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鳥と豆、そして黄表紙

◎節分の豆を人からもらったので、帰宅後のもう夜中近くに一人で家の周囲を回って、ひそめた声で「鬼は~外、福は~内!」と唱えながら豆をまいて回るという、豆まきというより丑の刻参りのような、人が見たら無気味な厄払いをしました。
我が家の周囲は砂利とコンクリートの何もない庭で、それだけに散らかっていると目立ちます。で、ううむ、その内に豆をひろって回らないとな、と思いながらその夜は寝ました。

そのまま忙しくてほったらかしていたのですが、豆が散らかっている風もなく、ちょっとふしぎに思っていました。
ところがふと気がつくと、あまり見かけない大きめの鳥が、この数日そのへんをばさばさ飛んでいます。
どうやら、その鳥が豆を食ってくれたのらしい、と思いあたりました。今はもう来ないし。
何やら食物連鎖の一部分に加わったような快感。(笑)

◎ゆきうさぎさん

あの本(「墓守り娘」)二冊とも面白かったんですけどね、それにそもそも、知っている人も国民全体じゃきっと少ないだろう江戸文学の「黄表紙」を知っていただいていて、本に書いていただくだけでもありがたいと思わなくてはいけないのかもしれませんが。

ですが、正直「こんないいかげんな書き方で遊んでもらうぐらいなら、いっそ黙殺してもらった方がいいかもしれない」という気分もあります。
うるさいことを言いますが、現存する江戸時代の黄表紙は、あんな鮮やかな蛍光色じゃないし、大きさもあの半分か三分の二ぐらいの小さい瀟洒な本です。
そして中身は・・・

作者が「これは現代の黄表紙」のように思われたきっかけが、どうにも私にはわからない。もしかしたら、高校などでは、黄表紙はじめ江戸時代の戯作が「社会風刺、権力への抵抗」のように教えられることが多いので(これは今ではほぼ否定されている見解で、当時の作者にも読者にも、そんなたいそうな意識はまずありません)、こういう社会の現状を指摘する本はそれに通ずると感じられたのでしょうか。謎ですね。

じゅうばこさんに聞いたのですが、昔ピンクレディーがアメリカでテレビなどに出て、その時は二人で風呂桶に入るという変な映像で日本文化を大間違いした上に彼女たちにもたいがい失礼な企画だったらしい。「ふざけるな!」と怒る人も、「そういうことでも日本に関心を持つだけまし」と評価する人もいたらしい。まあ、「上を向いて歩こう」が「スキヤキ」ソングになるというのも、これと同列なんでしょう。

ですからまあ、目くじらたてるのも、それこそ黄表紙や戯作の精神から言ったらヤボなのかもしれませんが、「これは黄表紙、黄表紙」と、あそこまで連呼されると、私のような人間は、あの本自体が本来の黄表紙っぽく見えてきて、冗談、誇張、嘘、歪曲、が代名詞の黄表紙そのものに見えてくるのが、冗談抜きで非常に困ったことです。(笑)

そして、そう思えば、たしかに現代のある現象を的確にとらえ、あぶり出しているのは読んでいてある種の快感を感じますが、こんなに簡単に図式化し物語化していいのだろうか、そう言ったら作者は本当に心外でしょうが、実に軽いノリで書かれている本に思えてくる。深刻そうな表現をいろいろとまとっていても。

深刻な事実を見つめるには、この軽いノリとラフな図式化も有効なのは認めますが、垂直にも平面にも深まって行く道が見えないなあ、まったくと言っていいほど、この本からは。

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カツジ猫