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誘惑に負けた

お客さんが見えるのに、もう絶対片づけが追っつかず、ごみの中でお迎えするしかないとあきらめていたのだが、なぜかどうしてか変にやる気が出てしまい、結局そこそこ家を片づけた。というか、上の家が玄関まで足の踏み場がないぐらい、下の家の荷物を運び上げて、何とか下の家を見られるようにした。おほほ。何つったって、掃除機をかけられるほど、床が見えて来たのが、もう何だか超うれしい。

上の家がどうなるかが、ひじょーに問題ではあるが、まあ何とかなるだろう。ベッドの布団もなかば冬用に入れ替え、山と積み上げていた洋服も、どうやら秋冬物と入れ替えられそうな気配。とにかくこうして、少しずつ、整理して行くしかない。ふっ、今夜は久しぶりに味噌汁でも作るか。

お客さんが見えると、こうやって何とか家が片づいて快適になるのがうれしい。その点では来客は大いに歓迎なのだが、やはり体調やペースや老後の計画とにらみあわせながらお引き受けしなくてはならないのが難しい。

まだ若い時、中世文学の大家の島津忠夫先生が、「お客が見えると、近くの喫茶店で会うことにしているんだ」と何だか楽しそうに話しておられた。その時は何も考えずに、うかがっていた。でも最近、友人の知り合いの老夫婦が、お客を家に迎えるのが負担になって、近くの店でお会いすることにしているという話を聞いたりすると、一人暮らしでもご夫婦でも、自分の家に人を入らせるのが、相当覚悟や準備がいるのだなということが、あらためて実感できる。

私は何であれ、人とちがった生き方をして来たから、自分の状況を他人に敷衍する気はもともとまったくないのだが、その私の友人も立派な家に住みながら、エアコンやテレビの修理でも他人を入れるのがいやだと言って悶々としているし、好き勝手なマイペースで生きてる老人にとって、いや、老人でなくたって、自宅に人を来させるのって、そこそこ重荷になることもあるってことは、それなりにどれだけわかってもらえてるのかなと思う。

他人が家に来るってことは、ふだんはしない、トイレやキッチンの掃除も他人の目でチェックしつつしないといけない。お茶を出すカップやコップもぴかぴかかどうか気になってくる。私のように体調がいまいちの老人だと、風呂に入っても食事をしても、その後一時間ぐらいはだらっとしていないときつい時もある。買い出しにも行かなきゃならない。普段の気楽な生活にプラスアルファで、時間がいくらあっても足りない。

思えば私の恩師の先生方の世代は、しょっちゅう学生を家に招いてごちそうしていたし、正月の年始のあいさつに皆が来ないとごきげんをそこねる先生もいたと聞いたことがある。すごいエネルギーとパワーだと舌を巻くしかないが、あれはやはり奥さまやお手伝いさんがおられたからだろうか。しかし、今でも学生を招いてごちそうする若い先生もいるから、そういうこととも関係ないかもしれない。

だから、ほんとに、こういうことは人さまざまで、いちがいには言えない。いや私自身にしてからが、教え子でもその他でも、お客が来ると、それなりにうれしいし楽しい。ただ、上に述べたようなことを、よくわかって、気を使ってくれる人と、まったく気にしないでいる人というのは、やっぱりわかるので、後者の場合はそれなりに、こちらも用心深くなる。どうかすると、そういう人に限って(全部じゃないよ)、思ったほどこちらが元気でなかったり家が荒れていたりすると、「もう、あの楽しい世界は消えた。時は流れる」みたいな勝手な感傷にひたりかねないと思うから、なおさらだ。

思えば、昔の私の田舎の家でも、いくらかそれと似たことがあったなあ。私が子どものころは、そこはご近所や子どもたちの集まる楽しい場所だった。でも祖父母も亡くなり母も老い、経済的に大々的な援助をしてくれていた叔母もいなくなったあと、わずかな給料と多忙の中、必死で何とかその古い家を維持していた私に、また昔と同じような楽園を期待する友人もいて、しかもえげつなーいことを言ってしまえば、そのために金を出すとか草をむしるとか、そういうことはまったくしないでいいと思っているようなのには、さすがに相手になれなかった。庭木の剪定だけでも、年に二十万からかかっていたのですよ。そうやって必死で何とか家を荒れさせないでいる私に、昔ながらの楽しい場所を保障してほしいと思われたって、わが家はどこぞの風致地区か世界遺産かい、しかも何の援助もどこからもいただけない、と、つくづく思ったもんでした。

場所にしても家にしても個人にしてもそうだけど、私は昔の楽しい思い出が、自分は何の努力もしないのに、そこが永遠に保存され、変化しないと思ってるのなんか、甘ったれるのもいいかげんにしろと言いたいのよね。田舎の老親とかかつての友人とか、愕然とするほど変わっていたら、むしろ当然と受け入れてほしい。変わらない楽園なんかないことを、胸に刻んで生きとけっちゅうの。そして、そうやって変化したかつての楽園を、人でも場所でも、ちゃんと自分で受け入れて受けとめて、生きてってほしい。おかしな感傷にひたったりしないでさ。

まあ、とにかく、そんな風で今日は大変楽しかった。買いすぎちゃってだぶついていた、干支用の龍の置物も、それぞれ、いろんなお客さんにもらっていただいた。例の金ピカ龍さんも、ちゃんと好きな方がいて下さって、めでたくもらわれて行った。今日、引き取られて行ったのは、下の写真の左側にいる、つつましい京都生まれのかわいいやつ。それぞれ、ふさわしい方にかわいがっていただけそうで、これもまた超うれしい。

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カツジ猫