映画「大奥」感想集映画「大奥」感想-3

いい時代になったもんだなあ、とこの映画を見ながら思った理由はいろいろある。
そもそも男女逆転の作品を書くというのは、実は強烈に男女の役割分担とかいろいろなことに対する問題提起になるものだ。
もうずっと昔、フェミニズムということばもあったかなかったかの頃、北欧かどっかのウーマンリブの運動の一環として作られた「女ならやってみな!」という映画があった。それは、女性が男性のやる仕事をすべてやる、男性と同じ生活をするという設定の映画を作ることで、女性のおかれている立場をあらためて考えるという、明確な女権拡張運動のための映画だった。それを日本で上映するのに、一フィートづつカンパしてほしいという呼びかけがされていて、私もカンパしようと思ったが、とりまぎれてしないままで、結局その映画が私の見に行ける場所で上映されることはなかったし、その運動がどうなったかも知らない。

あの時代、多分70年代だったろうが、今よりずっと過激なウーマンリブの運動があって、でも、そんな時でさえ、そんな映画は決して大衆的に興行として成功するものではなく、運動としても広く上映されるほどにはならなかった。少なくとも日本では。

ちなみに日本の江戸時代にも歌舞伎や大衆的読み物では男女逆転の話が多く作られている。キャラママこと板坂耀子が「江戸の女、いまの女」の本の中でくわしく分析している、滝沢馬琴の「傾城水滸伝」は律儀な馬琴らしい緻密な傑作で、中国の水滸伝の話を日本の北条政権の時代におきかえ、男女を完全に逆転させるという趣向である。馬琴は別に男女問題を考えたかったわけではなく、水滸伝のパロディとして書いたのだろうが、それでも、その中に現代にも通じる男女の役割を考える材料がおのずといくつも浮かび上がる。

つまり、よく知られ、親しまれている物語とか歴史的事実とかをもとに、男女をひっくりかえして見るというのは、常識や価値観をたしかめてみる上で、大変効果的な、その分危険な挑戦だ。
そもそも、キャラママも指摘しているが、すでにしっかり存在している歴史を、まったく異なる設定で設定しなおして、物語世界を作るのは大変なエネルギーと能力を要求される。あれだけ、歴史に詳しい馬琴だからこそ、それを無視して、男女が逆転し、女が政権をとった世界と時代を架空に作り上げるのは、どんな恐怖と孤独に耐えたかわからない、とキャラママは言う。

映画の原作となった、よしながふみの漫画「大奥」を私はたまたま、若い人から勧められて数年前に読んでいたのだが、それを最初に読んだときに感じたのは、馬琴と同様のその強靱な精神だった。ある意味これはSFなのだが、宇宙のかなたの架空の星の世界を作るよりももっと大変な力業なので、それが不自然でなく成功しているのは、作者の技術や知識はもちろん、それ以前の根底にある強烈な虚構を創造する精神のしたたかさと激しさがなければならないだろう。

映画のパンフレットでは、何人かの出演者が「男女が逆転した世界を見るのは、現実の社会を見直すのに何か参考になるかもしれない」といった意味のことをひかえめに述べている。だが何よりもそのことが…駕籠かきも大工も岡っ引きも皆女性がやっている江戸の町という、ある意味恐ろしい映像が平気で大規模かつ華麗に展開するのに私は、あの結局私が見ることもなかった「女ならやってみな!」の映画が劇場公開さえおぼつかなかった時代を思い、その映画が訴えようとしていたであろう映像や場面が、これだけ堂々と、ぬけぬけと、全国規模で大観衆の前で公開されている事実に、幸福や満足を通りこして何だかくらくらめまいがした。

それはまた、制作者の意図や意志の問題だけではなく、もう一つ幸福&満足以上に「いいのか?いいのか?私はうれしいけど」みたいな感じで呆然としていたのは、そういう男女逆転の場面がさほど異様にも不快にも見えないほど、女性の外見がたくましく、男性の外見が優しくなっていることである。
二宮演ずる水野に熱をあげて、きゃあきゃあ言ってる大奥の若い男たちの集団の映像が、見ていてちっとも気持ち悪くない。その姿も顔も、ちょっと見には皆、女の子のように見えて、むくつけき男性という感じが全然しない。しかもそれで日陰の花や隠花植物のような不健康さでもあるどころか、彼らはまるで太陽の下のヒマワリみたいに底抜けに明るい。
そして、そのことが不自然にも見えないのは、現実の少年青年が最近では皆女装してもまるでおかしくないほどに、きれいにかわいくなっていることで、「大奥」の映画の世界は、そういう意味では現実と決してかけはなれていない。
世の中はここまで来ているのだ、とあらためて吐息をつく。もちろんこれは、幸福すぎて、これでもいいのだろうか、という意味でのため息である。

今夜はここまで。もちろん、まだまだ続きます(笑)。

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カツジ猫