映画「大奥」感想集映画「大奥」感想-6

ところでふと思い出すのだが、有吉佐和子の小説って映画化ドラマ化舞台化されたのが多い。私は特にというかほとんど見てないのだが、「紀ノ川」の映画や「仮縫」のドラマを見た時、あれ?と思ったことがある。
「紀ノ川」のヒロインは旧家にとついで頑張るのだが、夫は良くも悪くも男らしいおおらかな人だ。で、その弟つまり彼女の義弟がちょっとぐれてて反抗的で実は兄嫁の彼女がめちゃくちゃ好きという、死ぬほどありがちなんだけど身につまされもする設定だ。
映画ではこの弟もそこそこ男らしい俳優がやっててまあ悪くはないのだが、有吉さんの小説読むと、この弟はもう明らかに繊細でひよわな美青年で知識人のインテリ、そこが兄とは対照的な魅力をかもしだす仕組みになっている。

「仮縫」は華やかなファッション界の話で、重厚な「紀ノ川」に比べると軽い楽しい小説だが、まあ「プラダを着た悪魔」みたいなとこもあって悪くない。でもって、ヒロインの若い元気な女の子が有名デザイナーの店で修業する、その有名デザイナーの弟かなんかが、これはもう遠慮えしゃくも身もふたもなく、すっごいただもう美青年という風に書かれている。
NHKのドラマだったと思うのだが、デザイナーの恋人の渋い中年男性が池辺良じゃなかったろうか。まだ子どもだった私は見ていて池辺良は好きだけど、この役はもっとごつい男らしい人の方がいいのではと感じた。その一方で、その「美青年」の方はそれも悪い俳優でも演技でもなかったけど、決していわゆる絵に描いたような美青年の俳優ではなかった。

後者の場合、その頃はそもそもそんな俳優がいなかったかもしれないが、前者のような役柄を演じられる人ならかなりいたはずだ。それでも、そういう人を使わなかったのは、たぶん後者の場合と同じで、露骨に美形で繊細な、悪い意味でなく女性っぽい人を使うことに警戒や抵抗があったのだと思う。監督か制作者側に。

有吉さんは重厚で堅実な作品を書く、ちゃらちゃらしたところのない作家だが、それでもきちんと、今の少女漫画でいうなら黒髪と(モノクロの画面では)白い髪の男性二人を対照させて描く手法を知ってたし、歯の浮くほどの美形を登場させる手法も知っていた。それが有吉さんらしくないミーハーっぽさとして無視されてしまったのだろうか。見ていて私は残念だった。
「紀ノ川」で、ヒロインの幼い子どもをかわいがる義弟が、遠くまで子どもを散歩に連れ出して、「あんな遠くまで行ったのか」と彼女が驚き心配する場面がある。映画だと義弟はしっかりたくましいから、ここは何のことか意味がわからない。原作では義弟は身体が弱く遠歩きもしないから、彼女の心配の意味もわかる。そんな不都合や矛盾をおかしてまで、どうして弱弱しく美しい男を登場させまいとするのか。そういう設定を使いこなせないのか。それがもどかしかった。

「大奥」を見て、「いい時代になった」と嘆息した心境には、そういうこともある。水野の二宮が美形かどうかが論争されていて、私はまああれは美形でいいんだろうと思うが(笑)、そういうことが真剣な論争の種になるほど、あたりまえに堂々と、美形な男たちが俳優本人たちも全然それで緊張もせず肩ひじもはらないで、別にキワモノでもない大きな映画館の大スクリーンに登場させられている。すばらしいことである(あえて「笑」はつけないぞ)。

私がこの映画を見ていて、一番救いだったのは、感動したといってさえいいのは、どう考えてもある意味異常で病的な設定の話を演ずる俳優たちが(男性も女性も)、ちっとも「すごいことしてる」という硬さがなく、逆に「何もすごいことじゃない」という割り切りさえもなく、フツーに自然に照れも開き直りもなく(前に「開き直り」ということばを使ったが撤回する。どう見ても彼らにはそんな思い切りさえもなかった)まるで不思議に思わずに、異様な場面の数々を演じていることだった。
これが監督の腕なら奇跡だ。だが、そうだとしてもそれだけではなく、彼らがそれほど素直に普通に、こういう役の数々を演じてしまうほど、映画全体も世の中も昔と変わってきているのだと思う。

「大奥」や「吉原」を描いた作品がすべて嫌いだった私が、男女逆転の「大奥」なら同じ不快さを感じるか。それは私とは逆に、そういう作品に何も抵抗がなく、むしろ好きな人たちが、この男女逆転大奥を見たときはどうかということでもある。見る人の何かが試されるリトマス試験紙のような映画だと思う。
そして私は、この映画が不愉快ではなかった。
最初はそれは、従来の「大奥」「吉原」もので描かれる男女のあり方が、現在にも通じすぎるから虚心坦懐に楽しめず、逆転したら非現実だから気にならないのかとも思った。それもあるが、それだけではないかもしれない。(つづきます)

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