江戸文学その他あれこれ1-ラウンドテーブル
日本近世文学会2016年11月13日ラウンドテーブル「世話・人情話・メロドラマ」
1、「ぬれぎぬ」設定
古今東西の文学に、あまねくと言っていいほど遍在する「ぬれぎぬ」がどのようにあらわれるか。
女性が遊女の場合には、それだけで「相手を幸福にできない」要素があるために、自ら身を引く「愛想づかし」が形式として成立する。他に病身、貧困などの負い目を負った女性がどのように身を処し、またはそれを解決するかの例も知りたい。
一方、男性の方の「ぬれぎぬ」には、より多様で複雑な設定がある。女性と同様の「愛想づかし」もあるし、より社会的、法的に冤罪をこうむる場合もある。
これは文学に共通する、幸福や平和は描きにくい、安易にハッピーエンドにできないという課題でもあり、それは「2」の問題とも関連する。
2、「恵まれた者」の役割
「助六」や「江戸生艶気蒲焼」には、裕福である男は魅力的でないという感覚が存在する。遊里を舞台にした演劇の場合、男性の多くはかつての安定した生活を失っている。現実にはこれと逆でも、「裕福で何不自由ない男の魅力」を描いた作品は少ない。
映画「プリティ・ウーマン」が新鮮だったのは、そのような「恵まれた男」に魅力を感じるという、はしたない、えげつない、現実的な精神をロマンティックに美化できたことである。これはたとえばミステリの世界でも、ローレンス・ブロックのマット・スカダーシリーズやリリアン・J・ブラウンの「猫は」シリーズの主人公が、次第に膨大な財力を得て名士になって行くのとも共通して、作者も読者もそのような設定を好むようになったことが原因であろう。その後、映画「タイタニック」は逆に貧しい青年を主人公にして裕福な男性を悪役にする古典への回帰を行った。江戸時代の文学の中で、主役でなくても、このような「恵まれた者」は悪役、恋敵、協力者、援助者、裁定者など、どのような役割を演じているか。
3、「女性的男性」の扱われ方
メロドラマでは女性の外見は概ね美しい。男性の場合、女性的な美しさや弱さを持つ男性はボーマルシェ「フィガロの結婚」のシェリュパン、ワイス&ヒックマン「熱砂の大陸」のマシュウ、南条範夫「虹之介乱れ刃」の夢之丞、栗本薫「グイン・サーガ」や上橋菜穂子「守り人」シリーズの王子たちなどよく登場するが、映像化、劇化される際に、有吉佐和子「仮縫」の松平信彦、「紀ノ川」の真谷浩策、ユーゴー「レ・ミゼラブル」のアンジョルラスなど、より男性的な外見に変えられやすい。もしくは「三銃士」のアラミス、「八犬伝」の毛野のように女性化されることもある。江戸時代の文学では、舞台の上でも比較的このような女性的男性の魅力は曽我物の十郎に典型的なように残されることが多いようだが、そこには人々のどのような好み、もしくは社会の実態が反映されているのか。