動物と文学「野生とは」その1-森の中で

1 007からランボ-へ

シルベスタ-・スタロ-ン主演の映画「ランボ-」シリ-ズは、途中からやたら景気のいいアメリカ礼賛というか自由主義宣伝というかになるが、そもそもの第一作はベトナム帰還兵が社会にうけいれられない話で、後の作品を見た目で見ると、結構暗くて重い。私はこれをテレビで見たのだが、「へえ~、『ランボ-』って、もともとこんなに地味な話だったの」と驚いた。だが、それともう一つ感じたことがある。
この映画の中で、主人公のランボ-は、警官隊や軍隊の追撃を振り切って一人で森にたてこもり、最後に逮捕されるまで神出鬼没の活躍をする。それはベトナムで生き残って帰って来た彼ならではの能力ということになっているわけだが、見ていて私は何となく、これはむしろ、ベトナム戦争でアメリカ軍をさんざん苦しめたベトコン(正式には南ベトナム民族解放戦線、でしたっけ。すみません、大学時代にさんざん支持するビラを作って撒いたのに、記憶の消える早さが自分でも怖い)のイメ-ジではないかという気がした。考えすぎかもしれないが、ホラ-映画の「プレデタ-」を見ても、私はあの周囲に溶け込んで姿がわからず、突然襲ってくる怪物はベトコンへの恐怖から連想したものではないかと思ってしまう。
オリバ-・スト-ン監督の映画「プラト-ン」で、やたらカッコよくベトナムのジャングルを走り回る米軍兵士のエリアスも、ランボ-と同様にその能力は敵のベトコンと共通する。私が不思議に思うのは、悪名高い枯葉作戦をはじめとした、ありとあらゆる科学兵器を使って戦ったアメリカなのに、その後の戦争映画ではランボ-やエリアスのような、必ずしも科学兵器を操るのではなく、むしろベトコンまがいの能力を持ったカッコいい戦闘員が登場していることだ。それはアメリカがベトナム戦争に結局勝てなかったせいということでもないように思う。それなら、湾岸戦争で勝利して、アメリカがもっと自慢していいはずのピンポイント爆撃のすごさなどは、映画「パトリオット・ゲ-ム」などで描かれても、どうもいまひとつぱっとしないではないか。
少なくともベトナム戦争以前のアメリカのスパイ映画のヒ-ロ-たち(007にしろナポレオン・ソロにしろ)は、しょ-もないような小道具も含めたさまざまな科学兵器を、いとも楽しそうにカッコよく使いこなしていた。そういうヒ-ロ-が、このごろの映画には登場しない。青池保子のスパイ漫画(最初はそうではなかったのだが、結局そういうシリ-ズになってしまった)『エロイカより愛をこめて』(秋田書店)では、この手の小道具を使いたがる英国諜報部SISのロレンスは、おちゃらけた滑稽な役柄になっていて、カッコよさとは程遠い。
児童文学では、科学への明るい信頼がナチスドイツの登場した第二次世界大戦以後は消えたと言われる。しかし、戦争映画やスパイ映画から科学兵器を使うヒ-ロ-が減ったのは、ベトナム戦争でアメリカが味わい、世界もついでに実感した、裸足で粗末な武器を持った農民兵士たちと一体化したジャングルの持つ神秘と力への恐怖から、人々がまだ完全にはさめきってないせいのように思えてならない。
いや、恐怖だけならまだよかった。森にひそみ、木々を味方に戦う人々というのは、多分、少なくとも森林を持つ国々では伝統的といっていいぐらい、常に強い魅力を持った存在である。こんなことを無責任に推理するのも大変失礼だとは思うのだが、アメリカはベトナム戦争でベトコンに悲惨な目にあわされながらも、どこか「ああいう戦い方ができたらカッコいいなあ」「自分たちが、あっち側なら面白いのになあ」という気分があったのではないだろうか。今でももしかしたら、「自分たちがベトナム人だったら、あの戦争での戦い方を思いきり描いた映画をどんどん作るのになあ」などとくやしい思いをしているかもしれない。その昔、ナチスドイツに抵抗したフランスのレジスタンスは娯楽的なものも含めて多くの映画の題材となる要素を豊かに備えていた。ベトナムの森を自由自在に使いこなしてアメリカの物量作戦を退けたベトコンの戦いには、それに匹敵する要素が充分にある。その戦いに苦しめられたアメリカは、誰よりもよく、そのことを知っているのではないだろうか。
私が、しょせん推測にすぎないことをこんなにくどくど言っているのは、つまり、森にこもり、森をつかいこなす人間あるいは生き物に対して、人々が感じる強い憧憬について言いたいからである。シェイクスピアの戯曲「お気に召すまま」のア-デンの森(二十年ほど前、俳優座の舞台で見た時、このア-デンの森はキラキラと輝く金属の棒を梯子のように組み合わせて作られており、音楽もそれにふさわしい電子音めいたものが流れた。それでも、というかそれだからこそ、現実の森以上にそれは、謎めいて暖かく、自由な広がりを持った、森そのものに見えた)を引くまでもなく、森は文学作品の中でしばしば自由や独立の象徴だった。だからこそ、しつこく繰り返すがアメリカは、森にこもって、それを味方につけて戦う側でいたかったと、本当にどんなにかそう願ったろうと思うのだ。あの国がいつも好み、愛し、支持を表明してきたものは、森で生きる生き方、森にこもって戦う戦い方と結びついていることがあまりに多かったのだから。

2 森の神のように

たとえば、アメリカン・ヒ-ロ-の一人として有名なタ-ザン。光文社文庫『トンデモ美少年の世界』中の「オ-ルヌ-ドのヒ-ロ-」で、唐沢俊一氏は次のように紹介している(書名も章名も何かいかがわしそうだし、実際ややアブナイ内容もあるが、基本的にはしっかり調べて書いてある、大変きちんとした本といっていい)。

タ-ザンはご承知のとおり、小説から生まれたヒ-ロ-である。エドガ-・ライス・バロ-ズという作家が一九一四年、書き下ろし小説として発表した『タ-ザン・オブ・ザ・エイプス(類猿人タ-ザン)』の主人公だ。
貴族の血を引きながらアフリカのジャングルでゴリラに育てられるという呪われた生い立ちを持つ青年、タ-ザンの物語はたちまちのうちにベストセラ-となり、バロ-ズはその後三十二年間に二十六冊ものタ-ザンものを書き、それらは五十六ケ国語に訳され、三千万部以上の売り上げを記録している。世界じゅうに数え切れないほどの冒険小説のヒ-ロ-がいるが、このタ-ザンほど広く、長く愛された主人公はいない。
それは、われわれ読者が本能的に持っている、野生への回帰願望をこのタ-ザンがかなえてくれるからだろう。バットマンもスパイダ-マンも、未来の科学力によってス-パ-・ヒ-ロ-となった主人公だ。これは仮面ライダ-やウルトラマンという日本のヒ-ロ-も同じことである。ひとりタ-ザンのみが、失われた野生の力、大自然がはぐくんだ力によってス-パ-・ヒ-ロ-となった人物なのである。

その原作『類猿人タ-ザン』(ハヤカワ文庫)で、タ-ザンは次のように描かれる。

だが、なんとすばらしい少年だろう!
かれは幼児のころから、巨大な母親(育ての親の類猿人カラ)のまねをして枝にぶらさがりながら、枝から枝へ飛び移ることを憶えた。そして成長するにつれて、仲間の子供たちと一緒に毎日何時間も木のてっぺんを飛び回って遊ぶようになった。
かれは木のてっぺんの目まいがするほどの高度で二十フィ-トぐらい空中を飛び、暴風雨が接近して激しくゆれ動く大枝に、軽々と、狙いどおり正確につかまることができた。
また、枝からまっすぐ二十フィ-トも下の枝へ落下して、すばやく地上へ降りることや、空高く屹立(きつりつ)した熱帯の巨木の頂上まで、リスのような速さでらくらくと登ることもできた。
十歳ではあったが、かれは普通の三十歳の男と同じ程度の力があり、もっとも優秀な陸上競技選手よりももっと敏捷だった。しかもかれの力は日ましにまして行った。

また、その外見についてタ-ザン自身は、仲間の野生動物たちと比べて、毛がないし、口も歯も小さく貧弱だと強い劣等感を持つものの、後にタ-ザンに救われた白人女性ジェ-ンの目には、次のように映るのである。

彼女の上にあるその顔は、たとえようもなく美しかった。肉欲的な、あるいは堕落した感情に汚されない、たくましい男性美の典型であった。

半ば閉じた瞼(まぶた)の間からかれを見ていると、かれは小さな広場を横切って向こう側の樹木の壁の方へ行った。堂々とした足どり、すばらしい体躯(たいく)の完全なシンメトリ-、広い肩の上の形のいい頭の構え方。立派だわ!あんな神のような姿の内面に、残酷なものや卑劣なものがあるはずがない。神がはじめて自分の姿に似せた人間を創ったとき以来、このような男が地球上を闊歩(かっぽ)したことはなかったにちがいないと、彼女は思った。

動物に育てられて密林で暮らすという点では、キップリング『ジャングル・ブック』(一八九四~九五)の主人公マウグリもタ-ザンと共通している。(時期的に言って、この物語はバロウズの「タ-ザン」創作に、影響を与えている可能性が高い。)
唐沢氏も述べているように、原作のタ-ザンは数カ国語を自由にあやつる語学の天才である。そのような高い知性とともに、強靱で美しい体躯をも有しているのである。赤ん坊の時から狼に育てられたマウグリには、そのような教養はないが、彼は熊のバアルウと黒豹のバギイラから、密林の民としての教育を受けており、決して愚かではない。また、その外見の完璧さも作者はしばしば強調している。
「ジャングル・ブック」は完訳がなかなかなく、児童向きの本の訳がどの程度原作に忠実か不安な点はあるのだが、ここでは古い「講談社 世界名作全集」の池田宣政氏訳を引用しよう。(現在、手に入るのは福音館書店の木島始氏訳『ジャングル・ブック』だが、おそらくかなりの抄訳だと思う。こんなに面白い内容だし、現代でも絶対にうけるはずなのだから、完全な新しい訳をどこかの出版社がぜひ出すべきである。)

この二年間に、マウグリは、すっかり大きくなってしまったのだ。明るい光と、きよらかな空気の中で、自由に力強く、のびのびと生きてきたかれは、ふつうの人間社会の少年よりも、ずっと大きく、たくましい体格になっていた。
かれは、若い雄じかが早がけをしているのを、角をつかんでひきとめることもできた。巨大な青いのししのあと足を、片手でつかんで投げとばすこともできた。すばらしい怪力だった。(略)
かれは、もうりっぱな、密林の巨人だった。そのかれが、岩をきざんだような、がっちりとたくましい肉体に、肩までたれたうるしの黒髪に、色美しい野の花の冠をいただき、大きくあつい胸にきらめく短剣をぶらさげて、小さな土製のランプの光をあびて、すっくと立ったそのすがたは、人間というよりも、森の男神があらわれたように思われて、メスワアは、のばしていた手を、そうっとひっこめてしまった。

幼い頃に赤ん坊を虎にさらわれ、マウグリがその子ではないかと思っているインド女のメスワアが、「ああ、なんて、りっぱな顔だろう。男らしいからだつきだろう。こんな男は、村にもひとりもいない。町のイギリス人だって、かないはしない。まるで森の男神のようだ。ああ、ほんとうにさらわれたナッツウなのだろうか。あんまり、りっぱすぎる・・・いえいえ、ナッツウにちがいない。密林で育ったから、こんなにりっぱな男になれたんだ。おおかみの乳で育てられたから、こんなりっぱな体格になれたんだ。(略)」と考えるように、密林で野獣に育てられて成長するということは、このように、野生動物の持つ能力を身につけるとともに、人間としての優れた本質も失わず、精神と肉体のバランスがとれた完璧な人間に近づくことなのであった。
女性の場合の例としては、ハドスン『緑の館』(新潮文庫)のヒロインであるリ-マがある。彼女は、南アメリカ北部の未開の地にある森の中で育ち、周囲の自然と一体化して人間放れした妖精のように生きている。木から木へ身軽に飛び移り、毒蛇さえも彼女になついている。けれど、彼女を深く愛した青年アベルは、リ-マの繊細で微妙な美しさを詳しく紹介した後、次のようにつけ加えている。

しかし、美しい色や形や、魅惑的な変化の美よりも一そう目立つのは、少女の知的な表情だった。
しかも、水際だった少女の知性美は、ふつう、人間にはまれで、ことにインテリには皆無といっていい、あの野性の動物に特有の、何物をも聞き洩らさず、見のがさない、油断のない敏捷さと、渾然と一つになって備わっていた。
しかし、考えてみれば、彼女は、一人ぼっちの野性の少女で、ぼくが話しかけた土人語さえ理解できなかった。
こんな彼女が、やはり同じような生き方をしている野性の動物どもより、どうして優れた内面生活を持つことが出来るはずがあろう?
そう思って見直しても、やはり彼女のきわ立った知性を否むことはできず、しかもふつう人間には決して両立しない、動物的敏捷さと、知性との、この相反する二つの特性が、彼女の中では一つに融合していることが、少女の一番大きな魅力で、もっとも強くぼくをうった。
自然は、なぜ、他のものにはこうしなかったのだろう?――なぜ、ほかの人間にあっては、精神的なかがやきが、野性の動物のもつあの美しい肉体的なかがやきを消し、鈍らせているのだろう?
しかし、ぼくにとっては、現にいまここに、かつて人間の誰もが探し得なかった、野性のかがやきの中に、文明人の特長である知性美を燦然(さんぜん)とかがやかせている一人の少女が存在(い)るということが、なんと大きな満足であったことだろう。

しかし、インディアンたちから森の魔女と恐れられた彼女は、追い詰められて逃げ登った巨木に火をつけられ、炎の中で悲惨な最期を遂げる。
オ-ドリ-・ヘプバ-ン主演で映画化されたこともあって、この作品は甘い夢のようなロマンスとしてのみ、とらえられやすいのだが、作者のハドスンは自身で野人自然科学者と称していた博物学者で、作家のゴ-ルズワ-ジ-は彼を「天才的な自然科学者」と呼んだ(新潮文庫 蕗沢忠枝氏あとがき)。その彼が、育ての親の老人以外の人間を知らずに森で育った野性の少女を、このような知性の輝きを持つものとして描いたのは、もちろん夢であり理想であろうが、それは、自然や野生動物をよく観察し熟知していた人の夢であり理想であったことを忘れてはならないだろう。

3 森での戦い

タ-ザンやマウグリ、リ-マの場合には、話が相当おとぎ話めくので、もう少し現実的な、森で暮らす人々を見よう。
まず、森に住むヒ-ロ-として多くの人が真先に思い浮かべるだろう、英国のロビン・フッド。上野美子氏『ロビン・フッド伝説』(研究社出版)は、ロビンの名前が初めて登場した十四世紀の宗教詩から、中世のバラッド、十八世紀の小冊子ブロ-ドサイド、近代の児童文学、映画まで、さまざまのロビン・フッド伝説について考察している。氏が紹介しているように、ジョン王が発令した鹿殺しの禁令に反抗してアウトロ-となって、仲間とともに森に集まり、腹心の部下リトル・ジョンやタック坊主、竪琴弾きのアラン・ナデ-ル、騎士のリチャ-ド卿、恋人のマリアンらと活躍して、ノッティンガムの長官や悪徳僧正、ギスボンのガイらと戦うロビン・フッド像が成立するまでには実に多様な背景がある。そして上野氏は、このような義賊伝説は世界の各地にあるけれど、中でもロビン・フッド伝説の特徴は、その舞台となっているシャ-ウッドの森であることを、再三にわたって強調している。ロビン・フッドを扱った中世バラッドの名作という「ロビン・フッドの武勲」(この中では、森の名はシャ-ウッドではなくバ-ンズデイルとなっている)に触れて、

たしかに中世ロマンスにおいても、森はしばしば「場」として用いられた。しかしたとえばア-サ-王と円卓の騎士は、しょせん王城を中心とした宮廷人であり、森は危険をはらんだ無法地帯にすぎなかった。ところが、ロビンにとっては、現実の縮図である宮廷と対照的な「快い場所」(locus amoenus)理想郷(ユ-トピア)が森なのである。ロビンの住む森は、緑したたる常春で陽光がふりそそいでいる。冬もなければ雨も降らず、危険な動物が出没することもなければ、仲間同士の争いもない、まさに理想化された場に想定されている。森の生活につきものの不便さを指摘するのは、森に一晩泊まる羽目になった代官だけである(一九八連)。(略)このように、森と宮廷、自然と人工とを対峙させた『ロビン・フッドの武勲』は、牧歌の構図を内包するといえよう。

こうした牧歌性こそ、ロビン・フッド伝説の中核を形づくっているのである。中世からルネサンスをへてロマン派の時代にいたるまで、ロビンがヒ-ロ-の地位を保ちえたのも、常春の森に住みたいという、人間に内具する自然憧憬と決して無縁ではない。権力闘争の渦まく宮廷にすむ王侯貴族も、生活のくびきにうちひしがれた民衆も緑の森で波瀾万丈の冒険を繰りひろげるロビンに、かなわぬ夢を仮託したのではなかろうか。二十世紀末の都塵に生きる私たちに『武勲』がなお訴えかけるとすれば、普遍的な人間の希求、つまり失われた自然への憧れや、現実には達成しえない冒険を、みごとに具現しているからにほかならない。バ-ンズデイルの森は、人びとの心の原郷なのである。森に住むアウトロ-で騎士のロビンは、時代や階層の違いをこえて、人びとの心の琴線にふれるものを持ちつづけてきたのである。

と述べ、また、末尾のまとめでも、

ロビン・フッドに似た義賊は、古今東西を問わず、このようにあまねく見いだされる。こうした義賊の類話のなかで、ロビン伝説に固有の特色がある。ほかでもない、シャ-ウッドの森というトポスである。ロビン伝説の「牧歌性」といってもよい。これこそがロビンを、多くの盗賊のなかで時空をこえたス-パ-ヒ-ロ-に仕立てた要因なのだ。ロビンは、街を徘徊するヤクザや都会のギャングとはちがって、森という自然界に息づくヒ-ロ-なのである。(後略)

と、森の果たす役割の重要性を指摘している。
ついでに言うと、ロビン・フッドとその仲間のトレ-ド・マ-クは巧みな弓の技と、森に溶け込む保護色としての緑色の服である。ファンから見るとどちらもカッコいいことこの上ないが、戦う相手にして見れば、姿が見えないのに矢が飛んで来るというのは、ゲリラを敵に回す恐怖そのものであり、プレデタ-やベトコンと共通する性格を持つ。
もう一人、森で活躍するヒ-ロ-を紹介しておこう。日本ではそれほど有名ではないが(この前、ダニエル・デイ・ルイス主演の映画で少し有名になったかな)アメリカ文学では人気の高いク-パ-の『モヒカン族の最後』(ハヤカワ文庫)に登場する、開拓者ホ-キイ・バンボ-である。(映画ではダニエル・デイ・ルイスが演じていたのだが、これは若干イメ-ジが違う。「あれはミスキャストだ。あの人だと何か深刻すぎるし変に上品で繊細になる。もともとの小説のホ-キイは、もっと磊落で明るくって、ユ-モア精神に富んで余裕もあるし、したたかで生き生きしていて、う-ん、誰と言ったらいいか」と、卒業生の女性たちの前で私が悩んでいると、一人が「じゃ、『クロコダイル・ダンディ-』の主人公みたいな感じですか」と助け船を出した。たしかに、ポ-ル・ホ-ガンの感じの方がまだ少しは近い。)彼は、滅亡しかけているモヒカン族の最後の二人、酋長のチンガ-クックと、その息子の若いアンカスという二人のインディアンと親友で、共に行動している。彼自身は白人だが、インディアンの生活を完全にマスタ-しており、また、長い鉄砲を使って百発百中の腕前を誇り、インディアンたちから「長銃(ながづつ)」と呼ばれて恐れられている。飛び道具というか射撃の名手で、かつアウトドアの達人であるところは、ロビン・フッドとも共通するゲリラ戦士としての能力を充分に持つと言えよう。彼の登場する場面は、次のように描かれる。

もうひとりは、インディアンとまちがえられそうな、粗末な身なりをしていたが、顔は白かった。もっとも、日に焼けて、長い間に色がくすんでしまっていた。それでも、ヨ-ロッパ人の子孫だということはわかった。(略)
白人のほうは、体が服から出ているところから見ると、ごく若いときから苦労や労働を経験した人のようであった。逞しい体ではあったが、どちらかといえば、痩せぎみだった。しかも、筋や筋肉は、たえず労苦にさらされてきたので、固くひきしまっていた。色あせた黄色の縁飾りのついた、森の緑のような色の狩猟服を着、毛を刈り取った、夏用の皮の帽子をかぶっていた。インディアンは、粗末な服に貝殻じゅずの帯をしめていたが、白人もそれと同じ帯をしめ、そこにナイフをさしていた。しかしトマホ-クは持っていなかった。はいているモカシンは、インディアン流にはなやかな飾りがつけられていた。狩猟服の下から、ほんの一部だけ下につけているものが見えたが、それはシカ皮の脚絆だった。両端にシカの腱(けん)がついていて、膝の上でしめられていた。さらに、弾入れの袋、角(つの)製の火薬入れとを持っていたが身につけているものといえばそれだけだった。
銃身のものすごく長いライフル銃が、横の若木に立てかけてあった。その銃は、かしこい白人が考えだしたもので、あらゆる銃の中でもっとも恐ろしいものであった。 白人は、猟師といっても斥候といってもよかったが、その小さな目は、敏感に鋭くたえず動いていた。話しながらも、あたりに目をくばっていた。まるで獲物を求めているか、隠れている敵が、ふいに襲いかかってくるのではないかと心配しているみたいだった。白人は、たえずそのように注意を払っていたが、その表情には、少しも狡猾なところがなかった。そればかりか、人に紹介されたりすると、一徹なほど正直な表情をたたえた。

滝の裏にある洞窟の隠れ家、白人の姉妹をさらって行ったインディアン達の追跡など、変化に富んだ物語の中で、ホ-キイと二人のモヒカン族は、その野生動物なみの能力を充分に発揮する。文明人で軍人であるヘイワ-ド少佐が、勇敢で有能な士官なのにもかかわらず森ではあまり役にたたないのにひきかえ、あらゆる状況を熟知して行動するホ-キイたちの姿は魅力的だ。

ホ-クアイは、この辺に住んでいるインディアンのように、一種の直感によって、他のものには目に入らない道標を捜しだしては、その荒れはてた道をたどっているようだった。
スピ-ドはほとんど落ちなかったし、立ちどまって考えこむこともなかった。木に生えているコケを横目でちらっと見たり、沈みかけている太陽をときたまじっと見あげたり、無数の川を渡りながら、落ち着いて川がどちらへ流れているのか、ざっとたしかめたりしながら、どちらへ行ったらいいか決めていた。それだけで、いちばんむずかしい問題を解決していたのだ。

チンガチクックは静かな目で冷ややかに、弾が打ちこまれた場所の方を見やった。それから、前と同じ姿勢に戻った。こんなちょっとした事件ぐらいでは、少しも動揺している様子はなかった。そのとき、アンカスが、焚火のあかりの中へすっと入ってくると、焚火のそばに腰をおろした。父親と同じように、なにごともなかったような態度をしていた。
その間、ヘイワ-ドはひどく興味をそそられ、驚きながら、ふたりのモヒカンを見守っていた。この森の住人たちは、ヘイワ-ドがいくら用心してもつかめないものを人知れずつかんでいるように思われた。もし白人の若者なら、暗い平原の中でなにがあったか、熱心にべらべらしゃべったり、大げさに報告したりするはずだが、アンカスは、そんなことはしなかった。今まで起こったことを、そのまま見てもらうだけで満足しているようだった。したがって、ヘイワ-ドがなにも聞かなかったら、アンカスは、その問題についてはもう、ひとこともしゃべらなかっただろう。

この話のラストでアンカスは敵方のインディアンに殺され、モヒカン族の血は絶える。この悲劇は基本的には、白人のアメリカ大陸進出によって、先住民としてのインディアンが滅ぼされていった歴史の一こまである。だが、シ-トンの『動物記』でもそうだが、彼らをほろぼした白人たちは、その一方で彼らの自然と一体化した生き方、勇敢で誇り高い精神を賞賛し愛した。私の高校時代の友人の一人がアンカスに夢中になっていたように、この小説の中でインディアンは充分に魅力ある存在として描かれている。しかし、それでもモヒカン族だけでなく、インディアン同様に森で活躍する白人のヒ-ロ-を作者が作ったのは、あのランボ-と同様に、あえて自分と同じ人種、民族に、そういう能力を持たせたいという強い願いがあったのかもしれない。

4 野生動物の美

自然と一体化した彼らの能力の数々や、その姿の美しさは、ここまでの引用を見てもわかるように、野生動物と共通する部分が多い。『ドリトル先生のキャラバン』(岩波少年文庫)で、作者のロフティングはフクロウのト-ト-に、夜、森の中で迷った二人の子どもを助けてやり、その後二人に暗い森を歩く方法を教えてやった経験談を語らせ、闇の中でものを見る能力や暗黒を恐れない力についてこう言わせている。

子どもたちは、それから二度と暗やみをこわがりませんでした。――いつか私たちが九々算(くくざん)やそのほかの原理について論議していたとき、私が先生に申しあげたように、恐れというものは、たいてい無知からくるんでございます。一度、そのことがわかってしまえば、もうこわくはないものです。ふたりの子どもたちも、暗やみがどんなものかわかったのです。――夜は、もう、まるで昼間と同じようなものだということが、わかったのです。(略)
やみの中で見るのは、まったく訓練ひとつです。――ピアノなんかと同じです。

これは、むろん創作である。フクロウが実際にこう語ったわけではない。しかし、闇の中で行動する動物たちの感覚を想像してロフティングが書いたこの文章は、文明人が失っている能力を備えた存在から見ると、世界がどのように違ってくるかということを私たちに伝えるという点では、先の熟練した森の住人たちを描いた文章の数々と共通する。
また、幸田文はシ-トンの『動物記』を紹介した一文の中で、野生動物の持つ姿態の魅力について次のように述べている。(少し前後の関係ない部分の引用が多くなるが、私はかねがね、シ-トンの『動物記』はもっと大人の本として高い価値を認めていいのにと不満に思っているところもあるので、これほど魅力的な名文で紹介してくれると、うれしくなってとても省略できない。文中の「ぎざ耳坊主」の筋は本当は少しまちがっているのだが、そんなことぐらいもうどうでもいいという気になる。)

シ-トンの「動物記」を愛読した人は多いと思う。あの本はまことに不思議な力をもつ本である。読みだすとたちまち、机の前も障子も火鉢もどこかへなくなって、身のまわりには平原を渓谷を岩山を感じる。自分は兎ではないけれど、兎と同じに耳のうらに春日のぬくもりを感じるのだし、鹿とともに追われて懸命な疾走をするのである。狼が月の谷を越えれば、こちらも月に対(むか)って吠えたくなるし、熊が木の実をたべれば私にもほっとする食後感があるのだから、不思議な力をもつのである。そして読み終ったとき、机の前に座布団を敷いている自分のすぐそこに、実に鹿がい兎がい、それらを心底(しんそこ)かわいくなっているのである。シ-トンもえらいけれど、もともと動物もそういう力をもっているのだとおもう。
私はこの本が好きなので、戦後にも読んだが、若いとき読んだのと年をとって読むのとは、おのずから感じるところがちがった。若いときは、鹿なり兎なりがあわれにも勇ましく、身にふりかかる困難をしのいで行くその事柄に感動したが、老いては物語の筋に感動するよりも、動物の姿態に感動が起きる。追われる鹿は根かぎり精かぎり跳躍するが、何メ-トルも跳ぶその肢(あし)のほそさ、その腰の筋肉のしまりかた。みごとである。そして敵を逃れた鹿は安堵してゆっくりと、清澄な空気のなかに頸(くび)をのべている。襲われた恐ろしさは、危険を脱して今もまだ心に影をおとしていよう。短い毛の密生した頸に午後の陽がさしている。私は鹿といっしょにほっとしないわけには行かないのである。兎がいる、大きな逞しい兎である。飽かず新鮮な草をたべて、もくもく口を動かしているが、彼の耳は片方がぎざぎざに形が崩れている。子供のときおかあさん兎のそばを離れたすきに襲われて、母はそのために闘って死に、彼は耳を食いちぎられたのである。だが、彼は賢く強く大きく成長した。彼は人のしかけたわなにかかることがない。人は彼に、「ぎざ耳坊主」という名をつけた。私は、彼がそのぎざぎざになった片耳を立てたりねかしたりしながら、決して迂闊に流れることなく、しかし楽しんで若草に口髭を動かしている恰好を思うと、草原の深沈とした寂寞を身に感じて彼をいとおしく思わないわけには行かないのである。シ-トンのなかの動物は、けわしい峰から広い野原から野生のままで、都会の人間である私の、貧しい茶の間へ来てくれるのである。

(幸田文『動物のぞき』 新潮社刊)

肉体における機能美と同様に、彼らの集団にもまた、生きる必然から生じる、統一された動きがあり、規律や秩序が存在している。キプリングの『ジャングル・ブック』は、密林の獣たちが守っている掟の数々、特にマウグリが属している狼社会のそれについて、くりかえし述べる。野生動物たちには、守っている規律がある。このことは好感を持って語られるし、それは野生動物に近い森の暮らしをする人たちにも、望ましいこととされる。『モヒカン族の最後』のホ-キイは、不必要な殺人をしない。ロビン・フッドがモラルを守る紳士であり、騎士道精神の持ち主だったことは、彼の人気を高からしめる大きな要因となっている。ソロ-『森の生活』(岩波文庫)やルソ-『エミ-ル』(同上)が、自然や野生の暮らしを評価し賞賛したのも、それらがある種の秩序を持って運営されていることを実感していたからだった。

5 野性の反逆

しかし、人間と自然、文明と野生の合体は、いつもそう理想的にいくものだろうか?私がここで言いたいのは、有吉佐和子氏が『女二人のニュ-ギニア』(朝日文庫。ちなみにこの旅行記に登場する文化人類学者の畑中幸子氏も、ニュ-ギニアの密林の中で現地人とともに暮らす、野生動物的能力を備えた魅力ある現代人である)で、「間もなく私の全身は文字通り泥まみれになっていた。軍手は幾度も泥をつかんで、べとべとになっていた。タ-ザンもタ-ザンの恋人も殆ど半裸で密林の中を駈けまわっていたが、ちっとも躰はよごれていなかった。映画というのは本当に絵空ごとだなと、私は忌々しかった」と、現実のジャングルが映画などで見たそれとまるで違っていたと嘆いているような、虚構と現実の間のギャップだけではない。
たしかに野生動物たちにも、未開といわれた民族にも、皆それぞれのル-ルがあるだろう。だが、『ジャングル・ブック』が、狼たちの社会のそれを最高の理想的なものとしたのに対して、愚鈍で軽薄なものと否定した猿たちの社会にも、同様に批判したカ-スト制度が支配するインドの村にも、また『類猿人タ-ザン』が、残虐な悪役として描いた人食い人種の蛮族の社会にも、すべて、それなりの規律と秩序は存在していたはずである。文化人類学者のレヴィ・ストロ-スはその代表作の一つ『悲しき熱帯』(中央公論社)の末尾近く「一杯のラム」の章で「どんな社会も真底(しんそこ)から善くはないが、だからといって、どんな社会も絶対的に悪くはない」と述べ、食人の習慣について次のように説明している。

あらゆる野蛮な習俗のうちでも、恐らくわれわれに最も恐怖と嫌悪を感じさせる食人を例にとってみよう。まずそこから、純粋に食物摂取としての形態、つまり人肉を食うという欲求がポリネシアの或る島々におけるように、他の動物性食料の欠乏によって説明される場合を除外すべきであろう。この種の渇望に対しては、どんな社会も道義的に保証されてはいない。飢餓は、人間に何でも構わず食べることを余儀なくさせる。最近の皆殺し収容所の例が、それを証拠立てている。
そこで残るのは、「積極的」と形容することのできる神秘的、呪術的あるいは宗教的な理由に基づく食人の諸形態である。例えば、死者の徳を身に着け、またさらには死者の力を無力にするための、親や祖先の体の一部や敵の死体の一片の嚥下(えんか)。(略)食人に対する非難が含んでいるのは、物としての死体の毀損(きそん)によって危うくされる肉体の甦りへの信仰か、あるいは、霊魂と肉体の結び付きの肯定とそれに対応する二元論である。つまり、非難が立脚しているこれらの信念は、儀礼的な食人を行う名目となる信念と同じ性質のものなのであるから、われわれが食人よりもこちらを選ぶ理由はないということを人は認めるであろう。(後略)

カ-スト制度だって規律と秩序という点だけから見れば、めちゃくちゃ整っている社会ではあるのだ。動物にしろ、人間にしろ、それぞれの歴史と環境の中での必然性を持ったさまざまの多様な形式の社会の中から、主として欧米社会の文明と、かたちが近いものだけを認めて評価するのでは、野生や自然を本当に認めたということにはならない。
野性や自然に多様な形式があり、そのどれがすぐれているとか正しいとかを簡単に決められないとすると、そのような野生や自然が人間と触れ合い合体する時、それは必ずしもその時の人間社会の理想と一致するとは限らず、その時の人間にとって快いものとなるとも限らない。そのような問題を投げかけるのが、トウ-ルニエの『新ロビンソン・クル-ソ-』(一九六七 岩波書店)であり、ゴ-ルディングの『蠅の王』(一九五四 集英社文庫)であり、H・G・ウェルズの『モロ-博士の島』(一八九六 創元SF文庫)である。
『新ロビンソン・クル-ソ-』は、有名なデフォ-の『ロビンソン・クル-ソ-』をもとにしているが、島で火薬の大爆発がおこったため、船から持ってきていた文明の利器がすべて失われてしまい、どうしようもなくなったロビンソンは、文明人にしようと教育していた土人のフライデイ(この小説の原題は『金曜日』である)に、逆に野生の生活を学ばざるを得なくなり、両者の立場が逆転するというものである。また、「二十人の少年が五百万人のおとなの読者にショックを与えた」と言われた『蠅の王』は、無人島に漂流した少年たちが、最初は規律を定めて皆で楽しく暮らそうとするが、次第にそれが崩壊して行き、裸になり顔に絵の具を塗って、おたがいが殺し合うようになる。島の中にある、蠅がたかった豚の死骸の頭(蠅の王)が象徴する「獣の論理」が、理性と文明に勝利するのである。
時代はやや古いが、『モロ-博士の島』で狂気めいた科学者の手によって人間につくりかえられた動物たちの姿は、動物らしさと人間らしさの合体という点では、タ-ザンやマウグリやリ-マと同じなのに、こちらは目をおおうばかりの不気味さしかない。

次に目につくのは、首が前に突きだし、背骨が人間ばなれした形に曲がっている点である。猿男の背中でさえ、人間の姿を優美に見せる背中の内むきのそりとは無縁だった。たいていの者は、肩を不格好にまるめ、短い腕をだらりと脇にたらしていた。目立って毛深い者はほとんどいなかった。――すくなくとも、わたしが島を出るまではそうだった。
次に顕著な奇形は顔面に見られる。ほぼ全員の顎(あご)が突きだし、耳のあたりがいびつな形になっている。大きな鼻は飛びだしており、頭には剛毛(ごうもう)が密生している。目は色がおかしかったり、ついている位置がおかしかったりした。猿男がキキキと笑うのを例外として、獣人たちは笑うことができなかった。以上は一般的な特徴だが、それをのぞけば彼らの頭部に共通点はほとんどなかった。それぞれが個々の種の特徴を色濃く残していた。人間らしく変形されていても、豹、牛、豚といった元の動物らしさは隠せないのである。声も多種多様だった。手は決まって奇形だった。驚くほど人間そっくりの外見をしている者もいたが、満足に五本の指を持つ者は皆無に等しく、爪もまた不格好で、触覚も備わっていなかった。
動物人間のなかでもっとも身の毛がよだつのは、豹人間と、ハイエナと豚をあわせた生きものだった。このふたりより大柄なのがボ-トを引きあげた三人の牡牛人間。ついで銀髪の「掟を唱える者」、ム・リン、猿と山羊をあわせたサチュロスのような生きもの。このほかに、三人の豚男とひとりの豚女、馬犀(うまさい)人間、元がわからない数人の女。さらに数名の狼人間、熊牛、セントバ-ナ-ド人間がいた。猿男のことはすでに書いた。とりわけいやらしい(しかも鼻が曲がりそうなほど臭い)のが、雌狐と熊をあわせた老女で、わたしははなから毛嫌いしていた。彼女は「掟」の熱心な信奉者だといわれていた。もっと小柄なのは、斑模様の若いやつらや、例のナマケモノ人間などだった。(後略)

これは動物が人間に改造されたから、このように醜いのだという指摘もあろう。だが、モロ-博士の死後、彼らが次第に獣に戻っていく中で、彼らの世話をしていた主人公プレンディックも(彼は人間であるにもかかわらず)次第に動物に近くなって行くのである。しかも、物語の末尾で、悪夢のような島からようやく人間の文明社会に戻ったプレンディックは、都会の雑踏にうごめく人々の中に、あの島で見た獣人たちの面影を見いだして戦慄することがある。彼の、そして作者ウェルズの心の奥底にあるのは、人類すべてが、やがて次第に動物に退化していくのではないかという恐怖なのだ。
あるいはまた、ノ-マン・メイラ-『裸者と死者』に登場する、第二次大戦中の太平洋の孤島で戦う小隊の描写。『蠅の王』のインテリ少年ピギ-と同様に、苛酷な戦闘の日常にあっては、知識人のロスはただ無力で哀れなだけのいっそ醜い存在であり、人間性豊かなゴ-ルドスタインやレッドやハ-ンでさえもが、残酷で冷酷だが野生動物のような勘を持ち、戦闘能力と生存能力にすぐれたクロフトや愚鈍で鈍重なリッジズに比べると、ずっと情けないし見劣りする。(映画「プラト-ン」が、野性的な戦闘能力にたけたエリアスがすぐれた人間性も持っているように設定しているのは、これに比べるとはるかに楽観的である。戦闘体験などない私に、どちらがより現実に近いのかは知るよしもないが、たとえばレマルクの『西部戦線異状なし』や、野間宏の『真空地帯』などでも同様に、庶民的な野性の勘を持った兵士と、たよりないインテリがしばしば登場するのを見ると、こういう極限状況では知性などは、ほぼ何の役にもたたない、体力がすべてだ、ということを実感する。通知表の体育はいつも2だった私は、それをどうかしようという気も全然なかったのだが、ただ、こういう自分は、いざという時、周囲にとってまったく無価値なお荷物だろうなと、劣等感とも少し違った確信をいつもどこかでかみしめていた。)クロフトは知性にも人間性にもまったく欠けるが、獣のような本能で、自然や人間との戦いに勝利して生き抜く道を知っている。そこには、非人間的な野獣としての魅力さえあるのだ。
これらの作品はいずれも、文明人が自然や他の文明に影響され、征服される話である。その背後には、先にあげた『タ-ザン』以下の諸作品では無条件に信じられていた、人間やその文明に対する自信の喪失がある。それは従来の、自然と文明の美しい合体という、ひとりよがりで虫のいい思い込みを修正する役割を果たすだろう。だが、そのような自信の喪失が過度になれば、これまた、異文化や自然への盲目的な礼賛、信仰、恐怖にも走りかねない。フォ-スタ-の『印度への道』や、晩年のスティ-ブンスンを描いた中島敦の『光と風と夢』などの作品が象徴するような、長くて古い伝統を持つ、「得体が知れなくて神秘的で、人の理性をともすれば呑み込み、蠱惑的で自堕落で、文明に疲れた心を休めてくれる未開社会」といった欧米文学のイメ-ジの東洋の地に住む一人としては、映画「エマニュエル夫人」に登場する東南アジア、同じく映画「シェリタリング・スカイ」に登場する砂漠などなど「わけのわからんところがいい」「何でもありの世界」と言わんばかりの評価のされ方をすると「自分の文明に勝手に疲れて、安易にこっちに休みに来るな。東洋や南洋は西洋のソ-プランドとは違う」と口走りたくなるのである。

6 終わりに

黒沢明監督の映画「七人の侍」では、正義の味方は村にこもり、悪の象徴である野武士たちは背後の森から攻めてくる。森は時に若い侍と村娘の恋の舞台ともなりつつも、すぐにそれは一転して野武士が現れるのであり、正義の味方たちは常に森と対峙して、森から侵入するものをくいとめる。ここでは、アメリカ映画のベトナムものよりもずっと潔く自信を持って、森は魅力的で神秘的であるとともに、悪の存在する場所である。そこには、まだ、森を切り開き、森から出て来た、人間の文明への信頼と誇りがある。だが、この映画が、今日では少し見ている人たちにとまどいを与えるのは、まさにその点ではあるまいか。アニメも含めて、現代の文学が描く「悪」は、むしろコンピュ-タを駆使した「文明」や「科学」と結びついて描かれる。野蛮な野武士などの野性的なものは、現代では正義の側であるのみか、しばしば絶滅寸前の守られるべき弱者ですらある。
現在のアニメ界のこういった枠組みに大きな影響を与えている宮崎駿の映画にも、その方向は強く出ていた。そして最新作の「もののけ姫」では、それがやや修正され、「七人の侍」路線の思想(森と対峙し、森から襲って来る者と戦う人間のあり方)もまた含まれるところが、「わかりにくい」と批評される理由でもあろう。私は、それは人類の未来に希望を持とうと思うなら、あっていい修正であり、ものごとをつきつめて深く考えれば、当然出て来る方向でもあろうと思っているが。
文学作品に自然や野生がどのように描かれていても、それが文学として優れていれば、読んで楽しむことはできる。しかし、そうやって描かれている自然や野生は、やはりその作品の時代を反映しているし、何らかの意味での作者の思想の表明でもあるのである。

(1997・12・6)

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