頭の中も頭の外も
何かいろいろあって、血圧が200ぐらいになってるような気がものすごくするんだけど、血圧計で測って見たらその結果を目にしてもっと血圧が上がりそうな気がするから、このままにしておこう。脳梗塞でもやらかして、今晩死んでしまったら、まあそれまでの命ってことであきらめるしかない。
今日、思い立って田舎に帰り、墓参りと近くの神社に遅すぎる初詣に行って来た。日が長くなったので、いつまでも明るくて助かった。まあこれで何とか正月のノルマをひと月遅れですませたのだが、また次の仕事が目の前にせまっている。それも本来の仕事とはおよそ無関係なことだから、いやになる。
気持ちを整理するために、今から多分誰にも意味のわからないことをしばらく書くと思うけど、お許しを。
私の生き方や研究のしかたというのは、自分でもわかってるけど、ちょっと独特で、多分誰にも真似ができない。だからって高級なわけじゃないが、要するに、長の年月かけて生み出した、私だけの、独特なものだ。
それは、一口に言うと、他の人なら絶対に結びつけないものを結びつけ、あり得ない取り合わせで、ものを作り出すということだ。研究でも、作品でも、断捨離でも、とにかくもう、生き方すべてがそうだ。
誰にも真似はできないだろう。多分伝授もできないだろう。私が死ねばきっと消える。私にせいぜい、できることは、そうやって作った、誰にもできない作品をできるだけたくさん残しておくことだけだ。
それはすごく危険な仕事で、そして微妙で、こわれやすい。堅実な、安定した作業ではない。出来上がるまでは誰にもどうなるかわからない。最終的な全体像は、私の頭の中だけにある。それは私の生き方全てとからみあう。そうやって私は何軒もの家を建て、母を介護し、叔母の遺産を処理し、土地を処分し、論文を書き、本を作り、教育と政治活動をして来た。
これをやるには、頭の中でも頭の外でも、私にしかまったく意味のわからない、さまざまなことを、持ちつづけていなくてはならない。何ひとつ捨てられないし、何の役にたつのか、誰にもわからないものを、保存し、維持して行かなくてはならない。紙切れ一枚なくなったら、もうすべてが崩壊して、二度とよみがえらないような仕事や人生を私は過ごしている。
私の人生の大半は、それができる環境を確保し、守ることに費やされた。結婚しなかったのも子どもを産まなかったのも、そのためだと言っても過言ではないほどに、私は、私にしか生み出せないものを作り出すために、すべてを保存しておけることがとにかくできる環境を、頭の中でも頭の外でも、ずっと、ずっと、すべてを犠牲にしてでも、それだけは何とか作りつづけ、守りつづけて来た。若いころから、むしろ幼いころからずっと。私の財産は、それしかないと言ってもいい。
それを今、修正しなければならない状況になっている。どこまで修正しなくてはならないかさえ、まだ見えない。未来の一部が突然見えなくなったような気がする。長生きしても、健康でも、することがなくなってしまったら、どうしたらいいのだ。
死にたい、とは思わない。
だが、生きて行く気力を、なくしそうだ。
自分の生き方が、見えなくなった。
作ろうとしていたものが、作れなくなったから。
こんな生き方をして来たのが、まちがっていたのかなあ。
そんなことさえも、考えてしまう。
とにかくもう、残ったものを、拾い集めよう。
そして、何ができるのかを見よう。
どんなに年を重ねても、いつも自分が十代のような気がしていた。自分で不思議なほどだった。
でも今は、もう死ぬすぐ前の老人のような気がしている。
もう「余生」それも、あまり長くない「余生」しかないような気がする。本当に、心の底から。
それでもいいやという気がしている。
もう、何がどうでもいいやという気がしている。
本当に、心の底から。