映画「大奥」感想集映画「大奥」感想-5
こんなこと書いたら、両方の映画のファンから袋だたきにあうかもしれないが、この映画の水野って、「ヒックとドラゴン」の主人公ヒックとどっか感じが似てるよなあ。明るくて前向きで冷静で、しょっちゅうため息ついてるみたいな。
特に「大奥」の映画はなまじ字幕が出るもんだから、水野の場面はすぐに「はあ…」とか「(ため息)」とかいう字幕がやたらに出て、彼がどんだけため息つきつつ生きているかがよくわかる(笑)。
キャラママの映画好きの恩師が、「ギルバート・グレイプ」のジョニー・デップの演技をほめて、「ため息のつき方が実にうまいんだ」と言ってたそうだが、うまいかどうかはともかくとして、二宮はそういう水野の雰囲気にたしかに合っているっちゃ合っている。
この三人のいずれもが、優しくてタフで聡明で、他人を責めたり自分をあわれんだりしないで、自分の運命をうけとめてグチはこぼさないし、酒かっくらって暴れたりはしないし、もちろん自殺もしないし、ただ何かのはずみに、ほうっと一人でため息をつくわけだ。
それはさておき、私が「大奥」と「吉原」をきらいな理由だ。
まーもう、男が女を金や権力でよりどりみどりにするという設定が、すでに私の気に入るわけもないが、そんなわかりきったこと今さら言ってもしかたがない。もっと細かく、その二つの何が私はきらいかを分析しなくてはつまるまい。
あり得ない理由の方から先にかたづけると、私が美貌で売ってる人間ではなく、そんな場所では選ばれそうにないから不愉快なんだというのは多分ない。そこで生きるしかないとなったら、私でもそれなりに工夫して歩き方だの笑い方だの性格のよさ(よくするわい)だの床上手だので選ばれて生き残るようにしてみせるし、外見ではなく仮に自分のわりと得意な研究とか創作とかそういう方面で競って選ばれる大奥や吉原だったら、もっとがまんができないような気さえする。
多分一番いやなのは、性とか愛とかは私にとってあくまで個人的なことという感覚があるので、それが何というか社会活動の一部として会社の運営や町内会の活動のような、事務的で公的な感じで扱われるのが気持ちが悪いという点だろう。この点では私は冠婚葬祭すべてにおいて、人の誕生、入学、成人、卒業、結婚、離婚、出産、死などを人前にさらして皆で祝福や追悼するのが、そもそもいやだ。タレントの婚約発表で、「プロポーズの言葉は」などと聞いたり答えたりしているのを見るとぞっとする。テレビ番組で皆の前で愛を告白するショーなど、趣味の悪さを通りこして狂気の沙汰としか思えない。人前で裸になって自慰する方がまだましだ。
もう一つ、それに負けずにいやなのは、恋や愛や友情や性においてはたがいの好み以外には何のルールも束縛もあるべきではないと思っているので、金にしろ権力にしろ暴力にしろその他の何にしろ、片方もしくは双方が自分の好みを押し殺した状態で結びつくのが、無条件に耐えられない。
それは、自分が選ばれる方、売る方でなく、選ぶ方、買う方であってもまったく同じだ。相手が断れないから仕事で私の要求を聞き、笑ったり話したり寝たりしていると思うだけで、どうしようもない疲労を感じて、早く一人になりたくなる。相手を解放したくなる。
大奥にしろ吉原にしろ、実際には生身の人間の感情や心理がさまざまな力関係を生み出すし、弱者であるはずの売り手や選ばれる方が、強者であるはずの買い手や選ぶ方を支配しているかに見えることもある。しかしそれでも最終的な力はあくまでも買い手や選び手の方にある。そんな不安定で不利な状況で、私は自分の力を発揮したくはない。
そして何がつくづくいやかというと、大奥にしろ吉原にしろ、現実にでも芸術の上でも、そういう根本的な力関係には目をつぶり、そういう枠組みのなかで起こる人間模様や、そういう基盤の上に築いた豪華さや華やかさで各自の生き方を燃え上がらせて、何かほんとに生きたかのような錯覚にたがいも周囲も酔うことだ。
人間はどこにいても、それなりに充実した生き方はできるし、幸不幸もある。それでもせっかくなら私は、基本が嘘で間違いの決定的にいびつな関係の上にやたらと豊かなものを塗りまくって、どんどんそれをふくらませたりはしたくない。細い脆弱な骨に強靱な筋肉をつけたり、もろい地盤の上に壮大な宮殿を建てるようなもので、そうやって築かれた豪奢な世界そのものが悲惨で醜悪にしか見えない。
もちろん、そんな例はこの世の中に過去も現在もいくらでもある。しかしまた、そうでない例もいくらでもある。私はそうでない例を選びたいし作りたい。
さてこんな私が「大奥」の男女逆転を描く映画を見たら、果たしてどの程度不快になるのかならないのか、それはまた明日(笑)。