虹と光と(2)
どこかで確信があった。どこかでふしぎでたまらなかった。直接にも間接にも私は出会う若者たちがどうしても自分とちがうと思えなかった。自分の敵とも感じなかった。団塊の世代と言われる自分の世代の、がさつで乱暴でやたらと熱い若者たちより、ずっと好きだったし、違和感もなかった。優しくて、用心深くて、礼儀正しくて、気を使い、無防備で、どこか冷めてて、のんきな彼らを、甘いとも無知とも思わなかった。
だから、ただ不思議だった。彼らが保守的で自民党を支持することに。どう考えても彼らが望む、自由で平和で、つつましく穏やかな生き方は、それと相容れないはずなのに。
スポーツで、音楽で、大きな競技場を埋め尽くして熱狂してペンライトを振る若者たちの大群衆を見るたびに、この人たちがすべて、政治に関心を持ち、自分たちの思いを表現すれば、世の中はどんなに変わるかといつも思った。それは、不思議なことでも、無理なことでもないといつも思えた。
彼らの多くが読む漫画やラノベと言われる軽い読み物のすべてが、いつも訴えるのは、誤った指導者への怒りであり、自由に生きる尊さであり、弱者への愛であり、小さい幸せの肯定だった。作家たちのすべては、言い合わせたように、その点で一致していた。私が目にしたいろんなタイプのコミック、アニメ、読み物の中で、そうでないものはひとつもなかった。それを言うなら、テレビドラマや映画でさえも、それと異なる価値観を訴えるものは、ほとんどなかった。NHKの朝ドラや大河ドラマも、その点では一貫していた。
学校教育や、リベラルとか左翼とかでくくられる既成政党の役割ももちろん大きいとしても、彼らは組織や体制を守るためには、管理的で画一的にならざるを得ない面もある。そのことは骨身にしみて知っている。その中で、平和や民主主義や左翼的なものに反発する若者が生まれるのは、当然だろうと自分の体験からも私にはわかる。
私は自分もその一人である教師が嫌いだし、民主的と言われる人たちの組織や団体や個人の融通のきかなさ、頑なな使命感も、宗教家と共通する思い上がりも知っている。思想は戦後の民主主義でも、やってることの強引さや画一性は、戦前のままの古めかしさだったりもする。それに対する拒否感や嫌悪感が、自民党支持に向かわせる要素も大きかったろうと思う。
しかし、そういう旧態依然としたやり方をひきずりながらも、学校教育や既成政党が、語り続け伝え続けた、常識やまっとうな正義感や価値観は、やはり戦後社会の土壌となって培われたはずだ。若者が体制に反発し抵抗しても、基本的な人としての生き方を考えるとき、戻り、よりどころにするものは、結局はそこでしかないはずだ。
先に述べた、一見ミーハーで薄っぺらい文化の中に定着していた思想や哲学、特に虫の歩みのようなのろさでも着実に前進してきたフェミニズムによる変化とともに、若者たちをとりまく文化や思想は、常にまっとうで健全だった。それは、戦後の反省をそれなりに抱いて守ってきた、自民党や保守勢力ならいざ知らず、この数十年の、安倍政権以後大きく変質し、暴力と圧制をむき出しにして来た自民党や保守層と、一致するものではあり得ない。
私たちもそうだったが、世代は常に直前の世代に反発し対決する。団塊の世代の持つさまざまな弱点や欠点に顔をそむけた次世代以降の若者が、それなりに親や教師の世代の中の肯定と否定するものを見分けて、引き継ぎ、凶暴化しつつある自民党やその周辺の勢力と対決する日が来ないわけはないと思った。平和憲法が育てたもの、戦後社会がめざしたもの、それを私は信頼した。その存在も感じていた。
けれども、それは、目に見えなかった。見えて来るのは、孤立し先鋭化しながら、加速度的に暴力と非常識を増してくる自民党政権とその周辺勢力だけだった。彼らは財界と結んで金を集め、それによってメディアを黙らせ、司法を支配し、大学の自治を破壊し、軍備を増強しつづけた。日本を守るためではなく国民を愛するからではなく、ただ自分たちの快楽と達成感のために。共産党や公明党が労働組合や市民運動などを通して保持していた、組織的な束縛が、それも戦後の民主主義や自由を育てる中で、弱体化せざるを得なかったのに乗じて、金と権力は思想や理想にとって代わり、日本社会をのっとった。
私はその中で、自分のできることを探しつつ、あるはずのもの、見えないものが、姿を現すのを待ち続けた。見ないままに老いて死ぬこともいつからかは覚悟した。特に不幸とは思わなかった。人間は誰も自分が生きる時代や場所を選ぶことはできない。少なくとも多くの人の犠牲と決意が築いた、平和憲法をはじめとしたささやかなものに守られて、それを守る努力も続けて、終わる私の一生は、かなりましな方だとも思った。
それが、この数ヶ月、私が見ることがなかった風景が、目の前に現れた。メディアは伝えてくれないが、今、全国で人々が、若者が、自分たちの生き方や考え方を崩さないまま、その延長線上として、ライブや競技場に行くように、戦争反対憲法守れ内閣退陣のデモや集会に参加し始めている。
私に驚きはない。ずっと信じて、予測していたものだった。それでも、具体的にその映像を見ると、団塊の世代やそれ以前にはなかった、数々の新しい、未来につながるものが見えてくる。日本社会のてっぺんは腐り続けているが、足元には一面にあらゆる花が咲き始めている。(つづく)
