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虹と光と(4、これでおしまい)

大事なことを言いたいのだが、ちょっとその前に。
  私が九州大学の学生で卒業間際だったころ、米軍のジェット機がキャンパス内の建物に墜落した。夜間で人がいなかったから被害者は出なかったが、放射線を扱う建物も近くにあって、国内でも学内でも大騒ぎになった。卒論の追い込みにかかっていた私たちの中には、「いっそ図書館に落ちてくれれば卒論の締め切りも延びたのに」という、苦し紛れの罰当たりな冗談も飛び交ったが、それでも皆それぞれに、ショックを受けて怒っていて、車椅子の学長を先頭に、板付基地への長い抗議デモが連日行われた。

何しろ各研究室の助手がデモの列を整理しているような、大学行事のひとつみたいなデモだったから、ふだんはデモや集会に参加したこともない学生たち(ハイヒールをはいて何キロも歩いて何日もデモに参加していた女子学生もいた)も多かった。その中の数人から、学生自治会(民青系)の役員だった私は、自分たちのデモがニュースにならずテレビであまり放映もされず、全共闘系の過激で激しいデモばかりが報道されることに、不満や怒りを訴えられることが多かった。自分たちがそこそこ決死の覚悟をして生まれて初めて抗議行動をし政治活動をしたというのに、それが注目も浴びず効果も生まず話題にもならないことに、焦りや無力感を感じる友人が多かった。よりメディアや一般の人に可視化され効果を生む活動を求めて、過激な活動に加わって行った学生たちの数は、かなり多かったと思う。

安倍政権以来、徹底的に弾圧された現在のメディアが、全国で起こる戦争反対高市退陣のデモや集会について、異常なほどの無視をしつづける事態に、私が呆れ果てながら心配したのは、その時の記憶がよみがえったこともある。これまでそのような抗議行動に参加しなかった人々、特に若者たちが、かつての私の学友たちと同様に、成果があがらないこと、メディアが注目しないことに、焦って、より目立つ過激な行動に走ったり、無気力になってあきらめて戦うことをやめてしまったりするのではないかという、かすかな不安を感じていた。

しかし、その予感も不安もはずれた。メディアの無視も、政権側の黙殺も、私の予想を上回って、とてつもなく、まるで狂気か痴呆なみに、滑稽で醜かったが、抗議行動は続き、拡大し、そこにはそうした政府やメディアへのまっとうな怒りはあったけれど、絶望も悲壮感も暴走も見えなかった。まるで横綱相撲なみの、落ち着きと楽しげな節度を守った熱狂に、私は奇跡を見ているような驚きを感じたが、前に述べた、数々の実感とともに、もうひとつ新たに発見したのは、「今の若者たちにとって、テレビや大新聞に注目されたりとりあげられたりすることは、そんなにどころか、ほとんど全然、魅力でもないし達成感も生まないのだな」ということだった。

政府の広報と化し、内容のない娯楽番組を流し続けることで、テレビや大新聞は見捨てられ、もはや見る影もないほどに、影響力を失った。その中でも良心的な番組を作ろうと奮闘している人々がいることを感じるから、自業自得とまでは言いにくい。しかし、労働組合に守られない使い捨ての現場が結局経営者にとって都合がいい以上に、雇用関係を不安定にし流動化させ、人手不足と人材不足を招いたと同様、強者の力を借りて弱者を無視し犠牲にする体制は、結局弱者に復讐され、自らも弱者となって衰弱し消えて行くのだ。

テレビや大新聞がとりあげなくても、今のデモへの参加者たちには、ネットがありSNSがありYouTubeがある。彼らは自分たちで発信し、つながり、盛り上がれるし、楽しめる。だから彼らは欲求不満になどならない。嬉々として自分たちで、イベントを主催し、「推し」活動の数々で鍛え上げた手法で、プロ並みのショーを作り上げられる。
 あれ、結局、今回私が言いたかった、最大の指摘と訴えに、話はすんなりつながりそうじゃないか(笑)。

ここ数年の政治の世界の動きから、私が一番危惧し、絶望しそうになっていたのは、各地の選挙やその他でのSNSの脅威だった。中身が空っぽで、偽りだらけの、不勉強で、志の高さも人間性も皆無のコメントやメッセージが、規制も制限もなく横行し、それがそのまま信じられて、恐ろしいほどの効果を生む。
 堅実で、聡明で、良心的な人々が、発信者として当然の責任ある慎重な姿勢を守っている間に、そんなことにはお構いなしの口から出まかせ、聞きかじりの未確認の情報、悪意と敵意の感情的な垂れ流し、を、これでもかと満載した、無責任で野放図な発言が何の準備もいらないだけに、ものすごい数で世の中を席巻した。

まともな国と国民を作ろうと思うなら、まっ先にこの状態を何とかしないと国も国民の精神も病んで滅ぶという点では、コロナにも匹敵する精神的な疫病が広がりかねない事態なのに、あろうことか、政権の一部そのものが、溺れるものが藁どころか糞をつかむに等しい行為で、金にあかせて、この状態を自分たちの武器として利用活用し、ついに現政権を誕生させていたのかもしれないと言うのだから、あいた口がふさがらないとはこのことだ。それを行ったかも知れない人々が、いまだにその権力を手放さず、国防から天皇制まで日本の未来を大幅に作り変えようとしているのだから話にも何もならないが、だからこそ、この政権を一日も早く退陣させるのと同じくらいに必要なのは、このネット社会、このAIずくめの世界に、まともな良心と知性と愛情を吹き込み定着させることだ。私たちのすべてが、ネットやパソコンを武器として、正しく使いこなせるようになることだ。

だがもちろん、それは簡単ではない。
 「しんぶん赤旗」の投書欄で、「これからはSNSを使わないといけない。自分も挑戦しようと思う」と書いておられた八十五歳の人がおられた。まだパソコン以前にワープロがやっと普及し始めたころ、それまで手書きだった町内会のお知らせビラが、あっという間に皆、印刷の紙面になった時には、高齢者の役員ばかりだったのが、たちまちこれだけ対応できるのに私は相当驚いた。それぐらいだから、これは赤旗読者に限らず、それこそ日本国民の特性なのかもしれないが、それにしたって立派すぎる。

ただ、そうは言っても、ある程度まではともかく、パソコンやSNSを自在に操って、効果ある発信を行う技術は、一朝一夕に身につくものではない。
  そして、若い人たちの、この方面における能力の高さは、程度の差はあるにしても、従来のこのような活動に参加していた中高年層を全体として、大きくしのぐ。

政府への抗議集会やデモに、みるみる増加してゆく創意工夫とセンスに満ちた数々ののぼりやメッセージボードを目にするたびに、私はそれらの内容やセンスのよさもさることながら、何よりも楽々と、それらを制作してしまう技術の高さに圧倒された。幼い時から息をするようにパソコンに触れ、ネットやパソコンを自由自在に使いこなして武器にできる能力を、若い年齢層はほぼ例外なく持っている。

このような人たちが加わることによって何が変わるか。
 一つには、これまでのように、金で雇われてコピペを投稿していたような膨大な数の世論操作や支持率調査、その他ネットを悪用した詐欺まがいの活動の実態が、暴かれる可能性が高くなる。それらの調査や投稿が、どれだけ真実の反映か、いかがわしいでっちあげか、見抜ける人が増えることで、防衛や対策や防御や警戒の方法がわかる。従来の、政府に批判を行っただけで山のように送りつけられる攻撃的なメールについても、何らかの調査や対策がしやすくなる。
 地方議会では自殺者さえも生んだように、匿名の攻撃メールなどは、受ける側の精神にダメージを与え、生命力をそぐ。しかし、その実態が何者で、どれだけが架空の影法師かを知るだけでも、それらの悪質な攻撃の力はかなり弱まる。そして相手を警戒させ、無法な攻撃を萎縮させる。

二つには、自分たちの主張や訴えを、ネットやSNSを活用することによって、これまでのビラやチラシの配布、街頭宣伝、よりも、おそらく画期的なほど、効率よく広範囲に伝えられることだ。もとより、印刷物配布、街頭宣伝などの効果も大きく、これも続けるべきだが、それに加えてネット利用を行えば、信じられないほどの成果が生まれるのは、ここ数回のさまざまな選挙が証明している通りである。

無責任、無内容、その他あらゆる欠点と弱点と危険をはらんだ内容の、雑なこときわまりない手法でも、ネット選挙はかなりの成果を上げた。そのすっからかんな内容はすぐに破綻をきたして長続きしなかったとは言え、一定の議席は迷走を続けつつ、今も存続している。一方で私の身近でも、最近ではパソコンやネットを熟知した高い能力の人に、サイトやYouTubeの制作ををまかせた結果、想像もしなかった護憲派の新人候補が当選するという例が生まれて来ている。

このことに、従来の平和や民主主義を守ろうとする人々は、もっと注意を向けるべきだ。
 かつての組合や政党や組織や地縁血縁の票読みや束縛ができにくくなった今、誰に投票していいかわからない選挙民が増えた。誰もが無難で似たようなことを書く、選挙公報やメディアの情報は参考にならない。そんな中、責任を感じるからこそ棄権がふえるのも当然だ。
 一方で責任を感じてとにかく投票には行こうと思う人たちが、既成政党に何の先入観もない場合、とりあえず見るのは、ネットのSNSであり候補者のサイトでありYouTubeだ。そこで何をどのように発信するかが、今後の選挙では勝敗を大きく左右する。

この戦場で、勝たなければならない。というか、無法地帯と化している、この戦場で、正しいルールとマナーを確立し、何よりも、発信するに足るだけの、内容と哲学を保った場に、この戦場を変えなければならない。それは、AIやネットが大きな役割を果たす、今後の日本社会にとって、重要な岐路である。そこを、低級で無恥な精神の横行する泥沼にするのではなく、まっとうな知性と良心によって運営管理される場にしておかなければ、右翼や左翼、保守や革新に関係なく、日本にとっての危機と没落の未来しかない。若い人たちの力を発揮してほしい、これが三つ目の理由である。

二つだけ、気をつけてほしいことがある。
 一般的な平均値では、若者たちのパソコンやネットに関する知識と技能は、多分中高年層を上回るだろう。しかし、どんな分野でもそうであるように、その中でも、知識や技能やセンスの高低差は、無限にある。すぐれたプロもいれば、普通の人もいる。それを自他ともに理解して、難しいとは思うが、適材適所で活躍し、利用活用してほしい。
 たとえば、先に述べた、選挙での勝利疑いなしのサイトやブログを作って運営しそれで成功をおさめることができるのは、かなり限られた人材になるだろう。一方で、初心者にパソコンの知識を伝授したり、それなりのケアをすることは、もっと簡単にできるだろう。試行錯誤をくり返し、失敗を重ねてもいいから、さまざまな方法を考えて、情報交換もして行ってほしい。

もうひとつ。いわゆる民主的な団体や政党に関わって、協力や活動をしていると、その活動のほぼすべてが、無償のボランティアで成り立っているのを実感する。選挙その他の電話かけで、個人宅の電話を一日ぶっ通しに使用したり、著名な学者や文化人に講演料や原稿料をまったく払わないのなどは珍しくもない。(だからこそネトウヨの人たちが、二言目には「金をもらって動員されているんだろ」などと悪口を言ってくるのが、最初はいったい何のことだか、私はまったく理解できなかった。笑)私が代表をしていた「むなかた九条の会」では、一応わずかな講演料をさしあげていたが、受け取って下さる方もいたが、固辞されて結果として無償になることもあった。

それはそれでまったくいいのだが、これから若い人たちに、パソコン関係で協力してもらう時には、私はボランティアではなく、きちんと報酬を払うことを民主的な団体や組織の方には心がけてほしいと願う。何しろ従来の活動が、ボランティアだか滅私奉公だか、ただ働きの感覚に慣れているので、つい協力者や支持者には、甘えてしまい、有能な人に対してほど「あんたなら簡単にちゃちゃっとできるだろ」みたいな依頼をくり返してしまう。しばしばネットで、そうやって頼られすぎてぶち切れているような、パソコンに有能な人の書き込みを見たりもした。
 特に、今の若者は貧しい。とか言ったら差別と怒られるだろうか(笑)。当然のようにボランティアとしての協力を求めるのは、絶対にやめるべきだ。ちゃんとした仕事として契約することを基本にし、それが無理なら相手の苦にならないように、充分な配慮をするべきだ。便利で手軽な存在として使い倒すようなことは絶対に避けなければならない。自分にとって難しいことを、楽しげに簡単にやってのけるからと言って、相手にとってそれが負担にならないと思い込むのは、たがいにとって決してよい結果を生まないだろう。献身的に無欲無償で活動するのは尊いが、それは一般社会や若い人の常識や感覚とはかけはなれていることを、組織や団体の中の人たちは、重々承知しておくべきだと思う。

最初に書いたように、戦後社会が育てて来た若い世代が、平和や民主主義を支持する活動に加わり、流れが生まれて来たことは、ここまで述べて来た通り、私を力づけ、限りない安らぎと大きな期待とを生んだ。しかし一方で、同じ時代と社会が生んだ、あさましく愚かな思考の数々は、現政権を中心に、凶暴化と幼児化を急激に進行させながら、あなどれない勢いで成長拡散しつつある。決して油断も楽観もできない。
 それでも私は希望を捨てない。

この書き込みのタイトルの「虹と光と」は、私が子どものころに書いた小説のタイトルである。オリンピックを舞台にしたミーハーそのもののお話で、手書きの原稿は今どこに行ったか見つからない。自分で書いておいて筋もあらかた忘れた(笑)。ただ、覚えているのはラストに近く、登場人物の二人が競技場を見下ろす丘の上で会話する場面だ。対立する国々がつかの間の友情を結び、世界が平和になるかもしれない気がしても、それはしょせん、つかの間の虹に似た幻想に過ぎないと嘆く一人に、もう一人が言う、虹は光がないと生まれない。虹が見えるのは光が存在するからなのだと。

幻や夢が生まれるのは、それを作り出す現実が確実に存在するという証明でもあるのだと。
                           (2026.6,28.)

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