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難しいなあ。

◇昨日、いずれゆっくり感じたことを、などと予告めいたことを書いたけど、もし本当に湯川さんが殺されているのだったら、今は何をどう書いても彼に対する冒涜になりそうな気がするのですよね。

もう少し書き方を考えて見ます。せめてもう一日待ちます。

◇で、関係あるようなないような、ものすごく昔からのことを思い出しながら考えていることを書きます。

私がこの30年ぐらいの間に、というか、多分大人になってから今までの間に、というのはつまり多分、生まれてから今までの間に、本当にものすごく孤立して孤独になって、それも自分がそれで淋しいとか危険とかいうことだけじゃなくて、このままではきっと誰もが不幸になる世界が近日中に訪れるにちがいない、という予感におびえて、熱いトタン屋根の上の猫みたいに半狂乱になったことが、二度あります。

◇一度目は、昭和天皇が亡くなった時です。天皇その人に対する評価や好悪については話が長くなるしややこしくなるから省きます。ただ、その時期ずっと、誰が決めたというのでもなく、国内がすべて自粛と称して繁華街からは音楽も消え、華やかな色彩も消え、命じられたわけでもないのに誰もが地味な服装をして、毒舌家も評論家も誰も彼も天皇について悪口も冗談もまったく言わなかった。
どう考えても異常でした。私はあの時、どんな辛口の評論家も反体制ぶってる芸術家も世の中の流れには絶対に抵抗しないのだなと骨身にしみて知りました。自分の周囲の友人知人に「おかしくない?変じゃない?」と問いかけても、誰も共感しませんでした。大げさに言えば、あの時以来私は誰も信じていない。世の中がある方向に動き出したら、それが右翼であれ左翼であれオウム真理教であれ、皆が流されて抵抗しないし疑問も持たないのだということを、この目で、耳で、知りました。

私自身は(見た目は普通ににこにこしていましたが)なかば狂気のようになって、真っ赤なコートと、ショッキングピンクのスーツと、金色の靴を買って、毎日それを着て、静まり返って音もない繁華街を歩き回りました。後輩や同僚の何人かからは真顔で「撃たれますよ」と言われました。それが冗談ではすまないような雰囲気が実際、周囲にありました。
非常勤先の300人ぐらいの男子学生が相手の文学の授業では、天皇や戦争に関して毎回語りました。そうしたら毎回出させる無記名のレポートで「天誅を加える」と書いて来た学生がいました。「誅」の字がまちがっていましたけどね。そして授業中に使っていたマイクの部品が盗られました。そういう脅迫を受け被害にあうことで、やっと私は落ち着いていられたのだと思います。

◇それでかなり免疫はできていたつもりだったのですが、9.11.のテロ事件の時に、また同じような恐怖と孤独を私は味わいました。私の周囲の人々、ネットで知り合った人たちが、この事件で受けたショックの大きさは私を唖然とさせるほど、私とは温度差がありました。

その少し前に、湾岸戦争がはじまっていました。中東諸国へのアメリカの爆撃が続き、テレビの映像では花火のような空爆の画面が流され、軍事評論家がスポーツ解説者のようにその攻撃を批評していました。その爆弾の下にいる人たちについての言及や想像は、何ひとつありませんでした。

悲しいかな私自身が、中東についてはまったく無知でした。欧米の戦争に関してなら想像できるし、映画や小説で知っている架空の世界でも、親しい人たちがいました。中東についてはそういう架空の物語世界での知り合いもいなかった。そこに住む人たちの生活も姿も、まるで想像できなかった。
それでも想像できたのは、確実にそこに人が住み、動物がいて、命があるということでした。

なのに、それが具体的に見えない。そこで死に、傷つく人たちの声がいっさい聞こえて来ない。私は書店で本を探し新聞や週刊誌を読み漁りましたが、本当に全然、それがわかる資料がありませんでした。
顔も、姿も、見えない人たち。それでも、あの爆撃の下で確実に死んで行っている人たち。その聞こえない声に耳をすまし続け、その見えない顔に目をこらし続けて、私はいらだち、苦しんでいました。

あの、9.11.のテロのあと、アメリカ国内の衝撃と怒りの大きさもさることながら、日本の、私の周囲の人たちが自分のことのように悲しみ怒り恐怖しているのを、私は奇怪な動物を見るような目で見ていたと思います。
この間ずっと、あのアメリカ軍の爆撃の砲火の下にいた中東の人たちに対して、関心もなく同情もせず知ろうとさえもしなかった人たちと、これは同じ人間なのかと。その心理も、感覚も、私はまったく共有できなかった。

今でも思い出します。あのテロのあった翌年の正月に、母と叔母夫婦と私はホテルで年越しをしました。豪華で楽しい正月でした。でも元日の朝だったか、母と叔母といっしょの部屋で見たテレビのニュースで、あのテロでショックを受けたアメリカの子どもたちを精神的にサポートする教室の様子が紹介されていて、こんなに細やかな配慮をしてもらえる子どもたちがいる一方で、今もなお、実際に肉体を空爆で引き裂かれて死んで行く中東の子どもたちのことは、かけらも報道されないことに、胸が悪くなりました。
思えばその年の春に、叔父は急に体調を崩して亡くなりました。その正月のホテルでの日々、叔父は本当に楽しそうでした。叔母や母とも三人いっしょに私が過ごした最後の思い出です。でも私は、そのテレビ番組への怒りから最上の笑顔や会話を彼らに見せることが、多分できませんでした。今思い出しても、後悔があります。それと同時にあらためて、あの時の怒りを思い出します。

◇アメリカはその後、テロへの憎悪、中東への憎悪がうずまいて、それに全面的な共感をしない国への敵意も高まり、フランスへの反感からフランスワインが割られたりしました。しかし、私がこれまで何度も「ああ、アメリカはさすがに強い。本当に強い」と感動したように、アメリカは当のテロの犠牲者の遺族たちの中からさえ、中東の人々への連帯や融和を模索する動きが生まれ、テロリストを怪物ではなく人間として描く映画も数年もたたぬうちに作られるようになりました。そして、日本でも次第に中東の国々を題材にした報道や文学が書かれるようになり、最近の戦争では、湾岸戦争のころとは比較にならぬほど、爆撃の下にいる普通の人々や子どもたちの声や姿は私たちの目や耳に届きます。

◇実は私は今回のフランスのテロ事件で、大きな怒りの波が起こったとき、もしかしたら、これはまた私が孤独を感じさせられる

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カツジ猫