映画「大奥」感想集映画「大奥」感想-7

つづけます。

そもそも、それもこの映画のふしぎな魅力だが、決して非現実的なふしぎな感じを受けなかった。すべてがいかにもあり得るような普通で自然な世界に見えた。かと言って、決してリアルに薄汚さも泥臭さもなく、すまして、しゃあしゃあとお話っぽかった。嘘っぽいからリアルだったし、本当っぽいのに、ハードではなかった。
この絶妙のバランスをなんと表現したらいいのか。夢のようでいて、夢でない。素面なままで、酔わされる。高級高尚な芸術や文学を愛する人は絶対にバカにしてこんな映画は見ないだろうが、そんな人にこそ、ぜひ一度見ていただいて、この奇妙な感覚をきちんと分析してほしい。

本来の「大奥」であれ「吉原」であれ、まじめにきちんと考えれば異様で悲惨なシステムだ。そんな奇妙で奇怪な世界も、存在すればひとつの文化となり、描きつづけられれば普通の世界として見る者も演じる者も慣れてゆく。肩ひじはらず当たり前の普通の男女の世界として、本来ゆがんだ、あり得ない世界がいとも楽々と描かれ鑑賞される。
私が耐えられなかったのはそこだった。これが許されるのなら、アウシュビッツもヒロシマも明るいドラマとして描くべきだとしか思えなかった(戦争の悲惨については捕虜収容所ものの映画が、いくぶんそれに近くなっているかもしれない)。

今回の「大奥」の映画には、私に言わせれば二つの異様さがある。一つは本来の、現実の「大奥」が持っていた異様さだ。もう一つは、男女の役割が逆転している異様さだ。前者の異様さは過去に現実に存在した。後者の異様さは現在生まれつつあり未来にはもっと確実に存在するかもしれない。

かつて存在した、という事実によりかかって、大奥という制度の異様さに鈍感になるのなら、それが現在と未来のそれと共通する異様さにも鈍感になるのなら、どんなにわずかでも今、存在し、やがて存在するかもしれないという事実によりかかって、過去にさかのぼって逆の設定の異様さを描き出し、それに鈍感になれるかどうかを楽しむ。この意地悪で知的で洒落た命がけのゲームを、原作者や監督や俳優がどれだけ意識しているのかは知らない。

だが、原作でも映画でも、それはみごとに成功している。それは、そのような現在と未来の事実を作りだそうとしかけている多くの男女の(たぶん無意識の)作りだした成果でもあるだろう。この映画が相当にヒットしていることも含めて。
私はそれに満足する。そのすべてに満足する。

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カツジ猫