこそ大学は地域に開かれたなどと偉そうなことを言っているが、私がそういう一般の方への講座や講演を、自治体その他の方々に頼まれるままに始めたころは、嘘のようだが学内では奇異な目で見られた。つまらないことに時間をさいていると、むしろ批判の対象だった。
私はそんなこと気にもしなかったし、可能な限り、そういった要請には応じてきたし、大学の授業と同様のせいいっぱいの準備をして取り組んでいた。自分はそういうことが好きだし、向いているかもしれないと感じてもいた。

しかし、その事件以来、私は自分がそういうことにふさわしい精神を持っていないし、そもそも教育者でもないかもしれないと、まあそういうことが初めてでは決してないが、あらためて自覚した。
図書館や文庫で貴重な資料を一般に公開するのを、極端に嫌悪し拒否する人もいる。紛失や毀損を恐れるからだ。私は一見そう見えないが実はそういう人たちと同じ精神を持っていると、思わないではいられない。

それでも私はまだ大学の授業では、さまざまな手持ちの資料を回覧している。授業中に眠っていても、いつも放っておくのだが、そういう資料の取り扱いについての注意をする時だけは一応「はい、ここだけは起きて」と言って起こしている。今のところ、これといった紛失事故も起こってはいないから続けているが、何かあったらやめるかなあと漠然と予感してはいる。私の教育者としての良心なんて、せいぜいその程度のものだ。

貴重な資料が持ち去られたことを笑って話された大先生たちのように、すぐれた人たちは、そんなことでめげたり傷ついたりしないから、学生や社会に対してきっと門戸は閉ざさない。
だが、私のように中途半端な善人は、バカが一人いただけで突き崩されて学生サービスも社会奉仕も放棄する。そういう中途半端な善人はきっと多いにちがいなく、そういう人のいいかげんな善意を減らさないためにも、自分のすることの及ぼす結果の意味と役割ぐらいは最低把握しておいてほしい。

Twitter Facebook
カツジ猫