映画「グラディエーター」小説編マルクス君の夏休み日記
目次
マルクス君の夏休み日記 ─皇帝マキシマス─
戦争よりも平和の方が苦しい時もある。
不幸よりも幸福の方が手ごわい敵になることがある。
これは、そういう話です。
もし、アウレリウスの望んだ通り、マキシマスが皇帝になったら、彼も他の人々も皆、幸せになったのでしょうか?
いいえ、きっと、ちがった悲しみや淋しさやつらさが、彼らを襲ったにちがいありません。
そして、映画の中で不幸と戦ったように、彼らは必死で幸福と戦ったはずです。決してあれほどカッコよくはなく、とてもこっけいに、でも同じように真剣に。
博多弁をしゃべるハーケンをはじめとした、登場人物たちのずっこけぶりに笑いながら、平和な時代を生きる荷の重さを、彼らとも、読者とも、ねぎらいあって、なぐさめあおうと、私はこれを書きました。
8月1日
皇帝の息子としても、次期皇帝の学友としても、本当に僕は思慮がなく軽率だったと反省している。でも、だからどうすれば良かったのかと考えて見てもわからない。
今朝、コモドゥス叔父さまが、郊外への遠乗りに連れて行って下さるというので、ルシアスさまと二人でお供した。「お供させていただくのは、俺の方なんだよなあ、考えてみるとさ」なんて、叔父さまは皮肉を言われたが、僕もルシアスさまも、慣れているから、そんなの全然、気にしなかった。父上はそうじゃない…叔父さまがこんな言い方をすると、いつもちょっと目を伏せてしまわれる。そうするとまた、叔父さまは目をきらきらさせて、うれしそうにされる。あの二人の関係って、ほんと、よくわからない。一度など、父上は、はっきりわかるため息をつかれて、「おまえは、よく平気だな、マルクス」と本当に感心したようにおっしゃった。何がですかと、おうかがいしたら、いいや、何でもないととぼけられたけれど、多分、それは僕やルシアスさまが、叔父さまがいろいろとひねくれたみたいな言い方をしても、ちっとも気にせず言い返したり、無視してしまったりすることに対して言われたんだろう。だって、そんなの、気にしてもしかたがないではないか。叔父さまは、ああいう方で、ああいう言い方が癖なんだから。
城壁の外は、畑の緑が青々としていて、風もとても気持ちがよかった。叔父さまは僕たちを何だか少し崩れた感じの、小さな村に連れて行って、そこの広場で行われている剣闘試合を見せてくれた。剣闘士たちが殺し合ってる時に、ニワトリが広場にまぎれこんで来て試合が一時中断される、かなりバカなところもあったけれど、叔父さまとルシアスさまはすっかり夢中で見入っておられ、あの剣士の腕がどうとか、筋肉がどうとか、話し合っていた。
そこまではよかったのだけど、その後、急に雨が降り出して、雨宿りといって叔父さまが連れ込んだ酒場が、何だかめちゃくちゃ怪しげなところで、密輸商人か山賊みたいな感じの男たちがあちこちにたむろしていて、とうとう、その中の一人と叔父さまが喧嘩を始めて、酒場にいた全員が、それに巻き込まれた。
叔父さまは大喜びで、大声で笑いながら剣を振り回しておられたし、放っておいても大丈夫と思ったので、僕はさしあたりルシアスさまをお守りして、その店から逃げ出した。「彼のこと、放っておいてもいいのか?」とルシアスさまが気にするので、「何かあっても自業自得ですよ」と僕は言い返してやった。
幸い、馬は盗まれてなかったので、手綱を解いて待っていたら、やがて叔父さまも飛び出して来られて、僕らは必死に馬を飛ばせて、その村から逃げ出した。
叔父さまは、あちこちに傷を負って血を流しておられたが、たいそうごきげんで興奮して、雨にびしょぬれになりながら、歌を歌っておられた。困った方だ。
宮殿に帰り着いて、ルシアスさまの部屋に隠れて服を着替えようとしていたら、ルッシラ叔母さまに見つかった。グラックスさまのお屋敷の池にアヒルを見に行ったら雨にあったと嘘をついてしまった。叔母さまは黙って眉を上げて、着替えを出して下さったが、しっかり嘘を見破っておられたような気がする。
叔母さまはルシアスさまの着替えを手伝っておられたので、僕は一人で着替えていた。そうしたら、叔母さまが、髪がぬれたままだと風邪をひくわとおっしゃって、乾いた布で丁寧に髪を拭いてくれた。頭をもみくちゃにされるので目をつぶっていると、突然叔母さまの手が止まり、いきなり頬にキスされて力いっぱい抱きしめられた。びっくりして目を開けると、叔母さまは笑ってまたごしごしと僕の髪をこすりながら、何でそんなに似てるのとか何とか、口の中でつぶやいておられた。
変に、疲れた一日。
寝台の枕元の窓から、笑っているような大きな黄色い月が見えてる。
母上がさっき、おやすみを言いに来て下さったけど、父上は元老院の人たちとの話し合いを遅くまでしておられて、おやすみなさいの挨拶をしに行けなかった。さびしいけれど、その方がよかったかな。父上は、のほほんとしているようで変な時には勘がいいから、今日、村に行ったことも、叔母さまの様子がおかしかったことも、僕の顔色から見抜いてしまわれるかもしれないもの。
8月2日
コモドゥス叔父さまが、今日また僕にからんで来られた。といっても、あれは本人はからんでいるつもりなのではないと思う。昨日、僕らを村に連れて行って危険な目にあわせたことが自分でも気がとがめていて、気になるから何か言おうとすると、厭味しか言えない人だから、結局、ああなっちゃうのだろう。それはわかっていたけれど、僕だって腹は立っていたので、かなり冷たく、僕のことはともかく次期皇帝になる方にローマでは禁止されてる剣闘試合なんか見せない方がいいんじゃないの、第一あんなの、ちっとも面白くないよと言った。すると叔父さまは、おまえはそんな子どものうちから年寄りみたいに分別臭くて先が心配だと言うから、叔父さまの年になって精神が大人になれないよりいいと思うと言い返した。
叔父さまは傷ついたような恨めしげな目で僕を見た。侍女のカルミオンが言ってたけど、こういう叔父さまの目って女の人はぞくぞくするんだって。嘘だろう。気が知れないや。叔父さまは変に静かに、おまえは本当に性格が悪いな、父親に外見は日増しに似て来るのに、性格は日増しに悪くなる、父親はあんなに性格がよかったのに、本当の子じゃないんじゃないのか、その意地悪さは、と言った。言ってることがまるで矛盾しまくりだ。そんなら、あんたの子じゃないのかと、よっぽど言ってやろうかと思ったけど、母上に失礼だから、それはやめて、父上はそんなにいい子だったのかと聞いてみた。
叔父さまはトラが喉をならすような顔をした。叔父さまの目は黒いのだが、こういう時は金色に光って、ネコ科の猛獣めいて来る。そして、それはもう本当に、素直というか純情というか、かわいいなんてもんじゃなかったと言った。この人にかわいいなんて思われてたのじゃ、父上の青春も悲惨だったろうなあ。僕も自分が何を言いたいのか、よくわからないけどさ。
それにしても、僕はこういう時は特にそうだが、叔父さまには敬語を使ったことがない。父上には、いつも敬語を使ってるのだから、考えてみるとおかしな話だ。しかも父上は叔父さまに敬語を使ってお話になるから、もう僕らの人間関係って何なんだろう?
母上が一度気にして、叔父さまにはもっとていねいな話し方をした方がいいと思うわと真顔でおっしゃったことがある。宮廷のしきたりなど私にはわからないと言って、そんなことにはわりと無頓着な母上が気にしたのだから、叔父さまに対する僕の口のきき方は相当ひどかったのだろう。逆に父上は、そのことに全然気づいてないようだった。母上にあいづちを求められて、ちょっと困った顔をしておられた。
だいたい、叔父さま自身が僕らにそういう口をきかせて喜んでいるふしもあるのだ。もう何年も前になるが、僕がまだ小さい時、グラックス小父さまたちと食事をしていて、僕が何か生意気なことを言ったのだと思うが、叔父さまがいきなり僕を抱き寄せて膝にのせ、聞いて下さい、この子の私への口のききようを、遠慮も何もあったものじゃない、本当の親子だってもうちょっとは礼儀作法を守るのに、と言いながら、ふざけて僕の首を絞めるふりをした。今思うと母上は、それを見ていて、ぞっとして、あんな忠告も僕にしたのだろう。
でも僕は、その時、皆の笑い声の中で、父上がちらとだが、とても淋しそうな目をしたことの方が気になっていた。
僕が父上の前で、いつもうやうやしいのは、緊張するからでも恐いからでもない。とても真面目で落ち着いた、いい気持ちになれるから、ひとりでに態度がていねいになるのだ。叔父さまの前だと、気持ちがすさんで戦闘態勢に入っちゃうから、どうしても言葉だって荒っぽくなるんだよね。
でも父上は、そんな僕がちょっとよそよそしく見えるのかもしれない。ならばと思って、それからしばらく、父上にももっとなれなれしい話し方をしてみようと努力して見たが、これがどうしてもうまく行かなかった。一人でいる時、「父上、いい天気だよね」とか「元老院に行くの?」とか、さんざん練習していても、背の高いお身体に白いトーガをまとって廊下を歩いて来られた父上が、威厳と気品に満ちた優しい笑顔を向けられると、思わず一礼して「もう、お出かけになるのですか?」と、すらっと口に出てしまう。僕ってどこか変なのかな。「ちっともおかしくありませんよ。お父上は皇帝陛下なんだから、その言葉づかいでよろしいんです」と、キケロは言ってくれたけれど。
8月3日
元老院議員のグラックス小父さまが、ルシアスさまと僕にアヒルを下さった。おととい、コモドゥス叔父さまといっしょに村に行った時、ルッシラ叔母さまに嘘をついて、グラックス小父さまのところにアヒルを見に行ったと申し上げてしまったのが、何だか気にかかっていた。それで、今日ルシアスさまをお誘いしたら、同じ気持ちでいらしたようで、すぐ賛成してくださったので、二人で行って見たのだ。
小父さまのお屋敷は、ご身分のわりにはこじんまりしている。中のお部屋もお庭も決してけばけばしくはないが、とても手がこんでいて上品だ。趣味がよすぎて肩こっちゃうと父上がいつかおっしゃったら、コモドゥス叔父さまも、あの屋敷は本人同様気取ってて鼻持ちならないと賛成し、でもルッシラは好きなんだよなあ、ああいうの、と二人で、その場にいない叔母さまをバカにしていた。父上と叔父さまは、一年に一度か二度、まるっきりしょうのないことで変に意見があうことがあり、めったにないことだからうれしいのかもしれないけれど、そういう時には聞いてるこちらがあきれるほどの速さで、どんどん話が発展する。あの門柱のニンフの像は絶対に他とつりあいがとれてないけど、グラックスの趣味なんでしょうかとか、小道にさりげなく撒いてある緑がかった小石はけっこう嫌味だよなとか、噴水の水の向きが季節によって変わるのを気づいてほめないと気を悪くするのがわかってるのに、もう二回たてつづけに忘れたから怒っていて、今度の法案を通してくれそうにないんですよとか、鎧を着てると通れないような狭い廊下ばっかりで、しかも床の模様が細かくて目がちらちらするとか、あそこで飼ってるオウムの顔が嫌いなんですとか、それより仕えている奴隷のしゃべり方が気持ち悪くないかとか、そうなんですそうなんですとか、こんな風な手つきをするだろうとか、頼むからやめて下さい、夢に見そうですとか、お二人で話がとまらなくなっていた。そこへルッシラ叔母さまが入っていらしたものだから、お二人とも同時にぴたっと口をつぐまれてしまい、そしらぬ顔であっちとこっちに目をそらしておいでだったけれど。叔母さまは、お二人をちらと見比べられたが、大したことではないと判断されたのだろう、何もおっしゃらなかった。
僕はグラックス小父さまのお屋敷は、同じミルテの木までが宮廷の庭の同じ木よりも、ずっと優雅に枝をくねらせているようで、昼間でも月光に照らされているような不思議な雰囲気があって、夢のようにきれいだと思う。でも、たしかにちょっと息がつまるようなところもあり、だから、お庭で一番好きなのは、噴水でやかましく鳴きながら遊んでいるアヒルやガチョウたちだ。父上たちが悪口を言っていた奴隷が、とても親切に食べ物や飲み物を木陰に持ってきてくれて、それをねらって大胆なアヒルがテーブルに飛び上がってくるので、ルシアスさまと二人で大騒ぎしていると、グラックス小父さまがにこにこしておいでになり、一羽ずつあげるから、好きなのを選んでいいとおっしゃった。
その時は夢中になって喜んでしまい、必死になって一羽ずつ選んだのだけれど、袋に入れて馬に乗せて持って帰るのはいいかげん手こずったし、カルミオンやキケロに怒られそうな気もして、二人とも、こそこそアヒルを奥庭に運び込んだ。でも、ちょうど出て来られた母上が、それを見るなり「あら、アヒルじゃないの!?」と言って、大喜びされたので安心した。父上が皇帝になられる前、スペインの田舎の家で暮らしていた時には、いっぱい飼っていたのよ、マルクスは覚えてないわよねえとおっしゃって、小さい子どもにでもするように、僕の頭をなでられた。孔雀や白鳥なんかより、アヒルの方がよっぽどかわいい、と、それはにこにこしておられた。
それで、二羽のアヒルは今、無事に奥庭にいて、歴代の皇帝たちや神々の彫像の頭の上にとまったりしている。餌は母上がやって下さるそうだ。きっと卵も生むわとはしゃいでおられた。
母上のおっしゃったとおり、スペインにいた頃のことなんて、僕はほとんど覚えていない。でも、そう言われて見ると、ぐぇっ、ぐぇっ、と鳴く穏やかなアヒルの声は何だかひどくなつかしいような気もする。こんな声を聞きながら、暑い夏の夕方、沼のほとりに母上と二人で座って、父上のことを話していたことがあったような気がして来る。
さあ、今夜は少しギリシャ語の勉強をしなくちゃいけない。何と言ったって、僕は「ご学友」なんだもの。それはそうと、アヒルって、ギリシャ語で何て言うのかな?
8月4日
ゆうべはルシアスさまの部屋で、二人いっしょにかなり遅くまで勉強したけど、あまり成果は上がらなかった。僕がイライラしているのを見たルッシラ叔母さまが、父上に教えてもらえばいいのにと、とんでもないことをおっしゃった。僕は父上がさらさら書いておられる、流れるようにきれいで正確なギリシャ語やラテン語の文字を見るだけでも、自分の字が恥ずかしくて死にそうになるというのに。
何度か、僕が勉強しているのを父上が通りかかってのぞきこまれたことはある。そして、別に怒ったり笑われたりしたのではないが、ちょっとびっくりしたような、心配そうな目をされたのを僕は見逃さなかった。父上は、僕のできの悪いのにショックをうけておられるのだ。つくづく自分が情けないと思う。
このごろでは、僕が勉強している所に父上が近づくと、僕は自分でも気がつくぐらい息がはずんで、顔が赤くなり、手が震えてきてしまう。父上も、それで遠慮されるのか、そういう時の僕には近づかれない。
僕のこういう恥ずかしいという気持ちは、自意識過剰とか思い過ごしとか言うんじゃ絶対に、ない。父上は僕を傷つけまいとして、決して表には出されないが、僕の学力については本当に失望しているし、心配しておられる。それが、隠しておられてもありありとわかるので、本当に僕にはつらい。
そういうことを全部言ったわけではないが、僕の様子から何となく叔母さまは察して下さったようだ。何もおっしゃらず、抱きしめて額にキスして下さった。でも、何だかこのごろ、こういう時の叔母さまのキスって、ちょっと熱っぽすぎる気もするんだけど。
とにかく、ゆうべはそうやって、かなり遅くまで起きていたので、今朝はうっかり寝坊してしまい、もう日も高くなった頃、何とルシアスさまに起こされた。大変なことになっちゃったんだよとあわてておられるので、どうしたのかとうかがったら、例のアヒルのことで、父上のおつきのキケロと、近衛隊長のクイントゥスさまが、喧嘩をなさったのらしい。
キケロは父上が将軍だった頃から、お側に仕えていた部下で、クイントゥス小父さまの方は父上とは、やはり軍隊時代からの親友だ。二人とも無口で真面目で、厳しい整った顔に傷痕があって、性格も外見も似ているし、どちらも父上のことをすごく大事に思っているのに、それを口に出してべらべらしゃべったりは絶対しないところもそっくりなのに、どうしてかあまり仲がよくない。
キケロは最初にアヒルを見た時、アヒルですかと言って、いやな顔をしていたのに、ルシアスさまの話では、今朝クイントゥス小父さまがお見えになって、あんなものを宮廷の奥庭で飼ってはいけないのではないかねとおっしゃると、ルシアスさまとマルクスさまの持ち物ですから、なんら問題はございませんと、きっぱり言い切ったのらしい。それで、僕の部屋に近い廊下で、ずっと議論をされていて、おかげで、知らせようと思ってもルシアスさまは、僕のところに来られなかったのだって。僕は全然、気がつかなかった。まあ、それは別に不思議じゃない。あの二人の言い合いは、これまで何度か見たけれど、絶対に声を高めたりはしないし、静かに微笑を浮かべたまま、ことば少なに、すごく厳しいやりとりをするのだ。
結局、話はこじれてしまって、宮廷の池にアヒルを二羽飼ってよいかということについて、元老院で皆にはかって認めてもらうことになったらしい。嘘だろうと思ったけど、夜、ファルコが持ってきた書類にはちゃんとそのことが書いてあって、後で議題の内容を検討していた父上とルッシラ叔母さまは、「この、アヒルって何のこと?」と、わけがわからずにあわてておられた。しかたないから、多分こういうことだと思いますと言って、僕が事情を説明すると、ルッシラ叔母さまは死にそうに笑いこけておいでだったけれど、父上は、もう、この忙しい時に、とげんなりしておられた。だいたい、グラックスだって気を悪くするのじゃないのか、と、それも心配しておられた。
さっき、池に見に行ったら、アヒルは二羽とも頭を羽の下に突っ込んで、白いまりのようになって、草の間で眠っていた。蛍が、その上を、緑色がかった青い涼しい光を放ってふわふわ飛んでいた。
8月5日
今朝、コロセウムの支配人のカッシウスさまが、夏のイベントの競技をどうするか、父上に相談にいらっしゃった。赤毛のかつらをかぶって、愛嬌たっぷりの顔をした太ったお方で、いつも面白い冗談をおっしゃるから、ルシアスさまはお好きらしい。「面白いねえ、カッシウスって」と、よく僕におっしゃる。そうですかあ、何かあの人、気持ち悪くありませんかと僕が言うと、ルシアスさまはきゃっきゃっ笑って、マルクスは本当におかしいなあと喜んだ。
僕はルシアスさまと八つの時からいっしょに育って、年も同じだし、弟でもない、兄でもない、友達でもない、そういうのを全部まとめてそれ以上って感じぐらいに大好きなんだけど、それなのにおかしいと言えばそうなんだけど、ルシアスさまのことが、かなりの部分、全然わからない。とにかく、素直で無邪気なんだと思うけど、何にでもすぐ喜ぶし、感動なさる。コモドゥス叔父さまのことだって、めちゃくちゃ尊敬していて、「カッコいいなあ、すごいなあ」と二言めにはため息ついてるのなんか、僕にはまったく理解できない。
一年ぐらい前のことだったか、僕らの哲学の家庭教師が、論理的な考えとか分析のしかたとかについて説明してくれた時、僕はひそかにルシアスさまはいったい、どういうものがお好きで、どういうものがお嫌いなのか、その傾向をつかんでみようと考えて、分類だか分析だかをしてみようとしたことがある。でも、やり方が悪かったせいもあるかもしれないけれど、結局、全然わからなかった。コモドゥス叔父さまと父上なんて、外見も性格も、言うこともすることもまるでちがうから、どっちかがほんとに好きだったら、どっちかはそうでもないはずだろうと思うのだが、ルシアスさまは時々「マルクスの父上って、ほんとに素敵だよねえ」と、しみじみ言ったりすることがあり、どう見たって、それはまたそれで、本心なのである。
殿下は、きらいなものがおありですかと、一度聞いてみたことがある。そうだねえとルシアスさまは首をかしげられ、朝早く起きるのは好きじゃないなとか、サンダルの合わないのはいてるのっていやだなとか、そういうことばかり数え上げられた。
きらいな人っていませんかと聞くと、真剣に考え込まれ、そう言えばいないねえとおっしゃったので、僕が拍子抜けして黙っていると、楽しそうに、マルクスは誰かいる?と聞かれた。何だかちょっと意地悪な気持ちになって、いっぱいいますとお答えしたら、ルシアスさまは細い身体を二つに折るようにして大笑いされ、マルクスって、本当に面白いなあ!とおっしゃった。
そうなのだ。これも僕が、ルシアスさまを好きなのか苦手なのか、よくわからずに困ってしまうところなのだが、ルシアスさまは昔からいつも、僕の言うことやすることを、ものすごく面白がられる。こちらが全然予想もつかない時に突然大笑いされて、「ああ、マルクス、どうして君って、そんなにおかしいこと思いつけるんだろう!?」と大喜びされるから、何で?そんなに変なこと言ったっけ?と、いつもギクッとしてしまう。
僕は絶対、自分がそんなに面白い人間だなんて思わない。ルシアスさま以外の人間を、笑わせたりしたこともないし。コモドゥス叔父さまは何かと言うと、おまえは性格が悪いの、子どもらしいところがないの、暗いの、地味の、平凡の、と言ってくれるけれど、いじめてるつもりか知らないが、僕は自分でも自分のこと、全部そのとおりだと思ってるから、そんなのいくら言われたって、ちっともこたえない。
でも、ルシアスさまは、そんな僕の、何でもない言葉やしぐさを、いちいち異様なぐらいおかしがって、すぐに笑いころげられる。「君といると、本当に退屈しないよ、マルクス!」とまで、一度なんかは言われてしまった。もう、本当に嘘だろう!?
ところで、カッシウスさまは、コロセウムでの夏の催しは大々的なものにしたいと考えておられて、先皇帝の時代から禁止されている剣闘士競技を復活させるか、せめてキリスト教徒の大量処刑をさせてほしいと嘆願しておられるようだ。この頃は周辺の国々との大きな戦闘もないし、人々は皆、退屈して刺激を求めていますからと、しきりに言っておられたとか。コロセウムであんな趣味の悪い競技や処刑をするぐらいなら、まだ戦争をした方がましだよ、と父上が言うと母上は、戦争なんてするぐらいなら、競技や処刑をした方がましでしょう、と、少し青ざめて言い返されていた。
8月6日
今日、ヌミディアから大使が来た。一応ローマの属領なんだから、大使というのも変なのですがねと、近衛隊長のクイントゥス小父さまはつぶやいておられたが、黙って聞いていたキケロは後で僕とルシアスさまに、いろいろと政治的な事情があるんだから、それはそれでいいんですと言った。
ヌミディアの大使は華やかな色の民族衣装に身を包んだ、大変堂々とした人だ。宮廷にたくさんいる奴隷たちと同じ、黒い肌で顔だちも似ているのに、威厳や風格はあたりまえだが、段違いである。しかも、気さくで暖かい人柄を一目で相手に感じさせる。ややこしい長い名前を、父上やルッシラ叔母さまが発音しにくそうにしておられるのにすぐ気づいて、笑いながら、家族や友人は皆ジュバと呼んでくれますので、できたらぜひ皆さんもそう呼んでいただきたいと言った。父上とはひと目で気があってしまったようで、初めてお目にかかる気がしませんねなどと、まるで昔からの友人のように色んな話をして笑いあっていた。どうも皇帝は、ああいうところがいけませんなあ、あれで、厳しい要求ができるんでしょうかなあと、元老院議員のガイウスさまやファルコさまが、心配して話しておられた。
大使は娘を三人連れて来た。同じように黒い肌で、手足が長く、それにすごくきれいな金の輪をはめている。長女は僕より背が高く、次女はちょっと太っていて気むずかしそうで、末の女の子はまだとても小さくて、足が片方、膝から下が欠けている。幼い時にライオンに襲われたのですと大使は話して、ことのほか、この子をいとおしんでいるように見えた。
大使と娘たちは、夏の間、宮廷に滞在するそうだ。娘さんたちの話し相手になってあげなさいと、父上と母上からは言われているけれど、僕はこんなにたくさんの女の子といっぺんに話をしたことなんか、これまでないので、ちょっと困っている。侍女のカルミオンにそう言ったら笑ったが、すぐに少し眉をひそめて、あの一番上のお嬢さまにはご用心なさいませと言った。
どうして?と聞くと、カルミオンは謎めいた笑いを浮かべて、アフリカ女は恐いですわとか何とかつぶやいた。特に、あのお嬢さまは、もうすっかり大人でいらっしゃいますわよ。夕食会で、皇帝陛下が手をとって席にお連れした時、流し目で陛下を見たのに気づかれませんでしたか?椅子に腰を下ろす時も、必要以上に陛下にしなだれかかっていましたわ。
癖なんじゃないの?と僕が言うと、カルミオンは、殿方は皆、きれいな若い娘さんのすることは大目に見られますものねと、つんとした。カルミオンだってまだ若いくせにと言い返したら、まあ、お口がお上手になられましたことと、額を指でつつかれた。
ルシアスさまは、女の子たちにはあまり興味がないようだ。コモドゥス叔父さまと剣闘士の話ばかりしている。今度、郊外の村でまた、ちょっと大きな試合があるので、見に行こうと、今から楽しそうだ。困ったな。試合なんか見に行きたくはないけど、ルシアスさまのことは心配だし、やっぱり、ついて行かなきゃいけないだろうなあ。
勉強の方もちっとも進まないから、気になっているのに。ルシアスさまは要領がいいのか頭がいいのか、そんなに時間をかけないでも、いろんなことをすらっと覚えてしまわれるけど、僕はそうじゃないもの。家庭教師たちによく、考えすぎですとか、とにかく覚えてしまってくださいとか言われるけど、そういうのって、苦手だし。
母上は今日、アヒルの生んだ卵でお菓子を作ってくださりながら、ギリシャ語なんてしゃべれなくたっていいのよ、元気で明るい子でいてくれれば、とお笑いになった。一瞬そうかなとも思ったけれど、ちょうどそこに来ておられたコモドゥス叔父さまが、横から、そうそう、勉強なんてしなくていい、おまえの父親は語学も哲学も、その他の学問もよくできたけど、それが今、特に何か役に立ってるわけでもないし、おれなんか何も勉強しないで、親父の書いた本もろくすっぽ読まなかったけど、今、ちっとも困ってないとおっしゃったので、いっぺんに、勉強しなきゃ!と思ってしまった。母上も同じことを考えられたのか、叔父さまがお菓子をつまんで行ってしまわれた後、マルクス、ああは言ったけれど、やっぱり少しは本とかも読んだ方がいいと思うわと、まじめな顔でおっしゃった。
8月7日
ルシアスさまと僕とで(むろん、護衛の兵士もつれて)、ジュバ大使の三人の娘にローマの市内を案内した。ちょうどコロセウムに移動動物園が来ていたので、入って見た。大使の娘たちはアフリカから来ているんだから、いまさらキリンやライオンなんか見てもつまらないんじゃないかと思ったけど、三人とも熱心に見てて、ほっとした。そうしたら、ぎょろ目の、ずるそうな顔の奴隷商人がどこからともなく近寄ってきて、キリスト教徒の処刑に使うトラを格安で買ったばかりですが、ごらんになりませんかと言って、コロセウムの地下に連れて行って、檻のすぐ前でトラを見せてくれた。すごい迫力で、大使の末娘は泣きそうになっていた。小さい時にライオンに襲われたのを思い出したのかもしれないと思って、急いで地上に引き上げた。
その後、カフェで冷たいものを飲んだりして昼過ぎに宮殿に帰ったら、奥庭で、父上と大使が木剣で試合をして遊んでおられた。すごくいい勝負で、二人とも笑いながらだけど真剣に戦っていた。父上も大きい方なんだけど、大使もそうして肌脱ぎになっているのを見ると、とてもたくましく、叔父さまが見せてくれた剣闘試合のプロの剣闘士たちより、二人とも、よっぽど身体がきれいだし、技も上手だった。どっちが勝つのか見ていて全然予想できなかったけど、そのうちに噴水のふちからアヒルが二人の間に舞い下りてきたので、父上も大使も笑って木剣を下ろしてしまった。
僕らは皆、夢中で見とれていたが、大使の長女は中でも熱心に見ていて、二人が木陰に引き上げて来ると、近づいて行って自分のスカーフで父上の顔の汗を拭いながら、陛下の髪は黒いのに、光の中では金色に見えますねとか、私はローマの習慣に興味があるんですけれど身体の毛は剃っていらっしゃるんですかとか話しかけていた。大使はそんな長女を見て目を細めて、この子は他国の文化に興味があって、いつも家庭教師を質問攻めにするんですよと言っていたけど、何か、それって、ちがう気がするんだけどなあ。それに父上が、いいですね、マルクスは勉強が嫌いで困りますと、長女の頭をなでながら笑っておっしゃったので、僕は深く傷ついた。
そのあともずっと、長女は父上のそばから離れないので、次女も末娘も、つまらなそうだし、途中からいらっしゃった母上も、少し困った顔をされてた。でも、大使はとてもいい人で、にこにこしながら、きげんの悪い次女と末娘を両手に抱き寄せて、いろんな冗談を言って、結局二人を笑わせた。そして、母上や僕やルシアスさまにも、アフリカのこととか、いろいろ話してくれて、とても面白かった。奥さまはどうしていらっしゃいますのと母上が聞くと、大使は笑って、実は、この下にまだ小さい娘が二人いるものですから、その世話をしておりますと答えた。
うまく言えないのだけど、大使は本当に立派な方だと思う。話していることは、皆、どうということはない他愛のない普通のことなのに、しばらく言葉をかわしているだけで、とても気持ちが安らいで、楽しくなってくる。大使が来てから、宮殿の中の黒人の奴隷たちが何となく明るく生き生きして、頭を高くあげて歩きはじめたような気がする。僕やルシアスさまが小さい時、よく戦争ごっこの相手をして遊んでくれた二人の黒人奴隷が、今は母上に言われてアヒルの世話係になっているんだけど、今日、奥庭で僕にしみじみ、黒人でもああいう立派な人がちゃんといらっしゃるのを見られて、とてもよかったです、自分らは奴隷のままで死ぬでしょうが、それはそれとして、ああいう方をこの目で見られてよかったですと話した。娘さんたちもきれいだよねと僕がうっかり言うと、二人は顔を見合わせて笑って、長女の人がお好きなんでしょうと言うので、僕はちがうよと言って急いで逃げた。
でも何だか、あの長女には、腹が立つ。
夜、父上が話しかけても、僕が生返事しかしなかったので、とうとう父上が、どうかしたのかとお聞きになった。あんまり腹が立っていたので、声が震えないよう気をつけながら、僕は勉強が嫌いじゃありません、一生懸命やっているけどできないだけですとお答えしてしまった。すると父上は、何の話?という感じでしばらくぽかんとされていた後、笑い出して、あんな女の子にまともに嫉妬してたのか?と本当に意外そうに見つめられたので、僕は恥ずかしくて真っ赤になってしまった。母上までが、つられたように、頬を染めて笑われるし、ほんとに何だか身の置き所がなかった。
8月8日
今日は朝から雨。宮殿の中はひっそりと静かだ。
父上と大使の話し合いっていうか交渉は、なかなかうまくいかなくて、難航している模様である。領土のこととか、税金のこととか、狩猟権のこととか、いろいろあるらしいんだけど。「したたかだなあ。木剣で試合した時も思ったけど、ほんとにもう、こっちの手の内は皆、読むし」と父上は頭を抱えていた。
それを母上から聞いた近衛隊長のクイントゥス小父さまは苦笑して、「皇帝陛下だってなかなかですよ。『私があなたと仲がよすぎて、言いたいことも言えずにいるという評判がたってしまって、元老院でつきあげられて困ってるんです。このままでは近衛隊長がクーデターをおこして、私は位を追われるかもしれません。そうなると、黒人を軽蔑している先帝の息子(コモドゥス叔父さまのことだ)が位についてしまって、大変ですよ。それだけは何としても避けたいから私の顔をたてて下さいませんか』などと、ぬけぬけと脅迫しておられましたからね」と言った。
でも、それって、嘘じゃないんじゃないんですか、と僕は聞いてみた。元老院が、大使と仲がよすぎるって父上を批判してるのも、叔父さまが黒人をバカにしてるのも、皆、本当ですよね。
クイントゥス小父さまは笑って、「よいところに気づかれますね、マルクスさま」と言った。「それが、肝心なことなのですよ。どれも、嘘とは言えないことをうまく組み立てて、全体としては相手をだます空中楼閣を作るのが、政治というものなのです」
じゃ、近衛隊長がクーデターを起こしそうだと言うのは、空中楼閣ではないのですかとおたずねすると、クイントゥス小父さまは静かに両手の指をつきあわせて、じっと僕を見つめ、さあ、何とお答えしたものでしょうかねと考え深そうにつぶやかれた。
大使はあんなにいい方で、陛下とも仲がいいのに、と母上は吐息をつかれ、何だか淋しそうだった。
するとクイントゥスさまは、それはそうと思い出しましたが、と母上のお顔を見た。
仲がいいということであれば、大使とルッシラさまは随分お話があうようにお見受けしますが、陛下は気づいておられるのでしょうか。いや、男と女の仲というようなことではありません。そうではなくて、陛下とさまざまな交渉をなさる前や後に、ルッシラさまと、かなりいろいろと打ち合わせや、やりとりをなさっておられるかに、お見受けするのですが。
母上はもう露骨に、私にそんなことを言われても困るわという顔をなさった。クイントゥス小父さまもまた、それほど露骨ではなかったが、あなた様にこういうことを申し上げましても、しかたがないのでございますがという顔をしておられて、二人はしばらく気まずそうに黙っていたが、とうとう母上がため息をついて、やっぱりこういうことを聞かなくちゃならないのかしらねえという口調で、あの方が陛下に対して何か画策(母上はここでもう一度ため息をついた)をなさっているとでもおっしゃるの、と本当にいやそうに尋ねた。
自分はただ、事実を申し上げているだけでして、と眉一つ動かさずにクイントゥス小父さまは答えられた。何しろ、男であったなら大皇帝になったであろうと言われておられた方ですからな。
だってあの方、お子さまが…ルシアスさまが次の皇帝になることはわかっていらっしゃるのですよ、と母上はちょっとむきになられた。別に、今、何もなさらなくても、先のことは何も心配なさることはないはずよ。
めぎ…策士というものはですな、とクイントゥスさまは、せき払いされた。いろいろと暗躍し、人を操って実権を握る、そのこと自体が楽しみというところがございます。何が目的ということではなくて。それに、あれほどのお方が、ご自分のお子さまの補佐役などという陰の存在で、ご満足なさるものなのでしょうか。ルシアスさまが大人になれば、それだけご自身のお考えもお持ちになるわけですし、あの方としては、今、実権を握りたくておられるかもしれませんな。
クイントゥス小父さまがお帰りになった後、母上は窓の外を見て、雨はいやだわ、と何度もぼんやりつぶやかれていた。
8月9日
侍女のカルミオンの話では(彼女ほんとに、こういう話に詳しいんだけど、どこから聞いてきてるんだろう?)、父上が大使の娘と浮気をして、母上がすごく怒っているということが町の噂になっていて、広場では、そのことを面白おかしくとりあげた芝居が上演されているのだって。コモドゥス叔父さまはすっかり喜んで、見に行こう見に行こうと、僕やルシアスさまをしつこく誘って、うるさいったらありゃしない。
ルッシラ叔母さまは、そのことを心配して、母上のところに来て、お二人の仲のいいところを市民に見せつけた方がいいわよ、としきりにすすめた。来週、コロセウムで戦車競走があるでしょ、あれに一緒にお出かけになって、並んでお座りになって、親しげにお話などなさって見せるべきだわ。お衣装や髪型は、わたくし、考えてさしあげますから。
皇帝は元老院や大使とのお話し合いで疲れておいでだから、この上、そんなところにお連れするのはお気の毒で、と母上はため息をついた。それにねえ、あの人、コロセウムに行くのはいやがるんです。あの、高いところにある座席がお嫌いなのですって。何でも、小さい時、お兄さま方からいたずらされて、夜中に天井の梁の上にのせられて、置きっぱなしにされたことが何度かおありで、それ以来、高いところはおいやになってしまわれたらしくて。
何てもう、ばかばかしい!とルッシラ叔母さまは扇で手のひらを打たれた。そんなこと言ってる時ですか!民衆の目の前に姿を見せて、ご機嫌をとるというのも、皇帝の大事な仕事の一つなのよ。あの人はぼうっとしてるから、そういうこと気にしないんでしょうけど、あなたから言ってさしあげて、ひっぱって行かなければだめよ。戦車競技がぜひ見たいわとおっしゃいなさいな。
母上は力なく笑った。そんな嘘、見抜かれますわ。私が、馬がけがをするのを見るのがいやだってこと、あの人、よく知ってるんだし。
本当に、今の状況って危険なのよ!と、ルッシラ叔母さまは母上に詰め寄った。こんなことで皇帝の威厳が失われて、人気が落ちたらどうするの?
ひとさまが何と言おうとも、夫には、やましいところなんかありませんもの。母上はかたくなに繰り返した。私は、信じていますもの。
あなたたちが、ただの農夫や羊飼いや、鍛冶屋のご夫婦ならそれでもいいわよ。叔母さまは舌打ちした。でも皇帝ご夫婦ではね、本当のことはどうでもいいの。ひとさまが何と言うかだけが問題なんです!
母上は悲しそうに立ち上がり、バラの手入れをして、アヒルにも餌をやりませんと、と言って、部屋を出て行ってしまわれた。
ルッシラ叔母さまは、部屋の隅の椅子に座っていた僕を見つけて首を振り、マルクス、本当にあなたのご両親は、皇帝と皇后にしておくにはもったいないような善人ね、と皮肉たっぷりにおっしゃった。お母さまにショックを与えちゃいけないと思って聞かなかったのだけど、本当に何もやましいことってないのでしょうね、お父さまは、大使の娘と?
ちょっともう、そんなの、僕に聞かないでよと思ったけれど、しかたがないから、さあ、わからないけど、何もないんじゃないですか?とお答えした。「あんな女の子にまじめに嫉妬するのか」なんて、僕に言ってたぐらいですから。
何それ?と叔母さまが眉をひそめられたので、その時のことを話すと、叔母さまは、何か考えておられるように、ふうん、と鼻で笑われた。
それにしても、あの噂、侍女や奴隷が広めたにしては速すぎるわね、と叔母さまは扇を唇にあてて考え込まれ、僕が、噂の内容の通り一遍さっていうか、ばかばかしさってことでなら、何となくコモドゥス叔父さまっぽいですねと申し上げると、叔母さまは、それは充分あり得るけれど、それでは話が単純すぎて面白くないから、クイントゥスぐらいが広めたとでもしておいた方が何だか楽しくなくて?と、くすくす笑われた。
何だかドキッとして、近衛隊長はそういうことなさりそうなんですかと聞くと、叔母さまは、あんな闇の中にカラスが千羽も飛んでるような性格の男の腹の内なんて読めないわよと片づけた。
何だかもう、ほんとに、どっちもどっちだよなあ。
8月10日
今朝、コモドゥス叔父さまが、また剣闘試合を見に行こうとおっしゃった。ルシアスさまはすごく行きたそうにしておられて、僕の顔をごらんになっていたけれど、僕は、勉強も進んでいないし、城壁の外に行ってるような暇はないと言って、きっぱり断った。ルシアスさまだってきっとお行きになりたくはないでしょうと、本人が横にいるのに、言い切ってしまった。
コモドゥス叔父さまはそんなことではちっともひるまず、にこにこして、城壁の外になんか出ないよ、そんなに時間もとらせない。下町の小さな酒場で気の置けない常連どうしが、ちょっとゲームみたいな試合をして雰囲気味わってる、そういうところをのぞいて見るだけさ、とおっしゃった。
何となく、その言い方だと、テーブルの上に剣闘士のフィギュア(小さい木や土の像で、ルシアスさまはいっぱい持っておられる。僕なんかには、どれも同じに見えるのに、ルシアスさまはひとつひとつ取り上げて、これはあの有名なタイグリスだよなどと言って説明し出すと、もう何時間でもやめようとしない)とか置いて、青白い顔のマニアっぽい男たちが暗い静かな雰囲気で交換会でもするのかな、みたいな連想してしまって、うっかり、それならいいよ、と言ってしまった。
町中だと、俺たちの顔を知ってる者も多いからな、とおっしゃって、叔父さまは、ご自分はこの暑いのにすっぽり黒いマント(フードつき)をかぶって仮面までつけ、僕とルシアスさまには、誰か叔父さまのファンの侍女からかっぱらってきたんだろう、女の人の衣装を着せて、ヴェールで顔を隠させた。紫の絹の衣装を頭からかぶせられ、サッシュで胴をぐるぐる巻きにされる頃から僕はもう、しまったなあ、やめとけばよかったなあと後悔していたのだけど、ルシアスさまは薄桃色の衣装のすそをぱたぱたさせて、きゃっきゃっ笑って喜んでおられ、カルミオンのたんすからこっそり紅を取ってきて唇にさしたりしてはしゃいでおられるので、とてももうとめきれない、と思い、それならお供するしかない、と覚悟を決めた。
それから先のことは何かもう、書きたくもないのだけど。キケロか誰かが、ひょっとこの日記を読むんじゃないかと心配だし。
でもとにかく、叔父さまに連れられて、ごちゃごちゃした通りをいくつも抜けて(最初は道を覚えようとしていたんだけど、途中からはもう、逃げて帰るにしたって、行き当たりばったりに走るしかないと、あきらめてしまったほどの迷路だった)、小さな、汚い酒場に入った。房のついた丸い帽子をかぶった、変に優しい目の男が、叔父さまを見るとぺこぺこして、おいでませ、今日はよい剣闘士が二人ほど入っておりますですよとか言って、奥の隠し扉を開けて、狭い、回りは土壁のままの、ぐるぐる回る階段をどこまでも降りて、僕らを連れていった。
だんだん、土の壁を伝って、地鳴りのようなどよめきが聞こえてくるような気がした。そして、男がランプをかざして階段の行き止まりの小さい扉を押し開けると、叫び声と熱気が、血や汗や酒の匂いと入り混じってどっと流れ出て来た。中に入ると、そこは相当広いのだが、人がぎっしりいるので、狭くしか見えない。かろうじて、まん中に空けられた狭い空間に、重々しい顔をした髪の長い男と、縮れた髪をいっぱいの小さい房に結んだ若い男と二人の剣闘士が、汗で肌をぎらぎら光らせて激しく剣を交えていた。彼らの足元には三四人の剣闘士が倒れていて、すでに皆、虫の息だった。
見物人と彼らとの間には柵も区切りもなく、最前列の観客はすごく危険なのだが、そこがまた皆を興奮させるようだった。ひっきりなしに休みなく、誰もが声を嗄らして何か叫んでいた。叔父さまとルシアスさまもたちまちそれに加わったが、僕はもう、空気の悪さと人々の熱気に頭がぼうっとして、何も考えられなかった。見物人の中には女たちもたくさんいて、あたりかまわず、連れの男とキスしたり、裸になって愛し合っている者もいて…その一人のヴェールがめくれてのぞいた顔を見ると、元老院議員のガイウスさまの奥さまだった。いつも宮廷でお目にかかる時は、能面のように無表情でしとやかで、あの方に「皇后陛下」と呼びかけられると、いつもドキッとしてしまうわ、あの方のほうがよっぽど皇后らしくお見えになるのに、と母上がよく嘆いておられる方だ。
それなのに、今日見た、その時のお顔といったら…。
ルシアスさまをお守りするどころではなく、僕は吐き気がし、目まいがして、それでも、二つか三つの試合が終わるまでは我慢していたと思うが、結局どうやって地上に戻ったのか全然記憶がない。気づいたらはじめの酒場で、しーんとした店の隅でルシアスさまが心配そうに僕の顔をのぞきこんで、しきりに大丈夫?大丈夫?と繰り返していた。叔父さまはその後ろのテーブルで、妙にうれしそうな顔で、血のように赤いワインを飲んでおられた。
ルシアスさまがあんまり心配なさるので、宮殿にひきあげた後、着替えずにそのまま自分の部屋で寝ていた。ルシアスさまがつきそっていて下さったのだが、それをキケロが見てびっくりしたのかカルミオンに教えて、カルミオンはルッシラ叔母さまを呼んで、叔母さまは女装したままの僕ら二人をごらんになって、息がつまったような顔をなさった。あとで言っておられたが、女の格好をするのが好きで、乱れた政治をして死んで行った、ご先祖の誰や彼やのことを、とっさに思い出されたのだそうだ。
どういうことかと叔母さまはルシアスさまを問い詰め、どう返事をしたらいいのかというようにルシアスさまは寝ている僕の顔を何度もごらんになるのだが、僕はもう気分がますます悪くて、何のお知恵もさし上げられそうになく、どうぞ全部本当のことをおっしゃって下さい、と申し上げるのがやっとだった。マルクス、それは最高の忠告だわと叔母さまは冷やかにおっしゃって、ルシアスさまから話を全部お聞きになり、僕らの服を脱がせるとカルミオンに、この服を貸した侍女をこの服と一緒に今日中に街路に放り出しなさいと命令して、足音も荒く出て行かれた。
夜中をすぎてやっと起きられるようになり、キケロの作ってくれた蜂蜜入りのジュースを飲んで、少し頭がはっきりしたので、これを書いている。思い出しただけで、恥ずかしくて、気持ち悪くて、死にそうだ。もう、女の人の服なんて死ぬまで金輪際着ないし、コモドゥス叔父さまの言うことなんか、生きている限り、絶対に二度と聞いたりするもんか。
8月11日
カッシウスさまは今日もまた見えて、キリスト教徒をせめて三百人でも処刑できないかと言っておられた。そんな大勢の信者をいったいどこで逮捕するのだと父上がお聞きになると、カッシウスさまはひそひそ声になって、そのあたりのことはおまかせ下さいと言った。剣闘士の試合のことも、あきらめてはおられないようだ。
コモドゥスさまもルシアスさまも剣闘士がお好きだから、ルッシラさまは剣闘競技の再開に賛成なさるのではないかなあと、父上は以前母上に話しておられたことがある。でも、今日たまたま居合わせてカッシウスさまの剣闘試合の計画を聞いた叔母さまは、もってのほかというお顔をされ、亡き父上のご遺志というものを、おまえは何と心得ているのか、よければ聞かせてくれませぬかとおっしゃった。カッシウスさまはちぢみあがって…でも、この方は、見た目ちぢみあがって見せても、心の中ではまるっきり平気で舌を出しておられるような気がしてしかたがなくて、そこが僕は恐い…もっともでございますと、もみ手をしながらこそこそ退出して行かれた。
叔母さまはそのあと父上に、どうせあの男があんなことを言ってくるのはコモドゥスがたきつけているのだわと怒り、どこかに幽閉できないかしらと、広間をあちこち歩き回りながら口走られた。無理だろうなあ、それなりに経営手腕はあるのだから、と父上はお答えになり、しばらくお二人でやりとりをされていて、何だか話がかみあわないので、とうとう黙って二人で見つめ合ってしまわれ、ほとんど同時に「誰のこと言ってるの?」とお聞きになった。それでわかったのだが、父上はカッシウスさまのつもりで、叔母さまはコモドゥス叔父さまのつもりで話しておられたのだ。
それに気づいた時、父上はショックをうけられたようで、「あなたの実の弟ではないか」と繰り返され、テラスに母上といた僕に、こんな話を聞かせていいものかというように、気にして何度も振り返られた。でも、叔母さまはびくともせずに、あの弟があなたのかわりに皇帝になっていたとしてごらんなさい、実の姉の私だって幽閉どころかとっくに処刑されているわよ、とおっしゃった。
彼だって気の毒だ、本来なら自分が皇帝になれると思っていたんだろうから、と父上は言い、だからって今、させたいようにさせておくの、と叔母さまは言い返し、彼はあれでけっこう民衆に人気がある、と父上が言えば叔母さまは、だから何とかしないと危険なんだわ、と怒り、二人で言い合っている間に話がごちゃごちゃになって来て、とうとう叔母さまが、あなたみたいに賢い人が、彼を放っておいたら危ないことに気がつかないなんておかしいわ、と言い出された。何か魂胆があるんじゃないの。たとえば私の息子を彼に誘惑させて、剣闘士おたくのバカにして堕落させ、次期皇帝にはなれなくして、自分の息子に皇位をつがせようなんて遠大な計画があるんじゃないでしょうね。
話がそこまで来た時、母上はいきなり僕の手をひっぱって、ひきずるようにテラスの階段を降りて中庭に出てしまった。僕はもうちょっと聞いていたかったのだけど、母上があまり必死で、とても抵抗できなかった。
木陰のベンチに腰を下ろして母上は僕を抱き寄せ、涙ぐまれて、スペインに帰りたいわ、とつぶやかれた。ここのバラは、いくら世話をしても小さいつぼみしかつけなくて、スペインにいた時のようないい匂いのする石鹸が作れないのですもの。
母上が言いたいのは、ほんとは石鹸のことなんかじゃないんだ。でも僕に、何ができるだろう?
父上も今日はその後、目に見えて沈んでおられた。ルッシラ叔母さまもきげんが悪く、カルミオンにあたりちらしておられたようで、カルミオンが目を赤くしていた。僕もまだ昨日の疲れがとれてないのか、変にぐったりして夕方から寝ていると、着替えをさせてくれたキケロが、ものすごく肩がこってますよとびっくりして、ずっとマッサージしてくれた。ゲルマニアで野営つづきだった頃でも、あなたのお父上はまったく肩がこったことなどおありではなかったし、そういう血筋は遺伝するものなのですがねえとキケロは不思議がり、まだそんなお年でもないのに、いったいどうなさったんです、お気を遣うことが多すぎるのではありませんかと心配した。何だかそんなこと言われると、だんだんほんとに自分のことが、すごくかわいそうな子に思えてきてしまう。
8月12日
ジュバ大使って、本当にしたたかな人みたいだ。父上が、ローマの文化をとりいれないと、ヌミディアはいつまでたっても、井戸もないままで、川から水をくみ上げるような生活ですよと言うと、あのような労働をするので娘たちの足がきれいになるのですと言い、川の水なんか飲んでいて疫病が広がったらどうしますかと言うと、ローマのように川が汚れないよう気をつけていればよいのですと答え、ちゃんと協力していただかないとゲルマニアに攻め込まれて、ローマもヌミディアも滅ぼされ、お互い奴隷になるしかないですよと言うと、そうなったら一緒に鎖につながれて剣闘士にでもなりましょう、私とあなたなら生き残れます、お互い、こんな平和な時代に生まれて、腹の探り合いで神経使う毎日より、いっそそういう境遇の方がかけひきなぞない友情を結べて幸せかもわかりませんぞと笑ったらしい。「そう言われて一瞬ふらっと、ああ、本当にそうかもしれないと思ってしまった自分が恐い」と父上はクイントゥス小父さまに向かって嘆かれていた。「どこまで本気か冗談かわからない、まじめな顔でああ言われると。からかわれているのかもしれないが、困ったことに、何を言われてもあの男を私は嫌いになれないんだよ」
まあ、それはそれでよろしいのではありませんか、とクイントゥスさまはおっしゃった。父上と二人きりの時(僕は子どもだから、そばにいても、まだ数に入ってないと思う)、クイントゥス小父さまは、ちょっとこういう、父上を甘やかすようなものの言い方をされることがある。僕が時々ルシアスさまに対して抱くのと似た保護者めいた感情を、父上に対してお持ちなのかとさえ思うぐらいだ。…勝者は敗者に愛情を、敗者は勝者に憎悪を抱くものと言いますからな。
それは何の慰めにもならん、クイントゥス。父上もまた、あまり人にはお見せにならない、弱音を吐く口調になっておられた。あの大使こそ、私を好きだよ。見ていてはっきりわかるだろう?
クイントゥスさまは軽く眉を上げられ、陛下を嫌いになれる者など、そうそうはおりますまいから、と、さらりと言われた。ご心配はいりますまい。彼とて愚かではありませぬ。次第に譲歩してきています。あと数日が勝負でしょうな。
父上は、ため息をついた。そう見えるか?自分ではもう、判断ができないんだ。
そんな状況のところに今日はまた、ゲルマニアの代表が領土の境界その他について交渉するため、ローマを訪れてきた。
ジュバ大使とはまったく雰囲気が違う。毛皮をあちこちにあしらった革の服を着て、髪も髭も長く伸ばした獣のような大男で、父上さえも並ぶと小さく見えるほど、人間離れして大きい。巨大なまさかりを片時も手放さず、これを宮廷に持って入らせてよいかどうかで元老院が大議論していたので、謁見が今日まで遅れたのらしい。
もしゃもしゃの眉やら髪やら髭やらで表情なんてほとんどわからないが、終始ふきげんそうで、口もあまりきかない。通訳に小さい声でぼそぼそと一言二言言う他は、石像のように黙って突っ立ち、父上をにらみつけている。
それと対照的に、通訳をつとめる副官だか何だかは、やたらと陽気な男である。代表が小声で二言ぐらいしゃべると、「はあ、よかです」と大声でうけあって、それからかなり長いこと、ゲルマニア訛り丸出しの熱弁をふるうので、本当に代表はそんなことまで言ってるのか?時間的にもおかしくないか?と皆、不安になるのだが、代表自身は黙りこくって立ってるだけだし、誰もたしかめるすべがない。
この通訳も代表ほどではないが、ばかでかい。ゲルマニアの人って皆、こんなに大きいのか、今度父上にうかがって見なくては。肩も腕も胸も、筋肉がはちきれそうに盛り上がっていて、それを見せつけるようなぴっちりした革の服を着ていて、聞かれもしないのに、「通訳ばすることになっとる、ハーケンて言いますけん」と朗々たる声で自己紹介して、はっはっと大声で笑った。よく考えてみると、代表の名前をまだ言ってないのじゃないか?誰も気づいてないみたいだけど。
ハーケンは夕食会の時、誰も頼みもしないのに、テーブルの上の皿で皿回しをやって見せ、ジュバの娘たちとルシアスさまに大受けしていた。その後で僕の所にやって来て、「ぼんは、大人しかとですな、あんまり笑わんごとありますが」と言って、僕の耳の後ろをくすぐった。
父上が、この子は年のわりに落ち着いて大人びていまして、と言い訳するとハーケンは、「あらー、皇帝のお子さんですか、そう言や、うり二つですたい。そんなら何で、この人が皇太子じゃなかとですな」と言って、皆がしーんと黙り込むと、「わー、こりゃ、つまらんことを言うてしもうたごとありますなあ」と頭をかいて、おわびのしるしに、ワインをひとびん、まるごと一気飲みしてみせると言い張った。
父上がもう笑いたくて笑いたくて死にそうになってるのは、ありありとわかったし、クイントゥス小父さままでもが、妙に目を細めて部屋の隅の置物をじっとごらんになったり、窓の外の木の枝にゆれている飾り提灯をしげしげ眺められたりして、気持ちをそらしては笑いをかみ殺しておられたようだ。でも、元老院の議員の方々は皆、少し不快そうで、グラックス小父さまは「あなたは、代表のお言葉を、どの程度正確に通訳しておいでなのですかな?」と、いつものものすごく歯切れのいい、冷たい標準語でお尋ねになった。「まさかとは思いますが、余分なことをつけ加えたりといったたぐいのことを、よもや、なされたりしてはおられぬでしょうな?」
「いやー、うちの頭領は芸術家で、言葉もひとつひとつが、ゲルマニアの伝統文化を踏まえとりますけんねー」と、子牛の炙り肉をむしゃむしゃかじりながら、びくともせずにハーケンは答えた。「皆さんにちゃんとわかってもらうごと説明しようとしよりますと、どうしてもどんどん長くなりますたい。たとえば頭領が、『ナナカマドの実はとっくに落ちた』と言いますたい。それだけ訳して、何のことかわかりますな?これは、ゲルマニアでは有名な『ナナカマドと五匹の蛙』という伝説を知らんことには、どうしようもないとですが、それを全部話すわけにもいかんですもんねえ。何やかやで、今日はもう、だいぶはしょってしまいましたが、明日からの陛下との会談では、手抜きはせんごとしようと思うとります」
そばで聞いていた父上は、ワインにむせかえられた。
夕食会の後、ルシアスさまは僕に、「ナナカマドと五匹の蛙」って、どんな話なのかなあ、マルクスは知りたくない?と言って、しきりに気にしておられた。
ルシアスさまには言わなかったが、そんな伝説、本当にあるのかどうか、僕は疑問に思っている。
8月13日
ゆうべ、夕食会のあと、とんでもないことがあった。
中庭で遅くまで騒いでいたハーケンの大声も聞こえなくなって、ようやくぐっすり眠って、どれだけたったのだろうか、何かの気配で目が覚めた。
何度も気のせいと思って眠ろうとしたけど、どうしても気になるので、こっそり起き出し、剣をとって廊下に出て見ると、階段の方へ走ってゆく人影が見えた。
人を呼ぼうかと思いながら、でもそれはいつでもできると思って後を追って行くと、宮殿の入口あたりで、月の光にその人影が三つで、一つは背が高く、一つは太っていて、もう一つは小さくて歩き方が変なので、大使の三人の娘とわかった。
もうそうなると、人を呼ぶわけには行かず、見え隠れに僕は後をつけて行った。足の悪い末娘も含めて三人の足取りは風のように速く、何度も見失いそうになりながら、ようやくコロセウムの入口まで来た。
夜のコロセウムは恐い。月も雲に隠れた暗黒の中にひときわ黒く巨大な建物がそびえ、あちこちで獣の吠える声がしている。
そこでまた、三人を見失い、あちこち行ったり来たりして、ようやく、カギのはずされている扉を見つけ、また迷い迷いしながら、地下の通路へと踏み込んだ。
そこで何かにつまづいた。見ると、あのぎょろ目の奴隷商人が、縛り上げられて転がされている。
声を立てるなよ、と注意して、さるぐつわだけ取ってやると、商人はがたがた震えながら、助けて下さい、あの三人娘がカギの束を取り上げて、トラの檻の方へ行きましたと言った。
何がどうなっているんだか、もうさっぱりわからなかったけれど、とにかくそっちに走って行くと、本当にトラの檻の前にあの三人がいて、檻の扉を開けようとしている。カギ束にくっついているカギがあまりに多いので、どのカギかわからず、手こずっているらしかった。
トラは夜行性だから、今や元気いっぱいで目をギラギラ光らせて檻の中を行ったり来たりしているのに、この三人は何を考えているのかと思って、僕はなるべく静かに、何してるんだと声をかけた。
娘たちは振り向き、すばやく短刀を構えた。それ見たとたんにわかったが、一対一なら何とかなるけど、三人に同時にかかられたのじゃ、まず勝つ見込みはないと思える、すきのない身のこなしだった。そうだろうよ、あの大使の娘じゃな。父親にみっちり手ほどきうけてるに決まってる。
僕の方は、父上なら絶対しないことをした。だって、それ以外に絶対に勝ち目なんてなかったから。横っ飛びに飛んで末娘の短刀をたたき落とし、彼女を引き寄せて短刀を喉に押し当て、この子にけがをさせたくなければ、カギを返して出て行くんだと叫んだ。
二人の姉はためらっていた。長女が、あなたに女の子を傷つけられるもんですかと言ったので、僕は必死でコモドゥス叔父さまの口調を真似て、由緒正しいローマの貴族が、こんな黒い雌犬を女の子だなんて思うもんかと言い返して、本当に短刀の先で末娘の肌を少し傷つけた。彼女は声も出さなかったが、次女は怒りに我を忘れて僕に飛びかかって来ようとした。それを長女が引き戻し、私たちの負けよと言って、カギ束を僕の足元に投げた。
出て行け、妹は後で返してやると言うと、二人はためらっていたが、そのまま走り去り、僕はカギを拾って檻の戸締まりを確かめてから、末娘をひきずって奴隷商人のところへ戻った。彼が、二人は出て行ったと言うので、縄を切ってやって、このことは誰にも言うな、警戒はもっと厳重にしろと言って、外に出て末娘を放してやった。彼女は蝶のように身軽に姉たちの後を追って、月の光に照らされた街路の向こうに走って消えた。
今、こうして書いていても、何もかもまるで夢のようである。いったい、どういうことなんだろう?これは、大使のさしがねだろうか?何か大きな陰謀の一部なんだろうか?そうだとしたら、急いで報告しなければ。でも、もしこれが明らかになれば、とんでもない外交問題にも発展しそうだし、どうしていいのかわからない。
8月14日
僕は本当に困っている。ゆうべのことを誰かに話したとして、いったい誰が信じてくれるのだろう?
父上にだけでも話そうかと思ったり、もう少し何かつかんでからの方がいいような気がしたり、困って困って、テラスを行きつ戻りつしていると、ハーケンが通りかかって、深刻な顔ばして、何を悩みよりなさるとですなと言った。僕が返事できないでいるとハーケンは軽々と僕を抱き上げて、テラスの手すりに座らせ、太い指で僕のあごをつまんでゆさぶりながら、かわいか顔ばして、そげん思い詰めんと、ちょこっとレスリングでもして見らんですか、すかっとしますばい、と誘った。誰と?と聞くと、私とですたい、他に誰がおりますな、と平然としている。
僕は小山のようなハーケンの巨体と、歯をむき出して笑う顔を見て、しばらくぼうっとしていたが、ひょっとしたら本当に、それってすごく気晴らしになるかもしれない、と思って、いいよ、とうなずいた。
そうしたら、少しは手加減してくれるかと思っていたのに、ハーケンは大喜びでいきなり僕を手すりからひきずり下ろして大理石の床に放り投げて転がし、もうちょっとで階段の角で頭をぶちわるところだった。飛び起きようとしたところにハーケンがどさんと乗っかって来て、危うく転がってよけたものの、下敷きになっていたら、それこそ圧死していたかもしれない。
こいつ、完全に本気で、手抜きするつもりなんか全然ないんだ、と気づいた時は遅かった。つかまったらもう最後だと思って、僕は必死で逃げ回り、ハーケンはうれしそうに吠え声をあげながら追っかけてきた。植木鉢をひっくり返しながら右に左によけていて、とうとうテラスの端に追いつめられ、大手を広げて飛びかかってきたハーケンの腕の下を、間一髪かいくぐって反対側に抜け、僕は広間に逃げ込んだ。
そこで彫像を一つと大きなつぼを一つひっくり返して、つぼはこっぱみじんに割れた。廊下に逃げ出したとたんに、重ねた皿を抱えてやって来た侍女と衝突した。
彼女は倒れて、皿も皆、回りに落ちて砕け散り、階段をかけおりて行くと、籠を抱えてやってきた誰かとまたぶつかってひっくり返し、母上のバラを植えた鉢も二つか三つ手すりから落っことし、その間ずっとハーケンがすぐ後ろにせまっているのが、大きな足音と時々あげる雄叫びの声でよくわかった。
中庭の小道で足をすべらせ、前のめりになったところを、とうとうハーケンに足首をつかまれ、倒れたところをたぐりよせられて組み敷かれて、もうだめ、手足の一本も確実に折られる、と思った時、ハーケンは走りすぎて息が切れてしまったらしく、白目をむいてあおむけにひっくりかえり、ふいごのような大きな呼吸をしながら、動かなくなった。
ほうほうのていで起き直ると、回りに人が集まってきていた。向こうの方で大騒ぎになっていて、何人もが毒蛇が逃げたぞと叫んでいた。さっき、ぶつかったのは蛇使いで、ひっくり返した籠の中には蛇が入っていたのらしい。
僕はまだぼうっとしていて何も考えられず、人々の間から父上が出て来られて僕のそばにひざまずかれた時も、何よりほっと安心して、思わず父上にすがりつこうとした。そうしたら父上は、僕の肩を両手でつかんで少し押し戻すようにしながら、厳しくはないがきっぱりした口調で、いったい何があったのか説明しなさいとおっしゃった。
ハーケンが起き直って、いやー、ただちょっとレスリングばしようとしただけですたい、皇帝陛下、ぼんはすばしこいし、足が速いし、身のこなしがよかですなあ、こりゃもう、先が楽しみですたい、と言ってくれたけれど、父上は首を振って僕を見ただけで、自分の部屋に行っていなさい、マルクス、とおだやかにおっしゃった。
それで、部屋に戻って、少しでも気持ちを落ち着かせなきゃと思って、これを書いているのだけれど、また父上を失望させてしまったと思うと、悲しくてしかたがない。
それに、蛇使いとぶつかったのも恐い。無口で陰気で、ひっそりと宮廷の中を歩き回っている、まだ若い男なのだが、何となく無気味で、皆が彼を避けて、見て見ぬふりをしている。飼っている毒蛇たちをとても大事にしているって噂を聞いたことがある。恨みをかってしまったら、どうしよう?
8月15日
昨日あれから、キケロが来て教えてくれたことによると、母上の一番大事にしていたバラが三本だいなしになり、トラキアから贈られた皿のセットは皆割れ、トラヤヌス帝の奥さまの彫像の首はもげてしまって復元不能、ギリシャの都市の代表が寄贈したつぼも砕け、蛇使いの籠から逃げ出した八ひきの毒蛇の内、六ぴきはつかまったけれど二ひきはまだ行方不明で、近衛兵までかり出されて、皆が総出で探しているとか。
泣きそうになりながら事情を説明すると、キケロは言下に、それはハーケンがよくありませんと言ってくれたけれど、そう言っているキケロ自身が不安そうな顔をしていて、皆や、父上が、僕のことをどう言っているのかわかるような気がして、ますます気持ちが落ち込んだ。
そのあとで父上が見えて、おまえだけが悪いのではないことはわかっているけれど、やはり軽率だったのはたしかだし、こんなバカなことで皆に迷惑をかけたのだから、皇帝の息子であろうと何だろうと、あやまれる相手にはきちんとあやまりなさいと言われた。
相手ってどれだけいるんだろうと思わず呆然として考え込んでいると、父上は指を折って数えて下さって、皿を贈ってくれたトラキアの貴族はおととし親戚に毒殺されたし、トラヤヌス帝の奥さまのご親族ももうおられないからいいとして、侍女と蛇使いにはあやまりに行って、ギリシャの都市の代表には、おわびの手紙を書きなさいとおっしゃるので、思わず、僕が書くのですかと聞き返してしまった。父上はとてもがまんづよい口調で、他に誰が書くんだねと言われ、僕はよっぽどハーケンと言いたかったけど、まさかそうも言えなくて黙っていると、父上は、書き上げたら直してあげるから持って来なさいとおっしゃった。
それが一番、いやなんだのに。
父上が出て行かれるとすぐ、廊下で待っていたらしいルシアスさまが飛び込んできて、宮殿中が大騒ぎだけど、いったい何が起こったのかと熱心に聞かれ、お話すると案の定、ものすごく喜んで大笑いされた。
でも、僕が何も考えられないぐらい沈み込んでいるのを見て、ご自分も心配になったらしく、手紙は家庭教師の先生に書いてもらえばいいよと言い出された。
僕らのギリシャ語の先生は、今は夏休みだから宮廷には来ていないけど、小柄なおとなしい人だ。片方の手の手首から先がなく、僕とルシアスさまや、他の貴族の生徒たちは時々、そのことでこそこそ噂話をする。嘘をついたらくいちぎられるという彫像の口に手を入れて、まちがった綴りのギリシャ語を言っちゃったんだとか、以前は剣闘士で仲間と鎖につながれて戦っていた時、あんまり弱いもんだから邪魔にされて味方から切り離されちゃったんだとか。そんな僕らのひそひそ話が耳に入っても、ちっとも怒らずにこにこしてるし、教え方もていねいで優しく、頼まれたらいやとは言えない人だから、それはいい考えかもしれないと思った。
少しだけ気分が明るくなったので、父上に言われたとおり、まず侍女のところにおわびに行った。最近、宮廷に来たばかりの侍女で、やっぱり皇帝陛下は素敵だわと大感激していた。あたしは前は剣闘士の追っかけしてたんですけど、陛下のお姿拝見してから、陛下の大ファンになっちゃって、とうとう宮廷勤めまでするようになったんですよと言っていた。
帰りに母上のところに、バラのことをおわびしに寄った。母上は、スペインから連れて来た召使たちと父上の服に刺繍をしておられたが、すぐまた芽が出るからいいの、おまえがけがをしなくてよかったわと抱きしめて下さった。あのつぼのことも気にしなくていいのよ、父上は、前からあのつぼ、模様も色も大嫌いだったんだ、マルクスがこわしてくれてうれしいなと、口笛吹いていらしたからとおっしゃったので、僕はびっくりしたのと腹が立ったのとで、こぼれかけていた涙もひっこんでしまった。母上がこんなことで嘘をおっしゃるとは思えないし、そういえば父上は、僕に話す時、いやに澄ました表情をしておられたけど、あれって父上が、笑いたいのをこらえてる時の顔なんだよね。
そう思うとくやしくて、ゆうべはなかなか眠れなかった。
今日はこれから、ギリシャ語の先生に手紙を書いて、キケロに持って行ってもらう。何となく、このくらいのことはしてもいいような気がしてきている。
8月16日
ああ、もう、何ということだろう!
キケロが昨日の夕方、ギリシャ語の先生のところに行ってくれたんだけど、先生は八月の初めにルシアスさまのもと乳母だった女の人と結婚して、奥さまと二人で故郷のギリシャに旅行していて、しばらく帰って来ないんだって。
もうショックでショックで、どう考えてもそんな「一筆啓上仕り候」「この度の不祥事かえすがえすも陳謝申すべく」みたいな、ギリシャの都市への手紙なんて僕に書けるわけないし、今日は朝から部屋でしょんぼりしていたら、大使の長女がいきなり、ここはあなたのお部屋なのと言って入ってきた。そして、あたりをうかがってから僕の前に来て座り、この前の夜のこと、誰にも言わないでいてくれたのね、ありがとう、と言った。
大使は知っているのかいと聞くと長女は、知ってるわけがないじゃないの、と少し怒ったように答えた。あたしたち三人だけで考えたことよ。
トラを逃がす目的は何なのか、できたら聞かせてくれないか、と言うと、長女は黄色い宝石のような目で僕をじっと見て、逃がすことが目的なのよ、と言った。逃がせばもう、それでいいの。
どういうことかわからない、と正直に僕は言った。そうでしょうね、と長女はうなずいて唇をかみ、末の妹の望みなの、と言った。あの子、小さい時から、動物が苦しんだり、しいたげられたりしているのが、絶対、がまんできないのよ。
ライオンに足を食べられたのに?僕は思わず聞き返した。
関係ないわ。長女は笑った。その時だってあの子、虫の息だったのに、自分を襲ったライオンを殺しちゃだめ、って叫びつづけていたんだもの。
それで君たち二人は、あの子の言いなりになって、あんなとんでもないことをしたのかい?僕はちょっと腹が立って言った。見つけたのが僕でまだよかったけど、ひとつ間違ったらヌミディアの命取りになって、ローマもゆるがす外交上の大問題に発展しかねなかったんだぞ。
そうかもね、と長女はあっさり認めた。でも、お父さまもそうだけど、あたしたち二人とも、ほんと、あの子には弱いのよ。
それにしたって限度があるよ、と思ったけど、もうそれは言わずに僕は、二度ともうしないだろうね、と念を押した。今度は僕も黙ってないからな。
長女は肩をすくめて、あなたあれからコロセウムに行って見た?と聞いた。僕が首を振ると、あたしは今日の昼行って見たけど、すごく警戒厳重になって、兵士たちがいっぱいいたわ、と言った。あれではとても、しのびこめない。妹にもそう言ってきかせたら、さんざん泣いたけど、何とかあきらめてくれたみたい。
ちょっとだけ、ほっとした。
短刀の使い方とか、戦い方とか、誰に習ったの、と聞くと果たして、お父さまよ、と長女は答えた。戦い方だけじゃないの。ダンスや歌も教わったわ。
ダンスなんて君、すごくうまそうだねと言うと、長女は首を振り、あたしも下手じゃないと思うけど、妹にはかなわない、と言った。あの太ってむっつりした次女のことらしい。ちょっと想像できないけどなあ。
あの子の踊る姿と言ったら、本当に何度見ても、この世のものとも思えない。長女は両手で胸を抱き、うっとりした目でそう言った。歌う声は、蜜のよう。でも、何年か前からあの子、ぴたっと踊りも歌もやめちゃったのよ。どんなに皆が頼んでもだめなの。
どうしてなのか、わからないのかい?
聞いても笑って答えないの。すごく、がんこで、こうと決めたら変えないし。きっと、いろいろ何か考えてるのね。本もたくさん読んでるし。
僕らはそうやって二人で、夕方まで話し込んでしまった。また遊びに来ていい?と彼女が聞くので、いつでもいいよ、と僕は言った。
父上は今日、夕食に遅れておいでになった。カッシウスがまた来て、キリスト教徒を百人ぐらい捕らえて、地下牢に入れたと報告したらしい。コロセウムの警戒が厳重になっていたのは、きっと、そのせいもあるのだろう。
8月17日
ギリシャ語の手紙書きもいやだけど、蛇使いのところに行くのも、それと同じぐらい、いやだった。
だいたい僕ら皆、蛇使い蛇使いと呼んでるけど、この男が宮廷の中で何をしてるのか、誰もよく知らないんだ。頭を剃った、やせぎすの、澄んで涼しい目をした、まだ若い男である。部下のような男も一人二人いる。
時々、すごく重要そうな会議の席にひっそり座っているのが廊下から見えたり、父上や叔母さまと小声で相談していたりすることもあるから、案外重要な仕事をしているのかもしれない。
拷問係らしいよ、とルシアスさまがある時、僕にささやかれた。それとかね、コロセウムでの残酷な処刑のしかたとか、いろんなアイディアを提供したりもするんだって。
そう言えば、カッシウスさまとよく打ち合わせをなさっているし、コモドゥス叔父さまとも親しそうである。
でも要するに、何だか恐くて気持ちが悪い。宮廷に来たばかりの小さい頃は、本当にこの男が恐くて、夜、夢に見たほどだった。考えて見ると、その頃から同じ外見だから、本当はあまり若くもないのかもしれない。僕だけではなく多分皆が、宮廷の中にこんな男がいることを、考えまい、忘れようとしているところがある。よりによって、何でまた、そんな男とぶつかってしまったのかと思うんだけれど。
それやこれやで行くのをずるずる延ばしていたのだけれど、そうすると父上から、もう行ったのか?と聞かれるのが恐くて、つい父上のお姿まで避けて逃げ回るかっこうになるし、それはいやなので、とうとう思い切って、今朝、出かけた。
蛇使いの部屋は、広間の横の廊下の階段を降りて行った地下にあった。天井近い窓からさしこむ光で中は明るく、思ったよりもすっきりしていた。でも、壁際に積み上げられた籠の中には蛇がいっぱいだし、棚の上には無気味な機械や器具がずらりと並べてあるし、薬草と蛇の匂いがまじりあってて、入ったとたんにもう逃げ出したくなった。
蛇使いの男は机の上で、コロセウムの模型を組み立てていたが、僕を見てびっくりしたようで、こんなところに何をしにおいでになりましたかマルクスさまと言った。僕が、父上に言われておわびに来たのだと言うと、男はあきれたようにしばらく僕を見ていたが、皇帝陛下はあなたをからかわれたのですよ、私どものようないやしい者のところに、あやまりに行けなどというご命令を、まともにお受け取りになったのですかと静かな、感情のない声で言った。
でも、父上に言われなくても、僕もあやまりたかったから、と、僕はしどろもどろになって言い訳し、逃げた蛇はもう皆つかまったのですか、と聞いた。
つかまりました、と男が簡単に答えたので、よかったですね、と言ったけれど、あとはもう話の接ぎ穂がなく、僕がこそこそ逃げ出しかけると、男が呼びとめて、せっかくおいでになったのですから、蛇を一匹持っておいでになりませんかと言った。
蛇ですか?と僕がどもると男は、今、出してあげますと言って、籠の中にうじゃうじゃからまりあってる中から、赤と黒の縞模様の細長い蛇を一匹はずして取り出し、小さい籠に入れてくれた。コブラの方が見た目は派手なので、好む人が多いですが、あれは見るからに下品で私はあまり好みません。この蛇の方が、色も形もすっきりしていて、しかも毒はコブラなみで私はずっと好きですと、目を細めて見ていて、僕が手を出せずにいると、これは毒を抜いてありますから心配いりませんと安心させるように言った。
そんなこと言ったって、あんなにからまりあっている中から出したのに、他のと区別がついてるんだろうかと思ったけど、せっかくくれると言ってるのを断るのも悪いと思って、礼を言って持って帰った。
キケロは、今度は蛇ですかと言って、あからさまにため息をついたが、僕がこの頃元気がないのを心配しているらしく、それ以上はもう何も言わないで、餌は生卵とかでいいのでしょうかね、ネズミでも取って来ましょうか、などと、いろいろ考えてくれていた。
カルミオンから、その話を聞いたルッシラ叔母さまが、蛇を見たいとおっしゃっておられるそうなので、明日、お持ちしようと思っている。
8月18日
ルッシラ叔母さまのところに連れて行く前に蛇に餌をやっておこうと思い、キケロにあんまり迷惑をかけちゃ悪いし果樹園に行って虫でも探そうと、夜が明けてすぐ出かけてみたら、木陰で大使の末娘が、いつもそのへんをうろついている年取って歯の抜けた軍用犬を、やさしくなでてやっていた。
近寄って、この前はごめん、恐かったろうと言うと、彼女は笑って立ち上がり、恐くなんかなかったわ、あなた、ぶるぶる震えていたもの、と小さい声で言った。あの時、あなたが言ったことも本気じゃないのはわかってる。だから、気にしないでいいのよ。
しっかりしているんだなあとびっくりして、トラのことがそんなに気になるの、と聞くと、彼女は突然泣き出した。本当に、聞いているこちらの胸がえぐられるような、切ない激しさで。キリスト教徒の人たちなんか、殺されたってちっともかわいそうじゃない、と、むせび泣きの間からとぎれとぎれに彼女は言った。自分で選んだ道なんだもの。どうなるかわかった上でのことなんだし、人間どうしの殺し合いなんだもの。でも、あのトラたちは、何もわからないままに、いきなり捕まって、長い苦しい旅をして、ここまで連れて来られたんだわ。これからどうなるかもわからないまま、あんな暗い、狭い檻の中に閉じ込められて、何を考えているかと思うと、耐えられないわ。自由だった頃の密林を、草原を、思い出しているのかもしれない。それが、ここからどれだけ遠いのか、それさえ、わからないままに。親がいなければ、餌がとれなくて飢え死にしてしまう、子どもだって、いたかもしれない。その子どもたちのことを思い出しているかもしれない。たった、この今も、あのトラたちがどうしているかと思うと、あたし、寝ていても、起きていても、何をしていても、一瞬も幸福になんかなれない。あのトラたちのことを思うと。あのトラたちの気持ちになると。そう言って、激しく彼女は泣きつづけた。
抱き寄せて、抱きしめて、その小さい身体の震えをとめてやろうとしたけれど、彼女は僕の腕の中でほとばしるように泣きつづけ、初めて僕は二人の姉娘の気持ちがわかった。僕だって、こんなに悲しい泣き声を聞いているぐらいなら、こんな苦しげな泣き声を聞かずにすむものなら、コロセウムにしのびこんで、トラの四五頭、逃がすだろう。
どのくらい、そうしていたのか。突然、彼女がぱっと顔を上げ、僕の腕から飛び出して逃げて行ったので、どうしたのかと思ったら、小道をハーケンが走ってきていた。彼は立ち止まって息を切らせながら、あらー、ぼん、この前ぼんとレスリングばして、足腰の弱さを痛感したけん、こうして朝晩、訓練をすることにしたとですが、えらい、お邪魔をしてしもうたごとありますなと言った。いいんだよ、そんなんじゃないから、と言って、僕は適当に虫を採って引き上げた。
ルッシラ叔母さまは蛇をごらんになって、これはいい蛇よと感心され、あの蛇使いが大事にしている蛇を人にくれるなんて聞いたことがないわ、マルクス、あなたよっぽど気に入られたのねと、おからかいになった。蛇は笛を喜ぶと言うけどほんとかしらと言って叔母さまが笛を持ってこさせてお吹きになると、蛇は本当にうねうねうねって、すぐ寝てしまった。うっとりしてるわと叔母さまはおっしゃったけれど、ぐったりしているようにも見えて、ちょっと心配だった。
叔母さまのお話では、キリスト教徒の処刑はやっぱり近い内に行われるらしい。父上やグラックス小父さまは反対されているけれど、元老院でも大半が処刑に賛成だから、父上だって、ご自分のお考えを押し通すことはできないだろうということだった。まあ、キリスト教徒の考え方も危険なところがあるし、時には見せしめの処刑もやむをえないでしょうねと、叔母さまはおっしゃっていた。
百人ぐらいの処刑だというので、随分、規模が小さくなったんですねと申し上げると、信者がたくさんいるという郊外の川辺の村を近衛軍が急襲したら、そこはもうもぬけのからで、カッシウスは、かつらがむれるほど頭から湯気をたててくやしがったのだそうだ。それは情報がもれていたということですかとおうかがいすると、叔母さまは、よくあることよと平然とされていた。何でも、今回、川っぷちの小屋に謎めいた老人が一人住んでいて、村人たちの脱出を助けたらしいが、証拠がつかめないのだそうだ。
帰り際に叔母さまは、ギリシャ語の手紙で困っている話をルシアスから聞いたわ、いいものをあげるわねと笑って、手箱から小さな黄ばんだ紙切れを一枚取り出し、これを大事にとっておいて、お父さまがギリシャ語のことで、今度あなたを困らせたら、これを見せてさしあげなさいとおっしゃって、僕に下さった。
8月19日
昨日、叔母さまからいただいた紙切れを、父上にお見せするつもりはなかった。別に父上が、わざと僕を困らせようとなさったことなどないのだし。
ところが、今朝、父上が突然、元老院に行く途中らしい、金糸の縫い取りのある紫と白のトーガ姿で僕の部屋に入って来られて、机の向かい側にお座りになって、手紙は少しは書けたのかとお尋ねになった。僕はすっかりあわててしまい、机の上の紙や巻物を自分の手元に引き寄せたのだが、その時、巻物の端にはさんでおいた、あの紙切れだけがひらひら落ちて、ちょうど机の上の、父上の前に残ってしまった。
父上はそれをとりあげて、とても驚いたように長いこと見ておられた。それは、小さい子どもが書いたような、とても下手なギリシャ語の練習文で、父上そっくりのきれいな文字で、いっぱいあちこち訂正してある。父上は目を伏せて読んでおられたので、まつ毛で隠れた目の表情は見えなかった。次第に唇をひきしめるようにして、小さく首を振られ、喉が詰まったように咳払いしながら、黙って紙を僕の方へと戻された。何と言っていいかわからず、ルッシラ叔母さまからいただいたのです、と口の中でつぶやくと、父上はうなずいて、何だか目を伏せたまま、指先で机の端をこすりながら、手紙の、出来ている分があったら見てもいいよ、とおっしゃった。
何となく、父上のそのしぐさや口調が、父親や教師というより、子どもや生徒のそれのようで、僕はとまどいながら、ふだんだったら決してお見せできなかったろう、間違いだらけの、下書きとも言えないめちゃくちゃな下書きを、つい気軽に差し出してしまった。父上は、まじめにそれを引き寄せて、やっぱり僕とは目を合わさないままで、一生懸命といった感じでていねいに訂正し、補充もいっぱいして下さった。そして、ここはこういう風な言葉を使った方がいいとか、この規則さえ守っていたら、あとは自由でいいんだよとか、いろいろ注意をして下さったけれど、やっぱりそれが、どこか遠慮深いというか、これでわかってもらえるんだろうかといった、おずおずした調子さえあって、そのためか、僕はいつものように緊張しないで、言われたことを落ち着いて聞けたし、とてもよく理解できた。
ありがとうございました、今日中に清書して、明日お持ちします、と申し上げると、父上はうなずかれたが、何だかまだぐずぐずしておられて、それで本当にわかるか?とか、大丈夫か?とか念を押されて、あ、忘れていたけど、もうひとつ、と説明をつけ加えたりされて、こんな言い方をして変だけど、それしか言いようがないので言うと、ほんとに何だか、うろたえておられた。僕のことをすごく心配しておられるんだけど、それは、これまでみたいな「こんなことで、この子、大丈夫か?」なんじゃなくて、どういったらいいか、まるで、ご自分が僕になってしまわれて、自分に向かって話しておいでのような、でも、話しておいでなのもご自分なので、「自分は誰なんだろう?」と混乱しておられる感じだった。自分をさがして…自分がなるはずの誰かをさがしておられるような、不安そうなご様子にも見えた。
とにかく、父上がいつまでもそうしておられるので、こっちがだんだん心配になった。果して、キケロが元老院から使いが来ておりますと呼びに来て、父上は大あわてで出て行かれた。キリスト教徒の処刑とか、重要な議題がいっぱいだったはずなのに、いいのかなあ。
気になったので、後でクイントゥス小父さまに、元老院の様子をそれとなくうかがって見たけれど、大丈夫だったみたいだ。クイントゥス小父さまは、それより、ルッシラ叔母さまが、ジュバ大使に続いて、ゲルマニアの代表とも父上以上に親密にいろいろと話をされているようなのが気がかりなようで、まったく何をたくらんでおられるのかと、首をかしげておられた。叔母さまは叔母さまなりに父上を助けようとしておられるのではありませんかと申し上げてみると、そうかもしれませんが、皇帝陛下でさえできないほどの、忌憚ない話を交わしておられるようなので、どうしてそういうおつきあいがお出来になるのかが、そもそも解せないのですよ、自分には、と眉をかすかにひそめられた。
キリスト教徒のいた村が、もぬけのからだった話も少し詳しくうかがった。川っぷちに住む謎の老人というのは、信者ではないらしいのだが、舟や馬を貸したり、金をやったりして、信者たちの逃亡を助けたらしい。しかし、証拠がないだけではなく、得体のしれないところがあるので、なかなかうかつに手が出せないのだそうである。
8月20日
夕方、やっと清書が終わった手紙を、父上のお部屋にお持ちした。父上はもう落ち着いておられて、昨日みたいに変ではなかったけれど、それでも、いつもと何となく感じがちがった。熱心に手紙に目を通して下さって、僕がどきどきしながら待っていると、目を上げて僕を見て、とてもよく書けているよとほめて下さった。僕はうれしくてたまらず、思わずにっこりしてしまうと、父上も笑い返されたけれど、また、昨日の、何だかうしろめたそうな、恥ずかしそうな、僕にではないだろうけど、お詫びでもおっしゃりたくていらっしゃるような、そわそわした様子になられかけているようだったので、僕は心配になって思わず、どうかなさったのですかと言ってしまった。
何でもないけど、と父上はおっしゃった。その「けど」と言うのが気になって、僕がその場を動かずにいると、父上はまた目をそらしながら、おまえをそんなにうれしそうに笑わせることが私にはできるのに、と、やっと聞こえるほどの小さい声でつぶやかれた。忘れていたよ。
自分の部屋に戻りながら、父上の言われたことが何だかおかしいと思った。僕は、勉強のことでは特にそうだが、父上に今日みたいにほめられたことはなく、多分、あんな顔で笑ったこともない。だから、忘れていた、とおっしゃるのは変だ。
誰か、他の子のことを思い出しておられたんだろうか。今日の僕みたいに、ほめられて、うれしくて、にっこり笑った子を。何と言われるか、どきどきしながら待っていて…安心して、ほっと全身から力が抜けて、幸福のあまり、ひとりでに…。
そんなことを思いながら、ぼんやり歩いていたら、どしんと誰かにぶつかった。またフェニキアの水差しでも抱えた召使か、蛇使いかと思ってぞっとしたけど、それは大使の次女だった。
でも、思いきりぶつかったので、僕は唇を少し切り、彼女は額にこぶを作り、足も痛めたみたいだったので、僕はあわてて手を貸して、そばの小さいテラスに連れて行き、チュニックを脱いで、そばの水盤の水に濡らして足を冷やしてやった。
でも、次女の足首はみるみる腫れ上がって行き、僕はあわてて、君、踊りがすごく上手なのに、足がどうかなったらどうしようと口走った。
次女はそれまで一言も言わず、僕にされるままになっていて無表情だったが、それを聞くとそっけなく、誰に聞いたのと言い、僕の返事も待たずに、姉はほんとにおしゃべりだからと吐いて捨てるように言った。
明るくていい子だよと僕が言うと、次女はつっかかるように、そんな嘘、言わなくていいのよ、姉があなたのお父さまにべたべたするのを見て、アフリカ女は子どもでもみだらだって、さげすんでいたんでしょうと、とげとげしく言った。野蛮な民族はセックスしか楽しみがなくて、子どもばかりぼろぼろ産んで困ったものだ、ローマの文化でしっかり教育して、もっと上品に作りかえなきゃと思っているんじゃないの?
僕はそんなこと言ってない、と思わずひるんで口ごもると、あ、そう、と次女は乾いた声で笑った。じゃ、他の人たちは言ってたのね。
何とも言いようがなくて、しばらく黙っていた後で、僕は聞いてみた。君、それだから、歌も踊りもやめたのかい。
あなたの知ったことじゃないわ、と次女は言ったが、長いこと黙った後で、また口を開いた。姉のように人が好くて、のびのびと生きていたら、愛されるけど軽蔑されて、それがそのまま、征服され支配される理由になるのよ。私は、愛されなくてもいい。一人前の人間として、きちんと扱われ、尊敬されたい。
その声は、かすかに震えていた。隠そうとしていても、とても豊かで美しかった。僕は思わず、彼女の足をつかんだまま、彼女を見上げた。
…僕は、君の歌が聞きたいな。踊りも見たい。
次女は、じっと僕を見下ろした。生きている限り、きっと、そんな日は来ないわね。彼女は重い口調で答えた。ヌミディアにいる時から、そんな気はしていたのよ。でも、ローマに来て、いろんなものを見て、人とも会って、私にはよくわかったわ。私たちが虐げられる日は、まだまだ長く続くって。気が遠くなるほど先までね。
だけど、希望は捨てないわ。彼女は僕を見下ろして言った。絶対に、あきらめないわ。たとえ、私は生きている間に踊りも歌いもしなくても、いつかはきっと、私のような女たちも、愛されても軽蔑される心配をせずに、心おきなく生き生きと踊って歌える、そんな世界が必ず来る。それを信じることはやめないわ。その日をめざして、戦うわ。たとえ、その日がどんなに先でも、どんなに不可能なことに見えても、どんなに何度も失敗しても、私は絶対、あきらめないわ。
僕は何も言えなくて、ただ彼女を見上げていた。女王のような顔だった。威厳と、悲しみと、若々しさと、力強さにあふれて、本当に、輝いているようだった。
彼女は微笑した。ありがとう。もう歩けるから大丈夫。
そして、僕の肩に手をついて彼女が立ち上がろうとした時、廊下の方でいきなり、「誰か、そこにおらるっとですな?」という、聞き覚えのある大声が響いた。「もう暗かとに明かりもつけんで、どげんしたとかいねえ、こりゃ?」
次女はびっくりして、身体のバランスを失って、僕の腕の中に倒れ込んだ。したがって、ハーケンがテラスに出て来て、僕らの前に立った時、見たのは、上半身裸で唇に血をにじませている僕に、衣のすそを膝までまくった次女が抱かれて、二人とも息をはずませている姿、だったことになる。
あらー、ぼん、と、ハーケンは腕組みをして、僕を見下ろし忠告した。こげんことばする時は、年上の方から順に相手ばしてやんなさるものですたい。ぼんのしよることは、順序がああた、逆さまじゃなかですな。
ちがうんだよ、と、息も絶え絶えに僕が言いかけるとハーケンは、よかですよかです、お父上にも誰にも言いませんけん、と手を振って、廊下の方へ行ってしまった。
僕たちはなかば呆然としながら、身体を離して立ち上がったが、何だかもうどうしようもなくおかしくなって、どちらからともなく、ぶるぶる身体を震わせて声を殺して笑っていた。ごめんなさい、と次女が言うので、君のさっきの話だと、君の方に迷惑がかかるんじゃないか、と言うと、次女はそれならそれでかまわない、そうなったらそうなった時だわと開き直ったように言っていた。
8月21日
今日、ルッシラ叔母さまに、あの紙切れをお返しして、ごらんになった時の父上の様子も話すと、叔母さまは微笑して、大切そうに指で紙をなでながら、あなたの父上のことを私が初めて知ったのは、この紙切れだった、とおっしゃった。
「これは、父上の字なの?」と、僕はびっくりして聞いた。「この下手なのが?じゃ、ずっとまだ小さい時だね?」
今のあなたより、もっと大きかったのじゃないかしら、と叔母さまは笑った。叔母さまのお父さまは、僕がその名をいただいた、とても偉大な大皇帝で、ひとり娘だった叔母さまは可愛がられて、おそばでいつも、お話をしておられたのだそうだ。ある時、そのお父さまが、とても下手なギリシャ語やラテン語の作文を訂正しておられるのを見て、その間違いの多さと字の下手さにあきれながら、誰が書いたのかと聞くと、若い少年兵で田舎から出て来た、とても優秀な子がいるので、今いろいろと勉強を教えてやっているのだと、お父さまはとてもいとおしそうに目を細めておっしゃったそうだ。
「今でも覚えてるわよ」叔母さまは黄ばんだ紙の上に指をのせたまま、少女のように目をきらめかせた。「生まれて初めてあの時に、私は人に嫉妬したわ。お父さまの首に腕を回してからみついて甘えながら、目はどうしてもその紙から離せなかった。こんな間違いだらけの下手な字しか書けない子に、お父さまがこんなに夢中になるなんて、と思って」
こめかみに一房の白髪が混じる、聡明で気品に満ちた叔母さまのお顔をながめていると、大皇帝に甘えている、昔の美しい、気位の高い、小さな少女の姿が見える気がした。もっとも、油断していると、それはすうっと、ジュバ大使の首にかじりついている長女の姿になってしまいそうでもあったが。
じゃ、本物の父上に会ったのはいつ?とお聞きすると、叔母さまはすぐ、それから半年ほど後の秋の日だったわ、とおっしゃった。お父さまについて、ローマの近くの軍の駐屯地に行き、他の兵士たちと兵営を作る工事をしているあなたのお父上の姿を、馬の上から見たのが最初よ、と。
「銀杏の木が金色の葉をいっぱいにつけていたわ」
叔母さまは、夢見るようにつぶやかれた。
「あなたのお父上は、その葉が落ちて来る中で、皆の中心になって、背の高さ以上もある大きな 滑車を回そうと工夫していた。私のお父さまが呼ぶと、銀杏の葉が散る中を、こちらに走って来た。まるで、金色の雨に包まれているようだった」
「僕に似てたの?」
思い切ってそう聞くと、叔母さまは笑って首を振り、その時のお父上より、今のあなたの方がずっとかわいい、と言った。泥だらけだったし、髪もくしゃくしゃのぼさぼさで、こんなぼうっとした、みるからに田舎者の少年のどこが、お父さまは気に入られたのかしらと、思わずじろじろ見てしまったわ、と。
「こんな子が私のライバル?そう思うと、すごくプライドを傷つけられて、自分がみじめに思えたくらい」
「ライバル?」
「私はそれまで名実ともに、お父さまの一番のお気に入りだったもの。お父さまが、その時に、あなたのお父上に向けていたような笑顔は、この私以外の人には向けられるはずのないものだったの」
では、父上は?と僕は思った。父上はどんな気持ちで、初めて見る叔母さまを見ていたのだろう。そう聞くと叔母さまはちょっと笑って、腹立たしそうな、なつかしそうな顔で、「ああ、女の子だあ」って感じかしらね、とおっしゃった。
何ですか、それ?とちょっとあっけにとられてお聞きすると、叔母さまは、要するにライバルの範疇になんか全然入ってもないって顔よ、と言いながら笑い出された。あなただってわかるでしょう。あなたのお父上、今でもそういうところあるでしょう。相手によっては、ときどきあれはムカツクと思うわよ。
え、どういうことなんだろう…と僕が口ごもると、叔母さまは、元老院の古参議員たちをもたじたじとさせる、例の口調で皮肉たっぷり、まくしたてられた。
守ってやらなきゃ。足手まといになって当然。かみつかれても怒っちゃいけない。大切にしなきゃ。自分みたいに強くないんだから。何を言われても聞いてあげなきゃ。何もわかってないんだから。 いつも、きれいに、幸福にさせとかなくちゃ。とても傷つきやすいんだから。
まくしたてながら、叔母さまは笑い出し、おかし涙をぬぐっていた。
とても辛辣で、意地悪な口調なのに、あふれるような愛情がこもっていた。
僕は何だか心がかきむしられるような気がして黙っていた。わけもなく涙が出てきそうだった。とうとう、小さな声で言った。叔母さま、それは、父上は…女の子に対してだけ、そうなんじゃないと思うよ。
そうよ、マルクス。あなただってわかってるはずだわ。叔母さまは、机の上の僕の手に自分の手を重ねてゆすった。わかるでしょう。あの人は、そんな小さい、ぺえぺえの田舎者の兵士だった頃から、もう、そうだったの。いつも、人の上に立ち、皆を守ってやる、指揮官の目で、ものを見ていた。私のお父さまの目は正しかった。あの人は生まれながらにリーダーとして生きる人だった。でもね、でもよ。対等の立場で話し合いたいと思っている相手にとっては、あれは本当に、本当に、人をバカにした態度だわ。ヌミディアの大使も、ゲルマニアの代表も、どれだけそれで傷ついているか、あの人にはわかってない。マルクス、あの人はローマよ。ローマそのものなの。がんぜない子どもを教えさとすように、あなたたちのように文化の低い国を教え導いて守るのが、我々の務めです、と言わんばかりの、あの態度!大使も代表も、よく我慢してるわ。彼らの方が、よっぽど大人よ。私は、彼らの気持ちがわかる。昔、あなたの父上から、同じような目で見られていたから、彼らの怒りや、傷つけられた誇りがわかる。彼らが、何にこだわっているのか、何を問題にしているのか、あなたの父上には見えないものが、私には見えるのよ。だから、彼らと本音で話し合えるし、かけひきなしの交渉もできるの。世の中ってそういうものよ、マルクス。弱みはいつか、強みにもなる。わかる、マルクス?だから、あなたも負けてはだめよ。
ああ、ルッシラ叔母さまって、ほんとに素敵だ。大好きだ。今日、あらためて、つくづく思った。
8月22日
何だかこのごろ、ルシアスさまが元気がない。
このごろ、と言ったって、僕もこの数日、自分のことでいろいろあって頭がいっぱいだったから、ルシアスさまがいつからおかしくなったのか、正確には思い出せない。
ただ、何となくしおれておいでで、話しかけても返事をなさらず考え込んでおられたりして、こんなの、ほんとに珍しい…と言うよりも、初めてだ。
今日はコロセウムでキリスト教徒たちの処刑が行われ、僕らも一応見に行ったのだけど、コモドゥス叔父さまが熱心に見て大喜びしておられたのに比べると、ルシアスさまはまるで何も見えていないかのように、ぼうっとしていて静かだった。
僕たちの警護をしていた、いかつい顔の近衛兵の士官が、元剣闘士のタイグリスが来てますよと教えてくれた時も、ちらっと興味をひかれたように、そちらに目をやられたけれど、それっきりだった。
タイグリスはものすごく太って、美少年を何人も侍らせて客席にふんぞりかえり、ぐいぐい酒を飲んでいた。今、あの人、何をしているんだいと士官に聞くと、剣闘士の料理係をしていた男と共同経営の食堂を開いて大儲けしているそうですと教えてくれた。
ルシアスさまがあまりひっそり静かなので、僕は教えそびれてしまったけれど、殺されたキリスト教徒たちの中に、以前ルシアスさまの養育係をしていて、僕のことも可愛がってくれて、おもちゃの風車などを作ってくれた男が確かにいたような気がする。母親らしい白髪の老女をかばうように立っていて、皆といっしょに物悲しい不思議な歌を歌っていたが、トラに襲いかかられる直前、僕らの方を見上げ、僕と目が合うとにっこり笑って両手をさしのべた。トラがすぐ、その人たちに飛びかかってかみ砕き、信者たちが皆死んだ後、トラたちも皆、矢で射殺された。大使の末娘は、僕のすぐそばで、それをじっと見守っていた。椅子の手すりを砕けるほど固く握りしめていたけれど、涙ひとつ見せなかった。
父上は細い金の冠をかぶり豪奢な金色と青の衣装に身を包んで、神様のように堂々と立派に見えたけれど、後でルッシラ叔母さまが「鎖につながれる時の奴隷だって、あんなに観念してあきらめきった顔はしてないわよ」と評したぐらい、徹底的に気の乗ってない表情で、導かれるまま黙って貴賓席におつきになり、血なまぐさい演し物に大喜びした民衆の送る歓呼の声に、礼儀正しい静かな笑顔で手をあげて応えておられた。「売春婦が嫌いな客に向ける営業用の笑顔でも、もうちょっとは暖かいんじゃないのか」と、コモドゥス叔父さまがあきれて僕にささやかれたぐらいだ。
実は僕は、叔母さまと叔父さまのおっしゃることが、いま一つわからずにいたのだが、帰る途中で客席から、ひげもじゃのたくましい男が「将軍、お久しぶりです」と声をかけた時、振り向いたとたんに父上の顔にみるみる広がった、暖かく熱っぽい、あけっぱなしの親しみにあふれた笑いを見て、たった今までの笑顔がどれだけ偽物だったか思い知らされてショックを受けた。男は父上の軍隊時代の部下でヴァレリウスと言い、今は退役して故郷でワインを作っているらしい。「こんなもの見たくもなかったんですが」と男はアリーナの方にあごをしゃくり、「でも、ひょっとして、お目にかかれるかもしれないと思って出て来ました」と笑った。父上も本当になつかしそうに男の手を握って放さず、「あの頃の方がずっとよかったよ。敵ははっきりしていたし、おまえたちがいてくれたし」と言われた。「自分も、あの頃が最高でした」と男はちょっと鼻をすすり、「今は、かみさんにどなられてばかりです。平和ってやつはつまらんですなあ」と、笑いながらぼやいた。クイントゥス小父さまも、そばでなつかしそうにしておられ、男が「おい、将軍を頼むぞ」と言うと黙ってうなずき、男と肩をたたき合いながら、心なしか目を赤くしておられたようなのが、本当に珍しい。
母上も終始、氷のような冷たい表情で、にこりともされなかった。ガイウス議員の奥さまが、あの方、皇后らしい貫禄がおつきになってきましたわねと、ささやいておられたぐらいだ。宮廷に帰ってルッシラ叔母さまが、処刑もやむをえないというようなことをおっしゃると、母上は珍しく冷やかに、ルシアスさまのご様子がおかしいのは、あんなものをごらんになったショックではないのですかと言って、叔母さまをぎょっとさせていた。
8月23日
今朝、奥庭で薬草を採っている蛇使いに会った。あいさつすると、蛇は元気ですかと言うので、とても元気だよ、ミルクが好きみたいだと言うと、ハエをやっておけば充分ですと言った。僕が昨日、剣の練習をしている時にけがした指を見て、薬草をちぎってつけてくれ、もっといい薬があるから、今度キケロさまに届けておきますと言うので、君の部屋に取りに行くよと言うと、笑って答えなかった。
母上が昨日、あんなことを言ったので、叔母さまもルシアスさまの様子に気づいて、気にしておられる。父上も心配して、明日にでも、ご本人に皆でお尋ねしてみようかとおっしゃっていた。
僕は絶対、この件には、コモドゥス叔父さまがからんでいるとにらんでいた。いつかの地下闘技場のこと以来、もう口もききたくなかったけれど、今日、果樹園のオレンジの木の下で、叔父さまが気持ちよさそうに昼寝しておられたので、いったいルシアスさまに何を言ったのかと、とっちめてみた。でも叔父さまは、にやにや笑って話をはぐらかし、おれも最近、おまえたちがちっともつきあってくれないし、退屈でさあ、とか、わざと哀れっぽく言ったりするので、僕もとうとうかんしゃくを起こして、ひょっとしてルシアスさまがあんまり幸福そうだから、不幸にしたくなったんじゃないのと聞いてみた。すると叔父さまは、おまえ、ほんとにいいとこつくよなあ、と感心し、その通りだよ、あんな年中幸せそうなやつの顔見ていたら、たまには悩む顔とか泣く顔とか見たいと思うようにならないか、普通?とおっしゃった。
ならないね、そんな気持ちになるのはあんただけだろ、と言い返すと叔父さまは、そりゃ変だ、と首をかしげた。どうして皆、そんな気持ちにならんのだろう?
あんたはおかしいんだよ。僕がそう吐き捨てると叔父さまは、そうは思わんね、と、いやにまじめに首を振られた。おまえの父親は知らないが、あとのやつらはだいたい皆、おれと似たこと考えてるって。おれが皆より一足先に、そういうことをしたり言ったりするから、皆がしないですんでるだけさ。心の中じゃ皆、おれのすること喜んでるんだ。
叔父さまは草の上にひじをつき、じだらくな格好で横たわったまま、悠然と僕を見た。おれがいないと皆が困る。おれがいなきゃ、絶対に、誰かが代わりに同じことする。人間ってのはな、きれいなものは汚したいし、完全なものはこわしたいんだよ。
ちがう、絶対そんなことない、とむきになって僕が首を振ると、叔父さまは、あの、とても魅力的な危険な笑みを浮かべた。隠すなよ。おまえだってルシアスのこと、内心バカだと思ってるだろ。自分の方が皇帝にはふさわしいと思ってるだろ。正々堂々と戦えば、絶対、自分が勝つって知ってるだろ。見てたらちゃんとわかるんだぞ。
あんたは、誰の中にも、自分と同じ汚いものを見つけるのか。僕は言い返した。それがあんたの生きがいか。
見つけたくなくても見つかるんだからしかたがないよな、と叔父さまはうそぶいた。おれがこれまで生きてきて、そういうものがまったく見つからなかったのは、おまえの父親ただ一人だよ。あいつだけは、どれだけ見てても、そういうものが見つからなかった。でもな、あれはあれで、どっかおかしいんだ。あいつは普通じゃないんだよ。だから見ろ、あいつはいつも、他人の気持ちがわからんだろ。他人もあいつの前に出ると、自分の汚いところが出せないから、無理して、嘘ついて、緊張して疲れまくる。おまえだってそうだろう、マルクス?父親の前じゃ、ほんとの自分じゃいられないだろ?いつも自分を作ってるから、へとへとだろ?白状しろよ。おれといっしょにいる方が、ずっと自分に正直になれて、無理をしないでいられるから、ほんとは気楽で楽しいんじゃないのか。それが恐いから、おれのこと避けて、逃げ回ってるんだろうが。
本当にもう、ルッシラ叔母さまに同感だ。こんな方はさっさとどこかの地下牢にでも幽閉して、壁をぬりこめてしまうべきだ。
どうやって叔父さまの前から逃げ出し、自分の部屋に帰ってきたのか、僕は覚えてもいない。服も脱がずに寝台に倒れ込み、枕に顔を埋めると、泣けて泣けてしかたがなかった。叔父さまの言ったことは皆、本当だ。何から何まで、皆そのとおりだ。でも、そんなこと、認めたくない。絶対に、絶対に、認めたくない。
8月24日
今日の夜、叔母さま、父上、母上、僕で、ルシアスさまのお部屋で、ルシアスさまに事情を聞いた。そうしたら、ルシアスさまご自身、もう限界でいらっしゃったのか、案外すらすらと、あっさりお話になったのは、何と、コモドゥス叔父さまは、父上と叔母さまが昔、愛し合っていて、二人の間に生まれたのが僕、マルクスで、ルシアスさまは、ヴァレスさまと女剣闘士が浮気をしてできた子だと話したのらしい。だから、ルシアスさまは剣闘士が好きなんだとか、叔母さまがルシアスさまより僕の方をかわいがるんだとか、母上は僕を皇帝にしたら、父上と叔母さまの仲が復活すると思って猛反対したから、僕は皇太子になってないんだとか、そういう尾ひれも、いろいろついてた。
聞いた一同、完全に固まってしまった。実は、僕は叔父さまにしては今回はけっこう独創性のあるシナリオじゃないかと、ちょっと感心したし、ルシアスさまが、その話をかなり信じきってしまっておられるのは、ご性格としてわかるけど、こうやって打ち明けてくださったら、あとはもう皆で笑って否定すればいいと楽観してた。
ところが気づくと、父上と叔母さまが明らかに動揺してるし、母上も妙に緊張しているし、その場の雰囲気が何かおかしい。どうしたんだろうと思っていると、ようやく父上がルシアスさまの前にひざまずいて、お手を取ってお顔をのぞきこまれながら、殿下、それは何から何までコモドゥスさまが殿下をおからかいになった作り話です、と言った。殿下はヴァレス皇帝陛下と、ルッシラ皇太后さまのお子さま、マルクスは私たち夫婦の子どもです。女剣闘士など、宮廷に出入りしたこともございません。私たちは皆、あなたに次の皇帝になっていただきたいし、私も皇后も、マルクスにはあなたの忠実な家来になる以外、何も望んでおりません。命にかけて、名誉にかけて、誓います。
ルシアスさまはじっと父上を見つめて聞いていて、次第に安心されてきたのが、お顔の色でわかったが、父上が最後に笑って、よろしいですね、そんな根も葉もない話はもう、忘れてしまって下さいますねと念を押すと、うなずかれて、では、母とあなたが昔、愛し合ったというのも嘘なのですねと確かめられた。
僕は小さい頃、家のそばで、わなにかかってもがいている野生のポニーを見たことが何度かある。父上は一瞬、その時のポニーとそっくり同じ目つきになられた。そして、ルシアスさまがすがるような目で見つめていると、ようやく「もちろんです。何もな…」とまで、ほんとに言いかけられたのだが、その時いきなりルッシラ叔母さまが立ち上がり、やめてちょうだい、全部本当のことを言わなければ、この子には何が本当で何が嘘なのか区別がつかなくなるわと叫んだ。
そして、ルシアスさまに向かって、あの呪われた大嘘つきがおまえにして聞かせた話の、そこだけは本当よ、ときっぱりおっしゃった。私は昔、この人と熱烈に愛し合ったわ、駐屯地のそばの草むらや森の中で、ほとんど毎日抱き合ったわよ。ちょうど、この人が今のマルクスぐらいの時よ、初めて愛し合ったのは。だから、マルクスを見てると思い出して、ついついかわいがってしまうのよ。ええ、今だってこの人を愛しているわ、機会があったら寝たいわよ。それをしないでいるのは、おまえを愛しているからだわ。おまえがいるから耐えられるんだわ。おまえを見てると、私がこの人を愛しているのを充分知っていた上で、それでも途方もないぐらい大らかな、暖かい愛で私を包んでくれた、おまえの父親を思い出して、生きていく力がわくのよ。その人の子であるおまえを、命にかけても守り抜こうと思うのよ。そんな私の気も知らないで、あんなバカの話を信用するなんてひどすぎる。そう言って叔母さまは、そのまま部屋を走り出て行ってしまわれた。
母上は、呆然としているルシアスさまを抱きしめて涙ぐみながら、あの人は母親じゃないわ、子どもの前ではついてやらなきゃならない嘘だってあるんだのに、と激怒しながらも気にして、父上に、あの方が心配だわ、見に行ってあげて下さいと頼んだ。父上は、行けるわけがないだろうと言下にきっぱり断られ、母上は、行けるわけがないなんて、それはいったいどういうことなんですかと顔色を変えられて、何だかこっちの雰囲気も相当険悪になってきたので、僕は、僕が行くよと言って、叔母さまをさがしにかけ出した。
叔母さまは、中庭の噴水のふちにすわりこんで頭を抱えておられ、僕が近づいて前に立つと、顔は上げられなかったが、気配で僕とおわかりになったのだろう、「あー、もう私って」と、うめくようにおっしゃった。「ほんとに、いやな女ねえ」
叔母さまの隣に座って、そんなことないよ、と僕は慰めてさしあげた。あの方がよかったと思うよ、ルシアスさまには。叔母さまの言ったとおりだよ。ひとつのことで嘘ついたら、他のことまで嘘になっちゃう。
優しいのね、マルクス、と叔母さまは、子どものように手放しですすり泣かれた。どうして、そんなに優しいの。そして、僕の首に、いい匂いのするなめらかな熱い肌の腕を回して、すがりついて来られた。何がどうしてそうなったのか、気がついたら僕のチュニックも肌着もどっかに消えてて、叔母さまの火のように熱い唇が、首すじに肩に胸に、次から次へと押しつけられていた。あまりにもとっさのことで、まるっきりもう夢を見ているようで、これって、めっちゃくちゃ危ない状況かもしれないと思ったり、もうそういう段階はとっくに通り過ぎてるような気もしたりして、どうしようどうしようとあせっている間にも、叔母さまのだんだん激しくなる口づけが、それこそ雨のように脇腹からみぞおちにまで降り注ぎつづけ、身体が熱くなり、手足から力が抜け、頭はぼうっとしびれはじめ、もういっそ、なるようになってしまおうかしらという気持ちに、僕はほとんどなりかけた。
その時、背後の暗闇の中から、「あらー、お二人とも、こげんところで、何ばしよんなさっとですなあ」という、のんきに間のびした、聞き覚えのある大声が響いた。
げっと思って振り向くと、果して、案の定、ハーケンがいた。ごていねいにも今日はその後ろに何とゲルマニアの代表までがいて、大木のように突っ立ったまま、もしゃもしゃの髭と髪の間から、目を丸くしてまじまじとこちらを見ている。
ルッシラ叔母さまは、すばやく身を起こすと走り去ってしまわれた。
ハーケンは僕の顔を見て呆然としたようだ。「ひゃー、ぼん、また、あんたですな」と感に耐えたような声を出した。「それに、今のあの方はひょっとして皇太后さまやなかったとですな」
僕はもう、何を弁解する気力もなく、足元に落ちていた服を拾って、早々に逃げ出した。「頭領、こりゃあ、もう、何ちゅうたらよかですかなあ」と後ろでハーケンが大きな声で、言っているのが聞こえて来た。「ローマは、やっぱあ、乱れとりますばい」
8月25日
ゆうべのことを思い出すと、考えたくない考えたくないと頭が拒否してしまうのか、また気を失ったように眠ってしまう、ということを何度もくりかえし、夕方やっと寝台から出た。
何だかまだ全身に叔母さまの甘い香りがしているようで、入浴でもしたら頭がはっきりするかもしれないと思って、浴場に行った。こんな時間だから誰もいるはずないと思っていたら、たしかに誰もいなかったけど、ちょうどローブを着てひきあげようとしていた父上とばったり出くわしてしまった。
父上も本当は僕と会って間が悪かったのかもしれない。でも、それを忘れてしまうくらい、きっと僕がひどい顔をしていたのだろう。マルクス、大丈夫かと心配そうに声をかけて歩み寄って来られた。
大丈夫です、とお答えしながら、早く浴室に入ってしまおうとあせって、僕は急いでチュニックを脱いだ。それが悪かった。父上は息を呑むようにして僕を引き寄せられ、どうしたんだ、その傷はと聞かれたが、すぐそれが傷ではなくてキスの痕だと気づかれたらしく、僕から手を放されて、たじたじとしたお顔になられた。
僕だって知らなかったもの。一日たったら、身体につけられたキスの痕って、あんなに目立つようになってしまうものだなんて。
いったい、おまえ、誰とそんな…とつぶやかれながら父上は明らかに、誰か相手を思い浮かべようとされて誰も思いつけずパニックになりかけておられた。まさかおまえ、大使の娘と…
ちがうよ。と反射的に僕は言ってしまった。ゆうべ、ルッシラ叔母さまと…
その時の父上の顔と言ったら、僕は一瞬、大使の娘どころかルシアスさまが相手とでも言った方が、まだましだったのではあるまいかと真剣に後悔したぐらいだ。ルッシラと?と、力も何もぬけきった、夢でも見ているような声でつぶやかれた後、父上はがっくり壁際の椅子に座り込んで、何であの時、おまえを行かせたりしたんだろう、私は父親失格だ、とため息まじりにひとり言を言った。
僕でよかったんだよ、と僕は言ってやった。父上が行ってたら、これぐらいではきっと、すまなかったよ。
父上はぎょっとしたように僕を見て、これぐらいって言うのは、どれぐらいなんだ?と聞いてきた。
「よしてよ、もう」僕は父上の斜め向かいの椅子に座りながら言った。「キスだけだよ。上半身だけ」
「本当に?」
「それ以上の何があるってんだよ?何かあってほしいわけ?」僕はかんしゃくを起こして言った。「だいたいね、ルッシラ叔母さまは、あのお年だよ!僕なんかと何かあったりするわけないだろう?」
わかるものか、まだ充分に魅力がある、と父上は言い返され、それから吐息をついて、母上には言うなよ、と念を押した。
言うわけないだろ、と僕は答えた。もうこれ以上、ごたごたはごめんだよ。
父上が頭を振って、どうだかわかったものではないという様子をしたので、僕は、言っとくけどほんとに、あっという間のことだったんだからね、と繰り返した。気がついたら、肌着まで脱がされてて、それで…。
ルッシラは、服を脱がせるのがうまいんだよ、と父上は壁に頭と肩をもたせかけたまま、疲れた口調でつぶやいた。抱き合っていたと思ったらもう、するっと脱がせてしまうんだから。ほんとに、何が起こったかもこっちがわからないでいる内に。だから、おまえの言ってることが本当なのはわかってる。
まったくもう、これが親子の会話だろうかと、しびれた頭の片隅で思いながらも、僕は頭がぼうっとしているついでに、そうやって半分死にかかったような格好で、柔らかな黄褐色のローブをまとって壁にもたれかかっている父上って、けっこう色っぽいなあと恐ろしいことを考えていた。ルッシラ叔母さまも母上も、きっとこういう、いつもはとってもまっとうで、健全そのものみたいな父上の、変にけだるい、ものうげなところに、ふらっと来ちゃったんだろうなあ。
ええもう、僕は何を考えているんだろう。これではまるで、カッシウスやコモドゥス叔父さまと紙一重ではないか。
そう思って、頭をぶるぶる振って立ち上がると、僕は父上に、もう行くよ、ときっぱり言った。僕は全然、何ともないし、大丈夫だからね。しっかりしてよね。
父上は何かもう、ほとんど投げやりになってんじゃないのあんたと言いたくなるぐらい、ぐったりした格好で目を閉じたまま黙ってうなずき、僕はまた、ああ、こういうところが女の人にとってはきっと抱きしめたくなるぐらいかわいいんだ、と納得した。息子の僕だってそう思うんだもの。わざとやってるわけでは全然ないんだろうけど、この何だかわからない変なかわいらしさは、まったくコモドゥス叔父さまが束になってかかってもかなうまい。
父上って、何だかだ言ってもプライドのない人なんだと、しみじみ思った。女の人の前だろうと子どもの前だろうと、こうして無邪気に無防備に、平気で弱さをさらけ出してしまう。だから、キケロだってクイントゥス叔父さまだって、守ってさし上げなくては、っていう心境にきっとなってしまうんだ、父上のことを。
金色の夕陽が射し込んで、茜色と薄紫のタイルの色をいやが上にも輝かせている、広いがらんとした浴場で、浴槽に一人で身体を沈めていると、何だかコモドゥス叔父さまのにやにや笑いが、そのへんにちらついているような気がした。見ろ、この世の中に偉大なものなんてないんだ、と勝ち誇ったように、その顔が言った。おまえももう、父親のことを尊敬なんてしてないだろう。さっきのあの言葉づかいは何だい?おれに対するよりひどかったじゃないか。
いいんだ、前ほど尊敬はしてないかもしれないけど、前よりずっと、好きだもの。僕は叔父さまの幻に向かって言い返し、鼻白んだその顔に向かって、更にとどめをさしてやった。あんたのおかげさ。感謝してるよ。だから、どっかの壁の中に塗り込めたりするのはやめとく。あんたを地上に自由に歩き回らせとくのって危険なことはわかるけど、でも、あんたみたいな人も、やっぱりいないと困るもの。
叔父さまの幻は、ちょっとうれしそうな、ちょっとくやしそうな顔になりながら、湯気の中にゆらゆらと、ゆれて、ゆがんで、消えて行った。
8月26日
朝から、この夏一番じゃないかというような暑さだった。宮殿の人たちは皆、広くて噴水のある中庭のあちこちや、その周囲のテラスでくつろいでいた。もう夏休みも残り少ないし、音楽の先生にお会いする時のために、たて琴の練習をしておこうと思ったら、弦の調子がおかしくなってて、父上に直していただこうと思って探しに行ったら、中庭に面したテラスの階段に、簡素な濃緑のチュニック姿で手すりにもたれて座っておられた。少し、ゆうべと似た姿勢だったので、何となく思い出しながら近づいて行ってお願いすると、やっぱり思い出しておられるのか、ちょっとまぶしそうに目をそらされながら、黙ってたて琴をうけとられた。
でも、すぐに直して下さって、軽く試し弾きされながら、小声でローマ軍の歌を歌っておられた。その内に僕が一番好きな、いつか戦いが終わったら故郷に帰って麦を刈ろう、という甘いきれいなメロディーを口ずさまれたので、思わずお膝によりかかって、僕その歌が一番好き、とつぶやくと、父上は笑って片手で僕の髪をくしゃくしゃにし、はじめから歌いなおして下さった。次第にその声は高くなり、暑いよどんだ空気を清々しくふるわせて中庭全体に流れて行き、そこにいた人たち皆がうっとりと聞きほれてしまった。
その時、父上の歌声を断ち切るように、低く太い豊かな声量の歌声が、まるで地の底からわき出るように噴水のそばから起こった。はじめは僕らにわからない異国の言葉で、次にたどたどしい僕らの言葉で、歌は繰り返された。
荒れ果てた大地の上で
憎しみの炎を燃やせ
国を荒らす者に、声を限りに叫べ
我らは戦い抜く、最後の一人まで
物悲しいが力強い、魂をゆさぶる声だった。中庭にいた皆が、声のしている方を見た。噴水のかたわらに立って歌っているのはゲルマニアの代表だった。会談の席でもどこでも、ぼそぼそと小さな声で一言二言言う他は口を開いたこともない、あの髭だらけの大男だった。
長くつづく暗い夜に
とむらいの歌を歌え
死に果てた木々よ、殺された友よ
すべてはよみがえる、鎖の解ける朝に
朗々と流れる歌声の中に、燃え上がる森が、倒れて行く人々が見える気がして、僕は父上にすがりついた。父上は僕を引き寄せ、歌うのをやめたが、たて琴だけは弾きつづけて、代表の歌に合わせておられた。
と、突然、荒々しい太鼓の音が空気をつんざいた。ジュバ大使とその長女が、手を取り合って中庭の真ん中に躍り出てきた。ひびきわたる太鼓のリズムに乗って、二人は白い歯を見せて笑いながら突き飛ばし合うような激しさで、中庭中を踊りまくった。向こうの木陰で太鼓を打っているのは、大使の末娘だった。あの小さい身体のどこにそんな力がかくされていたのかと驚くような力強さで、耐えてきた何かをたたきつけるように、髪を振り乱して全身で、彼女は太鼓を打ちつづけていた。
中庭をとりまく二階のテラスのあちこちから、かけ声が、手拍子が起こり始めた。父上はちらと笑って、たて琴を抱え直し、スペインの明るい民謡を歌い出した。たちまち、その調べに引かれるように、侍女たちの拍手と笑い声に包まれて駆け出して来た母上が、髪にバラの花をさしながら、すっと身体をかがめたと思うと、上品な細いローマの衣装の裾を、びりびりと膝まで引き裂き、サンダルを脱ぎ捨てはだしになって、二人の踊りに加わった。大使や長女と入り乱れて、手を打ち、のけぞり、脚を上げ、稲妻のように風のように踊り狂う母上を見たゲルマニアの代表が、目を輝かせて大きく両腕を広げ、祭りの時に歌うような陽気な歌を身体をゆすって歌い出す。同時に大使の末娘も高く澄んだ声を一気に張り上げて、アフリカの歌を歌った。
まったく違う三つの歌がひとつのように溶け合った。その上にどこからともなく流れてきたのは、ルッシラ叔母さまの笛の音だ。手首に小さな鈴の輪をつけたカルミオンが、その音に乗って侍女たちの中から優美にすべり出し、彫像の下で見物していたキケロの手を取って、二人は激しく踊りつづける三人の回りを、白鳥が舞うようになめらかにゆったりと円を描いて行った。
まるで、奇跡のようだった。五人の踊りは皆ちがうのに。三人の歌は、それぞれ別の歌なのに。笛の音と、たて琴と、太鼓の音が入り混じる中、それがまったくひとつにからみあい、とけあって、どれが欠けても完全とは思えなかった。噴水が光の中に虹を散らし、まっ青な空から降り注ぐ陽射しが中庭全体を目に見えない炎で包むようだった。たまりかねたように侍女や奴隷たちがあちこちで踊り出し、建物の中からも次々、人がかけ出して来てテラスに鈴なりになっている。
ふと見上げるとテラスの端からコモドゥス叔父さまが薄笑いを浮かべて見下ろされ、向こうの柱の陰では大使の次女が腕組みをしたまま、静かな目でじっと皆を見つめていた。
気がつくと、広場のあちこちで、さまざまな歌声が起こっていた。奴隷や侍女たちがそれぞれの故郷の歌を歌いはじめているらしい。でも、どの歌もつぶやくように低くひかえめだったせいか、不思議に皆、似て聞こえた。その中で、大使の娘の張りのある高い声、底力あふれるゲルマニアの代表の声、父上の甘くやわらかい声は、いつもはっきり聞こえていたが…ふと、その入り乱れる低い大勢の歌声の中に、僕は、あのコロセウムでキリスト教徒たちが歌っていたのと同じ調べを聞いたような気がしたのである。
それも、聞き覚えのある声だった。
思わずあたりを見回した時、この熱気に誘われたかのように、涼しい風がさっと吹いたかと思うと、ばらばらと大粒の雨が落ちて来た。人々は笑ったり、悲鳴をあげたりしながら木陰やテラスに避難した。まだ数人が興奮がさめないかのように、雨の中で抱き合って踊っており、歌声もそこここで聞こえていた。父上は、また僕だけに聞かせるように低くたて琴をつまびきながら、何かを思い出しておられるような微笑を浮かべて、優しい恋の歌を歌っておられた。
鼻をすすりあげる音がするので振り向くと、カッシウスさまが階段にべったり座り込んで、ひと目もはばからず泣いておられた。こんな方でも感激するのだと思って、素晴らしかったですねと声をかけるとカッシウスさまはうなずいて、すごすぎます、なのに、こんな見事な演し物を一セステルティウスも金をとらずに見せてしまうなんて、あたしゃもう、もったいなくて涙がとまりませんですよと言われた。
8月27日
ルシアスさまがすっかり元気になられたのが、とてもうれしい。でも今日はそれで、ちょっとひやっとした。
遠乗りに行こうとおっしゃるので、おつきあいしたのだが、あまり馬を飛ばされるものだから、おつきの近衛兵たちとはぐれて、僕ら二人だけになった上、道に迷ってしまったのだ。
やっと小さな村に出てほっとしたら、どの家もがらんとして、ひと気がない。疫病の流行という話はこの頃聞いていないから、それで全滅したのではないだろうとは思ったが、何だか無気味だったので、空腹で喉も渇いていたけれど、家の中に残っていたものには手をつけず、近くに川があったので馬に水を飲ませていると、川っぷちの小屋から赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
子どもがおきざりにされているのだろうかと思って、馬を木につないで二人で小屋に入ってみた。粗末な小屋とふつりあいに中の調度はとても贅沢で、奥の部屋をのぞいてみると、壁際の大きな寝台に誰かが寝ていた。
その時、後ろで変な声がしたので振り向くと、入口をふさぐように、貧相な犬ともキツネともつかない獣が一匹、牙をむいて赤ん坊の泣き声そっくりの声でうなっていた。コロセウムで見たことのあるハイエナのようだったけど、こいつはすごく大きくて色艶もよく、凶暴そうだった。
気配を感じて向き直ると、大柄な老人が音も立てずに寝台から下りてきていた。白い髪に青い目の、ひとくせありげな顔だちで、よろよろこちらに近づいて来るのだが、その動きには文字どおり一瞬のすきもなく、剣を抜こうと思っても僕は手足も動かせなかった。
冷たいものが背筋を走った。この老人はただものではない。
ちなみにルシアスさまはこういう時はいつも完全に「マルクスにまかせておけばきっと何とかしてくれる」モードに入ってしまわれるので、ご自分からは絶対に発言も行動も起こされない。安心と言えば安心だが、まかされたって、どうしようもない時もある。
この状況が、そうだった。
老人は僕の前まで来るとにやりと笑って、低いよくとおる声で、年のわりにはできるな、坊主、と言った。未熟者なら、わしの強さがわからずに、しかけてきて腕のひとつも折っておるところよ。そして、じろじろ僕らを見比べ、おまえたちなら、なまじな美しい女よりは高値で売れよう、タイプが程よくちがうからセットにすると値が上がる、肌の色艶も何とも言えんし、肩の筋肉のつき具合が何たらかんたら、腰の張り具合がどうたらこうたら、目の色がああで、唇がどうで、と気持ちの悪い品定めを始めた。
僕はもうその時、自分たちがどこに舞い込んでしまったのかわかっていたので、なるべく平然と聞き返した。あの村のキリスト教徒たちも助けると見せかけて、そうやって奴隷に売り飛ばしたのかい?ずいぶん羽振りがよさそうだけどさ。
老人はしゃがれた声で大笑いし、度胸がいいのとほめながらミルクと菓子を僕らにすすめた。コロセウムのトラか、蛇使いの蛇たちとお茶した方がまだ安全そうだったけど、どうせ逃げられそうにもなかったし、言われるままに座って食べた。
わしが法を破り、危険を冒すのは、なぜかわかるか、坊主、と老人は鋭く輝く青い目を僕らに向けて言った。死に場所をさがしておるのよ。おまえらは若いからまだわかるまい。わしは昔、剣闘士での。観客の人気者で、コロセウムをわかせたものじゃよ。毎日、死神とのダンスを踊って生き抜いた。自由を勝ち取り、金ももうけた。じゃが、今、わしにはわかっておる。穏やかな暮らしなぞ、墓場と変わらぬということがな。いずれ、わしの手足はこわばって動かなくなる。寝たきりになり、大小便を垂れ流して息をひきとる。幸福で平和な暮らしの結末とはな、しょせんがそんなものじゃ。
わしは、コロセウムで、あの観衆の大喝采に包まれて死ぬべきじゃったと今、思うておる。もはや、かなわぬことじゃがな。御法度を犯し、わしを殺せと挑戦しても、皮肉なことよの。わしのすることが大胆すぎて何かあるかと疑わしいのか、誰もわしを逮捕にも来んわい。
からからと老人は笑った。
わしのようになる前に死ね。悪いことは言わぬ、坊主。長生きなど決してせぬことじゃ。平和ほどつまらぬものはないぞ。人間を少しずつじわじわと、腐らせて、ちっぽけに、みじめに弱くする。
いつか、ルシアスさまも僕も、魅入られたように、老人の声に聞きとれていた。
8月28日
ゆうべはあまり疲れていて、書いている途中で眠ってしまった。簡単につづきを書くと、老人がしゃべっている時、ドアにノックの音がして、僕らを見失ったという近衛兵の通報をうけて探しに来られたクイントゥスさまが入って見えて、僕らを無事に連れ出してくれた。クイントゥス小父さまは老人とは顔見知りらしく、また奴隷に売るとか何とかつまらんことを言って、この子たちをからかったんだろうとおっしゃると、老人は膝をたたいて、しゃっくりをしながら大笑いし、僕らにまたぜひ遊びに来いと言った。
もと剣闘士って言うのは本当なの、と帰りにルシアスさまが聞くと、クイントゥス小父さまは本当ですとうなずいた。タイグリス以上の人気者だったそうですよ。
ルシアスさまは明日から(つまり今日から)亡くなったお父さまの親戚の家に遊びに行くと楽しそうに僕に言われた。母上が、たまにはそういう人たちに、私がおまえをどんなにかわいがったか、ヴァレスさまとどんなに仲がよかったか聞いてきなさいと言われたんだと、照れ笑いしておられた。
よかったですね、と申し上げると、僕がいない間、母上のところに遊びに来てあげてね、マルクス、とルシアスさまは気がかりそうにおっしゃった。僕がバカだったばっかりに、君まで母上のところに来にくくなっちゃったんじゃないよね。
そんなことありません、明日必ずおうかがいします、と僕はお約束した。
それで、今日、叔母さまのところに行って、この前のお話のつづきをうかがいに来ました、と言った。初めて会った時から、父はいつも叔母さまのことを守らなければいけない女の子扱いして、ライバルとは認めてなかったっておっしゃいましたね。ずっとそうだったのか、聞きたくて。
叔母さまは、この前の夜のことなど、まるでありもしなかったように、さばさばと笑われた。浴室で会った次の日、父上がちょっとはにかむようにされたのと対照的だった。まあ、そうね、と叔母さまはうなずかれた。だから私も、それならとばかり思い切り意地悪でわがままな女の子になると決めたの。ひまさえあれば基地に出かけて、あなたのお父上をいじめまくったわ。
どんな風に?
スペイン訛りを真似したでしょ、ギリシャ語やラテン語で質問しては答えさせて、答えをまちがったら笑ったでしょ、他にも…。でも何しても、あなたのお父上、全然こたえてなかったわね。えー、女の子って、そんなことするんだなあ、って、奇妙な生き物を興味しんしんで見ているような感じさえした。
叔母さまは、何をしてもかわいく見えたんじゃないんですか、ひょっとして。きれいで、気まぐれで。
そう思えたらよかったわね。でも私は、お父上を傷つけられないのでいらだって、だんだん意地悪の手がこんできたのよね。もちろん、あなたのお父上もいざとなったら負けてはいなかったけど。
そうそ、一度、川に泳ぎに行って帰る時、私、髪飾りがなくなったと言って、あの人にさんざん探させたのよ。草の中はもちろん、川の中までもぐらせて。そして、いいかげんへとへとになったあの人が、寒さでがちがち歯を鳴らしている目の前で、あったわと言って隠していた髪飾りを出して髪につけたの。
あの人がさすがに、ちょっとむっとした顔をしていたので…絞め殺してやりたいと思っていたのかもね…私、笑いながら言ったの。ごめんなさいね、本当に。こういう時は私つくづく、自分があなたの立場でなくてよかったなあって思うのよ。
そうしたら、あの人は、ちょっと迷っていたようだけど、結局がまんできなかったのね。いたずらっぽい目になって、かわいい笑顔で言ったわよ。いえ、ご心配なく、姫君。私も今つくづく、自分があなたのような人間でなくてよかったと思っていたところですから。
私、一瞬、本当に唖然としたわよ。そして笑ってしまったわ。そういうことが何度かあって、だんだん私、気づいたの。この人、宮廷のどんな切れ者より、ずっと手強いわ、って。無邪気で素朴な顔してて、それも確かに嘘ではない。でも、その一方で剃刀なみの判断力と攻撃力を持っている。相手にとって、ライバルとして、本当に不足はない、って。
叔母さまはそう思っても、父の方はどうだったんでしょう?いつ、叔母さまを今のように、対等に話のできるライバルとして、父は認めたんですか?
もちろん、それは徐々にだと思うけれど。叔母さまはおっしゃった。でも、はっきりとそうなったのは、多分、あの時だったかしら。
みぞれ模様の寒い日で、昼からは雨になって…。あの人の軍が模擬戦闘の訓練をする頃は駐屯地の広場はもう、泥の海だったわ。
お天気が悪いからと皆にとめられたのだけど、私はその日も基地に来ていて、その訓練を見物してたの。テントの中から、侍女たちと。
とても、へまな兵士が一人いてね、土で作った土手を重い鎧をつけて上るのがどうしてもできなくて、何度も何度も泥の中にすべり落ちるの。何度目かに彼がはらばいのまま、ずるずるすべって落っこちて来て、蛙のようにうつぶせにぺちゃんこになって泥の中にはいつくばった時、その格好があまりおかしくて、私、思わず大声で笑ったのよ。
泥まみれの兵士たちの何人もが振り向き、つられて照れ笑いしたわ。回りの侍女や奴隷たちも声をそろえて笑った。でも、その模擬戦闘で小隊長をしていた、あなたのお父上は笑わなかった。重い鎧をつけているのが信じられないような速さで、泥をはねあげてかけよって来て、私にくってかかったの。あやまって下さい、姫君。私の部下たちはあなたをお守りするために命を捨てる訓練をしているのです。あなたがごらんになっているから、皆、力をふりしぼっている。それなのに、笑われるとは何ですか。
私はね、マルクス。あの人が激怒したのを、これまでほんとに何回かしか見たことはないの。こめかみに白髪がまじる、つややかな髪にふちどられた、威厳と気品に満ちたお顔を静かに窓の方に向けながら、叔母さまは笑った。あれは、その中の一度よ。そして、私が最初に見た、それ。
叔母さまは、それで、どうされたのです?
ルッシラ叔母さまは立ち上がり、僕の頭に手をのせた。今日はもう遅いわ。明日、またいらっしゃい、続きを話してあげる。
部屋に戻る途中で、父上にお会いした。大使や代表との話し合いが何とかうまくまとまりそうだということで、銀と青のガウンがお身体の回りではためくほどの速足でクイントゥス小父さまと並んで廊下を歩きながら、忙しそうに何か打ち合わせをしておられたが、僕を見ると笑いかけて通りしなに軽く抱き寄せて下さった。
8月29日
今日もまた、ルッシラ叔母さまのところにお邪魔して、昨日のお話の続きをうかがった。叔母さまはジュバ大使に貰ったという、いい匂いのするお茶をカルミオンにいれさせて、それをすすりながらゆっくりと話してくださった。
あの人の剣幕と、私ともあろうものに、それだけのことを言ってのけた乱暴さに、その場の皆が凍りついたわ。でも、私は、あの人に答えた。ごめんなさい。私がまちがっていたわ。そして、テントを出て、泥の中を歩いて行って、膝まで泥にひたしながら、倒れた兵士の前にひざまずいた。泥にまみれた彼の顔を自分のヴェールでぬぐって、皆に聞こえる声で言った。私は本当に失礼なことをしてしまいました。あなたのことを笑ったりして自分をとても恥ずかしいと思っています。どうか許して下さいね。
兵士は感動と緊張で、まっ青になって震えていた。私が立ち上がって振り向くと、ついてきていたあなたのお父上が、その兵士以上に呆然とした目で、私を見つめていたわ。
叔母さまは、かすかに笑った。その時の父上の表情をありありと思い出している目だった。
あの人は私がそこまでするなんて、思ってもいなかったのよ。衣装の腰から下を泥まみれにした私が立ち上がって、あの人と向き合った時、あの人は言い過ぎたと後悔して、ほとんど脅えた目で私を見返した。混乱しながら、でもあの人は、初めてあの時、守ってやらなければならない女の子ではなく、対等の手ごわい敵にもなれる人間として、私を認めた。するべき時に、するべきことを知っていて、それがやれる人間。プライドも意地も人一倍あるからこそ、必要な時にはそれをすべて捨てて、どんなことでもできる人間。私がそういう人間だと、あの人はあの時、気づいた。
雨が降っていたわ。兵士たちが回りで何か叫んでいたわ。その中で、私たちは見つめ合って立っていた。互い以外のものは何も見えていなかった。雨も、泥も。主人や家来という肩書も。男や女という外見も。
僕は聞いた。
父は、叔母さまにくってかかった時はまだ、叔母さまのことを、ただのわがままな負けず嫌いの女の子としか思っていなかったわけですね。それなのに、そんなことをするのが危険だと、父は思わなかったのでしょうか。
思わなかったのでしょうね。叔母さまはうなずいた。今でもそうだけど、あの人は、自分の部下のこととなると、我を忘れてしまうから。いいえ、部下のことに限らず、許せないと思うことがあると、あの人はときどき、あとさき考えないで行動してしまうことがある。それは、あの人の弱点ね。
叔母さまは、お茶をすすって、優しい吐息をひとつついた。
あの時も、そうだったのだと思うわ。あの人自身が言っていたもの。何も考えなかったって。その数日後、私と初めて抱き合って、愛し合った時に。
僕は笑った。ひょっとして、それもあんまり、あとさき考えてのことではなかったみたいに思えますけど。
ええ。叔母さまはほほえんだ。その通りよ。二人とも、もうまるっきり、あとさきなんて考えなかった。あの日から私は、あの人に意地悪するのをやめた。あの人は私を真剣に見つめるようになった。そして、二人きりになる時間ができたとたんに、何も言わずにお互いを引き寄せ合って、求め合った。ことばなんて、一言もなかった。それからだって何度も何度も愛し合うたび、あの人も、私も、一度だって、あとのことも、さきのことも、考えたこと、なかったわ。…何を笑っているの、マルクス?
うっとり話しておいでだから、気づかれないかと思っていたのに、ルッシラ叔母さまの目はやっぱり鋭い。僕は遠慮しいしい、口にした。父が、叔母さまは、あっという間に服を脱がせてしまうのが、とても上手だって言ってましたので。
叔母さまは笑い転げた。私はね、小さい時から弟の身の回りの世話をしてきたから、男の人の服のことをよく知っているのよ。何度かいたずらして、鎧を着たままのあの人の、肌着だけ抜き取って、死ぬほどびっくりさせたことがあったっけ。
おかし涙をぬぐっている叔母さまに、僕はお聞きした。今も父のこと、好きなんですね。
好きよ。叔母さまは答えた。でも、心配しなくってもよくってよ。何しろ、昔と違って今は私、あとさきのことしか、考えませんからね。
しばらく黙っていた後で、叔母さまは思い出したように、そうそう、と、また口を開かれた。
私たち、それから少し後で、結局いろんなことがあって別れてしまって、別々の人と結婚して、時々顔を合わせることはあったけど、ゆっくり話ができたのは、二十年ぶりかに、私のお父さまが亡くなる少し前、ゲルマニアの戦線で会った時だったの。お父さまはその時、私たち姉弟や元老院議員を前線に呼んで、あの人を次期皇帝にすることを、皆の前で宣言なさった。
その夜、コモドゥスはぐれて、からんで、悪酔いして早々に寝てしまうし、お父さまもお疲れで早くやすまれて、結局、私とあの人だけが残って、テントでお酒を飲んでいた時、ふと思い出して私、言ったの。私が笑って、あなたが私をどなりつけた、泥の中に転んだ兵士、今ごろどうしているのかしらね、って。
あなたのお父上が返事をしなかったので、顔を見ると、笑いながら目ばたきして、あなたのお姿を拝見したら、どんなに喜んだかしれないのに、ほんとに一足ちがいでしたね、とおっしゃった。昨日の戦闘の前に、使者としてゲルマニア軍に交渉に行って、首を切られて殺されてしまったのですよ、って。
息がつまるような思いがして、ようやく、でも、使者になるぐらいなら、ちゃんと出世していたのね、よかったわ、と言うと、お父上も笑いながら、あれからもずっと、へまで、のろまで、要領が悪くて、でも、陽気なだけがとりえで、交渉ごととかはうまかったんですよ、と答えた。酒を飲んで酔っ払うと、いつもひとつことばかり、皆に自慢していたな。俺は皇女のヴェールで顔の泥を拭いてもらった男なんだぞ、って。あんまりいつも繰り返すもんだから、もうその話、連隊中で有名で、名前を知らなくても彼のことは皆、「皇女のヴェールで顔を拭いてもらった男」と呼んで、それで通用していましたよ。本人もそれで、すっかり得意になってたし。それだけが自慢だったみたいで。
私たちは二人で涙を流すほど笑った。そして、彼のために何度も何度も、杯を干したわ。
そう言って、叔母さまはまた笑った。ねえ、マルクス。どんな人にも、その人だけの、かけがえのない物語があるのよ。
8月30日
大使と代表が今朝帰国して、宮殿の中が一気にがらんと淋しくなった。広間のあちこちに、まだハーケンの大きな声がこだましているような気がする。大使の娘たちとも、もっと話したかったのに。ヌミディアにおいでなさい、とジュバ大使は別れ際に僕の手を握って言ってくれた。本当にいつか、行けるといいな。
明日あたり、また、あの川っぷちの小屋の老人でも訪問してみようか、と思って、そうクイントゥス小父さまに言ったら、それが、村の者から知らせがあって、あの老人、昨日亡くなったそうです、とおっしゃったので、びっくりしてしまった。
そんなに病気が悪かったの、と聞くと、ほとんど寝たきりの状態だったので、実はあの時、起き出してお二人と話しているのを見て、自分は驚いたのです、とクイントゥス小父さまは答えた。
苦しまなかったんだろうかと僕はたずねて見た。クイントゥスさまは少し笑われ、どうなのでしょう、あの老人、あれでなかなかもてていたようで、と話された。近所の年増女が二人、介抱や身の回りの世話に毎日来ていたらしいのですが。
二人?
はあ。クイントゥス小父さまはうなずかれた。ちょっとヤバいですな。
めったにこんな、くだけた言葉はお使いにならない方なのだが、大使や代表との交渉が無事に終わってほっとして、この方も気持ちがゆるんでおられるのかもしれない。
その二人、これまでは何となく、入れ違いに来るようにしていたらしいのですが、昨日はたまたま同じ時間にぶつかって大喧嘩になり、この人はあたしのものだとか何とか言って、寝台のそばでどなりあったのだそうですな。それであの老人、怒ってかっと目を見開き、やかましい、黙ってわしを眠らせんかいと一喝し、「どいつも、こいつも…」とかぶつくさ言いながら、壁の方に寝返りをうって、そのまま息をひきとったとか。
僕は、クイントゥス小父さまを見つめた。それって、彼の望んでいた死に方ではなかったろうね。
どうですか。クイントゥスさまは静かに笑った。あの老人自身がつねづね言っておりましたからな。人は、おのれの死に方を選べぬ、と。
親しかったのですか?と、僕は聞いた。
私ですか?クイントゥスさまは、わずかに目をそらされた。いえ。それほどでは。何者かわからなかったから、時々、調査かたがた、話に行っていただけで。
僕は今、とても恐いことを考えている。
まったくの妄想かもしれない。
でも、聞けば聞くほど、クイントゥス小父さまのお声が、あの中庭の音楽会の時聞こえた、キリスト教徒たちの歌を歌っていた声に、似ている気がして、しかたがない。
老人の家を訪れていたのも、信者を逃がす交渉をしていたのではないのだろうか?
コロセウムでの処刑の時、死を前にした信者たちが、僕の方を見て、笑いながら手を差し伸べた。まるで、偉大な指導者に最後の祝福を求めるかのように。
あの時、僕の後ろには、クイントゥス小父さまが立っておられたのだ。
何ひとつ証拠はないし、途方もなさすぎる話だけれど。
父上は今夜、何か考えておられて、クイントゥス、と呼びかけられた。キリスト教徒の処刑など、いくらやっても信者は増えるばかりで、何の対策にもなりはしない。一度、彼らの代表と話し合ってみたいが、無理だろうなあ。
クイントゥス小父さまは、静かに父上を見た。さあ。この前の処刑でまた、彼らの中にも警戒心が強まっておりましょうからな。
ローマは長いこと彼らと敵対して来たし、彼らの考えが危険だという議員たちの意見もわかる。父上は言った。でもあんな処刑を繰り返すより、何か他の方法があるはずだ。
答えがなかったので、父上は、ちょっといらだったように振り向かれた。聞いているのか?
はい。クイントゥスさまは、テラスの外の闇の方に顔を向けたまま、低い、しっかりした声でお答えになった。お聞きしております。
8月31日
今朝、ちょっと早く起きて庭に下りて行くと、コモドゥス叔父さまが、母上のバラの花のつぼみを剣でちょんぎって遊んでいた。いい年をして本当に、何てバカないやがらせをする人なんだろう。
近づいて行くと、向こうも気づいて振り返り、さすがに間が悪そうに笑って、やあマルクス、早いじゃないかと言いながら、何だかまぶしそうに僕を見返した。
つまんないことやめなよと言いながらバラの花を拾って叔父さまの顔に軽くぶつけてやると、叔父さまは僕をまじまじと見て、おまえ本当におやじに似てきやがったな、一瞬見間違えそうになったぞ、といまいましそうに言った。
でも性格はちがうって言うんだろ、と笑うと、叔父さまはそっぽを向きながら、似てなくもないさ、と言った。ルシアスのアホがおまえを頼り切って、何でも言うなりになってるのなんざ、昔のおれにそっくりで、見てると情けなくなるよ。おまえも、おやじも、そうなんだよな。暗くて地味で平凡そうに見えるのに、気がつくと誰よりも明るくて華やかで、いつも皆の中心にいるんだ。
僕は腕組みして、叔父さまを見つめた。それで?今度は、ほめ殺しかい?
叔父さまは大笑いした。いいぞ。そのくらい用心してて、ちょうどいい。気をつけろ、皇帝の息子。恵まれた環境ってやつは恐いぞ。立派になってあたりまえ。だめなら、ぽいと捨てられる。そこはおまえは、おやじより、おれと同じ立場だからな。
皇帝になれないのも、だろ?
叔父さまは、今度は笑わなかった。ルシアスがうらやましいよ。叔父さまは言った。おれも、あいつがおまえを頼ってるように、おまえのおやじを頼ってた。強さを頼ってただけじゃない。おれにはない、子どもみたいな無邪気さを頼ってた。賢いくせに、天真爛漫。守ってほしい一方で、守ってやらなきゃと思わせる。
…マルクス、君って何ておかしいんだい。ルシアスさまの澄んだ笑い声が、ふっと頭の中でひびいた。
あいつが支えてくれさえしたら、おれだって、皇帝ぐらいやれるだろう。何となく、いつからか、ずっとそう思っていたんだな。逆の図式は考えてなかった。いまだにまだ、考えつかんね。いろいろやっては見るんだが。
何を言っていいかわからず、何度も口を開きかけた後で、ようやく僕は言った。無理もないんじゃないのかな。心の中を 整理するのって、戦争するより難しい。
叔父さまは、ふっと笑った。戦争がどんなもんか、知らんくせに。
平和がどんなものか知ってる。僕は言い返した。それだけで、充分さ。
ほう?叔父さまは、つっかかってきた。平和って、どんなものなんだ?
手ごわいよ、戦争よりもね。僕は答えた。幸福が、不幸より手ごわいのと同じさ。
どう、手ごわいんだ?叔父さまは、じっと僕を見て聞いた。
戦争や、不幸だって人間をだめにするけど、でも、思いがけない力を発揮させたり、輝かせたりすることもある。僕は言った。でも、平和とか幸福は、人をそんなにカッコよくさせてくれない。
…あの頃は戦う敵がわかっていた、ヴァレリウス。
…平和ってやつは、つまらんですなあ、将軍。
何もかもが複雑になって、中途半端で。
…こんな平和な時に出会って、お互い腹の探り合いなどするよりも、不幸のどん底でお目にかかった方が、かけひきなぞない友情を結べて、楽しかったかもしれません。
皆が、つまらないことにこだわり、みっともなくて、こっけいで。
…年増女ふたりが、枕元でどなりあうのを聞きながら、息をひきとったとか。
…コロセウムの喝采の中で、わしは死ぬべきだったのじゃ。
それでも。それでも。
世界は平和の方がいいし、人間は不幸であってはならないんだ。
コモドゥス叔父さまを見つめて、僕は必死で、そう言った。
そしてすぐ、言い直した。いや、ちがう。いや、それだけじゃだめなんだ。
そんなこと言ってたら、平和も幸福も、だめになる。
…人間を、徐々に腐らせ、ちっぽけに、弱くしていくばかりよ。
平和や幸福の持つ、毒や醜さ。それに耐えるだけでは充分ではない。
それをなくして行かなければ。平和や幸福の中にある、不幸や不正を見逃さず、それと戦いつづけなければ。
そうじゃなかったら、平和や幸福が、悪臭を放って、腐り出すんだよ。
戦争の方がましだ、とついに皆が思い出すまで。
それは、僕らが平和に負けたことだし、平和が戦争に負けるってことなんだよ。
コモドゥス叔父さまが、いつ僕をバカにして笑い出すかと思っていたけど、案に相違して叔父さまは、まじめに僕を見返していた。そして、聞き返してきた。じゃ、平和と、どう戦えばいいって思うんだ、おまえは?
わからないけど、と僕は言った。少なくとも、戦争の時にふりしぼれる力は皆、ふりしぼらなきゃ。知恵も。心も。
そうじゃなければ、平和には勝てない。言ったろう、すごく手ごわい敵なんだから。
叔父さまだって、そうじゃないか。そんなに長い間戦って、まだ自分の心の中をどうしようもできずにいるんだろ。でも、それをしなけりゃ、僕らは勝てない。自分の回りに対しても、自分の心の中でも戦いつづけないと、平和や幸福を、もっと いいものにしていくことなんかできないし、結局、それを、だめにしてしまう。
マルクス。叔父さまはようやく、叔父さまらしく冷やかに笑った。
いったい、これ以上の幸福とか平和って、どういうものを、おまえは考えているんだ?おれが、おまえのおやじと毎日にこにこ笑いあって世間話をしているような、そんな平和なら、いらないぜ。今のままでも、おれはけっこうだ。
そんなこと言ってるんじゃない。そんな平和、僕だって気持ちが悪いや。僕は言った。
ちがうんだよ。そうじゃなくて。
…あんな処刑をくりかえすより、他の方法があるはずだ。
…私たちが虐げられる日は、きっとまだまだ長くつづく。
…あのトラたちの気持ちを思うと、一瞬だって幸福でなんかいられない。
たとえばだよ、キリスト教徒も、黒人も、トラたちも、アヒルも、蛇も、バラも、ナナカマドも、彫像や、皿や、つぼや、剣や、石ころでさえも、お互いに、心が通い合い、理解しあって、ともに幸福に生きられる世の中だってあるんじゃないか。
叔父さまは目を伏せて、ふっと笑った。おまえなあ。
わかってるよ。だから、僕が言いたいのは、そんな世の中をめざすなら、今の平和や幸福なんて、まだまだちっとも完全 じゃないってことさ。まだまだ、僕らがすることはたくさんあるってことなんだよ。
そんな世の中、来るとしたって、おっそろしく先の先だぜ。叔父さまは言った。
わかってる。でも僕、負けたくないんだよ。
誰に?何を?
僕は答えなかった。
…たとえ、その日がどんなに先でも。
…どんなに不可能に見えても、どんなに何度も失敗しても。
…私は、絶対、あきらめないわ。
…その日をめざして、戦うわ。
叔父さまは、案外、僕を笑いもしないで、そのまま、どこかに行ってしまった。
僕は、テラスの階段に腰を下ろして、夏の花がまだ咲き残っている庭をながめていた。
この夏って、あっという間に終わったわりには、結局のところ、大したことは何ひとつ、起こらなかったような気がする。
そして、だからこそ、と僕は思う。
この夏に起こったすべてのことを、僕は決して、忘れない。