陰徳と隠匿
(長いのもややこしいのもわかっていますが、読んで下さい。できれば拡散して下さい。今の私にできることは、このくらいしかないものですから。)
儒教に「陰徳」ということばがある。自分がした、している「よいこと」を隠して徳を積むことで、貝原益軒が、地方の立派な人について、こういうことばで礼賛している。
砂粒ほどの長所や功績でも針小棒大にアピールすることが推奨される現代には、まったく流行らない精神だろう。でも、同様の考えはキリスト教にも仏教にも、おそらく他の宗教にも何らかのかたちではあることが多い。統一教会とかカルト集団は知らんけど。
これは、広く考えれば、自分を世間や周囲から、実際より高く評価されるか低く評価されるかどっちを好むか選ぶかという問題にもつながる。そんなの前者に決まってるだろと言われるかもしれないが、これもなかなかそうでもなくて、授業でときどき学生に、どっちがいいかとアンケートをとると、「高く評価される方が、背伸びしてがんばる分成長するし励みになっていい」という人と、「低く評価される方が、気が楽だし、無理をしないでいいから幸せ」という人が、年度にも性別にも関係なく、混在する。
そして文学には古今東西を問わず、「実際よりも低く見られる」最も深刻な例としての、「ぬれぎぬ」や「冤罪」の設定が頻出し、特に江戸時代の文学にはこの設定はオンパレードだ。「実際より低く見られ、誤解されている存在」の魅力に、人々がどんなに共感し陶酔するかは、ちょっと想像できないぐらいだ。特に演劇に著しい。これについては、「ぬれぎぬと文学」というテキストも作っているので、よければそっちも読んでほしい。
あんまり見たくもなかったけど、高市首相の解散会見のニュースをちらちら見た。私が我ながら一番いけないと思うのは、この人も元アベ首相も私はとことん嫌いだし、どこをとっても評価するところが見つけられないのだが(高市さんについては死に物狂いで探したら、毎日何かものを食うニュースしか見なかった気がする岸田首相とちがって、ものを食う場面を見ることがないのは、いろんな理由があるのかもしれないが、ちょっとはましとは思うぐらいか。しかし、それを補って余りある、ろくでもない点が多すぎるからなあ)、ぶっちゃけ、どちらもあまりにバカ過ぎて空っぽすぎるから、真剣に憎んだり恐れたりする前に、そぞろ哀れを催して、何だかまともに相手にする気がしないことだ。
これが危険な考え方すぎるのはわかっているが、それでも、「これだけ何も考えても感じてもいないんだから、カルト集団や他国の指導者からしたら、イチコロだろうなあ。これだけすっからかんなのは、きっといい人ではあるんだろうなあ」と、ことあるごとに感じてしまう。これが家族で離れに住んでるとか、近所で暮らしている分にはまったく問題ないのだが、こっちの生殺与奪の権をしっかり握ってる強大な権力者だと思うと、この感覚は非常にまずい。
ヤマザキマリの「プリニウス」が克明に描くように、ローマの皇帝暴君ネロは、後世のキリスト教の人々などから、多分過度に暴君扱いされていて、それこそ「ぬれぎぬ」を着せられてる面も多いだろう。ただ、そのネロの人柄の芸術家っぽい情けなさを徹底的に描き尽くしたシェンキヴィッチのノーベル賞も取った大作「クオ・ヴァディス」のネロは、もちろん虚構もまじえてだが、非常にキャラが立っていて魅力的でもある。その彼をとことんバカにしている、これはまた芸術家としても政治家としても哲学者としても戦士としても超一流の元老院議員ペトロニウス(この人も実在した人)がこれまた最高にカッコいい。開高健が昔あこがれたって言ってなかったっけ。
どんな点でもペトロニウスにはまるで及ばない私だし、それを言うならネロだってアベ氏や高市さんなどとは比べ物にならない教養や思想を持ってはいるが(「クオ・ヴァディス」仕様ね、あくまでも)、ペトロニウスのネロへの哀れみや嫌悪感って、今の私みたいなものだったのかと、ふと思う。くりかえすが、あまりにもすべてが情けなさ過ぎて、凶暴で危険なのに、それが見えない。
今回の解散だって会見だって、「自分が総理でいいかどうか国民に決めていただく」なんて、唖然とするほどただの泣き言、世迷い言だ。支持されるかどうかは、国会での論戦や、現実の施策などで、国民に問う中でしか評価は定まらない。普通に能力があるのなら、敵や反対勢力との討論や対立の中で、原案を磨き、自分では気づかなかった視点を取り込み、よりよいものに切磋琢磨してしあげて行くのが普通だろ。一般企業でも自治体でも町内会でもクラスでも。
その能力がないからって、「何もできませんから、もっと何でもできる力を下さい」って、力のない者が何を甘えて、恥ずかしいこと告白してんだよ。まあでも、この人、これまで見てても、これしか武器がないんだろうな、せいいっぱい考えてこれなんだろうな。べたべた甘えてくっついて、変にプライバシーを売り物にして、愛想笑いとスカスカの内容を歯切れよくしゃべって、支離滅裂のその場しのぎで、アピールするしか、手札がないんだろうし、今さら身につけるヒマもないんだろうな。それがつくづくわかるから、同情しかしたくなくなるんだけど、そこが甘いのだな私は。やっぱりどっか傲慢なんだろうよ。と、反省してる場合じゃないが。
あ、陰徳の話だっけ。
とにかく、この人、アベ氏もそうだったが、報道規制、マスコミ統制を全力で、おそらくは金と権力の限りをつくして行っていて、一番これまでやってきたこと、やらなかったことでめだつ、
統一教会とのけっこう深い関係
裏金議員など政治と金への対処
戦争推進への無警戒・鈍感さ(この人自身の内部がですよ、多分)
物価対策・米対策その他への無策
などなどが、ちっとも話題にならないから、そりゃ焦点も理由も大義も評価基準も持ちようがないでしょ。いくら決めて下さいとか言われても。
それでも、はっきり目に見えるのは、さしあたりが裏金議員の復権で、これだけでも、今まで何もしなかったどころか、後退りしかしてないことが、ミエミエの明らかなんですが、普通これだけ表向きに無能や無力の証明をあらわにしたら、ひょっとしたら、これだけひどい表面だから、裏側では隠れたよいことをしてるのかもしれない、とか、ちょっと思ったりするじゃないですか。私だけかな。
あんまり外見がひどすぎるから、内部や裏面は、もうちょっとましかもしれない、とかさ。
それで、ちょっとめくって見たら、どーん!と出てくるのが、「統一教会とのずぶずぶ」なんですよ。負けるわ、さすがに。
陰徳どころか。表面がひどいから背後を見たら、さらにとんでもない巨大な隠匿が明らかになる。
表もひどいけど、裏もひどい。隠しているものを隠すにも、隠さなきゃいけないものしかかぶせるものが残っていない。こんなズタボロのひどい政権、見たことないです。
ひどすぎるから、そのあまりのズタボロさに、つい「ここまで何もないんか。ここまですっからかんなのか」と、怒る気力も失せる。どうしよう。
ペトロニウスは、ネロのアホさと空っぽさを知り抜いていたからこそ、戦うことをしませんでした。彼はその報いを受けました。良心的で優れた周囲の学者や文化人たちが次々に粛清され、あげくは、無辜のキリスト教徒たちが酸鼻をきわめた公開処刑で大量に殺されるのを目の前で見せられました。
彼の強靭な神経と冷徹な知性は、それらによって崩れたり傷つくことはなかったけれど、結局は彼自身も最後は皇帝の命によって死を選ぶしかありませんでした。
愚かな者との泥臭い対決を避け、自らの世界を守った自分の生涯を彼は露ほども後悔してはいないでしょうが、私にはその力があるのでしょうか。
