動物と文学「愛する勇気」その2-異類婚について

1 かわうその奥さん

自らの青春や結婚を題材に、明るく夢のある小説の数々を書きつづけて、若い読者に人気のあった森村桂が離婚した後しばらくして、実は夫との気持ちの行き違いに悩み苦しんでいたことと離婚にいたるいきさつとを描いた小説「それでも朝は来る」(中央公論社刊)は、さまざまな意味で考えさせられる内容である。趣味が悪いと言われるかもしれないが、同じ結婚生活をユ-モアをこめて幸せいっぱいに描いている、それ以前の作品と読み比べて見ると、森村が決して嘘を書いていたわけでもなく、まったく同じ事実をどう描くかによって、ほおえましい家族小説にもなれば、苦渋にみちた悲劇にもなるという、文学作品の恐ろしさが今更ながらわかるところもある。
また、森村桂という人は、多くの人に愛された明るい青春小説やエッセイの作者ではあるが、実はまぎれもなく古典的な意味での芸術家、文学者であり、異常さや激しさを十分に内に秘めている。それが、一見甘い少女趣味のような語り口で綴られるから目立たないという点では、モンゴメリの「赤毛のアン」シリ-ズとも共通するだろう。
そういうことは皆さておいて、「それでも朝は来る」の中で、森村は夫が自分にとっては切実なことを理解してくれない寂しさと孤独感を次のような話を用いて説明している。

しばらく前、私はスト-ブのお湯をあび、大火傷をしたのだった。その痛み苦しみ は、おそらくあれを地獄の苦しみというのだろうと思う。
(略)
それにしても、あんなにやめてといっていたのに、どうして、彼は、スト-ブにや かんを置いたのだろうと恨めしかった。冬になってスト-ブをおくようになった時、 当然のごとくやかんをおいた彼に、私は、高校時代のこと、スト-ブにあたっていた ところ、お湯が脚にかかり、火傷をしたことがあるという話をし、やめて欲しいと頼 んだのだった。
「大丈夫だよ。どこの家でも、やってるじゃないか。誰も火傷してないよ」
「あの時だって、他の人たちは、さっとよけられたのに、私だけ、あ、かかるなっ て思いながら、びっくりしてて、それで火傷しちゃったんだから」
「大丈夫だって」
いつものいい方で彼はびしりといった。
「習慣なんだから、ぼくのいう通りにする」
私はその時、昔聞いた川うその話を思い出した。人間になった川うその奥さんをも らうことになった人がいた。奥さんはいった。私は川うそです。水にだけはつけない で下さい。さもないと、川うそにもどってしまいますからと。夫は、もちろんだとも といってそれはそれは大事にした。ところが何年もたったある時、いっしょに川を渡 ことになった。奥さんは子供を抱いていた。水に足がつかったら困るからといったが 夫は大丈夫だといって、手をかしてくれなかった。奥さんはつまずいて、水に足をぬ らしてしまった。その瞬間に,奥さんは川うそになり、子供を抱いたまま、川の中に 消えてしまった。まちがえて覚えているのかもしれないが、私はその物語が哀しくて 哀しくてならなかった。
私は、どうしてか、うっかりぼんやりするタチである。元気のいい時はそんなに出 てこないですむが、風邪をひいたり疲れすぎていたりするとそれが出て、いつか命と りになるのではないかと思うことさえある。私はその弱点というか盲点を、ダンナさ まにどうしても、知っといて欲しかった。知って守って欲しかった。あの川うそが、 結婚する時、必死で頼んだ心が私にはわかるのだ。

森村は、かわうその妻を大事にしながら(おそらくはそれ故に)、人間である自分との本質的な違いを忘れてしまって、自分の基準を妻に押しつけようとした夫の残酷さと、夫をどこかで信じるが故に、また、できるものなら夫と本質的な違いはない自分でありたいということを心のどこかで強く願っている故に、それに逆らいきれなかった妻の哀しさとを、この童話から読み取ったのだろう。だが、結婚とは、それぞれ異なる人生を生きてきた二人がともに暮らしはじめることであり、そもそも男性と女性というものにもさまざまな点で違いがあるとするならば、森村が味わったような、この童話への切ない共感は、結婚あるいはそれに似た形態を経験した多くの人が、ひそかにかみしめるものであるのかもしれない。

2 妻となるために

森村が引いた話の場合、夫は妻が人間の姿をしていても実は川うそであることを一応は知っている。しかし、「鶴女房」伝説を下敷きとしたあまりにも有名な戯曲「夕鶴」(木下順二)や、狐女房の民話をもととした歌舞伎「葛の葉」(竹田出雲。東京創元社『名作歌舞伎全集』第六巻などに所収。正式名称は「蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」。もともとは浄瑠璃の脚本。古浄瑠璃「信太妻」を粉本とする)などの場合だと、人間の男を愛して妻となった鶴や狐は、いずれも人間に化けており、自分たちの正体を見破られることそれ自体が、結婚と愛の終わりをすら意味する。

あれほど頼んでおいたのに・・・あれほど固く約束しておいたのに・・・あんたはどうして・・・どうして見てしまったの?・・・

だめよ、だめよ、あたしはもう人間の姿をしていることができないの。またもとの空へ、たった一人で帰って行かなきゃならないのよ。

自らの羽を織り込んで機を織る鶴の姿を、夫の与ひょうに覗き見された後、つうが言う言葉である。また、狐女房葛の葉の場合には、彼女が化けていた葛の葉姫の本物が登場したため、夫の保名との間に生まれた子どもまで置いて去っていかざるを得なくなった彼女が涙ながらに寝ている子どもに語りかける。

アア恥ずかしや、あさましや。年月包みし甲斐も無(の)う、おのれと本性顕わし て、妻子の縁もこれぎりに、別れねばならぬ品(しな)となる。父御(ててご)にか くと言いたいが、互いに顔を合わせては、身の上語るも面伏(おもてぶ)せ。

せめてそなたの乳離れするまで、側に居て育てたいとは思えども、我が身の素性し れたれば、とてもこの家(や)に長居はならず、夢みたような別れなれば、さだめて 後(あと)では、乳をさがして泣くであろう。それが、
悲しいいじらしいと、声を忍びのかこち泣き。

去っていく彼女たちに対して、素朴な与ひょうは何が起こったか充分に理解できないままに、「つう・・・つう・・・」と彼女の名を呼びつづけながら立ち尽くす。それに対して学者の保名は、それらしい明確さと、それらしくない率直さで、次のような深い嘆きをあらわにして、姿を消した妻に呼びかける。

たとえ狐の葛の葉にせよ、縁あればこそこのように、五年六年連れ添うて、子まで なしたるそなたじゃないか。なぜこうこうと打ち明けて、本性を顕わさぬぞ。聞こえ ぬ女房、胴欲のあきらめよう、童子は不便(ふびん)に思わぬかいヤイ。

コレ女房、聞こえぬぞや。たとえ野干(やかん)の身なりとも、物の哀れを知れば こそ、五年六年つき添うて、命の恩を報わずや。いわんや子までもうけし仲、狐を妻 に持ったりと、笑うものは笑いもせよ、我は少しも恥ずかしからず。

だが、いずれの場合も妻たちがそれに応えて戻ることはない。夫である男性は、妻の正体を知っても決して愛を失ってはおらず、結婚を続けることを希望している。妻の方の愛情ももとより変化してはいない。にもかかわらず妻たちは、夫や子どもを置いて去る。そうしなくてはならないような、何の禁忌が冒されたのか。
人間にはどんなに愛し合っている者どうしでも、なお見せたくない内面がある、といったような普遍的な問題もこれらの話からうけとめることはできる。だが、それだけで解釈してはむしろ、これらの話はやや粗削りで整わない印象を持つものとなるだろう。これらの話に含まれているのは、そういった微妙な人間心理とはやや次元を異にする社会的な背景もある。
もちろん、これらの話はそれぞれに、民話からいくつかの劇や近代の戯曲に昇華されてくるにあたって、さまざまな変容が行われており、その過程の厳密な検証なしには簡単に結論が出せないことが多い。だが、それを承知の上で、あえて大まかな言い方をするならば、これらの話がさまざまな変化を見せながら語り伝えられ、多様な新しい形態に生まれ変わりつつよみがえり続けた背後には、結婚という形態の中で、特に自分の生まれ育った文化圏から夫の家庭という別の文化圏に移動してくる女性たちの状況があったことが見逃せない。
木下順二は内田義彦との対談の中で、「夕鶴」で描こうと思った中心は、与ひょうがつうの正体を知ってしまう、いわゆる「覗き」の部分ではないにもかかわらず、しばしばその場面で観客が激しい反応を見せることに触れ、特に信州の女工さんたちの前で上演した時に、観客席から「見たらだめっ!」という叫び声まであがったが、それはおそらく彼女たち自身が常に見られ覗かれ監視される立場にあったからではないかと考察する研究者もいることを紹介している。

結局ぼくには本当の意味、つかめてないけどね。前に松本(新八郎)さんなんかは ぼくの理解ではこういうように言ってたようだなあ。民話のばあいだけど、民話って いうのは農村で、母親によって子供に語り伝えられることが多かった。そうすると農 民の生活のなかの女性というものは、常に覗かれる生活をしている。それは畑ででも だし、家へ帰っても覗かれる生活をしている。そして覗かれるってことは非常につら いことであるわけだ。プライヴァシ-の問題だね。その点の、つまり煮つめたところ が、覗かれたことで別のものになっちゃうという、すべては破滅するというような説 明じゃなかったかな。
(『内田義彦著作集』第七巻 Ⅱ.木下順二との対談「『夕鶴』をめぐって」岩波書店刊)

これについては木下順二自身が、「婦人画報」一九五二年七月号に「『のぞかれる』ということ」という一文を発表しており、そこで木下は、

『夕鶴』という芝居を、関西や信州の紡績工場に持って行ったことがあるが、その 時、女工さんたちは、意外なところで共感を示してくれた。
つうがもう布は織らないと云うのに、与ひょうはどうしても織れと責める。拒み切 れずに、「決してのぞき見してはだめよ」と云ってつうは機屋にはいって行き、やが て機の音が響き始める。その音に惹かれて、さんざん躊躇したあげくに、結局与ひょ うは、機屋をのぞき見てしまうのだが、そのとうとうのぞいてしまうところで、客席 の女工さんたちは、まるで自分のことのように身を乗り出してきた。のぞんちゃいけ ないと叫ぶ声さえいくつか飛んで、客席が騒然となった。

と、その時の状況を説明し、それに対する歴史学者松本新八郎の見解を次のように紹介している。

つまり女工さんたちは、その現実の生活の中で、常に誰かにのぞかれている。現場 で働いている時はもちろん、寮に帰ってからの私生活も、女工さんたちはすべて監督 者から、何らかの意味で常にのぞかれているわけなのだ。
封建時代の農村における農民たちも、その生活を、常に庄屋や役人たちからのぞか れていた。そして彼らの中で、嫁はとりわけのぞかれる存在であった。つまり家の中 でさえ、彼女は小じゅうとたちから、そして殊に姑からのぞかれ通しにのぞかれてい た。それを逃れる道は、せめて空想の中で空へ飛び去ることでしかなかったのだと云 えるほど、それはきびしくのぞかれる生活だったと云ってよいであろう。
遠い昔から伝わる鶴女房の話を、江戸時代の封建農村の若い嫁たちは、そういう自 分の身にひきくらべ、身につまされつつ、添寝する子供たちにもの語ったのではなか ったろうか。とすれば彼女たちも、今日の紡績女工さんたちと同様、のぞき見の部分 に殊に切実な感情を籠めて語り聞かせたかも知れない。そして最後に大空へ飛び去っ て行くところは、逃避的な消滅としてではなく、むしろせめてもの解放への願望をそ の美しい幻想に托して、身を乗り出して語ったかも知れないのだ。

たしかに当時の農村の女性にとっては、周囲と自分の異質さを随時強く意識しながら、しかもその異質さを周囲に気づかれてはならないという配慮も常に必要であるという狐や鶴や川うその妻の話には、共感できる面があっただろう。(ちなみに現代の農村を描いた戯曲「遺産ラプソディ」の農家の奥さんも、家の中の問題が煮詰まると、すぐに「畑に行ってくる」と駆けだして行ってしまう。そしてまた、別に農村の嫁でもない私の周囲の主婦の人たちが皆やすやすとその心情を理解して、「畑しか一人になれるところがないんですよね」と同感していたのに私は少々驚いた。家庭における妻の立場には、まだ充分にそういう共感を可能にするところがあるのかもしれない。)
単に異質の文化だけならまだいい。『歌舞伎手帖』(渡辺保 駸々堂刊)は、「葛の葉子別れ」の項で、次のように述べる。

人間でないものを妻とした男の伝説は、太古の深い夢をもっている。折口信夫は、 この狐は、差別された集団の女であるといっている(「信太妻」)が、異類婚は民俗 学の大きなテ-マの一つである。

これらの記述が指摘するように、異類婚を描く文学の背景となっているものが、たとえば、一方の文化圏や社会が不当にさげすまれているものだった場合には、そのような出自の妻の本質が見られてしまうことは、もはや夫婦の愛情の深さだけでは解決できない問題につながったであろう。そして、鶴や狐といった「人間以外」の生き物で表現される女性には、そのような不当な差別を受けた集団の人であった可能性も確かに高いのである。

3 人間であるということ

運良く見破られることがなかったとしても、そうやって自分の本質と異なる姿を作りつづけていることそのものにも、苦痛やストレスはともなったろう。だが、これまであげた作品には、そのような記述は不思議なほどに登場してこない。
洋の東西を問わず、「人間であるということは、動物や植物や無生物であるよりも、ずっとすばらしいこと」といった思想は存在している。したがって、人間のふりをしていることそのものは、光栄であり幸福でもあるはずだという感覚が、これらの作品の背後にはあるかもしれない。アンデルセンが「人魚姫」で描いた、人間の王子を愛した人魚が魔法使いに頼んで人間の姿にしてもらう時、魚の下半身の代わりに人間の足を得た時から彼女は口がきけなくなり、歩くたびに激痛が走るというような設定は、そういう点では珍しいと言える。
「人間になることが不幸」、したがって「人間の男性との結婚も拒否」というパタ-ンをあえて探すなら、「竹取物語」のかぐや姫や、羽衣伝説の天人がある。かぐや姫の場合には人間になったことは、天女であった時の過ちのための罰であり、天人の場合には羽衣を人間の男に取られた過失から、やむなく妻になるのであり、羽衣が手に入ったとたんにさっさと天に帰ってしまう。しかし、これはどちらも動物ではなく、もともとが天女という、いわば人間の恰好・・・ヒュ-マノイドの最も理想的なかたちでの存在でもあって、だから普通の人間になるのは格が下がったことになる。して見ると、人間という種の、自分たちの形態や機能に対する自信と肯定の強さは、ほとほと異常という他ないわけで、いったい何にもとづいてこれだけうぬぼれられるのかと、同じ人間ではあるものの、私などはたじたじとする。ひょっとしたら、台所のたわしの方が人間よりも充実して幸福な生を送っていはしないかという疑いぐらい、ふっと頭をよぎってもいいのではないか、それがまったくない存在って怖いと、ちらと感じたりする。

4 男性だって苦労する

周囲の文化や社会ということの影響がなくても、相手の男性そのものが何者かわからないという恐怖も結婚する女性には常にある。夫が実は殺人鬼で、前の奥さんを次々に殺していたという「青髭」伝説は典型的だし、映画にもなった「レベッカ」では、ヒロインが夫の先妻の影に怯える。これも映画になった「ロ-ズマリ-の赤ちゃん」(アイチ・レヴィン)では、夫が自分の出自ではないのだが、近所づきあいの中で奇妙な共同体に属していってしまい、妻が生む子どもにまでそれが及ぶ。家族や地域というしがらみとは一見無縁な新しい時代の都会の夫婦生活でも、一方が一方に理解できない共同体に所属して、相手をも束縛するという可能性を示した恐怖小説である。
しかし、そういうことを言うならば、夫の方から見ても結婚する女性に未知の部分があるというのは同様であり、それによって自分の生活が影響をうけて変化するという恐怖はないわけではない。
いわゆる「雪女」伝説などは、夫が禁忌を冒したために妻が去るという点では、鶴女房と共通するが、むしろ思いがけない不気味なものと結婚していたことを思い知らされる夫の恐怖の方が強く印象に残る。恐ろしいがどこか魅力もある雪女との遭遇を、誰にも言うなと口止めされていたにもかかわらず、愛する妻に話してしまったら、その妻が実はその雪女で・・・という設定自体、雪女の方から見ればそれなりに悲劇でもあるが、夫としては妻を失うという悲しみより、しゃべった罰に殺されるという戦慄の方が強い。
上田秋成の怪奇小説集「雨月物語」の中の「蛇性の婬」に登場する美女の真名子も実は蛇の化身であり、蛇らしい粘り強さを発揮して、恋した男性につきまといつづける。動物ではないが、たとえばギリシャ神話に登場する王女メディアなどは、父を裏切り弟を殺して、いわば完全に故郷との絆を絶って恋する男と逃亡し、結婚するが、夫のためには人も殺し、更に夫が別の王女と結婚しそうになると、その女性も殺し、夫との間に生まれた二人の子どもも殺して去って行ってしまう。あまりにもすさまじい生き方なので、映画などで描かれる時にはむしろ彼女の女としての悲しみが強調されたような描き方をされがちだが、少なくとも、鶴女房や狐女房の伝説とはまったく違った行動であり、別の意味での恐怖を男性なら感じるだろう。
彼女たちに共通するのは、ある種の強さである。相手の男の属している種や共同体に比べて自分のそれが劣っているという意識はない。自分自身が相手の男をその気になれば滅ぼせる力も持っている。そのような自分の正体が明らかになり、夫との暮らしが続けられなくなることは、くりかえすが彼女たちにとってもまちがいなく悲劇である。その悲しみの程度が、鶴女房や狐女房と比べて弱いなどとは誰にも言えない。だが、男性の方の愛は彼女たちの正体を知った時に、瞬間的にかもしれないし、無理のないことでもあるが、確実に冷める。そのために、この種の物語は、愛よりも恐怖が中心とならざるを得ない。
では、女性の方が強い立場の種族に属し、女性に気づかれないままに男性の方がそれにあわせて愛をつらぬくという話はないのだろうか。
H・スレッサ-「猫の子」(文春文庫『動物との日々』所収)は、どこかフランス小説を連想させる風変わりで魅力的な短編だが、結婚して夫の家に入る女性が自分の出自に何の屈託のない人間で、夫の父が実は猫であり、彼女にあわせて、夫とその父との関係も変わらざるを得ないという点で、異類婚としてはちょっと珍しい作品である。主人公エティエンヌの母は、ブルタ-ニュの海岸地方で生まれた妖精のようにデリケ-トな美しい女性で「庭に散る枯葉でけがをしたことさえあったという」。フランスの名門の出だった祖父は、母を大切にし、結婚相手の心配をしながら死んだ。

しかし、祖父の心配は無用のものだった。母が選んだ求婚者は、夫としてはこれ以 上を望めないほど、やさしい心の持ち主だったからだ。それがド-フィンだった。ド -フィンは、祖父が死んだ直後、領地に迷いこんできた珍しい白猫だった。

大きなアンゴラ猫のド-フィンは、洗練されたフランス語と英語とイタリア語を話したが、自分の出生も、、どこでそういう立派な教育をうけたかについても語らなかった。母は彼をペットとして家の中で飼ったが、二年ほどたつ内にド-フィンは母の友人となり保護者となり、もともと慣習にとらわれない母は、ド-フィンとの種族の違いは気にならなくなった。それでとうとう地方牧師の諒解を得て、婚姻届を出し、ド-フィンと結婚したのである。「遠慮なく言わせてもらえば、ぼくはハンサムな青年だ。ぼくの繊細な容貌は母親譲りのものだ。猫のように大きな目や、しなやかな体や、敏捷な動作は、父の血統を受けついだものだ」というエティエンヌが四歳の時に母は亡くなり、以後は父の白猫が彼を教育した。そして十八歳になった時、父は彼をアメリカに留学させた。そこで知り合った明るく生き生きとした女性ジョアンナとエティエンヌは恋をする。

彼女は金髪だったが、それは古びた金の美しさとは異質の、いわば黒い岩から採掘 されたばかりの、初々しい金のまぶしさだった。目は旧大陸のダイアモンドとはちが うものだった。その輝きは、奔流に踊る陽光のきらめきだった。体は大胆な自信にあ ふれ、彼女の女らしさの発露だった。

父に口止めされていたので、彼は自分の家族のことを彼女には話さなかった。人間の召使が二十人も猫の父に仕えているぐらいだから、故郷に彼女といっしょに帰って説明すればわかってもらえると思っていた。結婚式をあげることを決めて、彼は彼女と故郷に向かった。召使たちがうやうやしく二人を出迎える。そして、

父は図書室でぼくを待っていた。暖炉のそばのお気に入りの椅子にうずくまってコ ニャックを満たした広口の杯をかたわらに置き、ぼくらが到着するのを待っていた。 父は形式ばった物腰で前足をあげた。しかし再会の感激は大きく、父はたちまち慎み 深い態度を投げすて、喜びの感情のおもむくままに、ぼくの顔をなめまわした。

しかし父は、自分のことを彼女に話したら彼女を失ってしまうだろうから、あくまで黙っておくようにと忠告する。

「(略)彼女は温かい、人間味ある女性です」
「人間味か」父はため息をつき、尾をひと振りした。「おまえは愛する者に、あま りにも過大な期待をかけているよ、エティエンヌ。どんなにすばらしい性格の女性で も、このような事情を知ったらうろたえるだろう」
「だけどお母さんだって・・・」
「おまえのお母さんは例外だ。妖精の落とし子だからな。ジョアンナの目の中に、 お母さんとおなじ魂の輝きを探し出そうとしてはいけない」父は椅子から飛びおりて ぼくに近づき、前足をぼくのひざのうえに置いた。「エティエンヌ、おまえがわたし のことを話さなかったのは偉かった。これからも永遠に口を閉ざしているべきだ」
ぼくはびっくりした。かがみこんで、父のなめらかな毛並みにさわった。そのとき 金色の斑紋を散らした灰色の目の中に、老齢のきざしがしのび寄っていることに気づ き、白い毛並みも黄色っぽく変色しつつあることを発見して、ぼくは悲しくなった。

夕食までの間、屋敷の中をジョアンナに見せてまわっている時に、彼女は父を描いた水彩画を見つけ、ド-フィンという名前だと知る。その後、エティエンヌは再び父と話し合うが、父の決心は変わらない。

夕食が始まる十五分前に、ぼくは身支度を終え、急いで下へ降りていった。もう一 度、父と話し合っておきたかったのだ。父は食堂で、銀食器の並べ方や花の飾り方を 召使いたちに指示していた。ぼくの父は、食事についてもすばらしい趣味を持ってい て、そのことを誇りにしていた。肉を食べるときは、申し分のないマナ-できれいに 食べた。食べ物とワインの好みに関して言えば、ぼくの知る範囲では、父の右に出る ものはなかった。ぼくは、食卓についた父を見るたびに、いつも心がときめいた。父 はダマスクリネンのテ-ブルクロスの上を忍びやかに歩き、父のために用意された銀 食器に、そっと前足を差し入れたりしたものだ。
父は夕食の仕度に忙しくて、ぼくにかまっているひまはないというそぶりを見せて いたが、ぼくはそれを無視した。
「お話があります」ぼくは言った。「どうすべきなのか、おたがいにはっきり決め 手おかないと・・・」
「簡単には決められない」父はまばたきして答えた。「ジョアンナの身になって考 えてみよう。わたしのような大きくて年とった猫は、ただでさえ奇異なものだ。さら にことばを話す猫となれば、戦慄を呼びおこす。おまけに家族ともども食卓で食事を する猫はひとつの脅威だ。そんな猫を紹介するとき、もしおまえが、これはぼくの・ ・・」
「やめてください」ぼくは叫んだ。「ジョアンナは真実を知らなければならない。 だからお父さんはぼくを手助けして、彼女に真実を教えてやってください」
「おまえは、わたしの忠告を聞き入れないのか」
「お父さんの言うことには何でも従いますが、これだけは別です。ジョアンナが、 あるがままのあなたを受け入れてくれなければ、ぼくたちは幸福な結婚生活を送るこ とができません」
「そもそも、結婚できなくなったらどうするつもりだ」
そんなことは考えたくなかった。ジョアンナはぼくのものであり、何が起きようと ぼくのものであることに変わりはない。しかし苦痛と不安の色がぼくの目に浮かんだ のだろう。父はぼくの心を読みとったらしく、前足でやさしくぼくの腕をたたいた。
「助けてあげよう、エティエンヌ。だが、わたしを信じていなければいけない」

夕食になるが父はなかなか姿をあらわさない。とうとうエティエンヌが事実を打ち明けようとした時に父に忠実な執事のフランソワが、ドアの方に注意を向ける。

まあ、エティエンヌ!」ジョアンナは喜びにはちきれそうな声で叫んだ。
そこにいたのは、パパ猫ド-フィンだった。金色の斑紋を散らした灰色の目で、父 はぼくたちを見ていた。やがて、父はおずおずとジョアンナを見ながら、食卓に近づ いてきた。
「あの絵の猫じゃないの」ジョアンナは言った。「あの猫がここにいることを黙っ ていたのね、エティエンヌ。きれいな猫だわ」
「ジョアンナ、これは・・・」  「ド-フィンでしょう。どこで出会っても、ひと目でわかるわ。おいで、ド-フィ ン。おいで、ちっちっちっ・・・」
ぼくの父は、ジョアンナの広げた手のほうへ、そろそろと近づいてきた。ジョアン ナは、父の背中の、首のあたりの毛並みをなでまわしたが、父はされるがままにして いた。
「かわいい猫ちゃん、とってもかわいいイイコちゃん・・・」
「ジョアンナ!」
ジョアンナは父の腰を支えて抱きあげ、ひざの上において、毛をなでさすりながら 女がペットに語りかけるときに特有の、あの甘ったるい馬鹿げたことばを連発してい た。その光景に、ぼくは困惑し胸が痛んだ。ぼくは事情を説明しなければならないと 思い、何から切り出そうかと思い悩んでいた。しかし同時に、父が先に切り出してく れることを期待しつづけていた。
父はとうとう口を開いた。
「ニャ-オ」と父は言った。
「おなかがへったの?」ジョアンナは心配そうに問いかけた。「かわいい猫ちゃん はおなかがへったの?」
「ニャ-オ」父は言った。ぼくはその瞬間、その場で心臓が破裂するかと思った。 父はジョアンナのひざから飛びおりると、床の上をそろそろと歩き出した。そして、 伸びをし、あくびをした。フランソワが部屋のすみに、ミルクを入れた浅いわんをお いた。父はフランソワの後ろについてミルクに近づいた。それらの光景を、ぼくはぼ うっとかすんだ目で見つめていた。父は夢中になってなめ、最後の一滴までなめつく した。それから父はまた伸びをし、あくびをして、ふらふらとドアへ戻って行った。 そこで父はちらりとぼくを見た。その一瞬のまなざしは、次にぼくがなすべきことをはっきりと語っていた。
「すばらしい猫ね」ジョアンナは言った。
「うん」ぼくは答えた。「母の大のお気に入りだったんだ」

これなどは、ただ洒落たおとぎ話として読んでも面白いが、部外者としての女性が一人入ってくることで、家族内部の関係が微妙に変化する寓話としても読めないことはない。

5 来訪者と結婚要求

もっとも「猫の子」のようなかたちで、男性が人間以外のものである異類婚が描かれることは、むしろ珍しい。男性が動物の姿をしている場合には、たとえば、ギリシャ神話のゼウスが、白鳥だの牛だの黄金の雨などに姿を変えて人間の女性を誘惑したり、「平家物語」に登場するような、蛇が人間に姿を変えて夜な夜な女性のもとに通ってきていたりする「来訪者」型がある。
ゼウスの場合は、神様だが人間型であるにもかかわらず、わざわざ動物に姿を変えている。最高神の姿では相手の女性が畏怖するから、動物に変身して、いわば油断させているという現代的な解釈もできるが、あるいは古代においてはこれらの動物そのものに高い神性が感じられていた可能性もある。
また「南総里見八犬伝」や、「日本霊異記」の八、九話に登場し、後に江戸時代の読本などにも使われる、蛇が娘の婿になることを強要するのを蟹がはばむという説話に象徴されるような、動物が何かの約束に基づいて人間の娘を妻にと要求する「結婚要求」型も多い。これなどもあるいは、思いもかけないきっかけで予想外の結婚をしてしまうことへの恐怖や期待なのだろうか。
動物が登場しないものでも、「困っているところを助けてやるから、その代わりに結婚してくれ」というパタ-ンは童話ではおなじみのもので、小人とお姫様だったり、老婆と騎士だったりする。小人とお姫様の場合には、お姫様が小人の出した条件をクリア-して結婚を免れ、騎士と老婆の場合には、結婚後、老婆が美女に変身して、どっちもめでたしめでたしになる。そして、このような取り引き材料なくしては、結婚できるわけもない相手であることは共通している。小人や老婆は、こういう話では悪役であるが、貧しい青年が手柄をたてて、王女や長者の娘と結婚するという、よくあるおとぎ話でも、王女や娘の立場から見れば大して差があるわけではない。結婚に有利な条件を持たない立場の者にとっては、こういう策略を用いてしか幸福な結婚はできなかっただろうし、そういう立場の者たちにはひとつの夢として読まれる話であったかもしれないのである。小人や老婆がともに、徹底的に悪役ではないことも(「八犬伝」の八房も同様である)、そういう背景の中で作り上げられてきた話であることを予想させるのである。

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