動物と文学「愛する勇気」その1-動物との暮らし
1 結婚しない男達
こうしてロジャ-はわたしがともに一夜をすごすことを許してくれた。彼がバスル-ムに入って横になるあいだ、わたしはベッドの半分に横たわっていたことをおぼえている。それ以来彼は一度もわたしに出ていけといわなかったし、もちろんわたしを蹴りだすようなこともしていない。それはおたがいに縛られることのない気楽な関係だった。月並な表現を許してもらうなら、わたしにもやっと運が向いてきた。
目覚まし時計が鳴り、ようやく目をさましたロジャ-は、「ねぼけ顔でわたしを軽く抱きしめてから背中をなでた。そうされるといつも自然に笑みがこぼれる」。やがて、先に階下に下りた彼を追って、台所に行った彼女は「わたしはしあわせそうに尻尾を振りながらミルクを舐めはじめた」。
ジェフリ-・ア-チャ-がどれだけ意識していたかはわからないが、独身男性と飼い猫の深い心の交流を描いた古典的名作としては、フランスの女流作家コレットの、その名もずばり『牝猫』(岩波文庫)という中編小説がある。主人公の青年アランは、美しく活発な現代女性カミ-ユと結婚するのだが、前から飼っていた愛猫(シャルトリュ-種)のサアが新居のアパ-ト暮らしの中で次第に元気がなくなって行き、またカミ-ユが夫と猫の間の愛情に対して微妙な嫉妬を抱きはじめ、ついに猫を窓から突き落としてしまったのをきっかけに、彼女との離婚を決意し猫とともに母の家に帰ってしまう。話し合いに来た妻が、彼の心を取り戻せないままに、帰る時に見たのは、広い庭の中で生き生きとたわむれているアランとサアの姿だった。
小径がカ-ブを描き、葉叢(はむら)がすけたところがあったので、カミ-ユはもう一度遠くから、牝猫といっしょのアランを見ることになった。彼女はつと立ちどまり、いま来た道をもどろうとするかのように身をひるがえした。だが一瞬まよっただけで、彼女はいっそう足ばやに遠ざかった。サアが警戒して、人間のようなまなざしでカミ-ユの出発を見送っているかたわらで、アランは地面に寝そべるようにして、猫の前脚のようにまるめた手のひらを器用に動かしながら、緑色でとげとげの、八月の未熟な栗をもてあそんでいたからである。
この小説の場合、アランが愛しているのはもちろんサアという猫でもあるが、同時にそれは母と暮らしていた古い庭のある家であり、自然で静かな暮らしでもあって、妻と別れるに至るにはさまざまな理由が重なっている。だが、それも含めてひとつまちがえば不気味で異様な際物めいた内容になりかねないのを、そうなっていないのは、動物や自然を深く愛した一方で、男女の愛にも経験豊かなコレットの、どこか夢想的でありながら健全で堅実な描写の持つ力によるのだろう。どちらかと言えば男性的なほどにさっぱりした性格のカミ-ユが、サハの存在にこだわって嫉妬するようになる過程も納得いくように描かれていて、彼女もまた決して単なる悪役にはなっていない。
2 百鬼園先生の悲しみ方
『牝猫』でサハが自然と一体化した魅力を持って描かれたように、猫には一種の野性味が残っており、一方で室内で人間と共生することが多いため、やや動物に対するにしては非常識なほどの愛情の対象として描かれることが、他の動物に比べて多い。内田百間の小説『ノラや』(福武文庫『新編 ノラや』所収)で、作者が、いなくなった飼い猫ノラに対してほとばしらせる愛情は、彼自身がロジャ-やアランのように独身男性ではなく、猫も雄猫で恋人や妻を連想させる存在というのではないが、「これほど無防備に、たかが猫への愛情を周囲に見せてしまって大丈夫なのだろうか」と、読んでいて不安になるほどである。
昨夜はずっと起きていて、朝の五時半、明かるくなってから寝た。床に就く前から何となくノラが帰って来る様な気がし出した。午後の二時に起きたが、夕方になると 矢張りどこへ行ったのかと思う。書斎の窓を開けてノラやノラやと呼んで見る。さわさわと風が吹くばかりでノラはいない。
夜が更けて、もう寝なければならない。寝る前になるとノラがいないのが堪えられなくなる。今頃はどうしているのだろうと思って涙が止まらない。
このような記述が、くりかえし続く。
朝五時半、突然大雨が降り出した。通り雨だったらしい。もしノラが野天に寝ていたらノラの耳が濡れただろう。そんな事が気になり、以前は雨の音が好きだったのに近頃は楽しく聞けない。
今朝も昨日からの続きでくよくよして、涙が流れて困る。夕方近くなり、夜に入れば、一寸したはずみで又新しく涙が出て、ノラがいつもいた廊下を歩くだけで泣きたくなる。雨の音が一番いけない。
ノラが家へ帰れなくなって弱っているに違いないと思われ、可哀想で堪らない。ノラが迷い猫となっていれば、この猫はどこかの飼い猫に違いないと思って親切に可愛 がってくれる家があったとしても、ノラがうちで食べている様な生の小あじやグワンジイ牛乳を与えてくれる家はどこにもないだろう。こちらから申し送ったのでない限り、そんな事がある筈がない。ノラはその外の物は常食としては食べなかったから、日が経つにつれ、一ヵ月も過ぎれば段段衰えているに違いない。或はひょろひょろしているかも知れない。そうしてうちへ帰って来る道が解らなくなっているのだとすれば、一日も早く見つけてやる外はない。可哀想で泣き続けた。頭が変になりそうである。
文章そのものは誰でも書けるようなものであるが、これだけ正直にありのままに「たかが猫」に対する悲しみを臆面もなく吐露できるのは、普通の人にはできそうで絶対できないことである。ある意味ではこの勇気がなければ、文学は書けないという基本を示しているようでもある。ちなみに作者は、このようなことをひそかに思っているだけではなく、実際に妻や、訪れる知人や友人、弟子たちの前でもうちしおれ、涙を流している。新聞広告など猫の捜索のためにもありとあらゆる手段をつくす。そしてまた、感服するのは、この作者の心情や行動を妻や周囲の人々が少しもおかしいと思わずに、心から猫探しに協力しつづけていることである。これは百間の思い込みではなく、実際に周囲の人々はそのように暖かだったようである。(黒沢明監督の映画『まあだだよ』で描かれたように)作者の人柄と、それが作り上げた小世界の持つ力が、そこにはある。作者のそういう行動に対して、当然冷やかしの心ない電話などもかかって来ているのだが、作者の悲しみの深さと激しさはそれさえも押し流してしまっている印象がある。人が真剣に愛して悲しむ時に、嘲笑や批判はその人を決して傷つけることはできないのではないかと感じさせるほどである。
3 まっとうな忠告
しかし、現在の日本では動物を残酷に殺しても、動物虐待とか器物破損(他人の所有物であった場合)程度の罪には問われても、人間を虐待した場合のような刑罰は受けることがないように、人間と動物はあくまでも一線を画して扱われている。それに基づいて、というか、それの基となっている感覚や常識はやはり存在している。
日本の江戸時代の浮世草子作家井原西鶴に『西鶴諸国咄』という短編集があって、その巻四の中に「鯉の散らし紋」という話がある。少し長いが、全文紹介しておこう。
川魚は淀を名物といへども、河内の国の内助が淵の、ざこ(雑魚)まですぐれて見えける。この池むかしより今に、水のかわく事なし。この堤にひとつ家をつくりて、 笹舟にさをさして、内介といふ猟師、妻子も持たず只ひとり、世をくらしける。
つねづね取り溜めし鯉の中に、女魚(めす)なれどもりりしく、慥かに目見じるしあつて、そればかりを売り残して置くに、いつのまかは鱗にひとつ巴出来て、名を「 ともゑとよべば、人のごとくに聞きわけて自然となつき、後には水をはなれて、一夜も家のうちに寝させ、後にはめしをもくひ習ひ、また手池にはなち置く。はや年月をかさね、十八年になれば、尾かしら掛けて十四五なる娘のせい程になりぬ。
あるとき内助に、あはせの事ありて、同じ里より、年がまへなる女房を持ちしに、内介は漁船に出しに、その夜の留守に、うるはしき女の水色の着物に立浪のつきしを 上に掛け、うらの口よりかけ込み、「我は内助殿とは、ひさびさのなじみにして、かく腹に小もある中なるに、またぞろや、こなたをむかへ給ふ。このうらやみやむ事なし。いそいで親里に帰りたまへ。さもなくば三日のうちに大浪をうたせ、この家をそのまま池に沈めん」と申し捨てて、行方しれず。
妻は内介を待ちかね、おそろしきはじめを語れば、「さらさら身に覚えのない事なり。大かたその方も合点して見よ。このあさましき内助に、さやうの美人なびき申す べきや。もし在郷まはりの、紅や、針売のかかにはおもひあたる事もあり。それも当座々々にすましければ別の事なし。何かまぼろしに見えつらん」と又夕暮より舟さして出るに俄にさざ浪立つてすさまじく、浮藻中より大鯉ふねに飛びのり、口より子の形なる物をはき出し失せける。やうやうにげかへりて生洲を見るに、かの鯉はなし。
「惣じて生類を深く手馴れる事なかれ」と、その里人の語りぬ。
なついて巨大化した鯉が夜は食事をしたり家で寝たりするようになり、飼い主が結婚すると嫉妬して人間の女性に化けて恨み言を言いに訪れ、子どものようなものを吐き出して去るなど、滑稽でもあり不気味でもある話が西鶴らしい快調なテンポで語られる。「すべて、動物というものを、あまり深くかわいがってはいけない」という、動物と人間との間のけじめをつけることを教えたのが、末尾の教訓である。
西鶴の場合、このような教訓はかたちをつけるためだけに一応書いているといったことも多く、必ずしも作者が真剣に主張しているとは限らない。ただ、やはり当時、こういう考え方があったということはわかる。だが、それは果して当時の大多数の人が持っていた健全で普通の常識だったのであろうか。それとも逆に、当時は人間と動物の性的な結びつきにあまりタブ-がなくて、それだからこそ殊更に、このような教訓が生まれたのだろうか。ここのところが私には大変興味があるのだが、まだ資料がなくどちらとも判断ができない。
4 健全な愛し方とは
大都会の高層ビル火災を描いた『タワ-リング・インフェルノ』というアメリカ映画があった。私は映画よりも先に小説(T・N・スコ-シア&F・H・ロビンソン作)で読んだのだが、映画よりも原作の小説の方がずっと奥行きがあり、観点もしっかりしていて好きだった。登場人物の一人に、火災が起こるそのビルのマンションの一室に猫と暮らしている老婦人リゾレットがいる。若々しくて勇気があり、恋もしている彼女と猫の毎日は次のように幸福で満ち足りていた。
長いこと公園を散歩したあと、夕方頃には彼女はすっかり陽気な気分になって、ビ ル内の友だちの誰かを訪ねてみたい衝動にかられた。キッチンでしばらく忙しく動い ていたが、やがて居間に向かって声をかけた。「シラ-、さあこちらへきてお食べ、 ご馳走だわよ」ビルのあらゆる規定にそむいて飼っている灰色のおす猫が、自分の名 前を呼ばれて背中を丸め、喉を鳴らしながらキッチンにやってきた。(略)
夕飯をほとんど平げたシラ-は、喉を鳴らすだけで、ほかに何も言わなかった。バ カじゃないわ、この猫は、とリゾレットは思った。(略)
シラ-は満腹になって睡気を催し、外で吹き荒れそうな気配になってきた嵐の冷気 を感じ取っていた。シラ-は居間に舞いもどり、大好きな長椅子の隅っこで、ボ-ル のように硬く、体をちぢこませた。長椅子は暖かく、シラ-は早くもまどろみかけて いた。
ところが、この後ビル火災が起こり、最上階のパ-ティ-に出席していたリゾレットは部屋に戻れなくなってしまう。もちろん彼女自身も脱出できるかどうかわからない危険な状態なのだが、その中で彼女は、猫を助けるよりも近所に住んでいた聴覚に障害のある一家のことを気にかける。
狭いアパ-トに閉じこめられているかわいそうなシラ-のことが頭に浮かんだ。し かし、ネコのことはきっぱり頭から追い払った。いま彼女が為さねばならないことは ただひとつ、それも非常に危険なことだった。ほかの誰かが、アルブレヒト一家のこ とを思い出して,さっそく彼らに危険を知らせたかもしれないということには考え及 びもしなかった。
こうして彼女は、火と煙の中からアルブレヒト一家を救い出し、勇気と知恵を駆使して炎の中を逃げ延びてゆく。映画ではラストに近く彼女は死んでしまうのだが、これでは原作のよい所がすっかり消えてしまう。原作では彼女は助かり,ボ-イフレンドの男性と無事を喜びあっている時、消防士が猫を助けて連れて来るという、ハッピ-エンドになっている。
「やあ、みんな。三十五階でこんなやつがうろついてたんだ!」
リゾレットはハアレは反射的にドアのほうに眼をやった。消防士が、ちょっと水を かぶった、不機嫌なネコを手に、立っていた。
「シラ-!」
ネコが軽やかな足どりで駆け寄ってき、リゾレットが抱き上げた。くすぶったよう な、ちょっときな臭いネコの毛に、彼女は鼻をこすりつけた。
作者は明らかにこの女性を、好意をこめて描いている。読んでいても、この婦人の生き方は前向きで力強い。そしてこのような優れた人が、とっさの場合に飼い猫を見捨てて人間を救うことを優先したことは、私にさまざまなことを考えさせる。
おそらくは、これがあるべき動物との関わり方なのかも知れない。人間として健全な感覚なのかも知れない。どんなに仲良く愛しあって暮らしていても、動物は動物であり、人間は人間なのだから、いざという時にはそれぞれの種に戻って別々に逃げる工面をするという、けじめをつけるべきかもしれない。リゾレットとシラ-の関係には、そういうさわやかさも確かに感じられる。
5 人間優先の論理
いっそ動物と触れ合わなければ、このような迷いを持つこともあるまい。むしろ、動物と近しい存在で、彼らを深く知り愛してともに暮らしている者ほどが、決定的な瞬間には動物よりも、同じ種である人間を優先させるけじめが存在することを思い知らされるのである。家畜というかたちで、人間の身近に動物が存在していた時代には、それは更に日常的かつ厳粛で切実な掟として、人々の中に存在した。児童文学といえども、そのような現実から目をそらすことはない。『子鹿物語』『小さな牛追い』『豚の死なない日』など、家畜を飼い畑を耕す農民の暮らしを描いた児童文学の中では、人間が生きていくために、子どもたちが可愛がっていた鹿や豚が、親たちの手で殺される。そのことを自然にうけいれたり、反発したり、苦しんだりしながら子どもたちは成長していくのだ。
たとえば、『小さな牛追い』(M・ハムズン作 岩波少年文庫)の続編『牛追いの冬』(同上)では、クリスマスのごちそうとして食べられるブタ(イノシシという名前の)が登場する。かつては女の子たちの遊び相手だった彼だが、子どもたちは新しく生まれた子牛に夢中になっていて、ブタのことは気にしていない。子牛もクリスマスには殺されることになっていたのだが、子どもたちは計略でもって子牛を救い、ブタだけが殺される。しかし、その場面は生活の一こまとして穏やかに落ちついて描かれており、悲惨さは感じられない。
イノシシは、もうちっとも、そのおそろしい名まえのようなようすはしていません でした。まえの夏、ふたりの女の子のだいじな遊び友だちだった、あのおかしい、か わいい子ブタは、いまでは、たいてい、地面に寝そべって、ねむって暮らしていまし た。そして、どうしても起きなくてはならないときだけ、起きました。そのブタが、 じき永久に目をつぶってしまうのだと知っても、子どもたちの心は、べつにさわがな かったのです。(中略)
というわけで、イノシシは、道づれもなく、この世をおさらばすることになったの です。イノシシのいのちは、安らかに終わりました。彼は、牛乳とひきわりのごちそ うをいただいている最中に、静かに、彼らしい終わりをとげました。いまは、そのご ちそうだけが、彼を小屋からひき出すことのできるものとなっていたのです。
ここでは、子どもたちの愛してやまない子牛の命は助かるので、悲劇はそれほど明確にはならない。しかし、ロバ-ト・ニュ-トン・ベック『豚の死なない日』(白水社刊)では、より厳しい現実が描かれている。主人公である少年ロバ-トの父は豚を殺すのを仕事にしている。少年は自分のものとしてプレゼントされた雌豚のピンキ-をかわいがっていたが、不妊症であることがわかって処分されることになる。
ぼくは道具をいくつかと、骨をひくのに使う鋸を持つと、父さんについて物置を出 て、牛小屋の南側にまわった。ソロモンがキャプスタンで運んでくれた古いトウモロコシ箱――つまりピンキ-の家がある場所だ。ピンキ-は中で眠っていた。清潔なわらの上で、体を丸めてぬくぬくと寝ている。やさしい、温かなにおいがする。
「おいで、ピンキ-」ぼくはできるだけ明るい声で呼ぼうとした。「朝だよ」しか し喉がつまって、言葉が出てこない。足でそっとつついてみるが、起きてこない。し かたなく棒でたたくと、ようやく立ち上がった。ピンキ-はぼくのそばにきて、脚に 鼻面をこすりつけた。くるっと巻いたしっぽを振っている。一日が始まったことを喜 んでいるようだ。豚は鈍感で、しっぽなんて振らないんだ、という人もいる。だけど 少なくとも、ピンキ-にはぼくがだれだかわかっているし、しっぽもぼくをわかって いるのだ。
(略)
「父さん、ぼくにはできないよ」
「できるできないの問題じゃない。ロバ-ト、やらなければならないんだ」
ぼくが立ち上がって離れると、父さんはピンキ-の頭のほうに近づいた。ピンキ- は降りつもったばかりの雪の中に立って、ぼくの足元をみている。父さんがバ-ルを 握り直し、頭上高く振り上げる。ぼくは目を閉じ、ピンキ-のかわりに悲鳴をあげて やろうと口を開いた。そして待った。待っていると、ついにその音がぼくの耳を打っ た。
ぐしゃっというすさまじい音。鉄の一撃が豚の頭を砕く音だ。その瞬間、ぼくは父 さんを憎んだ・・・父さんに殺された数えきれないほどの豚にかわって、ぼくは父さ んを憎んだ。
「ぐずぐずするな」父さんがいった。
ぼくは目を開けてピンキ-のそばにいった。ピンキ-は雪の中に倒れていた。まだ 動いているし、息もあるが、起きあがれない。ぼくはその体を仰向けに転がすと、上 にまたがって立ち、前脚をつかんでまっすぐに持ちあげた。父さんは左手で、鼻先が 地面につくまでピンキ-のあごを横向きに押さえつけ、右手で刃の曲がったずんぐり した包丁をかまえた。そして喉に包丁を深々と突きたてると、まっすぐに手前に引い た。頸動脈が切れて、泡のまじった血が吹き出し、洪水のように流れてくる。ぼくの 長靴にもピンキ-の血がかかる。ぼくはかけだして、泣き叫びたかった。しかしじっと立ったまま、ピンキ-のばたつく足をつかんでいた。
あたりは静まりかえっている。まるでクリスマスの朝みたいだ。父さんがピンキ- をさばくあいだ、ぼくは両足をしっかり持ちあげていた。血はあとからあとから流れ 出してくる。ぼくたちの足元の雪の上に熱い血が流れ、湯気を立てている。
ピンキ-が死の間際のけいれんをおこしているのが両足から伝わってくる。目をそ むけずにはいられなかった。父さんは手を休めない。ぼくはピンキ-の足をつかんだ まま、古いトウモロコシ箱をみつめた。ピンキ-の家だったところだ。
このような体験の後でも少年は父を愛してともに働き、父が死んだ日には、長男として一家を代表して挨拶をする。題名は、その葬式の日はすなわち豚が死なない日だったという意味である。
もちろん、このような家族関係や生産状態は、現代生活の中では既に希薄なものとなった。馬や牛は自動車や耕運機にとっくにとってかわられた。食料としての動物たちの生と死も私たちは滅多に見る機会がない。(ちなみにこの父親が、たとえば少年に隠れて豚を殺すといったような姑息なデリケ-トさを見せないこと、残酷で苛酷ではあるが、これが人間が生きていく上に必要なことであると身をもって示すことは、たとえばそういう作業を汚れたものとして人の目の前から隠してしまい、ついにはそのような仕事に携わる人さえもいやしめるようなやり方に比べれば、はるかに人間としての尊厳を守ったやり方と言えるだろう。)だが、これらの小説が描き出す、動物を愛することよりも、人間の利益の方を最終的には優先するという姿勢の、つきつめた厳しさと美しさにおいては、先のリゾレットの行動や、現代の私たちの日常にも通じるものを持っている。
たとえば、現代でもペットを捨てたり、責任を持って飼わないことは批判される。しかし、たしかに玩具を飼うようにいいかげんに動物を可愛がって始末に困って捨てるようなことは問題外としても、中には予想もしなかった事情がいろいろ重なって、やむを得ない処置として人間の立場を優先し、動物を捨てたり殺したりすることはあり得るのだ。今、「中には」と書いたけれど、実際には、「いいかげん」の中のどれだけが「やむをえない」ことなのかの判別はかなり困難と言わねばならない。
小犬や子猫を拾って帰り、親に捨てるよう言われて泣く泣く従う子ども、というのは、あまりにもよくある情景だが、それは子どもの無条件に抱く愛情や同情が、大人の常識や現実的な判断と衝突する典型的な場面だろう。その場合、親がよってたつ論理とは、人間がとにかく生きていくためには、常に何かを切り捨てなければならないのだという現実の認識である。無制限に哀れみ、無条件に愛しつづければ、結局は自分が滅びるしかない。まさに「どこかで線をひかなければならない」のである。それを拒否しようと思ったら、人並みはずれた愛情か、力か、知恵か、幸運か、あるいはその全部が必要だろう。
そういう点では私は、動物へのいいかげんな対処や、理由もない残虐行為を深く怒りつつも、これまたいいかげんに、そのような怒りによりかかって、人間の心理や事情を考えない人たちにも同様の不満を感じる。たとえば、動物の肉を食べるのはいやだと言って菜食主義を貫く人(これだって、植物も生きていることを思えば限界はあると思うが)が言うならまだしも、そういうことさえつきつめて考えないでいる人が、ウサギが増えすぎたので処分に困って生き埋めにした校長先生を「残酷」といって攻撃するのが、ものすごく不愉快である。また、神戸小学生殺人事件の犯人の少年が猫をつかまえてバ-ナ-で口を焼いていたなどという報道を読むと、彼が収容されている少年院に忍び込んで、彼の口をバ-ナ-で焼いたらさぞ楽しかろうという病的な空想にふけってしまったりするのだが、その一方で、彼がそういうことをしなくてはいられなかった彼自身の苦しみとは何だったのだろうと思うと、怒りの強さがそのままに同情と愛情に変わる気がする。人間への深い愛情と強い肯定を失ったところには、動物への愛もないのではないかと感じることがよくある。
6 崩れ行く常識
先に、動物と人間のどちらを優先させるかという問題は、動物が家畜からペットに変化してきた現代でも共通すると述べた。しかしまた同時に、家畜からペットへの変化も含めた現代社会のさまざまな特徴は、人間そのものについての常識の変化をも生み、それはまたおそらく動物と人間の関係についての常識も変化させるだろう。
たとえば最初にあげたいくつかの例の中で、猫を飼っていて密接な関係にあったのは、既婚未婚を問わず、いずれも男性であった。しかし現代では女性の一人暮らしが増加する中で、ペットと親密な関係にあるのはむしろ女性の方が多い。『ペットは女の妻である』(ネスコ/文芸春秋刊)で犬丸りんは、次のように述べている。
私の見たところ、女とペットの関係はめちゃくちゃ深い。
とりわけ、
「一人暮らし、働いている、独り身」
この3Hをして私は、
「ペットとただならぬ関係になる可能性のある女性の条件」
と勝手に決めているのだが、3つをすべて、あるいはいくつかを満たす場合に、女とペットの関係は妙に深くなる・・・というのが、その筋に興味を持っていろいろなケ-スを見てきた私の見解なのである。
犬丸は、猫、ウサギ、スナネズミ、亀などを飼っているさまざまな女性を取材して紹介しているが、その中で、ペットが自由に行動する彼女たちのマンションの部屋が結構散らかって汚いのだが、
しかもそんななかにあって、不思議なことに彼女たちはあんがい、
「平気そう」
にしているのだ。この点を、
「女性の順応性がペットに対しても発揮された」と解釈すべきか、
「ペットによって『女はもともときれい好きってわけじゃない』ことが判明した」
と解釈すべきか、悩むところだ。
はっきりいって私もそうだが、きれい好きというのは「女の子はそうあらねばならぬ」という建前のせいであって、その裏には「散らかってたって平気」と思える特性もひそんでいる。それがペットによって引きだされるというか、なしくずしにあらわれるというか、いいかえれば私たちは、ペットとなら気楽に素顔で暮らすことができるのだ。
と、女性の特質と思われてきたものが、そうでもなかったと指摘している。更にまた、女性らしく気がきいて、いつもニコニコしていることが職場では女性に要求されるが、
しかしそれは「得意技」ではあっても、女性の「自然」ではない、という点が問題 なのだ。快感もなくニコニコしているのは相当な「不快」である。笑って疲れている 女性は多いと思う。働く若い女性は、多かれ少なかれ、「女らしさを自己演出」しな がら葛藤しているのだ。
ペットがいいのは、ペットの前で無理にニコニコしなくてもいい点である。化粧を 落とした顔でホカ弁も食べていられる。女性は外でつねに眺められる存在である。そ れは、他人の目に美しく映る自分を意識することで快感をえる女性であってしても、 緊張感をともなう。それがペットを前にすると女性の立場は「見る立場」にかわる。
ペットの体、表情、しぐさ、動き、それを女性は眺める。しかもペットがいいのは
「いくら眺めても眺められることで緊張しない」点である。自然体なのだ。その力 のぬけた自然さが、緊張していた女性の目から頭に染み込んでくる。ほっとする。
この点からいえば、ペットは自活する女性にとって、
「おバカなほうがよりよい」
といえるかもしれない。
そのせいか犬猫以外にも、スナネズミ、モルモットといった、ぼ-っとして見える ペットも近ごろ人気が高い。彼らを見ていると、あまり物事を深く考えているとは思 えないそのシンプルさに救われる。ペットにお気楽を学ぶことができる。
ところで男性の多くは、結婚相手の女性に「家にいてくれること」、さらに「自分 より学歴が高くないこと」、つまり自分よりはおバカなことをひそかに条件にしてい る。これは、働く女がペットに求めるものとの皮肉な同一・・・という気もしないで はない。
犬丸の見解にはしばしば疑問もあるが、ペットとの生活によって女性たちの男性と共通する嗜好や性質が顕れつつあるという大筋の見方は正しいだろう。あるいはむしろ、そのような性質が顕れつつあるから、ペットとのこのような関係が生まれているということでもある。また、女性には爬虫類を好む人が比較的少なく、これも犬丸が指摘するように幼児期からの教育によるところが大きいだろうが、その中で、成人し結婚してから幼い時から好きだった爬虫類に熱中し、十八匹のトカゲやイグアナを飼うにいたった女性の夫は、当惑しながらも、
しかも以前はヤモリなんて見るのもイヤだったのに、いまではその姿を見つけると
「あっ、妻がよろこぶ」
と思って反射的につかまえてしまう体質になってしまった、というのである。
泣ける。いったい世の男性の何パ-セントが女のためにヤモリをとるであろうか。
というように協力していて、これは百鬼園先生の奥さんをもしのばせるものがある。
一昔前ならば、おそらくは非常識で異常とみなされたかもしれない生活が、自然なものとなってきているのだ。そのような中で動物と人間の関係についての常識にも、何らかの変化は訪れるかもしれない。
非常に唐突なのだが、私が先にあげた老婦人リゾレットの行動を尊敬し共感しつつも、なぜかふと連想してしまうのは、山本周五郎の小説「なんの花か薫る」(新潮文庫『大炊介始末』所収)に登場する、売春婦と心から愛しあっているように見えながら結婚などは夢にも考えていなかった若い武士の姿なのである。彼にとって遊び女とはしょせんそういうものにすぎず、結婚する女性とははっきりとした区別があった。そして彼自身は、そのことの残酷さや売春婦の気持ちにまったく気がついてもいない。
当時としては、それが健全で正常でもあったろう。相手の売春婦もそれはわかっているから、結婚できるなどと万が一にも期待はしていなかった。それでも相手の若い武士の一途さと誠実さに、ふとそれが可能かもしれないとの希望を抱いてしまう。同輩の女たちも彼女の幸福を願って心をときめかせる。彼が訪れて、勘当が許されたこと、婚約者と祝言をしたことを嬉しそうに報告した時、同輩の女の一人が逆上して怒り出して皆に連れ去られ、それでも彼は、その怒りが何なのかさえ理解できない。
「おどろいたな」と房之助がいった、「どうしたんだ、みどりはなにを怒ってるんだ」
お新は唇で笑い、「なにか、いやなことでもあったんでしょ、気にしないで下さいな」とほそい声でいった。房之助はふところ紙を出して、額を拭きながら、ふとお新を見た。
「まさか――」と彼はいった。「あれを本気にしていたんじゃないだろうな」
お新は眼を伏せた。
「私とお新がいっしょになるっていう、あの話を」と彼はまじめにいった、「あれをまさか、本気にしていたんじゃあないだろうな」
「ええ、まさかねえ」とお新は笑った、「いくらなんだって、そんなことはないでしょ」
「それにしては」といいかけて、彼は首を振りながら笑った、「――まあいい、私にはああいう子のいうことはわからない。もし、私に悪いところがあったら、あとでお新からあやまっておいてくれ」
「大丈夫よ」とお新はいった、「そんな心配はいりません、あの人どうかしているんですよ」
一人前の女性として人間として扱われることはないと諦めて、それでも一人の人間として深く確実に彼女は傷ついている。そしてそれでもなお彼女は、相手を愛して思いやる。そのことこそがまた、彼女が一人前の人間であるという証明でもあるだろう。繰り返すが男はそのことにさえ気づかない。彼は悪い人間ではない。若さゆえの未経験さの中で、売春婦は自分たちとは違うと、けじめをつける健全な常識が彼をこのように残酷にしてしまう。
同じ人間どうしの間にこうやって線を引くことと、動物と人間の間に線を引くこととは同じではないという考え方もむろんある。だが、人であれ、ものであれ、何かを強く愛してしまった時に、愛情そのもの以外の理由でその愛を分類し評価するということでは、それは確かに共通している。健全とか正常とかいうものは、いつの時代でもそういうものであるのかもしれない。
いいかえれば、動物と人間の関係が今後どのように変わっても、それについての常識がどのように変わっても、更にその常識以上に動物を愛してしまう人間はきっといるだろうし、どんな人間の心にもそういう愛の芽生える余地はきっとあるだろう。
そして文学とは、どちらかと言えば、そのような常識から逸脱した人間の異常や狂気に注目して、それを描くものでもある。飼い猫のために離婚を決意したアラン、いなくなった猫のために泣き通した百鬼園先生、イグアナを溺愛する妻とそれを支える夫など、いわゆるワイドショ-的視点や週刊誌的視点(私が「フォ-カス」「フライデ-」などを見ていつも驚くのは、その「過激」さでは全然なくて、その古色蒼然としたとでも形容したい常識的な論理である)から見ると、変人以外の何者でもあるまい。だが、その人たちの心情を細かく描き出すことで、それは異常ではなくなり、まぎれもなく人間の生きる姿となってくる。
だが、その異常が常識となり、安易なヒュ-マニズムやセンチメンタリズムに流れることを拒否するのもまた文学である。平凡で健全な常識と思われているものの本質と、それを守り通すことの難しさもまた、文学は描き出す。どちらにしても、人間の心を先入観なしでよく見ること、物事から目をそらさずに考えつめること、それが文学作品の条件であり、文学作品が私たちに与えるものでもあるだろう。
(1997・10・22)