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連続と合体。

◇昨日、取りに行き忘れてたクリーニングをやっと取りに行って、車に積んで帰ろうとしたら、店先のコンクリートの天井に泥のかたまりがくっついていて、中から黒い頭と黄色いくちばしが。
「ツバメがいるのー?」と思わずお店の人に声をかけたら、「そうなんですよ」だって。

去年も書いたような気がしますが、ヒナの黄色いくちばしって、かわいいけど、ほんっとに何だか生意気そうですね(笑)。「くちばしの黄色いやつが」と、若者をののしる時に使うことばって、いやーもう、素晴らしく実感がありますよ、あの顔見ると。
でも、ヒナだけあれだってことは、親がエサを運んできて、口に入れてやる時の目印なんだろうか、やっぱり。

http://bogi88.blog108.fc2.com/blog-entry-1317.html

これは私が見たのじゃなくて、ネットから拾って来た画像です。
クチ開けてるのは、目立つけど、そうでもないんだよね。閉じてるときのが、なぜかむっちゃ生意気そうに見える。

◇疲れていたのか、昨日は夕方まで寝てしまい、これではいかんと、日暮れから一念発起の大掃除をして、ベッドのシーツやカバーまで一気に夏仕様に変えました。
机の回りに積っていた、書類やその他の紙類を運び出したのが、まだ整理が終わってなくて、今日中に何とかしなくては。

冷蔵庫の中身もさらえて、古いお砂糖を片づけようと、どばどば入れてすきやき風の肉と玉ねぎの煮込みを作ったけど、糖尿病になるんじゃなかろかと、ちと心配。古いリンゴも砂糖煮にしたし。ぼちぼち食べよう。

◇中途半端な片づけに終わったのと、最近いかに専門の勉強をしていないかをあらためて感じて、超暗い気持ちになり、いらついたのか、夜なかなか眠れなくて(まあ昼寝しすぎたせいもある)、しょうがないから、片づけた本の中からフランス文学者の井上究一郎の古い文庫本「ガリマールの家」を読み出しました。

この本ずっと前に買って、多分母がまだ元気で田舎の家にいたころではないかな、母のいたその家の玄関わきの小さい部屋を、居心地よくして、ゆったりと読書しようとしてた時期、フランスの田舎の文学者の家の記憶、とかいう内容だし、いかにもそこで読むのにふさわしいと読みはじめたんですが、これがなかなか歯ごたえがあり、まるでちゃらちゃらしてなくて、論文のように書名や人名が目白押し、悪くはないけど、すごすぎて何度も何度も挫折して結局読み上げないまま、家を片づけて引き上げるとき、荷物につめて、こっちに持って来ていたのです。

眠れぬ夜にはちょうどいい、きっと寝るわと思って読みはじめたら、これがなかなか悪くない。何よりかにより、あの田舎の小さい部屋で読みかけた記憶がしっかり体感として残っていて、あの部屋の空気や近くの川の水音、廊下の向こうの部屋にいる母の気配まで、ひたひたとよみがえって来るようで。
それをこの、今のこれはまたこれで居心地のいい家のベッドで読み続けられるなんて何というぜいたく、幸福、とうっとりしながら読み進めると、どんどん内容は重量級にすごくなり、当代や過去の有名無名の名士やゆかりある場所がぞくぞくと、それも筆者の日常の中で登場しつづける。ああ、文化とは歴史とは教養とは研究とはこういうものであるよなあ、と、昔学生時代に学生運動してたころ、加藤周一の「羊の歌」を読んだときにも似ためまいのような陶酔。ふだんポテトチップしかかじってなかったのが、いきなり高級和食かフランス料理のフルコースを味わってるような昂揚感。

しかしまあ、いったいこれを、今の自分の生活にどう活かせばいいのかと思うと、またどよーんとして落ちこみそうだから、それには目をつぶって、楽しみつづける。
さしあたり、「失われた時を求めて」と「チボー家の人々」と、ジイドとコレットを読み返したくなり、ずっと放っておいた読みさしのカミュの伝記も読みたくなり、ウッディ・アレンの何とかいうパリの映画をまた見たくなり、これは家についての本であるとともに旅についての本でもあると思うと専門の紀行も勉強したくなり、要するに自分の勉強と読書以外はもう何もしたくなくなり、ほんとにもうどうしよう(笑)。あ、そうだ、自分の小説も書きたくなっちゃったから、本当にもうおしまいよね。

そしてまた、パリの暮らしや風景も軽やかに普通に、しかも重厚に伝わってくる。花を大事に飾るけど、どこにもちゃらちゃら飾らない、「潔癖さ」とか、お店で一人での食事を楽しむ人の気づかいやルールとか、もう背筋がぞくぞくするほど、しびれる、泣ける…いやこういう仰々しい表現こそ、この本を読むと唾棄されるべきものに見えてくるんだけど、知らんわい、私は私だ。

それなりに素晴らしい業績を残していても、一流の作家や芸術家でも晩年は孤独だったり、自殺したり、それが特に不幸でも悲惨でもないくらい、ありふれている。そういう人が普通にたくさんいるのが、逆に豊かにみえてくる。
あれこれ刺激を受けつづけ、堪能してたら、まだ本の厚さが三分の二ぐらいのとこで、いきなり終わって「解説」になっちゃった。まあ本文も解説みたいな内容ではあったんだけど、さあこれからどうしよう。

この思い出と現在の、連続と合体が、そのまま未来につながるといいんだけどなあ。

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カツジ猫