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絶滅危惧種のエロチシズム

(授業ノートより。)

「ぬれぎぬと文学」の最終日なのですが、テキストの最後の部分はいろんな問題が、ごちゃごちゃ盛り込まれていることもあって、今日は二点にしぼって話します。
あ、その前に、前回の最後に確認した、「テロはすべて悪、文句なしに悪」というのは、そう単純なものじゃないということは、もう一度テキストを読んでおいて下さい。
映画「アルジェの戦い」も見てほしいし、日本の特攻隊や人間魚雷についても考えて下さい。私のホームページ「岬のたき火」の「テロリストの心」も、読んでみて下さい。

さて、今日の話の一つは「配所の月」ということばの意味ですが、これはあとで言います。
もう一つは、「あなたは罰(重いのでは死刑や投獄や鞭打ち、軽いのでは平手打ちや落第やお説教や廊下に立たされるなど)を受けるときに、『ああ、本当に悪かった。自分が恥ずかしい。この人が言うのはもっともだ。この人(または組織、団体、国、神でもいい)からどんなことをされても素直に受けとめられるし、反省して今後に活かそうと思う』と感じていられるのと、『自分は絶対悪くない。この罰は不当だ。下す相手には敵意を燃やす。でも今は力ではかなわないから、されるままになるしかないけれど、絶対にこのままにはなっていない。いつか必ず勝ってやる。自分が勝たなくても、仲間や歴史が、きっと自分が正しかったことを証明する』と思っていられるのと、どっちが楽で、幸せですか」ということです。

どっちがいいということはありません。どっちでもいい結果も悪い結果も生みます。実際には、この二つをごたまぜにした感想で気分を処理することも多いと思います。ただ、余裕があるときは、このどっちかを選んで考えつめるのも、思わぬパワーを生むことも事実です。

で、さらにもうちょっと今回は煮詰めます。
今あげた二つの例の前者、罰を受ける相手に屈服し感謝し尊敬し反省しまくる方ですが、いきなりとんでもないことを言いますと、時に相当エロティックな色っぽい要素を含むこともあるんじゃないでしょうか。
いわゆる腐女子のボーイズラブものや、鬼畜系のポルノでは、相手に力づくで言うこと聞かされる苦痛が快感に、そして愛に、という要素が特に前者ではよくあります。
私がそういうのを読んでいて、何となく物足りなく思うのは、しょせん腕力での強制や陵辱はある程度までしか相手を征服できないもので、身体と魂の芯から屈服して相手のものになりつくすには、哲学的道徳的倫理的に、相手の人柄や能力にメロメロになって身も心も捧げるという方が、ずっと破壊的にエロチックで背骨か脊髄まで、ぞくぞくするんじゃないか、という気がしてならないからです。

何でわざわざ、こういうことを言うかというと、最近では映画や漫画やテレビドラマもふくめた文学全部に、この要素が本当に欠落して絶滅しているからです。私が知らないだけなら幸いですが、こうした話で資料に例をあげようと思っても、洋の東西を問わず、これというものがまったく見つからない。
昔はわさわさあったのですよ。テレビドラマや漫画はもちろん、純文学でも、大衆文学でも。
私がカミュの「異邦人」やシリトーの「長距離ランナーの孤独」を聖書のように愛読してたのも、主人公が最後まで世間や周囲に屈服しない小説って、他にほとんどなかったからでもある。

もうひとつ、思い出してつけ加えると、「赤毛のアン」シリーズには、この絶対崇拝屈服快感のお話がありそうで実は皆無ですが、「若草物語」シリーズでは、背筋のぞくぞくが止まらないほど頻出します。私はまあどっちも好きですが、前者は「異邦人」系の聖書のひとつだし、後者はむしろ「いや、もうやめて」と思いつつやめられないポルノ系の毒書(ミス打ちではない)として愛読してます。あの二つのシリーズはね、いっしょくたにされることも多いけど、私に言わせれば、根本的にちがっている。それがわからない人が多いのが、むしろふしぎでなりません。

それにしても「若草物語」も最近ではアニメ化、映画化、舞台化されるときは、このポルノチックな毒書要素は削られているのじゃないかな。その分パンチがなくなって万人向きのどうってない話になっていますが。

私は体罰は昔から絶対否定で大嫌いですが、それが禁止されたあたりから、減ってきたのかな、ひとつには。こういう、「たたきのめされて教育される」系の話は。

何しろ、かのスター・ウォーズの中心となる師弟コンビ、オビワンとアナキンでさえ、弟子は恩師に反抗し、自分の未熟や欠陥を棚にあげて「オビワンが悪いんだ」と言いつづけ、2ちゃんねるの映画版では一時、何でもオビワンのせいにするお遊びのスレッドができてたぐらいで(笑)、最後に力でたたきつぶされても反省も屈服もするどころか、結局悪の権化になるというのが、あのシリーズの骨格でもあるわけで、それは本当に象徴的です。

このような心から信頼し敬愛する存在に、自分の欠点や欠陥を指摘されて、心の奥から恥じ入って罰を甘受する、という精神構造がなくなりかけているのは、いいことなのでしょうか? 教育の場でも、家庭でも、社会でも。
私はそれを歓迎し、ほっとする一方で、どこか危険と、ものたりなさも感じています。「絶対的な長上者」を持てなかったアラビアのロレンスの悲しみと似ているかもしれませんが、もっと広く、社会的な意味でも。

私の考察は、今のところ、ここで止まっています。皆さんが続けてこの点の考察を深めて下されば、レポートの追加として加点してあげます。なお、ホームページ「動物と文学」で私が書いた「飼いならす文学」の項も参考にして下さい。

考察でなくても、たとえばごく最近の、ここ十年ぐらいの文学作品(映画、ドラマ、漫画も含む)で、こういった関係を描いたものがあれば、教えて下さい。それも加点の対象にします。

あ、今だときっとたくさんの人が、プロ野球での体罰問題をとりあげて論じてくれそうで、まあいいですけど、あんまりそればっかり重なると私が退屈するので、ほどほどにしてくれると、ありがたい(笑)。もしも書くなら、せめて誰も書きそうにない独自の見解を書いて下さい。

 

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