弟たちへの手紙(5)

強者と弱者 柴崎一郎から柴崎良平へ

強い者には弱い者をいたわる義務がある、とはよく言われることだ。しかし、強者と弱者の区別はどうやってつけるべきだろう? 第一この僕にしてからがいったい強いのか弱いのか、自分でも決めかねている。
 本当に強い者とは、どんな人のことだろうか? さきのことばとは反対に、人をいたわり愛することのできる人こそ、本当に強い者だ、ということばがある。だが僕はこのことばを、すなおにのみこめないところがある。
 人をいたわり、愛する権利が僕にあるか? それはずっと以前から僕の中でくり返されている疑問だ。もし、それがあると分れば、僕は人をいたわることができる。自分を犠牲にしてもいい。それは気持のいいことだし、何より、あれこれと思い迷うめんどうがないだろう。
  しかし、実際には僕は自分にそんな権利があろうとは思えない。僕は自分自身をさえ守ることができるかどうか分らない人間であり、そんな僕が、他人に何をさし出すことができるというのだろう? 僕がこの点について、いやに潔ぺきだとおまえは笑うかもしれない。だが、実は、僕がきびしくあろうとしてるのは、自分じゃなくって、むしろ他人だ。
 僕は他人からいたわられて、うれしかったことが、数えるほどしかない。大抵は、大声をあげて笑い出したくなるような苦々しさしか感じなかった。いたわってくれた人には気の毒に思うが、こればかりはどうしようもない。僕はその人たちの気持にいつわりがあったというわけではない。しかし、結局のところ、人は他人をいたわるときは、自分の好みに応じたいたわり方しかしないものだ。
 僕は強者にはがまんができない。いたわってくれるときはなおさらだ。自分も弱者になりうる、現にそうかもしれぬという可能性には頭も及ばず、救いの手をさしのべ、聖人君子の喜びを味わおうとしている愚鈍な面つきを見ると、つばでも吐きかけてやりたくなる。
 だが、弱者には、もっとがまんがならない。自分が弱者で、いたわられねばならないと思いこんでいる人間ほど不愉快なものはない。たたきのめして、ふみにじってやりたくなる。
 誰にだって、牙がある。それが大きかろうが、小さかろうが、人間にはそれを使う権利と義務がある。それを使えないやつなんか人間とはいえない。かみ殺していっこうさしつかえない。そんな気にさえ、なることがある。
 いったい、本当に他人をいたわるとは、どんなことだろう。それは、相手が牙を持っていることを知らせ、それを使うことを教えることだと思う。(使い方、ではなく、使うこと、を。)対等の立場で容赦なく、かみつきあうことだと思う。それができる自信がないなら、いたわることなんかできない。おどかすか、甘やかすかして、牙をもってることも忘れさせ、手ごたえのない歯ぬけじじいのような人間を作っていくのがおちだろう。もちろん歯ぬけじじいだってけっこう役にたつことはある。とにかく危険のないのはたしかだ。そして、彼らは再び新たな歯ぬけじじいを作るか、さもなくば、牙をもったものにかみ殺されて、あえない最後をとげるだろう。
 この世の中には、だいたい、他人にいたわられるほど弱い人間も、他人をいたわるほど強い人間もいはしない。皆がそれぞれあやまったり、迷ったりしながら、ともに求めていく真実があるだけだ。ありのままの現状を認識させ、原因を明らかにし、打開のみちを考える―それがいたわるということだ。僕は、それ以外のいたわりなんか、ほしくもなければ与えたくもない。
 特に僕が警戒するのは、かっこうだけのいたわりで、相手の心をとらえつつ、あまり大したものでもない自分の思想に人をひき入れてしまおうとする人々が多いことである。僕だって一時はそうだったかもしれない。自分の牙の鋭さに自信がなく、正々堂々かみあえば負けることが分っているものだから、牙を見せずに近よって、その内相手の牙もなくしてしまう。相手としては、いたわってくれる人に牙がないのを、うすうす感づいてはいても、せっかくやさしく舌先でなめくり回してくれてるものを、がぶりとやるのも気がひける一方、その気になればこっちの牙の方が鋭いんだから、という安心感で、ついつい牙を見せるのもそれをみがくのも忘れてしまうという寸法だ。こんなのは娼婦の手くだもおんなじで、汚らわしいことこの上もない。
 鋭い牙をもたぬ者に、相手をなめる権利はない。少くとも、自分がなめて傷をなおしてやったとたんに、かみ殺されても文句はいえまい。もちろん中にはそれを承知で、相手をなめる者もいる。高校のころの僕は、いくぶんそうだった。自分の思想がまだなかった。だからかえって安心だった。他人をいくらいたわっても、少くとも、どさくさまぎれに相手をひっぱりこむ自分の思想がなかったからだ。相手も自分も牙がなくなれば世の中は平和になるだろうという気もあった。今はまがりなりにも自分の思想があるから、なおためらう。
 僕は「いたわり」をためらう二つの理由をあげた。第一は、真実を告げないいたわりは、かえってマイナスであるという点。第二は、いたわりによって、思想の不備をごまかす恐れがあるという点である。これを解消する少くともひとつの道は、いついかなるときでも、軽べつされようが笑われようが自分の思想を明らかにすることのできる勇気を僕がもつということかもしれない。だが、それは、まだ早い。いつわりのいたわりばかりうけてきたため、僕自身の牙も、かなり鈍った。当分はそれを磨いて、少しずつ、本当に人をいたわれる人間になっていくつもりだ。

学生運動をやってみて 中司圭子から中司昭世へ

私の大学生活は、結局学生運動にあけくれました。それがよかったか悪かったかなんて一口に言えるものじゃない。でもしいていうなら、得るものはあっても、失うものはなかった、ということでしょう。もう一言いうなら、これより他のどんな大学生活を私がしたとしても、これより大きな収穫はなかったろう、ともいえます。
 何がそんなによかったの、って? そうね、この四年間の過大評価をしないためにも、少し冷静に考えてみるとしましょう。
 私、何だか、すべてが出発点に戻ったような気がしてるのです。私はずいぶん新しいところにふみこんだり、今までしなかったこともしたつもりなのに、今となって考えてみると、結局新しいことは何もしたわけではないし、何か新しいことが分ったというわけでもないような―そんな気がしてならないの。それでも、とても満足だし、いい気持なのよ。
 具体的には、楽しいことより、むしろいやなことの方が多かったわ。でも、それは何か、私じゃない、別の女の子が経験してくれたことのような気がするの。熱にうかされて夢を見てたような感じしかしないのよ。
 では、私はこの四年間の自分の活動について責任を持たないつもりだろうか。残念ながら私、責任をもつほどいいことも悪いこともできなかったつもりなの。今、私が通ってきた道を見て、私が活動してきた舞台を見て、私の影響なんか少しも認められません。私の回りの固い壁に私、少しも傷をつけることなんかできなかった。すべてが私をはね返した。何ひとつ、残りはしなかった。でも、それは、私だけじゃなさそうだわ。私たちの活動に、個人の力というものは、ほとんどみられなかった―特に、自分の力にあまる任務についたときには、私たちは、多かれ少なかれ、ロボットになる他なかった。
 私はそれを悔んでいない。だって、それはそうなるべくしてなったんだから。自分の弱さや欠点が、これだけはっきり即座にあらわれてくる生活なんて、めったにあるもんじゃなく、その意味でまったく迷いなく、しっかりと私は自分を観察することができた。ごまかすのが上手な私のことだから、これ以外の生活をしてたら、絶対にこうまで早く自分の欠点に気づくことはなかったと思うわ。一刻も早く成長しなければならない今、こんなに早く自分の欠点を知ることができたのは、何といっても幸運よ。
 私の中に残っていたたくさんの、いいかげんなロマンチックさは、洗い流されてしまいました。同時にいいかげんなニヒリズムもね。特に重要なのはマスコミに対する幻想がなくなったことです。新聞や週刊誌、テレビ、ラジオには、私、非常に重きをおいていたし、自分自身、文章でもって人をめざめさせてゆくという一種の使命感を持っていたけれど、それが全くいいかげんであり、役にたたないという―ことばへの不信というものをしみじみ知りました。訴えて、アピールして、ひっぱりこむことだけではどんな運動も生まれない、討論して、議論して、結論を押しつけようとしないこと、自分自身も常に新しい真理めざして手さぐりを続けていくこと、それが必要なんだと悟りました。運動をつくり上げていくということは、参加する一人々々が自分の意見を述べ、他人とぶつかりあいながら、彼ら自身で、ひとつのものをつくっていくことを欠かしてはありえないと分りました。
 はっきりとは言えませんが、私は、今、自分がとても平凡な人間になったような気がし―それに少しも苦痛を感じません。うぬぼれや、やきもちなどという感情は、きれいにすりへらされてしまったような気がします。はじめのうちは、それにずいぶん苦しめられもしたのにどうしてでしょうね?
 それは、自分自身を見いだしたという安心感につながっているのかもしれません。活動の面でも、勉強の面でも、他人に及ばない点は多いけれど、それでもなお、私には私自身のものが残っていた―そういう、うぬぼれとはまたちがった、自信のようなものが生まれているような気がします。本当のところ、私がそれを見出したのは、生まれて初めてといっていいでしょう。
 学生運動―それは一口でいうならば、何よりも、「限りなく豊かな現実」でした。どんな読書や思索にもまさる数しれない現実のかたまりでした。しかも、それは、サークル活動や何かのように、「やはり政治活動が必要なのではないか、自治会が必要なのではないか」という結論におわるものではなく、はじめから政治活動、自治活動そのものであり、そこでおこった矛盾がどう大きかったにせよ、私を一挙に自分自身への発見まで連れていってくれました。学生運動を経ない自分自身の発見は不安だし、自分自身の発見まで行きつかない(せいぜい政治活動の必要性を認めるぐらいの)学生運動ではものたりなかったろうと思います。
 この四年間が私に与えたものは、まだまだあるのでしょうが、今のところは、これだけにしておきます。だいたい私は、すぎさったことは後悔しないたちなのだけれどね。

政治への参加 保坂恒二から保坂亜子へ

君の政治についての考え方には、小説の影響が多分にあるね。僕もそうだったけどさ。
 だいたい、たくさんの本を何でもかんでもかまわず読んでいると、政府でも社会でも、気軽にひっくりかえしていいような気になってしまうもんだよね。そして、自分自身、それをやらなきゃ気がすまなくなっちゃうんだ。
 僕、君の政治についての考え方に、あんまり口をさしはさむ余地はない。あと、君に欠けてるのは、実践だよ。で、僕としちゃ、そのへんから自分の意見を述べるしかない。
 アコ、君は政治への参加を、自分の利益を守るためなんだと言ってるんだね? でも、一方じゃ、支配する立場からみて、政治っていうのはスリルがあって、面白そうで、嘘と真実が入り乱れてて、楽しそうだ、なんていうんだからな! そのどっちもが君の本心だってことは疑わないよ。
 だけど、もうちょっと考えてみよう! まず、はじめの文句だけど、これは君の意志というより、むしろ、他の人皆にそうしてほしいというアピールだろ? だって、自分一人の力じゃ、自分一人の利益も守れないことぐらい、君よく知ってるはずだもの! そこんとこを、はっきりさせなきゃ、そして、さらに、皆がいっしょにやれば、皆の利益は守れるんだってことをはっきりさせなくちゃね! そこんとこについては、皆は、君ほど確信はないんだよ。
 皆が、一人々々、自分の良心にしたがって自分の意志を守ったら、その自然の結果として、団結が生まれる、なんてもんじゃないよ。そんなんじゃ、かえって団結は生まれにくい。自分らの利益をはっきりさせたら、それを得る一番いい方法を、皆でさがして、確認するんだ。
 戦いは、勝つために、するもんだよ。
 僕は、良心や、義務の観念を軽視するんじゃないけどさ、人間って一度自分の道をきめたら、めくらめっぽうそこをめざしてつきすすむことが良心的だなんて思いやすいじゃない? そんなの、怠惰だと思うんだな。いつだって、回りをみて、自分の道の正しさを確認しつづけてなくっちゃね。
 そんなことしてる内に、きっと、君自身が政治をしなくちゃならなくなるよ。だって、どんな小さな社会にだって、政治ってものはあるんだから。だから、嘘やかけひきのスリルを味わうには、そりゃ、チャンスはことかかないだろうな。
 だけど、気をつけろよ、たしかに嘘やかけひきを使うこともあるけど、誰に対して使うかきめといた方がいいぜ。
 政治は、人々の利益を守るものだ。だから、利益があらゆる点で、いっしょでない人々を結びつけるのは、政治のお役目じゃない。そんな政治はあるもんじゃない。あるように見えたら、それはごまかしだ。その成員の共通の利益だけを政治は守るべきで、他は、公平にいって、多数決ででもきめなきゃ、しかたがあるまい。
 今の日本の政治がそうでないことは、はっきりしてる。ところで、君、これをどうする? ひっくり返すつもりかい? どうやって? 一人々々をめざめさせていけば、いやでも選挙という手段でひっくり返せるわけなんだけどね。君はどうやらそうじゃなくって、場合によっちゃ、もっと「気のきいた方法」を考えてるらしいな。むずかしいのはそれさ、「場合によっちゃ」というところさ。
 僕だって、選挙の勝利だけをめざしてるわけじゃない。僕らののぞむ政府をつくるために、革命だって考えてるさ。しかし、「僕らののぞむ政府」が、「皆ののぞむ政府」にならないまでも、せめて、「国民の過半数がのぞむ政府」にはならなくちゃね! 「皆の利益になる政府」を、僕らが作ってやるんじゃ、だめなんだよ。そんなことは、君にも分っているだろうけど。
 今まだそこまでいってない。皆は、そりゃ、不満を持ってる。だけど、毎回の選挙の結果を見てみたまえ。あれにどれだけの意義を認めるにしろ、あの結果に目をつぶることはできないよ。紅衛兵やチェコ問題の票への波及のつよさ一つとり上げても、ブルジョアジャーナリズムの力を知るのに充分だ。不満は、票という主体性をすら、まだ充分確立していないんだ。
 その多くの人たちに対して、嘘やかけひきは通用しない。真実だけが力をもつ。勝つための戦いをその人たちに教えていくことだ。ただ政治への参加を訴えるのではなく。
 僕は、君に、トロツキストとよばれている人々について、言っとかなくちゃならない。今までのところをよみかえしてみて、どうもあの人たちの批判をしようとしてやっきになってるみたいだな、とおかしくなっちゃったのだ。ほんとは、僕の心の中には、彼らへの同情もかなりある。自分が民青へなんか入ってなけりゃ、かなり行動をともにするだろうと思うことがある。
 僕は彼らに政治ができるとは思わない―彼らだって、そんなことは思っちゃいまいよ。だけど、彼らは、一定の役割というものを、歴史の上にみつけて、それに自らをあてはめていくのがうまい。それがいけないことかどうか、よく分らないんだ。彼らの政治への参加、他人への参加のよびかけ、それは、にせものじゃない。
 僕はこのごろ、自分が本当に彼らを批判したことがあったのかいなと考えはじめている。僕は彼らの活動のサボタージュ、暴力、でたらめ会計、そういうものを批判した。しかし、彼らの真髄は、そんなところにあるのではないという気が常にしていた。
 僕が問題にしているのは、彼らの行動ではなく、よくも悪くもマスコミによってつくられたその影響でもなく、そこにあらわれている、彼らの考え方だ。大学卒業までに、せめてそれをつかんでおきたいと思う。それは、あらゆる点で、僕自身の心の中にのこっているさまざまのもやもやをすっきりさせてくれるのではないか―そんな気がして、ならない。
 混乱した手紙になった。君が分ってくれるかどうか知らないが―少くとも、僕は、書いてよかったと思っている。

※「弟たちへの手紙」(6)へ続きます。

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