謎だわさ。
◇今日は何だか涼しくて、またエアコンを入れずに過ごしている。このまま秋に向かうといいが、そうは問屋が下ろさないかな。
◇それにしても、大した用事もないはずなのに、なぜ一日がこうも戦場めくのだろうか。今日だって、たかが猫のかんづめのなくなりかけたのを買いに出かけただけのはずが、あれこれ用事をすませていたら、もはや夕方、そして夜。仕事はまったく進まないし、あせるなんてもんじゃないなあ。
◇先日亡くなった橋本忍さんが、大正七年生まれで母と同い年だったのを発見。母も生きてたら今ごろ百歳だったってことか。
母の遺骨は田舎のお墓に入れたのだが、地元の日本共産党の人から、東京の青山にある解放無名戦士の墓に名前を入れた銅板を納めて合葬してもいいかと聞かれた。母はたしか、一度そこに行って「あそこはいいよ。私も死んだらあそこに入りたい」と言っていた。そのくせ田舎の墓を私と改修したときは、親族の誰それは入れてやるとかやらないとか言って私とけんかしたぐらい、自分は入る気まんまんだったから、どうなってるのかわからないが、どっちみち私が死ねば田舎の墓も無縁仏みたいになるに決まっているし、青山に合葬してもらう方が長くお参りしてもらえるだろうさと思ったから、二つ返事で承知した。そうしたら、「解放のいしずえ」という、式次第や名簿や写真を収めた立派な冊子が送られて来た。さっそく位牌の前に供えてやった。
銅盤32枚に、今年合葬された1073人の名が刻まれている。冊子には各自の活動歴などもある。大分県は七人だった。母は新婦人の会長や、共産党の支部長や後援会長を歴任したとある。
母が入党したのは、私が就職した後だったと思うし、もうかなり年を取ってからだった。そして「私は年とってからだから、世間のこともわかるけど、若いときからの党員の人はまじめすぎて、世の中を知らない」などと、しばしばうそぶいていて、けっこう距離を保って批判的でもあった。
だのに、そんな役職をほいほい引き受けていたのは、それもかねがね、「もし共産党が弾圧されるような時代が来たら、若い人が死刑になったり牢屋に入ったりしたら、せっかくの貴重な人材がもったいないからね、私のような何もできない年寄りが、殺されたり捕まったりした方が無駄にならないのさ」と、妙に合理的なことを言っていたのを実践したのだろう。
◇そんなことを思い出して、つい笑いながら冊子を見ていた。名簿の中には五十代や六十代のわりと若い人もいるが、ほとんどが八十代や九十代、中には百歳を超える人もいて、それも少しほっとした。
式のときに歌われた歌の歌詞も載っていて、その中の「同志は倒れぬ」という歌の二番だけを、なぜか私は全部知っていた。
冷たき石の牢獄に 生ける日君はとらわれ
恐れず君は白刃の 嵐をつきて進みぬ
プロレタリアの旗のため
プロレタリアの旗のため
重き鎖をひびかせて
同志は今や去りゆきぬ
というもので、ああ、母も含めて、今年合葬された人たちは、これを思えば平和の中に死んだのだなと思ったり、まあそれも、この方々が自分たちで築いて守った平和だよなと思ったりしたが、問題は、なぜ私がこの歌を、これだけ完全に、それも二番だけを暗記していて、歌えるのか、それがさっぱりわからない。
小説などで見たのなら、メロディーを知らないから歌えない。学生運動してる間も、こんな歌を歌う機会はなかったし、何かでちゃんと習ったら、なぜ二番だけなのだ?
映画かドラマか、何かはまった作品で覚えたのかと思っても、それが全然記憶にない。私はもともと、悪魔のようにこういうことは覚えていて、友人たちから気味悪がられるほどだったのだが、いくら年とって認知症になりかけと言っても、これはよっぽど印象的で特殊な状況のはずなのに、まったく思い出せないとは、いったいどうしたことだろう。
◇気になるだけに、ここ数日、思い出しては口ずさんでしまう。だいたい、どうかしたはずみに、思い出した、特に好きでもない古い歌を、ずっとくりかえし歌ってしまうのは私の癖で、しばらく前には由紀さおりの「あなたがー、運転手にー、道をー、教えーはじめたからー」、その前は麻生よう子の「あの人から言われたのよー、午前五時に駅で待てとー」ばかり、歌っていた。
で、今は牢獄だの白刃だのとハミングしながら、洗濯物を干している。我ながら、どうかと思うよ。