動物と文学「悪役たち」付録

(以下の文章は、もう十年ほども前に、主婦や教師など数名の女性の方々と「児童文学のなかの母親」というテ-マで読書会をしようとした時の資料として作ったものである。結局その読書会は中止になったので、この文章も発表しないままだった。今回、「動物の擬人化」について、この資料をとりいれようと計画していたのだが、うまくいかなくて、もとのかたちのまま、まるごと付録として付け加えておくことにした。こういうのをフェミニズムといってもいいのかどうなのか私はまだよくわからないのだが、自分が女性であるということを何かと意識していると、こういう「動物の擬人化」に対しても気になることが多い。逆に言えば、「擬人化」という行為の中には、その作者や時代の世界観や社会観や価値観が微妙に、そして決定的に影響を与えるということがよくわかってくる。ここでは女性の問題が主になっているが、他の点でも「擬人化」ということには、こういう難しさが関わってくるのだという参考にして、読んでいただければ幸いである。)

児童文学のなかの母親

-「ウォ-タ-シップ・ダウンのうさぎたち」の場合-

この作品の前半、つまり主人公のうさぎヘイズルたちが、自分たちの住む場所を求めて長い旅をする部分では、母親どころか女うさぎそのものがまったくといっていいほど登場しない。人間の餌場と化してしまった豊かだが悲惨な村で、ニルドロ・ハインという雌うさぎが出るのが唯一の例で、しかも彼女はのちに仲間になるストロ-ベリ-の妻であるというだけで、せりふもまったくなく、すぐ人間に殺されてしまう。いわば、この村での幸福な生活、快い日々の象徴としてのみ現れてきているといっていい。
女性つまり雌うさぎが問題となるのは、彼らがさまざまな苦労のすえ、ウォ-タ-シップ・ダウンに理想的な場所を見つけ自分たちの村を築いた段階である。その時になってヘイズルは仲間たちに「このままでは数年すると村は消える」、つまり子供が生まれないからで、村を維持し発展させていくためには雌うさぎが必要であることを指摘する。一同はこれに賛成し、大きな危険や冒険を冒して雌うさぎたちを村に確保し、村の基礎は築かれるのである。
ヘイズルがこの提案をするまでは、仲間は誰もこのことに気づかなかったことになっている。事実、読者も読んでいてそのことには気がつかないと思う。いいかえれば、女性がいなくても先のことを考えなければ誰も不都合は感じなかった・・淋しいとか、ものたりないとか、いらだつとかいうことはなかったということになる。
ヘイズルに命を助けられ、以後彼らの仲間となって協力を惜しまず、雌うさぎ探しにも役だってくれたユリカモメのキハ-ルは、片言のうさぎ語で雌うさぎのことを「あなたたち、かあさん」というように言う。雌うさぎは、まず彼らにとって子を産む母親としてとらえられているのである。

「ウォ-タ-シップ・ダウンのうさぎたち」は、私の好きな童話の一つといっていい。それも情熱的に愛するのではなく、とても安定した気持で何度でも読みなおせる快い作品として好きなのだ。文庫本の表紙のカバ-は絵としてはきれいだが、この中身の持つごつごつしたあたたかい素朴なたのもしさとはそぐわないなあと、私はいつも考えている。
作品全体に、骨太なたしかな哲学がある。それは、他を殺す武器をひとつも持たぬかわり、危機を察する鋭い耳と逃亡を可能にする速い足とに恵まれた、ひとつの生物の生き方である。道徳的な話ではなく、食べて眠って繁殖してゆくうさぎたちの暮らしだけを書いたつもりだという作者の言葉はうなずける。そのような現実にもとづいての彼らの生活のひとつひとつが丁寧に描かれ、その積み重なりの重さが確かな手ごたえある作品世界を作っている。
そのような作品のなかで登場する雌うさぎが、恋人でもなく巫女でもなく女闘士でもなく、何よりもまず村の存続のために必要な「子を生む母親」として位置づけられていることに私は興味をひかれる。
雌うさぎたちは決してさらわれるのではない。人口が過密なため子を生むことを許されない村を自分たちの意志で脱出して、ヘイズルたちの仲間に加わる。彼女たちは皆しっかりしていて魅力的であり、同じ村にいた雄うさぎが村の独裁者によってうけた軍国主義(?)的教育にまだとらわれてものごとを考えてしまうのについて説明したあと、「でも、君はそうじゃないのか?」とヘイズルたちに聞かれて「わたくしは、めすです」と答えるハイゼンスレイなどは、男性と同等のあるいは以上の理性と意志を持ち決断力にも判断力にも富んだ、きわめて魅力的な雌うさぎである。たとえば、おてんばで反抗的だが結局たよりにならず、逮捕され自白して仲間を危険にさらしてしまう若い雌のネルシルタより、はるかにすぐれたうさぎであろう。
私も彼女が好きである。が、そのような自分自身にどこかで疑問も抱いている。
ネルシルタはこの作者の好みでないのは、よくわかる。だから彼女の否定的な面がこの作品では強く出る。(ついでに言うと、ファジャ-エフの「若き親衛隊」で、真先に仲間を売る青年も言ってみればこうで、何というか、共産主義、自由主義を通じて真剣で堅実な闘争を描いた小説、映画では、こういう口が達者で頭が切れてええカッコしい、といった人は絶対にこけてしまって戦いをまっとうできない。「ほんとにそうかあ、こんなにいつも?」という疑問と、「やっぱ、こんだけ言われるってことは、そういう実例がいやってほどあったんだろうなあ」という納得が、見るたびいつも私の中では相半ばする。)けれど、もし、かなり肯定的に美化して書いてあったとしても、私は彼女を好きになれないかもしれない、と思う。「子ぐま星座」という小説の中で私は、元気のいい、男の子と何でもいっしょにやろうとする負けずぎらいのマ-シャよりは、女の子の分を守ってめだたず、しかししっかりしているジ-ナの方が好きだった。
ハイゼンスレイへの私の好意は、ジ-ナへのそれと一致しているような気がする。分を守り男の冒険には加わらないで、女としての自分の世界を充実させ、母として妻としての役割を充分に果たすことで男と対等になる女性への、共感と好意と支持。
それは、どこから生まれるのだろう?

話は少しもとに帰るが、ヘイズルをはじめとしたうさぎたちは恋をしないのだろうか。性欲はないのだろうか。
うさぎたちの生態にもとづき生き生きと描かれている、そして大変よくできている話であればこそ、そこには決して現実のうさぎの生活そのものではない脚色があり擬人化があり、社会や男女関係についての作者の見解の反映がある。一見、動物という自然な世界をモデルにしているようで、細部の描写のひとつひとつにこれほど厳しい作者の判断や選択が織りこまれている、また、そうでなければ書けなかっただろう作品は少ないだろう。
作者はこのうさぎたちが基本的には、恋や性欲で激しくゆさぶられることはないように描いている。これがどれだけ動物世界の現実か、私は今わからない。ただ「シ-トン動物記」や映画「バンビ」にすら、動物たちのそのような感情は登場してきていたと思う(もっとも「バンビ」に限らずディズニ-映画はそういった「健康なお色気」面をやや強調しすぎる傾向はあるが)。この作品はこの点ではむしろ後退しているというか、保守的というか、ひかえめである。そういった個人的な本能より、集団を維持し村を建設していくことのほうに、ヘイズルはじめうさぎたちは強い興味を持っている。
これも、案外そんなものかもしれない気もする。映画「人間の条件」を母と見た時、飢えて死にかけた捕虜たちが、売春婦たちが訪れると皆よろよろ走りよっていく場面で、母は「そんなことがあるだろうか」と強い疑問を示した。母はかなり禁欲的な人であるので理解できないのかもしれないと思う一方、しかし私と違って戦争も飢餓も知っている人だからなと思うと、これまた私には判断がつかなくなる。恋や性欲が生物を大きく動かすのはたしかだろうが、また一方で人間も他の生物も、社会や集団の維持のためには、結構それらが希薄でも安定して幸せに生きてきた例は多いようにも思う。
ヘイズルたちの集団は、この点で、健全でお行儀のいい、田舎の町の市民生活、有能で暖かく、聡明な成員からなる軍隊生活、といった様相を持っている。妻との間の性生活は勤務にさしつかえるほどではなく、友情を破壊するような恋愛関係は存在しない。そういう、少なくとも、それに近い社会生活は、現実にいつの時代でもかなりあったかもしれない。そしてこの小説の場合、それを保障する強い要素は、女が、雌が、子を生んで集団の保存と継続の中に確固とした役割を果たすものとして設定され、彼女たちもそれに不満を抱かず、それ以外の欲望は抱いていないことである。
だがおそらく、それには、いささかの無理もある。第一に多分、自然界のうさぎの暮らしで性だか愛だかは、それほど穏やかに管理されたものではない。雌を争う闘争は本能にまかせて、むしろすさまじいはずである。
何が恋か愛かという定義はむずかしいが、母としての役割を強調し、子育て、種の維持といった目的を全面的に押し出せば、今度はそれはそれで、平和で程よい市民生活にしては、いささか実もふたもない状況になる。
単に話をわかりやすくするために乱暴な言い方をしよう。私は、動物の健全かつ自然な本能とやらにもとづき女は母としての機能を最重視せよというのだったら、それもいいのである。性欲のはけぐちとして男女が互いを認識していても、それはまた、それでいい。ただ、そういうのならそれに徹して、変にロマンティックにならないでほしい。種の保存が最優先なら、どんなに醜い女でも男でも喜んで抱けるはずだし、肉体的に強靱な男や女が最優先されるのでなくてはなるまい。それを押し進めていけば、ナチスのしたことも間違ってはいない。
動物たちはおそらく、美しさや心のやさしさでは愛しあわない。では何かといわれるとわからぬが。雄が雌を争って戦い、雌が勝ったものを相手にするのは、人間が妙にそこに恋愛関係を反映させて見たがるような甘いものではおそらくなくて、もっとク-ルで自然で荒々しい・・・などと言葉で飾ることそのものがそもそも無意味な命の営みである。
作者は、家うさぎの雌が一匹村にきた後、仲間の間で激しい争いが起こりそうなのに対し「まあ、しかたない。なるようになる」と、それを自然なこととして落ち着いてうけとめているヘイズルを描くことで、そのような動物界の状況を作品世界にとりこんでいる。事実、作品の終わり近くではハイゼンスレイをはじめとした雌うさぎたちは妊娠しているが、結局、誰が父親であったかということは描かれないしわからない。
だが、これはまた、おそらく読者にある種の不安や不満を残すことを作者は感じたと思う。うさぎや動物の世界をあまりにそのまま擬人化すると、現実の人間社会と違いすぎて読者がそれに同化できない。だからヘイズルの弟で感じやすいやさしいファイバ-は「あのビルスリルって子は、きれいだな」と、特定の雌うさぎに恋愛感情を抱き、彼女と結婚して妻を深く愛することになっている。ここでは、人間世界の男女関係がとりこまれている。それにしても、予知能力があり、きわめて精神的なうさぎであるファイバ-にして「きれいな子」という評価しか女性に対して持ち得ないのか、と文句をいうのは野暮だろうか。だが作者の気持もわかるので、ここでファイバ-が、そういう平凡な言い方以外のことを言ったら「人間っぽさ」が失せる心配がある。ちなみにヘイズルも、前に述べた、人間に管理された偽りの幸せを持つうさぎの村で、ストロ-ベリ-の妻である、例のニルドロ・ハインについて「こいつの奥さんも美人だな」と、きわめて俗っぽい感想を抱いている。だが現代の人間社会の状況では、こういう発言をヘイズルがするのでなければ彼の平凡な健全さは表せないだろう。しかし、実際のうさぎたちが雌について「きれいな子」「美人だな」と考えて魅かれていくという証明はどこにもない。むしろ、そうではない可能性が高いだろう。
動物を擬人化した話では、常にこのような問題はつきまとう。この作品で「雌」をどう描くかは、作者にとって非常に微妙なむずかしい問題だったろうと思う。基本的には成功しているが、その処理のしかたはしばしばかなりきわどい。作者は、少なくともこの作品においては「女」の問題について正面から向き合うことは避けている。たとえば「ドリトル先生」の中で登場する、「雌がなぜ歌ってはいけないのか」と疑問を抱き、ついにカナリア・オペラの歌姫になるピピネラ(私は彼女もあまり好きではなくて、家事に徹して主婦がわりをしているアヒルのダブダブがずっと好きだったが)のような、雌うさぎは登場しない。
作者はヘイズルたちと戦う強大な一団のエフラファうさぎを、うさぎの自然な生き方を変える不自然な存在としてとらえているが、そのリ-ダ-のウ-ンドウォ-ト将軍を決して否定はしていない。ヘイズル自身、鳥や鼠と協力するなど、うさぎとしては不自然なこともあえてする。その延長線上には、母として以外の雌も登場する可能性もあっていい。しかしこの作品では、作者はそれはしていない。

動物を擬人化した作品の多くがそうであるように、この作品においても作者は、動物らしさと人間らしさを矛盾なく結合させて、一つの世界を生き生きと作りあげることに苦心している。そしてこれまで述べたような困難を抱えながらも、基本的には自然で鮮やかな物語世界の構築に成功している。この作品はこれでよくできていると思うし、それでいいのだが、私が考えたいのは先に述べた私自身の感覚である。なぜ私は児童文学を読む時、母や妻としての女の場所にとどまって出すぎない女が好きなのか。初めからそうだったのか、次第にそうなっていったのか。
ひとつには、男に伍して行動するおてんば娘や女闘士は、書きようによっては、女の立場に徹してその世界から出てこない女たちより、かえって女っぽく描かれていることがあり、それが見ていて不安を誘うことが多かったからかもしれない。ひとりで男にたちまじるから否応なしに女っぽさが目立つ。結局、邪魔にされるか、いたわられるか、大事にされるか、またはその小集団の中で、結局、看護婦とか料理人とかの女の役割をはたすか、いずれにせよ、男と対等ではないし充分に自分を生かしてもいない。
このような存在を見るとき、私は不安や当惑や反発を感じるようなのであるが、それが男としてのものか、女としてのものか、判断はつけにくい。つまり、私は自分がそのような女の子を作品の中に見る時、現実に自分がそうである女の子の立場から見ているか、作品の中で同化している男の子たちの目で見ているか、わからない。
そして、いずれにせよ、私がそこでそのような彼女に対して抱く感情は、嫉妬とか憐れみとか簡単に説明できるものではなく、そのいずれもの要素が混じった大変複雑なものであるようだ。

女の子としての私が、いや、女としてでもいいが、作品の前半を読み、ヘイズルたちの集団といっしょに行動している時、彼らとともに私も、女がそこにいないことに何の不都合も感じないでいる。男しかいない集団が生き生きと活躍する話を楽しむなら、自分も彼らの一人になり、つまり男になってしまって読んでいくのは、むしろ自然ななりゆきである。蜜蜂の話を読めば蜜蜂になり、アナグマの話を読めばアナグマの気分になるのと、同じことだ。
困るのは蜜蜂やアナグマの場合には、作者も読者が現実の自分でないものになりきっているのをわかっているから、それなりの気くばりでその落差に気づかせないよう処理してくれるのだが、多分男性作家の場合、女性の読者にそういう気の使いかたはしないだろうし、まあ、それを要求するものでもないかもしれない、とも思う。
ただ実際問題として、感情移入しようにも、性格らしい性格を持ち、活躍らしい活躍をするのは男性しか登場しない作品だったら、女性の読者は人生を考えるにも冒険を味わうのにも、当面自分が女性であることを忘れて、男性のつもりになってしまうしかないのである。そして男性作家は多分そのことに気くばりはしてないので(さっき言ったように、しろと言うのも酷だろうなと、私は思うが)、特にラストに近くなると、おっとっとという感じでずっこけることが多い。私はチェスタトンの「木曜の男」が大好きなのだが、正義や悪や神といった概念が飛び交う、悪夢のような緊張とスリルに満ちた冒険を登場人物と共有した後、朝の光の中に安らかな現実が戻り、主人公が敵でもあり友人でもあった男の妹である赤い髪の娘が庭でバラの花を摘んでいるところに行き着く、最後の場面で、思わず「あら~、あたしは、どうしよう、どこに行こう?」と、うろうろしてしまう。だって女である私が、多分、主人公は暖かい恋心を抱いている、その娘さんを見て、主人公と同じ安らぎを感じてしまったらおかしいだろうし、え~っと、どうしたらいいんだろう、どこか別の庭で黒髪の少年がバラを摘んでるのでも探しに行けばいいのかなあ、それとも主人公たちと一晩かけまわって危険な冒険なんかしないで、この庭で赤い髪をしてバラを摘んでいたらよかったのかしら、でも、この庭のことなんて最後までまったく出てこなかったんだから無理よねえ、などと、目まぐるしく考え込んでしまい、安らかな終末であるべきラストで、往々にして新しい迷いの旅に出発することが本を読んでいて実に多い。(もっと単純だけど似たようなケ-スだと、たとえば、スパイ物、探偵物などのドラマを見ていて、一つの冒険が終わった時など、主人公たちが軽~いのりで、「さっ、女の子たちと遊びに行こっ!」って感じで浮かれると、「あっ、そうか、彼らは男で、私は女で、彼らは男の同性と冒険や仕事を共有し、一段落したら女の子と遊ぶんだった。じゃ、私は?」と驚いてしまう。)本当に私は時々聞きたいが、他の女性は、こういうとまどいはないのだろうか。とっさにどんな風にその時の気分を処理しているのだろう、皆。
こういうことでも、度重なるとなれてしまう。つまり私はそういうことを次第に気にしなくなったのであって、というか、小説やドラマのラストまでは自分の気分に面倒は見て貰えないという状況に慣れた。だから、それまで同一化していた主人公とラストで他人になってもこたえない。簡単なようで、これはすごい悲劇かもしれない。どんなに熱中していても、どこか最後で気持がはずれる。
それだけならまだいいが、知らんふりをして、その場にいるのにも慣れた。つまり、女であることを忘れるわけではないのだが、充分には意識しない、半覚醒の状態でいる。感情移入し同一化していた主人公たちが、ラストで私と違う男性であり、女性を愛しているとわかっても、そのことを漠然と無視し感じないでいつづける。そうやって、ラストの場面を見つづけ、やりすごし、それなりに楽しみ、自分が何者かということは、ついに意識しないですませる。これも考えようでは相当に病的なことだろうが、少しづつ毒薬を飲んで身体をならすように、この種の狂気に私はかなり免疫がある気がする。

それを不当と思うのではなく、単に現状として言うのだが、男の人にはこういった状況は、読書するときほとんどないだろうと思う。女だけが登場し、女だけの関わりの中で、人生や冒険が展開する文学というのを、私は思いつけない。女になったつもりで読まなくては、そもそも小説の中に入ることさえ不可能という作品がいったい存在するだろうか?しかし、女の子や女性の場合、恋愛や家庭以外のことについての小説を読もうとすると、男になったつもりで読まなければ理解できない作品が大半だと思う。それとも、そうでもないのだろうか。これは男性の意見も聞きたいところだが。
そのように微妙に、女であることを忘れて男と同一化して本を読んでいる時、世の中にそんな性もあることを忘れていた女性が現れてくると、やはりとまどいは起こる。だが、その時に私が感じる怒りや反発は、私の中の「自分の姿を見てとまどっている女性」のものではなく、「さしあたり同化している男性」のもののような気がする。しかしそれはまた私が、自分の中の優しい理性的な部分を常に女性的なものとしてとらえ、わがままで子供っぽい部分を、自分の中の男性的な面として意識しているくせにもよるかもしれない。(なぜ、そうなっているかというと、私は自分のそういったいやな面を、叱りつけつつ、いたわり、許しておきたいのであって、そのためには自分が好きな愛する対象としての形に近いものとしてイメ-ジしておきたいからだろう。)
多分、相手が男であれ女であれ、そのような、あえて異性にたちまじるような危ない立場にいる人を私はいたわるし、かばうと思う。だから母親や家事をする女に魅かれるのは男の中の女闘士に反発を抱くからではない。もっと違うところに原因があると思うが、それはまだわからない。
私自身、いつも、何かの役割を与えられると、まずそれに徹し、その仕事をしあげ、そこで充分に生きることから現状の打開をめざした。女の立場を守る女性への私の共感は、案外そんなところから生まれてきているのかもしれない。

-「ジャングル・ブック」の場合-

友人のKが気味悪がる、しつこい記憶力だけを利用して、まったく思い出だけで私は、この一章を書かなくてはならない。よく探してないからだけかもしれないが、最近の本屋で、キップリングのこの本を、とんと見かけないので買えないのだ。田舎の家を探せばあるのだろうけれど、帰るひまがない。そこで、ずぼらをきめこんで、まあ、今回はあっさりすませる。
それにしても、なぜ、この本が店頭になくなったのだろう。何か問題になるところでもあるのかな。それとも単に時代の流れか。
でも、今思いだしても、私はこの本が好きだったし、いつも安心して楽しんで読めた。何巻目かの前書きで、訳した人が、「『密林』という言葉は、われわれにとって不思議な魅力を持っている。われわれの先祖が昔そこで暮らしていたので、郷愁にも似たものがあるのだろうか」というようなことを、冒頭に書いておられた。それも、あったかもしれない。私は海も好きなのだが、特に海の持つ光はいつも少し無気味で、私を不安にさせる。森や密林の方が、イメ-ジとしては安らげる。押入れとか、そういう閉所が好きなのかもしれない。その一方で、明るい広々した、風の吹きぬけるところも、ものすごく好きなのだが。
まあいい。さて、これは、考えて見ると、あちこち相当無茶な話ではあった。インドの密林の中で、人食い虎に食われかけていた赤ん坊が、狼のほら穴に迷いこんで、育てられて、密林で立派な若者になるという、狼少年というか、少年王者というか、タ-ザンというか、しかも、その密林の中の社会構成というのがすごくて、虎と猿が悪者で、あとデッカン高原の赤犬という無法者の集団もいた。(学校に入って、インドの地図でデッカン高原を見つけたとき、私はほんとに、なつかしかった。)狼の社会は規律ある民主社会で、アケイラという老狼がリ-ダ-だった。このアケイラは、主人公の少年マウグリ(狼語で蛙という意味だ。毛がないから。)をとても可愛がってくれたのだが、デッカン高原の赤犬(とフルネ-ムで言わないと、どうも落ち着かない。)との戦いで重傷をうけて、マウグリの腕の中で、戦いの唄を歌いながら死んでいき、あとはたしかフェイオ(う-、この名はちょっと自信がないな。カッコいい名前だったんだけどな。)という若い狼が立派に継ぐんだったと思う。これに対して、猿の一団はバンダアロ-グとか言って、アンコ-ルワットみたような古いお城に住みついていて、騒がしいばかりで何ひとつ決められない、衆愚政治そのものみたいな姿に描かれていた。私は昔から猿が嫌いだったので、これはうれしかった。(ここで悪役だったから、嫌いなのじゃないのは、虎のシィアカァンはすごい悪役だったのに、猫はちっとも嫌いにならなかった。もっとも、この虎もなかなか徹底してるけど、素敵な悪役で、最後はたしか、マウグリが坂落もどきにけしかけた水牛の群れに、ぺしゃんこにされて死ぬんだったと思ったけど、違ったかいな。で、その毛皮をマウグリは、狼たちの集会場の岩の上に張るのである。シィアカァンは毛皮になっても、だからずっと話に登場して、というか、挿絵に描かれていた。恨めしそうな顔をして、岩のはしから頭がたれさがって。)
ほんとに、いろいろ、無茶な設定だったのだけれど、でも、人を面白がらせる工夫がいっぱいしてあって、否応なしに夢中で読ませた。崩れた王宮の地下の宝物蔵で宝物を守っている白コブラとか、一つの村を動物たちが、まるごと潰して、消してしまう話とか、忘れられない。すべてが、とても美しかった。その一方で、マウグリは、鹿を倒して生肉を食べたりしているのだけど、それが、とてもおいしそうで、素敵だった。(これは、同じ作者の短編で「象の舞踏会」を見るトゥマイという少年の話で、トゥマイが白人の旦那か誰かに貰った飴玉をしゃぶっていておっことし、ついていたごみもそのまま、また口にほうりこんでしゃぶってる場面があったが、それが、とてもかっこよくというか、素敵に見えて全然抵抗がなかった。私は今でも、そういうしぐさ、そういう感覚にあこがれ、ロマンを感じる所がある。動物だったらするようなことすべてに、あまり拒否感がない。だらしなくってよごれてるのとは違う、あるダイナミックな魅力を感じる。こちらは多分、小説の影響だろう。描写というのは恐ろしい。)
マウグリの教育係は、熊のバアルウと黒豹のバギイラで、この精悍で、冷静で、悪知恵に近い知恵があって、気性が激しく荒々しく野性的(そりゃ、あたりまえか)なくせに、とことん強くて落ちつき払って、どこにも弱さのかけらもない、男性的を絵に描いたような黒豹が一番この作品の中で私が好きだったと言ったら、先回しつこく宣言した、弱いものしか愛せない、かばい、守るかたちでしか愛せないという私の好みはどうなっているのかと、問われてもしかたがないが、とにかくそうだったのである。マウグリは、そう好きでも嫌いでもなく、というより、あれは彼のことを自分自身と重ねあわせて、感情移入して読んでいたのだと思う。マウグリは私にとって、愛する対象ではなかった。そして、バギイラは明らかに私は、自分と重ねては、ちっともなかった。愛する対象として、好きだったのである。
もっとも、私でなくても誰でも、そうなるような気もするぐらい、あの黒豹は魅力的だったし、それと、これはたしかに私が猫族を好むこととも関係はあるだろうと思う。バギイラが、大きな口をかあっと開けて、ひげをぴりぴりふるわせて、大あくびをしている場面がよくあって、私はそれが大好きだった。人を食った、ばかにしたような目つきや、一撃で倒した鹿の肉をむしゃむしゃ食ってる姿なども、好きで好きで、かばうとか守るとかいうのではなしに、とにかく、その黒い毛皮に包まれた、固くて丸いであろう頭をなでてみたかったのであった。
今でも私は、可愛い子猫や、きれいな牝猫も好きだが、傷だらけで、毛皮もがさがさした、どう見ても美しくはない、ふてぶてしげな牡猫に、ほとんど性的魅力を感じて、コレットが、大きな牡猫(ヒデヨシみたいなんでもいい!まけとく。)との結婚を夢みたのもよくわかるのである。そして、別にこれは結婚したいとは思わぬが、学生や同僚で、バギイラみたいに強くて、しなやかで、自信ありげな男が、全然からいばりでもみえでもつっぱりでもなく、心の底から女は(そして大半の男も)、自分にかなうはずがないと余裕をもってみくだしていて、だからこそ別に、あえてはちっともバカにしないし、ゆうゆうと甘えもして、私のそばに何の警戒もせず、大きな猫のようにねそべって、目を細めてあくびなどしていると、思わず頭をなでてみたくなったりするが、これは、いたわりたいのではない。
そういえば、私はショ-ロホフの「開かれた処女地」では、がちがちの共産党員のナグ-リノフが一番好きだったし、気性が激しく、暴力が似合う、感情の起伏が正直に出る、こういう男たちを(女も、でしょう)、私は決して嫌いではない。え~っ、でも私の書く小説にそういう人が全然登場しないのは、これは多分私が自分と読者とを、思想統制してるのですね。ふん、何ともったいないことだ。いわゆる「男らしい」男たちをお好みなら私は多分、そういう人物をものすごく素敵に書けるのだろうに、世の中の人は、そして私も、そういうヒ-ロ-を、私の中からつれだすことはできないのね。見ることも、会うこともできないのね。この世の中が、そんな男を過剰に評価し歓迎する恐れが、少しでもあるかぎり、私は決して彼らをこの世に生みだそうとはしないでしょう。私の中に閉じ込めたまま、死ぬでしょう。もったいないし、残酷だし、間違いなのかもしれないけれど、それでも、きっと後悔はしない。
まあ、世の中にとって、それは大した損失じゃないかもしれないけれど、もしかしたら大した損失なのかもしれない。でも、私が世の中から本当に奪えるものって、私が生みだすはずだったもの以外、いったい何があるでしょう。(う-ん、私はときどき「結婚しなさいよ」とか、「あなたの子供を遺してほしい」などと言われるたびに、大きなお世話じゃとは案外考えなかったのだけど、そのかわり、「そう思うのだったら、もう少し、男や女の問題について考えて、私が結婚し、子供を生む気になる世の中を作ろうとでもしたらどう?あんたみたいに、そういうことを、な~んも考えない人たちが、結局、私に結婚をやめさせ、生まれるはずだった私の子を殺しつづけてるってこと、わかってるわけ?」という恐ろしいことを、ちらちらちらとは、考えた。まあ、こういうこと考えるものじゃないし、ましてや言ってはおしまいだと思ったから、しっかり考えたことはないけれど。ただ、このごろ政府や世間が、子供の数の少ないのについて、ああだこうだと言ってるのを見ると、その時の気分を思いだす。)
とらわれの姫君もどきに、私の中におしこめられている、この魅力的な男性を、ときはなちたいなら、見たいなら、会いたいなら、私に生みださせたいのなら、彼が一人の人間として、そういう特徴と魅力を持っているということでしか、評価されず、決して、他の弱い、優しい男性たちに比べて、男らしいとか、自然とか、そういうことが決して言われる心配がないと、私が確信したときでないと、だめでしょう。現に私は、今ちらっと「誰かが、『彼女が本当に愛しているのは、その男性で、そういう強い男を描き出し、愛することを認めたら、彼女も本当に解放されたといえるだろう。それが、彼女にとって自然で幸せなことだ』と、考えるのかもしれない。感じるのかもしれない。」と思ったとたん、自分の中のそういう男性を閉じこめている壁を、三重ぐらい厚くしました。そう、多分、とても邪悪な、うすら笑いを浮かべてです。悲しい笑いを浮かべるほど、私はロマンティックではない。
「あなたのような人がいるから」と私は言っているでしょう。「あなたのような人が、今のようなことを考えるから、あなたの大好きな『彼』の解放は、それだけ、また、遅れる」と。「残酷ですが、私にとって最大の、そして唯一絶対の強みは、彼が私の中にいること、私しか、彼をときはなてないことです」とも。
創作者は、自分の夢に責任があるのか。人が自分の好みに責任があるのか。私にはわかりません。自分が何に怒っているのかわからないまま、私は人類への人質のように、彼を自分の中で、かたちにしないまま、とらえています。世の中がこのままなら、あるいは歩みが遅ければ、私は多分、この男性を私とともに消すでしょう。彼は恨まないと思うけれど、彼の分も私が世間を恨むでしょうね。あ~あ。

とはいえ、ちょっと確認しておいた方がいいように思うのは、先回に述べた私の、いたわりたい、かばいたい、という感情に基づく愛情は、別に身体の大きさとか、年令とかとは関係ないことだ。だから、たとえば私が大きな身体の人とか、年上の人を愛さないとかいうことはない。ずいぶん老齢の人でも、そういう意味で私がいとしく思う人はいる。それこそ筋骨隆々の毛むくじゃらの大男でも、そういうこととは関係ない。
よく、男女の差をいうとき、腕力の差がある以上、ある程度の役割分担はしかたないという人もいる。強姦の場合でも、男の力の強さがある以上、それは避けられないという人もいる。だが、それをいうなら、馬でも牛でも、人間が支配している理由はない。動物と人間とでは違うというなら、東洋人と西欧人の体格の差はどうなるのか。体力や腕力の差という考えは、人種差別とかなりかかわってくる。
動物の場合でも、人種間の場合でも、その差を支え、またなくすのは、個人の体力や腕力ではなく、社会的なものに負うものが相当に大きい。強姦が屈辱なのは、力でくみふせられるからではない。犬にかみつかれたり、車にひかれたからといって、人は犬や車に征服されたと感じはしない。
そういうことを私は決して望まないと、まじめに強く断言してからいうが、もし強姦が例外なく死刑になり、あるいは大変恥ずかしい刑罰をともなう死刑になり、その罪を犯したが最後、親戚・家族は財産没収、一生公共の場に顔が出せないということにでもなったとしたら、強姦は数そのものが、あっという間に減るだけではなく、強姦に対する見方そのものが決定的に変化してしまうだろう。ついでに、被害者には数々の特典があるとでもいうことにすれば、なおだろう。強姦されたことは悲劇ではなく、強姦してしまったことが悲劇だということになれば、我慢できずにそのような悲劇を招いた人間は愚かで恥だということに、たちまちの内になるだろう。ついでに言うと私は、そうなったら、無実の罪を着せられる男が増えるし、それを利用する女も増えるだろうという反対論には、賛成しない。それと、まったく逆の状況は、今、女の上に起こっている現実だと思うからだ。そんな反対論を唱える資格は、男にも誰にもない。私が、そのような状況を望まないのは、ただ、やられたことをやりかえしているだけでは、進歩発展はないだろうし、時間も第一無駄だろうという、何だか冷たい判断に過ぎない。どんな意味でも、しかえしをするというのは、私は、少しは相手を愛していないとだめなのだ。強姦という、この現実に、ここまでアホのふりをして目をつぶってきた人々に、仕返しめいたことをして自分の手を汚すほど、暖かい気持に私はなれない。まだ、被害者でいた方がいい。
そういうことで、私は腕力や暴力というものを、特に強さに数えない。大きなものでも強いものでも、いくらでも私はかわいがれる。ただ、バギイラや、バギイラのような男の頭をなでたいという気持は、それとはちょっと、ちがう気がするのである。

ところで、母親の話だった。
「ジャングル・ブック」には、二人の(正確には一ぴきと一人の)母親が登場する。どちらも主人公マウグリの母親で、これ以外の母親といえば、集会場や戦いの場で、子狼を連れてきている母狼たちしかいない。ちなみに、この母親たちは、インディアン女性や、平家物語の平家の女性や、軍国の母よりもかなり積極的で、戦いの時には(もちろん大変味方が危なかったからではあるが)、幼い子供も引き連れて、自分も戦闘に参加し、子供と肩を並べて戦って、自分も死んでゆくような狼たちだった。デッカン高原の赤犬との、その戦いの凄惨な様相を、私は今でもよく覚えている。あれは、狼社会の風習とは違うような気がするが、さりとて、どんな民族、どんな社会にもモデルがあったと思えない。キップリングは、何をヒントに、あのような牝狼たちを描いたのだろう。戦いの前に、緊張しているまだひよわな子狼に戦いの心構えを語り、またその後の戦闘の中で子どもを殺されて、狂ったように回りに噛みつき回っている母狼たちの姿は、とてもあざやかだったのだが。
マウグリの本当の母親は、むろん人間でメスワアという人だった。記憶で書かなくてはいけないので、細かい所はまちがってるかもしれないし、おおざっぱな印象しかないが、多分マウグリの父親にあたる夫もいた。この人に対して、私は悪い印象を持っていない。でも、めだたない人というか、メスワアが、マウグリを見たときから、自分の子だと確信しているのに対し、ちょっと迷っているような感じだった。実際、読者にも、本当にマウグリの母か、はっきりとは言い切ってない書き方だったと思う。そのへんも、うまいといえばうまかった。
メスワアも、嫌いではなかった。よく覚えていないが、彼女がマウグリをなつかせようとしているところは、子供だった私が、たとえば猫などをなつかせようと努力する気持と通じて、共感できた。ロビンソン・クル-ソ-が、フライデイを教育する場面もそうだが未開人や野性動物の美しさはそのままに、自分たちの世界のことも教えていこうとするのは、ちょっと魅力ある設定なのかもしれない。私は、マウグリに同化して読んでいたのだが、あそこではメスワアに同化した。マウグリが初めて、自分と違った対象として、魅力的に見えた気もする。
でも、その一方で、これは「ハイジ」の町での場面とも共通するが、自分が文明化されることに、強い拒否感があって、その点ではマウグリと共感して、メスワアに興味はあるけれど、飼い慣らされたくはなかった。小屋の中で眠るのに耐えられなくなって、彼が外に駆け出していってしまう場面を覚えている。「まあ、いったい、どうしたってこったろう。」とメスワアは悲鳴をあげるが、父親が「おい、ほっとけ、あいつはきっと、外の方がなれていていいんだ」と言ってなだめるのだったと思う。
どうやって、マウグリが、メスワアと会ったか、そのへんの細かいことを、私は覚えていない。ただ、メスワアが、とにかくもう、本能的に、ひどくいちずにひたむきに、マウグリを愛していたのを覚えている。素朴で強い愛情だった。  彼女は結局、マウグリとの関係で、村の人々から攻撃され、夫とともに殺されそうになる。それをマウグリが救って逃がして、その後、彼は大象のハッティを
中心とした動物たちの力を借りて、村を滅ぼしてしまうわけだが。そのずっと後で、また別の村で彼女と会ったとき、夫はたしか、その場にいなくて、ゆりかごに赤ん坊が生まれていた。そして、そのそばでメスワアは、マウグリの髪をといてやるのだったと思う。その時は、かなり場面がしっとりしてきて、親子の情愛みたいなのがあり、メスワアも、本能的というより、少し屈折したというか、静かで深い愛情を示していた気がする。

考えて見ると、あれは、せつない物語だった。「ピ-タ-・パン」とは違った意味で、その切なさを私は深くうけとめなかった。子供は、どこか残酷で、悲しみを無視するところがある。私はあの作品の楽しさや面白さを味わうのに専念していて、二人の母の悲しみを見て見ぬふりをしていたかしれない。きっちりと、それは書かれていたのだが。
マウグリの、狼の方の家族は、父母と兄弟狼で、「灰色狼の兄さん」というのが長男でよく活躍していた。それで、父母の方は、バアルウ(この、めっぽう強いくせに、人のいい、灰色熊のおじいさんも大好きだったが。)とバギイラに教育をまかせていたのか、あまり登場して来なかった。それでも、どちらかというと、母狼の方がよく出てきた。まちがってるかもしれないが、マウグリがメスワアのところへ行ったりしてるとき、すごく淋しそうにしていたところがあったような気がする。
だが、今にして思うと、これもうまいなと思うのだが、この母狼は、ただのおかあさんではなくて、う-ん、何というか、若い時はならした人(?)だったのですね。
一番はじめに、赤ん坊のマウグリが穴に来て、他の子狼をおしのけて乳をすいはじめると、彼女はおかあさんらしく、すぐにめろめろになるのだが、そのとき、穴の入口に虎のシィアカァンがあらわれて「獲物をよこせ」と迫る。父狼が落ち着いて応対していると、シィアカァンは「おれは森の王だぞ」とかいっておどす。そして穴の入口で、がああとかいってると(狭いので中には入れない。)、いきなり母狼が父狼の前に飛び出してきて、目を緑色か何かに光らせて、「さっきから聞いてると何を言ってるんだい。そっちが森の王なら、こっちはラクシャア(森の悪魔)の化身なんだよ」と、たんかを切る。で、この狼は、今は穏やかな母親やってるが、若い時はその気性の激しさで、仲間からラクシャアと呼ばれて恐れられており、シィアカァンもそのことはよく知っていて、実は、父狼より母狼に一目おいていたのだと書いてあった。すっごいおかあさんなのである。
実際シィアカァンは、それで退散するのだが、その後、「大丈夫かな」と心配する父親に、母狼は今のことで興奮して、はっはっと息をつきながら穴の奥に戻って、どさりと倒れて、子供たちにまた乳を飲ませながら、「あの虎がいるところに、食べられるとわかっていて、この子を出してやれますか」と言い、そして乳を飲んでいるマウグリを見ている内に、また目がやさしくなってきて「まあ、ごらんなさい」と言ったりするのだ。
何となく、こっちも父親の方が影が薄いのだが、この父も私は嫌いではなかった。あとどうなったか、年とってからのことを覚えていないが、それをいうなら、母狼も最後はどうなったか、思い出せない。
ただ、マウグリが、何かの冒険をするとき・・・何かを調べてもらいに持っていったのだったかしら。そうではなかったのかしら。とにかく何か意見を聞かれて、それは彼女にはわからなかったのだけれど、ラクシャアと呼ばれた昔の激しさをどこか残した、きりっとした様子で、ちょっと首をかしげるようにして、マウグリのそばに座っている様子を見たような記憶がある。もう、その時は年とっていたのだったと思うけれど、きれいで、けなげで、かわいかった印象がある。

私はメスワアも好きだったが、母狼も好きだった。二人が顔をあわせる場面は多分なかった。二人とも、あまり相手について、いろいろ考えている様子はなかった。どちらも、とてもマウグリを愛していた。見ていて苦しいほど愛していた。けれどメスワアはマウグリに、密林の暮らしの悪口は言わなかったと思う。おまえは、こちらへ来るのが当然とかいうことは。母狼の方は、自分の強い愛情を口には出さなかったと思う。どちらも、彼が村なり、森なりへ行ってしまうのを、ひきとめようとはしなかった。
あの物語の中に恋愛はなく、二人の母親以外には、主な登場人物に女性はいない。
その中で、母狼は、そのきりりとした魅力も含めて、森の世界の、あるいは作品全体の女性代表だったかもしれない。メスワアの方は、マウグリの人間としての本能をよびさまし、そちらの世界へ彼を引き戻す役割をになう。
それにしても、私が、あの二人の母も含めて、あの物語の登場人物全体を、ほとんど作者の望みどおりにうけいれてしまっている、このやさしさは何だろう。ほとんど、私と思えない。読んだ時期にもよるのだろうか。一番素直な頃だったのだろうか。
私には保守的な傾向があり、一つの世界が変化するのを嫌う。それでいうなら、メスワアに反発してもいいはずなのに、それさえもない。
理由をしいてあげるとすると彼女があまりに孤独な戦いをしていたからかもしれない。村人たちは彼女の味方ではなく、夫さえ、あまり積極的ではなかった。それでも彼女は、マウグリを求めることをやめなかった。彼女にとっての有利な点はただ一つ、人間としてのマウグリの本能的な人間への共感(村を滅ぼしたあと、何かわりきれない、淋しい気持になるような)と、彼女自身の母としての血がマウグリと呼びあうことだけである。人間の代表として、マウグリを人間の世界に取りもどそうとしながら、人間たちには、決して評価されずに、むしろ迫害される彼女の立場が、私を彼女に共感させ、彼女を許させたのかもしれない。異境に、異文化の中に、自分の子供が間違いなくいると感じて、迫害をうけても、それとつながることをやめない、その姿勢が。
母狼は虎に負けない強い気性と、乳を飲まれてよびさまされた母性愛から、異種の子供を育ててしまった。たしか、最初の集会のとき、狼たちが、この赤ん坊を育てることを認めてくれなかったら、皆にかみついて戦おうと彼女が決意する場面もあったと思う。二人はどちらも、周囲に逆らって、マウグリの母になろうとした。
母性愛が、それだけの強さを生んだ、と言ってしまっていいのかどうかはわからない。母の誰もが、こんな決意をするわけではないだろう。二人の女性の性格の中に、母となり得る強さがあったから、そうなったのではないかと思う。周囲や世間に流されて、母になる人も無論いるだろうと思うが、その場合でさえも、ある強さがなかったら、母には・・生みの母にも、育ての母にもなれないのではないだろうか。
メスワアも母狼も、マウグリの母であることを、自分の力で選びとる。周囲と対決する危険をおかして。それぞれの社会の秩序をふみにじって。異種のものを育て、異界とつながる。母親や、母性愛には、ときどきそういう面もある。

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