動物と文学「悪役たち」

1 差別を感じる時

もうずっと以前も以前、何十年も前のことだが、テレビを見ていたら、アメリカでの日系人の差別について抗議する日系二世か三世の若い人々の声が紹介されていた。この問題は最近では第二次大戦中の日系人収容所を扱ったアメリカ映画(「愛と哀しみの旅路」でしたっけ、でもまちがっているかもしれない。どうでもいいけど、このごろの映画って、どうしてこういう似たような題名ばっかりつけるのだろう。原題のままの横文字題名の氾濫も手抜きだとは思うけれど。ブラット・ピットなんて、本人の責任じゃ全然ないのはようくわかっているけれど、デビュ-以来の日本公開の作品なんて、カタカナ以外のものってないのじゃないだろうか。「デビル」の「セブン」の「スリ-パ-ズ」まではまあ目をつぶるとしても、「インタビュ-・ウィズ・バンパイア」の「リバ-・ランズ・スル-・イット」の「セブン・イヤ-ズ・イン・チベット」となると、配給会社もどこまで続けられるのか意地になっているとしか思えない。昔の私の教え子で、頭もセンスもいい美人だけれど、どうしてかカタカナが苦手で三文字つづくともう舌がもつれて発音できない女性がいた。何とかかんとかショコラ・デ・何とかなどというケ-キの名前を見るたびに、私は、あいつはこれをどうやって注文して買っているのだろうかと、いつもひそかに心配する。彼女はミ-ハ-でハンサム大好きだったけれど、ブラッド・ピットの映画の切符はきっとすんなりとは買えないにちがいない。まあ、でも彼女の場合、その前にレオナルド・ディカプリオの名前も言えないだろうなあ。・・・などという、まったく関係ない話は一応おいておくとして)とか、その収容所を扱った井上ひさしの戯曲『マンザナ、わが町』とか、その戯曲と共通した題材もある『イエロ-・フェイス』(朝日選書)など、いろいろととりあげた本や文学もある。しかし、その当時は、ほとんど話題になることはなかったと思う。それで興味を感じて見ていたら、「どういう時に差別を感じますか」と質問された日系青年が、「たとえば、映画などでは黄色い顔の東洋人はいつも悪役だし、よくないイメ-ジで描かれている」と述べていた。
聞く人によっては、差別というともっと生々しくて具体的な、たとえば暴力を受けるとか就職ができないとか土地を売ってもらえないとか銀行が融資をしてくれないとか、そういう発言を期待していたかもしれない。そういう人には、彼の発言はたかが映画の悪役が日本人っぽいことぐらい、そう直接の被害はないではないかと、甘っちょろいものに感じられたかもしれない。あるいはそういう、もっとひどい差別もあるかもしれないし、彼はそれも言ったのに編集されたのかもしれない・・・とまあいろいろなことが考えられるわけだが、さしあたり、少なくとも私は、彼のその発言を非常に実感をもってうけとめた。そういうことに一番こだわる彼の感覚というかセンスを信頼でき、したがって、その抗議運動自体も正しいだろうと信頼できた。多分、それは当時の私が、現実に日常の周囲で激しい差別を受けることはなくても,テレビや映画の描く女性像のしょうもなさに強く不快を感じることが多く、そしてそれが目立たない小さな深刻な周囲の差別とぬきさしがたくかかわっていることを実感していたからだと思う。
私がその頃勤めていた大学へ行く道の曲がり角には、いつもポルノ映画のポスタ-が貼ってあって、裸の女の人が顔をしかめて口を開けていたりした。そして大学の廊下には就職シ-ズンともなると、学生たちのための会社の求人票が山ほど張り出されたが、注意深く見ると、男性のみの採用とか男女の俸給の差が、どの求人票にもあたりまえのようにぬけぬけと書いてあった。私がそのどちらにより多く絶望的な気分になったかは自分でもわからない。ただ、いつのまにか、ある時期から私は、「この二つは連動している」と強く確信するようになった。ポルノのポスタ-と求人票とはつながっているし、支えあっている。あれがあるからこれがあるし、これがなくならない内はあれも決してなくならないのだと。

2 イメ-ジは大切

そうなってくると、人間が読む文学作品の中で、どのようなイメ-ジで描かれるかは、動物たちにとっても、けっこう深刻な問題である。捕鯨やキツネ狩りや闘牛に関する論争でもわかるように、その対象となる動物についてどういうイメ-ジを持っているかは、動物に対する人間の処置に大きな影響を与えかねないからだ。
先日、チ-タの親子を扱ったテレビ番組で、ビ-トたけしが「イボイノシシなんかかわいそうだな。出てきても食べられるってすぐわかるもんな」としきりに同情していた。たしかに鹿やキリンなどがむしゃむしゃ食べられる場面よりは、イボイノシシのようなあまり外見に馴染みがなく、ちょっと見にも親しみを感じないような動物が餌になる場面が多い。そういう場面が多いと、餌としてのイメ-ジが定着してますます同情をさそわなくなるから悪循環だ。
『ジャングル・ブック』では、悪役は虎と猿と山犬である。この内、虎が悪役になるのは、群れを組まずに独りで狩りをする習性から来たイメ-ジかとも思うが、同じ習性を持つ黒豹のバギイラは主役に近い存在だから、猫属が特に冷遇されているというわけでもなさそうだ。
ただ、猫は単独行動をし、群れでは動かないから、動物たちの集団を描く作品の場合は結構仲間はずれになり、悪役に近い存在になることもある。「ドリトル先生」シリ-ズでは、先生を取り巻く家族のような動物集団の中に猫は入っていないし、全体主義政治を批判した寓話、ジョ-ジ・オ-ウェルの『動物農場』(角川文庫)では困難な仕事の時にはいつもこっそりいなくなるエゴイストとして描かれている。その『動物農場』では、最大の悪役はブタで、あくことを知らぬ物欲の権化といったイメ-ジだ。「ドリトル先生」のガブガブもそうだが、豚は食いしん坊で現実的な存在としてとらえられやすい。最近は豚もペットにされるようになって、事情はずいぶん変わってきているが。
ラ-ゲルレ-フの『ニルスの不思議な旅』では、悪役は狐のズル公(最後には改心する)。これは雁が主人公のお話なので、それを襲って食べる獣は必然的に悪役になる。作品の中心となる動物たちの天敵がすなわち悪役になる、典型的な場合の一つだ。

3 馬たちの老後

猫が冷たい、豚が意地汚い、といった、それぞれの動物にまつわるイメ-ジは、一見した印象などから人間が勝手に作り上げているものもある。しかし、それなりに根拠を持っているものもある。
たとえば、馬という動物は『ガリバ-旅行記』の最後の話で、フウイヌムという理想社会の住人であり、『エクウス』では主人公の少年の幻想の中で神と同一視された。『動物農場』でも、二言目には「わしがもっと働けばいいのだ!」とつぶやいて、身を粉にして仲間の皆のためにつくすボクサ-という誠実な馬が登場する。このように、馬はある種の崇高さ、悲壮さをもったイメ-ジでとらえられることが多い。それはおそらく、彼らが人間の文明の発達の中で担ってきた歴史とも無関係ではない。
マルタン・デュ・ガ-ル『チボ-家の人々』や、ドストエフスキ-『罪と罰』には、いずれも主人公の少年や青年が、街の中で荷馬車をひいていた馬が苦しんでいる場面を目撃し、強い衝撃をうける場面がある。このような風景は馬が主な交通手段、輸送手段だった一昔まえには、おそらく現実によく見られたはずであり、「馬車馬のように働いて」死んでいくのが、当時の馬たちすべての運命だった。
馬たちはまた、軍馬として戦争にもかりだされた。反戦小説の古典として有名なレマルクの『西部戦線異状なし』では、そんな馬の一匹が戦場で傷ついて死んでいく声を聞いた農村出身の兵士デテリングが狂人のようになる。
『ドリトル先生』シリ-ズを書いたロフティングが、動物のことばを理解し、彼らのために生きるお医者さんを主人公とした話を作ろうと決心したきっかけは、第一次大戦中に出征した戦場で、死んでいく軍馬たちを見たのがきっかけだったと言う。デテリングが耳にして半狂乱になったと描かれている、断末魔の馬の声をロフティングもまた聞いたのだろう。ドリトル先生が、引退した馬車馬たちのために農場を買い、理想的な隠居所を作ってやるという話も、これらの背景を考えると、甘い夢物語というだけではすまない切なさが残る。現実の馬たちの働きづめの一生の最後に待つ、救いのない死。それを知っていた作者が描いた、現実とはあまりにもかけはなれた美しい、年老いた馬たちの理想郷。
そして、結局のところ人間たちは、このような馬たちの悲劇を解決してやることはなかった。馬車馬や軍馬の苦しみをなくしたのは、戦車や自動車という近代兵器や輸送手段であり、馬たちの苦しい生涯は結局、彼ら自身が無用になって私たちの目の前から消え去ってしまうまで、解決されることはなかったのである。

4 擬人化の功罪

かつて、動物実験に関する本を読んでいて、私がかなりびっくりしたのは、「動物に(人間のような)苦痛や悲しみや恐怖はあるか」ということが、結構重要な研究課題というか問題点として検討されてきたということだった。それが、苦痛をともなう動物実験をするのが是か非かと考える際の一つの争点にもなるということなのだろう。しかし、そんなことを真剣な議論の対象としてとりあげるということが驚きだったし、第一、人間と同じ苦痛や恐怖の感覚を持っていないものに対して実験をしても、人間のための薬や治療法の資料として役立つのかという疑問も感じた。
動物が人間のような苦痛や恐怖を感じていないのかもしれない、少なくともまったく同様の感覚は持っていないのかもしれない、という可能性はないわけではない。しかし、あまり簡単にそう考えてしまうことは、必然的に動物に対する残酷な行為の容認へとつながるだろう。
何かの理由で、残酷な行為をしなければならなくなった時、しばしば人が自分に言い聞かせるのは、「こんなことをしても、こいつにはこたえないんだ。自分とはちがうんだ」ということだ。かつてベトナム戦争の頃、アメリカのある高官は「アジア人は我々西欧人とは違った哲学を持っているから、肉親の死などにもそれほど悲しみは感じないのだ」というようなことを発言して問題になった。ストウ夫人の小説『アンクル・トムズ・ケビン』では、黒人奴隷の女性の赤ん坊を母親から引き離して売ることに対して「黒人は我々と違って、子どもを取られてもそんなに嘆きはしません」と説明する白人が登場する。岩波新書『奴隷とは』も、黒人奴隷たちが苛酷な労働におもむく姿を見ても、当時の白人が、たとえ豊かな感受性をもった人でも、それを一つの風景と見て、何の辛さも感じていないことを指摘している。自分と同じ感覚を持つとわかっている存在に関しては、ごく自然にほとばしり出る同情や義憤が、一切閉ざされてしまい、心が無感覚になってしまうのだ。黒人やアジア人に対するこういった理解はまちがっており、同じ人間としての共通な感覚を持つという前提で、今はいろんなことが考えられていると思うが、動物に対しても、同じ生き物としての共通の感覚はかなりあると考えておくべきなのではあるまいか。
もっとも、逆に、彼らが人間と同じだと解釈しすぎることが残酷になる場合もある。『牛追いの冬』には、少女たちの可愛がっていた子猫が(「あんなきたないものを好きなわけがない」と思い込んでいた)ネズミを取ってきたため、少女たちがショックをうけて大騒ぎをし、猫の口を石鹸で洗って猫を怒らせる話がある。これは微笑ましい笑い話として書かれているが、このような動物の性格を無視した擬人化が、動物たちを不幸にしている場合も多いだろう。
テレビの動物番組などでは、しばしば動物の親子や夫婦の関係が、人間のそれになぞらえて語られ、人間の家庭生活を投影して描かれる。その解釈が正しい理解とつながっていることもあるだろうが、ただそうなると、それにあてはまらない、つまり人間と共通する部分の少ない家庭生活や性生活を営んでいる動物たちは、とりあげられることが少なくなり、とりあげられても親しみをもって理解してもらえない。一夫多妻とか近親相姦とか、人間社会の用語を使って理解しようとするとなおさら、人間社会でのそれらのことばが有している特異な印象に染められてしまう。実際には、熱心に子育てをし、厳しく子離れをするキタキツネも、雌が雄を食べてしまうカマキリも、それぞれ、その種にとっての真剣で正常な営みであるという点では同等であり、感動するなら同じように感動するべきなのである。難しいのはわかるけど。
かつて、これもビ-トたけしらが出ていたテレビの動物番組でタスマニア島の、その名もブラックデビルとかタスマニアデビルとか何とかいう、あまり可愛くはない面構えの小動物が紹介された。その動物の性交はかなり荒々しく、いってみればレイプめいている。ギイギイという彼らの凄い絶叫がこだまする、夜の繁殖行為のあと、ナレ-ションが「悪夢のような一夜が明けて・・」と言った時、私も聞いていて吹き出したが、ビ-トたけしをはじめとした出演者たちが、「そんなのわかんねえじゃないかなあ」と口々に言っていたのがマイクに入っていた。これが人間のレイプ肯定につながるともちろん困るけれど、ことタスマニアデビルに関する限り、確かに「そんなのわかんねえじゃねえかよなあ」なのである。

5 作られた「自然」さ

このようなことをどう処理するかは、特にスケ-ルの大きな架空の話を綴る時は作者にとって重要な問題となる。『動物農場』は寓話としての色彩が強いので、かえってわりきれる面があるし、これは『ジャングル・ブック』も『ドリトル先生』も同様だが、動物どうしの恋愛、性行為、出産が登場しない。しかし、寓話小説としても読まれる傾向がありファンタジ-小説としても高い完成度を持っている、リチャ-ド・アダムズ『ウォ-タ-シップ・ダウンのうさぎたち』(評論社文庫)の場合には、特に後半では巣作りや生殖が大きなテ-マのひとつとなっているため、作者も読者もこの問題を避けて通るわけにはいかない。
動物の生態を題材とした話を書く時、書く人も読む人もしばしば「自然の美しさ」ということを強調する。私たちが文明の中で失いつつある男女関係、親子関係、共同体の原型が動物たちの生活にあるのだと。そういう面もないことはないが、そのことをあまりにも無条件に強調するのは危険だろう。
私は自分の中にあった(それが「自然に」生まれたか「不自然に」生まれたかなど、今となっては知ったことではない)「孤独が楽しい」とか「人に保護されるのはうっとうしい」とか「自由に生きたい」とか「弱いものを守りたい」とかいう欲求の数々を、皆「人間として不自然」「女として不自然」という言葉のもとに制限されてきた記憶がある。だがら「自然」は別に嫌いではないが、「自然ということば」は嫌いであり、それを信奉する人間は更に嫌いである。
『ウォ-タ-シップ・ダウンのうさぎたち』には、うさぎの「自然な」生き方、つまり弱い動物の特徴を生かした「逃げて逃げて逃げまくれ」という哲学が強調されているものの、それはいたずらに美化されたり無条件に肯定されたりするのではなく、一つの生き方として描かれているのが快い。こういう作者だから当然かもしれないが、この話の後半のもう一つの大きなテ-マは、うさぎとしては徹底的に「不自然な」生き方を貫こうと、エフラファという軍隊組織の村を作り、他の動物と力で対決していこうとするウ-ンドウォ-ト将軍の存在である。彼は単なる悪役ではなく、作者もその生き方を否定し去ってはいない。アニメの映画は小説に比べるとものたりなくはあるが、傷だらけのとてもうさぎとは見えない凄いつらがまえの将軍が、「ばかもの、犬なんか何だ」(広川太一郎さんの声)とかどなりながら大きな犬にとびかかる場面で、輝く太陽に画面が変わり「将軍の死骸はみつかりませんでした・・・だからまだどこかで生きていて、あのすさまじい生き方を今もつづけているのかもしれません・・・」と甘い女性の声のナレ-ションが入るのは、つい笑ったけれど、ちょっとよかった。
で、この将軍をどう考えるかという問題もあるのだが、それとともに気になるのは、この小説における家族とか恋愛とかいうものの描かれ方だ。作者が巧みに処理しているので一見わからないのだが、うさぎたちの村の夫婦や親子のありかたを人間社会のそれと不自然でなく重ね合わせようとする中で、あちこちに工夫がされている。それを注意深く検討して行くと、少なくとも、動物や自然を題材にした小説を書く時には、絶対に作者の社会観、男性観、女性観を反映させた処理が行われるのだということが理解できるだろう。動物の生態を「そのまま」描くことなどは、おそらく報告書や論文でも難しいし、文学作品では不可能に近い。作者も読者も結局はそこに、人間の社会を反映させる。
山田詠美『アニマル・ロジック』(新潮社 単行本)は、血液中の微生物が主人公である。宿主の女性を深く愛して、その自由な生き方を自分も満喫しながら彼女を支えようとする、この微生物の感覚や感情で、人間である私たちに理解できないものはほとんどないといっていい。せっかく微生物なのだから、もう少しそれらしい(と言っても微生物に知り合いのある人はいないだろうから、どういうのがそれらしいかはわかりようもないわけだが)思考や感覚を示してほしいような気もするし、私たちの身体の中のひとつひとつの微粒子単位の部分が、こういう人間と共通する思いを抱いて必死に働き活動しながら、私たちを守ってくれているかもしれないという空想こそが感動を生むような気もするしで、この判断は難しい。
結局は異なる文化や民族を理解しようとする場合もそうだが、また隣にいる他人でも基本的には同じことだが、私たちは相手の行動や表情を、自分の体験にあてはめて理解するしかない。本や映画で見た知識を参考にするとしても、その知識を理解するのも自分の感覚を通してでしかない。そうなると、自分の中に生まれるわずかな感情や微妙な心理にも目を配って見落とさず、また一方でできる限りの多様な経験を味わって、「スマトラの奥地で獲物をとりにがした虎の心境」とか「地面の下でのびたりちぢんだりしているミミズの心境」とかにあてはまる気分というのを、いつも養って探しておくことが大切になるだろう。いやな思い出とか、異常で病的な嗜好とか思って、泥をかけて蓋をして忘れてしまうのではなく。見つめるのが耐えられなかったらさしあたり、どこかにしまっておいてもいいから。いつか、タスマニアデビルの愛やサルモネラ菌の喜びを理解するのに、その体験が役に立つかもしれないのだから。

(1998・2・9)

Twitter Facebook
カツジ猫