避難ママたちの一年
◎25日(日曜)の午後、福岡県宗像市の赤間西コミュニティセンターで行われた「避難ママたちの一年」という報告会に行ってきました。
参加者は40人以上いたようですが、もっとたくさんの人に聞いてもらいたい内容でした。
話してくれた三人の若いお母さんは、皆福島の人ではありません。郡山とか東京とかから避難してきておられます。だから、勝手に避難したということになるのか、どんな公的な支援も援助もありません。
前からチェルノブイリのことなどに関心があった人もいれば、原発のことなど何も考えていなかった人もいます。九州に親戚がいてそこに身をよせた人も、四国や中国などいろいろ避難先をさがして福岡に決めた人もいます。要するにたった三人の中でも、事情や状況はまったくばらばらです。もちろん、知り合いでもなかった人たちです。
あの震災とそれに続く原発事故の中で、未曾有の事態に対して、そういうお母さんたちが、自分なりに必死に情報を集め、大変な選択をして故郷や職場や家を離れ、夫や家族とも離れて、子どもといっしょに少しでも安全なところに行く決断をした、その精神的負担は想像するだけでもこちらが苦しくなるほどでした。
いろいろあるのですが、私が一番痛切に「ああ、やっぱり」とか「それは知らなかった、今日聞いてよかった」と思ったことは二つあります。
ひとつは、東京や東日本や要するに放射能の危険のある現地では、避難するとかこれからどうしようとか、そういうことは周囲や家族と、「とても話せない」ということでした。考え方のちがいや事情のちがいが深刻になるから、おたがいそういうことは決して口に出せないというのです。
なるほどそれはそうだろう、とわかる一方で、何ともかともやりきれない口惜しさや怒りがこみあげてきます。
もうひとつは、原発の事故の直後、とにかく東京を離れようと、子どもを連れて関西や西日本に移動し、(京都のホテルに一週間ほど滞在した人もいます)新幹線に乗ったり、ホテルに泊まったりしていると、明らかに自分たちと同じような母子を何組も見かけたのだそうです。でもおたがいに声をかけられず、どこかで何かの折にこそっと打ち明け合うという状況だったそうです。
私もあの時期、テレビや政府の報道は使い物にならなかったから、せいぜいネットで、情報をさがしていたのですが、そんなに多くの母親が(もちろん父親もいたでしょう)子どもを連れて逃げ出していたことは知りませんでした。パニックを恐れて、報道機関も報道をひかえたのでしょう。その対処は正しかったかもしれません。そんなに多くの親たちが逃げ出しているとわかったら、いろいろと収拾つかない状態も起こったのかもしれないから。
でも、あの時期、絆とか何とかで日本中が盛り上がっていたとき、私でさえ、こういう雰囲気はそう捨てたもんじゃないかもしれないと思っていたとき、東日本のお母さんたちは、すべての人たちは、何という孤独な戦いをしていたのだろうと思います。すべてが個人にまかされて、その人たちは悩みと不安と、しかも残してきた人たちへの罪悪感や責任感にもさいなまれていた。
そういうことを、この国や、西日本や、私たちは、皆、現地の個人に押しつけて放りだしていた。あらためて、私は自分が許せません。
まるで、わざとのように、すべての人が孤立させられ、分断させられ、対立させられています。本当に、これを何とかしなければ。
福岡に避難したお母さんたちは「ママは原発いりません」という組織を作りました。下のブログで、その活動や発言をごらんになって下さい。