動物と文学「愛する勇気」その3-禁断の愛
1 この感情は何だろう?
先般亡くなったダイアナ元皇太子妃のことを、私は特に好きでも嫌いでもなかった。もしかしたら好きになるかもしれない要素としては、私の周囲の友人たちの多くが彼女を嫌っていたことがある。私はあまのじゃくなので、人が悪く言うと何でも一応は好きになるし、人がほめちぎると嫌いになる癖がある。おかげで今年一年見るともなしにテレビのワイドショ-を見ている間に、ジャイアンツと長嶋監督が大嫌いになった。
まあそんなわけで(どんなわけかよくわからないが)、ダイアナ妃が死んだ時、たまたま本屋でみかけた『ダイアナと俺』(ピ-タ-・レフコ-ト 文春文庫)という本を、追悼のつもりでもないが、ふと買った。題名から予想できる通りの際物(きわもの)めいた内容で、アメリカのジャ-ナリストが取材の過程でダイアナと恋をし、駆け落ちしてアメリカの片田舎でマクドナルドの店を開いて二人で幸せに暮らすという、映画「ロ-マの休日」をもっとえげつなくしたような筋なのだが、それなりにしっかりした筆力で、堂々と丁寧に作られていて、私は結構感心した。(もちろん、これはダイアナ妃がまだ生きている時に書かれたものである。作者は現在、複雑な心境でいるかもしれない。)これだけの力があるのなら、変な際物めいた題材のものを扱わなくても書けるのにと思ったり、いやいや、このような大胆で俗っぽい発想ができるというのが、この作家の才能の一部でもあるかもしれないとも考えた。
この作家は、もう一冊文庫本が翻訳されていて、『二遊間の恋』(文春文庫)というのである。注文したら来るまでにものすごく暇がかかり、届いたのを見ると数年前に初版が出たきり再版もされていなくて、絶版になるのは時間の問題かと思われた。多分、どのような宣伝の仕方で売ればいいのか、出版元の姿勢が定まらなかったのだろう。売り方によってはヒットしたのだろうに、惜しい気がする。
題名から予想できる人もいるかもしれないが、これもまた相当突飛な発想で、アメリカ大リ-グの花形選手であるショ-トとセカンドの二人(もちろん男性)が恋に落ちるという話である。そして、これがまた、『ダイアナと俺』同様に、とんでもない題材を扱っていながら、ケレン味がなく真正面からとりくんで、全然照れずにしかも品性を失わない抑制があり、恋愛小説としても野球小説としても、本格的でオ-ソドックスで健全でまともな、骨太で厚みのあるドラマに仕上がっているのに、またまた感心させられた。文学が、途方もない空想をリアルに描き出すということを、主要な要素の一つとしていることを思えば、この作家はむしろ大変まっとうな小説家であると言えるかもしれない。
主人公の遊撃手ランディは、長身でブロンドのハンサムな白人選手で、飛びきり美人で聡明な妻と二人の女の子がおり、あらゆる点からアメリカ野球の象徴ともいうべきアイドルでありヒ-ロ-である。本人もホモセクシュアルなどにはまったく興味も関心もなかったのに、いつからか、チ-ムメ-トの寡黙でストイックな二塁手の黒人選手DJに魅力を感じはじめて自分でどうにもならなくなってしまう。そのことを知ったDJは、自分がゲイであることを打ち明け、それがばれたら自分の選手生命は終わるだろうと言う。そしてランディに、そんな気持ちがあっても消えるかもしれないからしばらくそっとしておくがいい、今の社会でゲイとして生きることは生易しいことではないから、と忠告する。
ランディは忠告に従うが、結局その気持ちは消えなかった。
あとは興味のある人は直接本を読んでもらうこととして、私がこの小説の前半で、遊撃手が自分の気持ちが何なのかつかめないまま二塁手にひきつけられていく過程の描写を読んでいて、ふと思い出したのが、ロ-レンス・ブロックの短編「いつかテディ・ベアを」(ハヤカワ文庫『ロ-レンス・ブロック傑作集3 夜明けの光の中に』所収)だった。
ロ-レンス・ブロックは、アル中探偵マット・スカダ-シリ-ズなどで有名なミステリ作家で、健康なのか異常なのか私にはいまひとつつかめない、相当幅のある精神を持った作家である。この話の主人公の男性は、時代の先端を行くようなマスコミ関係の仕事をしており、結構プレイボ-イでもあって、つまり、ロマンティックなところとか、変人めいたところとかはまるでない、現代的で実際的な男性である。その彼がふとしたことから、女の子へのプレゼント用に買ったテディ・ベアのぬいぐるみにひきつけられていってしまうという、いくら欧米では日本と比較してテディ・ベアがこよなく愛されているといっても、ほとんどありえないような非現実的な話を、スト-リ-テラ-としての巧みさでは知られたブロックが、いかにも職人技といった巧みさで語っていく。
先の『二遊間の恋』の場合、ホモセクシュアルの関係など、もはやそれほど突飛なものではないだろうが、まったくそんなものが自分の上におこることを想像したこともない主人公の遊撃手にとっては、熊のぬいぐるみを愛すると同じくらいに思いがけない自分の心の動きであり、だからこそ、その部分の描写が私に「いつかテディ・ベアを」を連想させるものとなったのだろう。両者に共通するものは、自分の中にわきおこる名づけようもない感情に対して抱く当惑であり不安である。どこか滑稽だから人には言えないが、一方で深刻であり恐怖でもある。
それは、ある意味では愛というものの本質であるし、まだ恋愛の体験のない若いというか幼い人は、普通の男女間の愛情でも同じ感覚を抱くだろう。しかし、幼稚園児の間でもバレンタインデ-のチョコレ-トがやりとりされかねないような現代では、普通の愛にはもはやこのような緊張感は薄れがちであり、ましてや、ある程度成長した男女なら、自分の中に生まれる普通の恋愛に対しては、それほどのとまどいを持つことはない。「マディソン郡の橋」や「失楽園」以後は、不倫でさえも空想の段階では日常的になりつつあり、人の配偶者に好意を感じたからと言って、「この感情は何なのだろう?」とうろたえるような純情な人は今時少ないのではないだろうか。友人の恋人や、友人と思ってつきあっていた異性の場合にも、それは次第に「よくある話」になりつつある。
だから、結婚して幸福な家庭に満足している男性や、仕事にも恋にも充実して独身生活を満喫している男性が、「この感情は何だろう?」と当惑し動揺してしまうような恋愛はホモセクシュアルやテディ・ベアぐらいでないと描けないということにもなる。
2 認知されない恋
エンゲルスが『家族・私有財産・国家の起源』(岩波文庫)で述べたように、恋愛の始まりは夫婦愛ではなく不倫の関係だった。現在では、恋することが周囲の応援や支持や祝福をうけつつ進行する場合も多いが、そうでない場合もやはりまだ多い。そして、こちらがむしろ伝統的な恋のあり方だろう。人に知られたら変質し崩壊する要素が高いから、恋が生まれた時に人はその感情を他人に隠し、時にはかなり進んだ状況になっても周囲に隠しとおすことで、その変質を防ごうとする。だが、そうなると、そうやって隠していることそのものが、またその恋を変質させもする。
『二遊間の恋』の場合は、恋しあう二人の気持ちそのものには動揺がほとんどない。それが、この小説を明るいものにしている原因の一つだろう。また、「いつかテディ・ベアを」の場合には、主人公はクマへの愛を周囲に知られては困るための苦労はいろいろしているが、相手がぬいぐるみであるために、少なくとも相手の感情の変化についてはまったく心配する必要がない。
しかし、周囲の社会がその恋をまっとうなものと認めないし、そのことを当事者である恋人どうしも(特に一方が相手よりもよりよく)熟知している状況の中では、二人の愛がそのために変化したり消滅したりする危険は常にある。同性愛を描いたフォ-スタ-の「モ-リス」(これは映画の方が、問題の本質をより明確にしていて、すぐれた出来だったと思う)や、ソ-プランド嬢の結婚を描いた佐藤愛子「マヤ」(中公文庫『ミチルとチルチル』所収)などには、世間が認めない愛を貫くことに対する、主人公たちの苦しみや疲れが、詳細に描かれている。
マヤはカンカンになって、私にそのいきさつを電話して来た。 「そうでしょ?先生、そう思いません?結婚なんて、わたしと津田さんの問題じゃな いか。なんで上役にいちいちいうの!わたし、そういって怒鳴ってやったの。そうし たらオロオロして、マヤ、ちがうんだ、ちがうんだ、誤解だ、誤解だって、涙ぐんじ ゃって。上役の諒解をとっておこうとしたのは、結婚した後でマヤのことがわかって ・・・何しろK市なんて小さい町だからね。人が蔭でコソコソ噂したりすることがあ るかもしれない。それなら今のうちにハッキリさせてしまった方が却っていいと思っ たっていうの。シャラクサイ、って怒鳴ってやったわ、人が何といおうと、わたしは 平気だよ、って。あの男は上役が反対したら結婚出来なかったかもしれないのよ。何 のかのキレイなこというけど、そんな男なのよ・・・」
マヤの声は慄えている。私はマヤの興奮を鎮めるために、津田さんはマヤが余計な ことで傷つかないように、彼なりに一所懸命に心を砕いているのだ、と取りなさなけ ればならなかった。
男から愛される自信がマヤにはないのだ。私はそう思うほかなかった。マヤは津田 さんを見ると試さずにはいられなくなるのかもしれない。これでもか、これでもかと 突っぱねては、慄えるアンテナで津田さんの愛情を量っている。量っても量ってもこ こで終りということがない。
愛を受け入れるためには、マヤはもっと自分を愛する必要があった。私はマヤにそ ういいたかった。マヤには愛されるための自信が必要なのだ。その自信をつけるため に、津田さんは虐(いじ)めつづけられているかのようだった。
3 「それでも好き」か、「それだから好き」か
ソ-プランド嬢との恋にせよ、ホモセクシュアルにせよ、現代では犯罪行為として処罰されることなどはない。しかし、有名タレントの結婚相手が風俗関係の人だった時のマスコミの反応などを見ていると、そういう恋へのタブ-はまだまだ強く存在している。私自身は、相手の職業が原因でその恋愛や結婚が破れることなど言語道断だと思っているし、ひどい話だと怒りを感じる。
だから、日本の社会にまだそういうタブ-がある時に、ひょっとしたらそれに手を貸すような内容になるかもしれない恐れのある話はしたくない。第一もっと根本的に深刻な意味で、これは差別発言ととられる心配も多分にある。
それでも次のようなことが気になる。
ソ-プランド嬢にせよ、同性にせよ、あるいは外国人、あるいは年齢差のある人、あるいは障害者、あるいは世間が不当に差別する集団の人、動物、ぬいぐるみ(こういうものをすべていっしょに扱うということ自体、批判されるかもしれないが)、その他さまざまな点で周囲がその相手との関係をとやかく言って、あっさりとは認めないことが予想される相手と、恋をしたり結婚したりしようとする時、本人やそれを支持する人たちがしばしば言う言い方は、「同じ人間だから」とか「本質的には何の違いもない」とか「たまたま愛した相手が、こういう人だったのだからしかたがない」とかいうものである。説得されて認める人も「なるほど、それならしかたがない」という言い方で理解することが多いように思う。私自身も、かつて、自分や他人の外見をすごく重視するある女子学生と話していた時、やや教育的発言でもあったが、「私は人を好きになったら、外見なんてどうでもいいわ。頭が二つあったって気にしない」と言ったことがある。
たしかに、そういうこともあるだろう。たとえば相手の外見がどんなに自分と違っていて、たとえば頭が二つあったり、肌が金色の鱗におおわれていて緑の尻尾があったとしても、話をしたり生活したりしてつきあう中で、その相手の中に自分と何ら変わらない普遍的な部分を発見して、何の違和感もなく愛するようになる、という場合も。
だが、そういう場合だけだろうか?
これもかつて、別の女子学生が言ったことばに、「同じくらい性格がいい人だったら、顔のいい人の方がいいと思う」というのがある。私の友人の中には、この言葉になぜか激怒した人もいて、その怒る気持ちもわかるのだが、ただ、私が今考えるのは、「頭が二つある人だって、好きになったら気にしない」という言葉では、彼女のこの「同じぐらいいい性格なら、外見のいい人がいい」という論理には対抗できないということであるし、したがって、おそらくこれと同じ考え方をしていたであろう、さきの女子学生に対しても、この言葉はあまり教育的効果はなかったろうなということである。
もうわかっている人もいるだろうが、この女子学生の言葉に対抗できるのは、「私は頭が一つの人より、二つの人の方がずっと好き」という言葉でしかない。
ああ、何と危険なことを私は言おうとしているのだろうか。
4 人間にならないで
危険な説明を、もう少し続けてみよう。
「いつかテディ・ベアを」の中に、次のような場面がある。
ある晩、彼はクマの夢を見た。
彼が夢を見るのは珍しいことで、見たとしても曖昧で断片的なものが多いのだが、 この夢は鮮明で実に詳細な夢だった。まるで映画を見ているかのように、彼の心の網 膜に映し出された。ただ映画とちがうのは、彼自身がその中に出てくることだった。
『ピグマリオン』と『蛙のプリンス』を足して二で割ったような、魔法にかけられ たクマが出てくる夢だった。そのクマは人間の不変の愛を勝ち取ることができれば、 クマでいることから解き放たれ、愛してくれた人間の理想的なパ-トナ-となること ができる。そのことを知った彼はクマを愛し、クマを抱いて眠る。そして眼覚めると 彼の腕の中には、そう、まさに夢の女がいるというものだった。
そのあとほんとうに眼が覚めた。彼が必死に抱きしめていたのは、もちろんいつも のぬいぐるみのクマだった。ああ、よかった、と彼は思った。
なぜならそれは悪夢だったからだ。彼はクマが何かに変わってしまうことを少しも 望んではいなかった。たとえ夢の女に変わるとしても。
彼は起き出してベッドを整え、クマを寝かすと、クマの顎の下を軽くつついて言っ た。
「おい、変わるんじゃないぞ」
主人公は夢の中でぬいぐるみのクマが人間の女性になったことに失望しており、目が覚めてクマがクマのままだった時、ほっとしているのである。
こういった心理を理解できる人は多いのではないだろうか。少なくとも私にはわかる。私は自分の飼っている犬や猫に、時々恋心に近い深い愛情を抱くが、それは彼らの柔らかい毛並みや、ふさふさと長い尻尾や、金色の眼や、縞模様のある顔、あるいは、人間のことばをしゃべらないこと、四本足で走ることなど、要するに人間とかたちの違う体つきや顔かたち、ちがう機能や能力に対する愛であり、仮に彼らが人間に変化してそれが消えたら、同じような愛を抱きつづけられるかどうかわからない。
動物(というか人間以外のもの)と人間が恋する話の場合、往々にしてそれは、魔法使いにかけられた呪いのために姿を変えられている人間であり、人間に愛されることによって、その呪いが解けて彼らの姿は人間に戻る。魔法がとけて、物語の最後に犬や蛙や野獣が人間の姿に戻れば、ラストは人間どうしの結婚というハッピ-エンドで幕を下ろすことができる。人間が人間以外のものと愛しあうグロテスクさや異様さは、一応消える。
だが観客や読者は、そのラストが見たいだけで、そのような物語を見るのだろうか。ラストはさておき、そこに至る過程の中で、動物と人間との恋や共生の楽しさや美しさを見ることの喜びも、もしかしたらありはしないか。
歌舞伎「摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうつじ)」の玉手御前は、結婚後、先妻の子である若い息子の俊徳丸に恋をして関係を迫る。継母の邪恋に当惑し拒絶する青年に毒酒を飲ませて姿かたちを変えてまで自分のものにしようとし、抗議する青年の婚約者の姫を逆に罵り打擲(ちょうちゃく)する。あまりのことに見かねた老父の合邦は、我と我が娘を刃(やいば)にかける。と、玉手は苦しい息の下から俊徳丸への恋は、御家騒動の悪だくらみから彼を守るための芝居だったこと、寅年生まれの自分の血を浴びせれば青年の病は癒えることなどを告げ、実は彼女は貞女の鑑であったことがわかって、老父や俊徳丸や姫君が感謝し詫びる中、玉手は息をひきとる。
一見、極悪人と見えた人物が死に際してすべてを告白して、善人だったことがわかるというこのような場面は「モドリ」と名がつくほどパタ-ン化して、歌舞伎にしばしば登場する。だが「(玉手の本心は)割ってはならぬ底で、玉手御前の義子への恋は、真の恋らしく演じるのが正しい」「俊徳丸に摺り寄ってのクドキは、何度もいうように、真の恋として演じるべきである」(東京創元社『名作歌舞伎全集』第四巻 戸板康二氏解説)「しかし、玉手御前が、自分より一つ二つ年下の、美しく凛々しい若殿・俊徳丸にしかける恋の、『いつわり』というにはなんと切なく、もの狂おしいことでしょうか」「それは、タテマエのうらに、蛇(くちなわ)の舌のようにちろちろと仄(ほの)見えるホンネなのです。観客はそのホンネの物すさまじい嵐にまきこまれ、目もくらむここちがして、しばしタテマエを忘れます」(新潮文庫 田辺聖子『文車(ふぐるま)日記 -私の古典散歩-』中、「玉手の恋 -摂州合邦辻-」)などの記述にも見るように、またモドリの場面すべてに共通するように、この場面の玉手の、老父に刺される前、恋に狂って、若い息子の婚約者を突き飛ばして息子を奪おうとする演技は、「実はお家のっとりを企む悪人たちをだますための計略だ」などという伏線を一切無視して、全力で本気で演じなくてはならない。
玉手 ヤア、恋路の闇に迷うたこの身、道も法も聞く耳持たぬ、モウこの上は俊徳様、何処(どこ)なりとも連れ退(の)いて、恋の一念通さで置こうか、邪魔しやったら赦(ゆる)さぬぞ。
〔飛びかかって俊徳の、御手(おんて)を取って引き立つる。「アラ穢(けが)らわし」と(俊徳丸が)振り切るを、(玉手は)放さじやらじと追い廻し、支える(さえぎる)姫を突きのけ蹴のけ、怒れる眼元は薄紅梅、姿も乱るる嫉妬の形相・・・〕(下略)
観客はやはりそこでは、息子への道ならぬ恋に狂乱して、若い娘に暴力を振るう異常な(そして自分の心のどこかにも実はそれと共感する部分もあるかもしれない)女性の行動を見ることに、戦慄と快感を感じているはずなのである。(これはまったく余談だが、私はこの芝居を昔々、人形浄瑠璃で見た。玉手の人形は人間国宝級の名人が使っていた。他のお姫様の人形か何かがかきくどいていたりして、観客の目が皆そっちへ行っている時、ふと見ると、黒い衣装の玉手の人形が舞台の端に一人ひっそり座ったまま、興奮を抑えかねているように丸い両方の肩をゆっくりと、それとわからぬほどかすかに上下させて息をはずませていたのを忘れない。)
人間と結ばれる人間以外のものが、ラストで一応人間の姿になるのも、それと似たところがありはしないだろうか。そうしなければ異常な話になってしまうから、そういうラストでしめくくりはするのだが、結局、話の大部分で語られるのは、人間以外のものと人間の愛という異様な世界なのである。そのこと自体の魅力がまったくなかったら、やはりそういう話自体が、語り伝えられないし、生き残らないのではないだろうか。
ただ、このへんのかねあいは、実際に作品を作る時には難しい。たとえば、そういう話の典型の一つといっていい「美女と野獣」(原作はボ-モン夫人)だが、ディズニ-のアニメ映画(これ自体がまた、原作とはかなりちがった内容になっている)を見た私の友人たちの何人かが、「最後に人間の王子になるけれど、野獣の時の方がよっぽどカッコよかった」と言った。私の友人たちが別に特殊でないことは、ディズニ-トレジャ-文庫『美女と野獣(映画化)』のあとがき「人は愛するために生まれる」で、宮本亜門が次のようにほぼ同様のことを述べているのでもわかる。
そういえば、私の友人は、野獣が王子に変身したときの表情が好きではないとブツ ブツ言っていた。「野獣のままのほうが可愛かったわ」と彼女は言うのである。人は 勝手なものである。
たしかにアニメ映画の画面では、動物アニメを多数作ってきたディズニ-映画の伝統にふさわしく、野獣は野性的な優雅さを持ち、不気味さと愛らしさがあいまって、なまじな人間では対抗できないほどに、いかにも魅力的である。
だが、先日、劇団四季のミュ-ジカル「美女と野獣」を見たのだが、ここでは、野獣のメ-キャップは決して美しくはなく、野獣の姿そのものに魅力を感じる観客はいないだろうと思われた。これがどれだけアメリカの演出を踏襲しているのかはわからないが、ラストで人間の王子になる男優がひきたつようにしようという配慮もあるのだろう。帰り道、私の後を歩いていた、彼自身も結構カッコいい男性が「あの王子、めっちゃ男前やん」と感心したように連れの女性に言っていたように、見栄えのする役者たちを使っていることもあって、この演出は確かに成功しており、劇の最後の感動を強く素直なものにする。劇の大半で醜いだけの野獣を見ることになるのは、ちょっともったいない気もするが、その分ラストの感動が強烈になる効果も否めない。
劇団四季のパンフレットでも、ヒロインのベルは、「外見だけでなく、本質を見抜ける女性」であることが強調されている。もともと原作にはなかった、本好きで村の共同体からはやや疎外された存在というベルの設定も、これにふさわしい(ただし、ボ-モン夫人の原作でもベルは、いってみれば普通の女性・・・というか、平凡な俗物である二人の姉と違って、高価な品物ではなく薔薇の花を父に土産に頼んだり、野獣との契約を父が告げても姉たちのように泣き叫ばないで冷静に対応するなど、ディズニ-アニメの設定の基本となるような性格を有してはいるが)。つまり彼女は、野獣の恐ろしい外見を理性の力で無視することができたのである。それを見た時の恐怖を、野獣の内面を理解することによって、消すことができたのである。
だが、本当のところ(というのも変な話だが)はどうなのだろう?ベルは野獣の姿そのものに惹かれることはまったくなかったのだろうか。その前足の爪が素敵とか、耳まで裂けた口からのぞく牙が可愛らしいとか、獣の匂いがセクシ-だとか、ちらっと思ったりすることが?
私は幼い時、この話を子ども向きの本で読んだ。挿絵の野獣は、耳のとんがった目の鋭い、蹄(ひずめ)のある足をした半裸の悪魔の姿だった。けれども今思い出すと、私はその姿が結構好きだった。最後に王子になった時の絵があったかどうか覚えていない。あった可能性は高いから、結局、印象に残っていないのだろう。ついでに言うと、ベルの姿もあまりはっきり覚えていない。
5 カジモドの魅力
「美女と野獣」もそうだが、この数年間、映画や演劇で「ノ-トルダムの鐘」(原作はユゴ-「ノ-トルダム・ド・パリ」)「オペラ座の怪人」などと、醜い外見、異様な姿を持つ者との愛をテ-マとした作品が多くとりあげられているように思う。これは、「男は外見など問題ではない」という昔ながらの考え方の復活なのか、反対に「男も外見は気になるのだ」という告白の一種なのか、私にはまだ判断できない。先に引用した「美女と野獣」のあとがきで、宮本亜門が、
もしこれが、『美男と野獣』であったらどうなのであろうか。美男はその獣(女性 )に恋することが出来るのであろうか。いや、どうも美男とメスの野獣という設定は 我々にはまだ浮かびにくい。これは、女性は美しくなければ女性じゃないという、古 い女性への偏見がまだはびこっているせいなのか?
という点は私も気にならないわけではないけれど、今はその問題はおいておく。
「ノ-トルダムの鐘」などは、これまた原作とディズニ-のアニメとの間に、相当な違いがあるし、「オペラ座の怪人」も私は原作を読んでいないのでやや問題はあるのだが、ともに恐ろしい外見を持つ者の切ない愛がテ-マとなっている。「ノ-トルダムの鐘」の原作ではヒロインのエスメラルダは、アニメのように自分の運命を切り開く力は持っていない。物語全体として圧倒的に印象を残すのは、超異様な外見のノ-トルダム寺院の鐘つき男カジモドである。
この話の中で、カジモドと深い愛憎の関係にあるのは、エスメラルダよりはむしろパリの市民たちであろう。彼らはカジモドを翻弄し嘲弄し、また英雄として称賛する。だが、その時に彼らが嫌悪しつつもてはやすのは、カジモドの奇怪な外見であり醜悪な容貌である。
四面体の鼻、蹄鉄そっくりな口、もじゃもじゃした褐色の眉毛で塞がれた小さな左 の眼、右の眼はといえば、馬鹿でかい疣(いぼ)にすっかり隠されてしまっていて見 えない。まるで要塞の銃眼みたいにあちこちぶち欠けては、でこぼこに並んでいる歯 並、このうちの一本は象牙そこのけといったかっこうで、胼胝(たこ)だらけの脣( くちびる)にぐっと喰込んでいる。又形の頤(おとがい)、わけても顔一面に広がっ た、人が悪そうで、びっくりしたようで、それでいて何だか悲しそうな表情、こうい ったこの世のものならぬ御面相を、読者諸兄にお伝えしようとしても、所詮は甲斐な きわざに終るであろう。(略)
誰一人として拍手喝采しない者はなかった。
更に、ユゴ-が長い描写で説明するように、カジモドには(聴覚障害となってまでも)鐘をつく巧みさがあり、寺院の壁を素早く昇り降りする人間離れした能力がある。彼がその素早さで、火あぶりになるはずのエスメラルダを救って寺院の中へ運んで行く時、彼は民衆の寵児となる。
また群衆は、熱狂して足を踏み鳴らした。というのは、そのときのカジモドの姿は 実に美しかったからである。まさに彼は美しかったのだ。孤児であり、捨児であり、 人間の屑でもあるこの男が、堂々として強者の風があることを自らも感じたのだ。
だがこれも、罪のない娘を救ったから、彼の姿が美しく見えたというような、単純なものではないだろう。この時でさえ、民衆が彼に喝采するのは、その醜い外見も含めた彼の魅力といってさしつかえあるまい。そして、民衆がこのように、カジモドの醜さを讃えるのは、残酷さや気まぐれだけなのだろうか。人間の中には、このような異様さに魅力を感じる性質がどこかに含まれているのではないのだろうか。そのような感覚は、果して常に不自然で病的と言えるだろうか。
『二遊間の恋』に、こんな会話が登場する。ランディが恋人の二塁手DJに、いつゲイであることに気づいたかを質問するくだりである。
「最初経験したのは?」
「十五歳だった。グレイハウンド・バスの駅で、船員に声をかけられた」
「そうか」
「これが人生だ。受け入れるしかない」
「後悔しているか?」
「どういう意味だ――後悔というのは?」
「つまり、そうできたら、ストレ-トのほうがよかったと思うか?」
DJは首をふった。
「なぜだ?」
「女と寝なくてはならなくなる」
ふたりは笑いだし、その笑いがおさまり、それに変わってしだいに深い悲しみにと らえられ、あらためて午後が終ろうとしていることに気づいた。もうすぐ、ベッドを 出て、着替えをして、ヴァイキング・スタジアムに駆けつけ、現実の世界にもどらな くてはならない。(略)
幼い頃からゲイとして生きてきた二塁手の黒人選手DJは、恋する相手が「男だけれども好き」なのではない。「男だから好き」なのである。「いつかテディ・ベアを」の主人公が、人間の女性が姿を変えられているのではない、本当のぬいぐるみのクマが好きなのと同じように。
もう一度くりかえすが、「愛してしまった人が、たまたま男性だった(黒人だった、白人だった、人妻だった、売春婦だった、障害者だった)」という言い方は、人を納得させるし、同情や共感をかいやすい。そして、もちろんそういう場合もたくさんあるだろう。しかし、中には、たとえば「私は黒人が好きである。何故なら慣れ親しんでいるから。自堕落でやさしくて感情を優先させる自意識の強過ぎる、そして愛に貪欲な彼らが大好きである」(角川文庫 山田詠美『-ソウル・ミュ-ジック-ラバ-ズ・オンリ-』 作者あとがき)のように、相手が黒人だったから魅力を感じたとか、人妻だったから好きになったとか、頭が二つあるのが気に入ったとか、足がないのがとても素敵だったとか、寝たきりだからいいのだとかいうことだってあり得るのではないだろうか。それは差別と紙一重かもしれないが、しかしそもそも、何かを愛するということは、その相手の持つさまざまな属性を好きになることでもあり、差別の対象になる特徴は、そのまま別の人にとっては魅力のある特徴になり得る要素を持っている。
人間が何かを愛する理由はさまざまである。そして、私が今あげたようなさまざまな点は、好みとか嗜好の類に属することであって、哲学的精神的な「愛」とはやや違うという人がいるかもしれないが、その意見には私は反対である。この種の嗜好と、人の精神的な面、哲学的な面、倫理観や道徳や知性と結合した愛とは、決して対極にあるものではないし、別々のものでもない。両者は深く関係しあっている。
よりにもよって、自分はなぜ、こんなにも、テディ・ベアが好きなのか。黒人が好きなのか。幼児が好きなのか。それを恐れず見つめること。同じ嗜好を持つ人にも、持たない人にも、納得し理解してもらえるように、きちんと言葉で説明すること。そのことは、文学作品の持つ意味、果たす役割の中で、かなり大きな部分を占める。そのことを語るために、ほとんどの文学作品は存在すると言ってさえいいかもしれない。
6 附記
以下は、余談と言えば余談だが・・・やや危険なのは、たとえば「頭の二つある人をとにかく好きなのだ」という感覚が存在することを認めてしまえば、その逆の「頭の二つある人をとにかく嫌いなのだ」という感覚が存在することも容認しなければならなくなるという点だ。
しかし、それでも私は、このような感覚があることを認めた方がいいと思う。ここで言う好きとか嫌いとかは、ごく個人的な愛の対象という意味のことであって、友人や隣人として共生していく次元のこととは別である。そして、私はさまざまな点で周囲の人と違った相手と愛を営んでいる人に対し、「あの人も本当は私たちと同じ人を愛したかったんだろうけれど、たまたま愛してしまった人がああいう人だったからしかたがないのだ」と納得してその愛を容認するしか容認の方法を知らないというのは、非常に失礼だし傲慢だと思う。私自身が自分の愛をそのようにいつも解釈されていたら、さぞかしうっとうしく、腹が立つだろう。「私が自分の相手を好きなのと同じように、あの人にとってはあの相手が最高なのかもしれない」という可能性を、考えておくべきだと思う。(あくまで可能性である。ほんとにしつこくくりかえすが、「たまたま愛した人が・・・」の場合だって、決して少なくはないのだから。そのどっちかは当人にしかわからない。もしかしたら当人にもわからないだろう。要するに、人が人を愛するなどということは、大変個人的な問題で、他人が知ったことではないのである。)
ところで、ひとつ問題なのは、動物あるいは人間以外の生物との愛を描いた文学が、どの程度、人間どうしの禁断の恋の象徴として描かれたのか、あるいはそのような人間以外の生物との愛そのものへの欲求の表現として書かれたのかということである。だが、これについては、動物の文学における寓話化の問題として、別の機会にとりあげることとしたい。