動物と文学「野生とは」その3-飼いならす文学
目次
1 服従する喜び
『名犬ラッド』(岩波少年文庫)で、作者タ-ヒュ-ンはしばしば、次のように述べている。
だれでも、犬を買う金さえあれば、犬のもち主にはなることができる。けれども、いくら金を出し、食物を与え、犬をならすことがじょうずでも、犬の同意がなければ犬の主人にはなれない。読者諸君にこの区別がおわかりだろうか。犬が、一度、無条件に主人と仰いだ人間は、永久にその犬のあがめる神となるのである。
かつて、犬のしつけ教室を見た時、尻尾が私の腕ほどもある大きなシェパ-ドを命令一下、自由自在に立たせたり座らせたり歩かせたりしていた小柄な女性指導員は、私たちにこう説明した。「犬は人間に服従して信頼しているのが幸福なんです。飼い主を信頼できない犬は、自分が一家の主人だと思っている。だから人が来たら敵かもしれないから吠えなきゃいけないし、四六時中警戒して緊張しているから、心が休まる時がないんです。皆さん方でも、人の上に立つとそれだけストレスがたまるのと同じです。この犬は今私を信頼して、私の命令さえ聞いていればいいとわかっているから、気が楽だし、何も心配しないでのんびりしていられるんです。だから、やさしい顔をしているでしょう?」。本当に彼女の足元に寝そべった組み合わせた前足の上に大きな顎をのせているその犬の黄色みがかった眼は、穏やかな休らいだ表情に見えた。信頼できる存在を持ち、その人の顔色だけに一喜一憂していれば他のことは気にしなくていい、服従することの喜び。帰り道、その犬の顔を思い出していると、昔読んだ岩波新書『アラビアのロレンス』(中野好夫)の中にあった、ロレンスが記した一節が浮かんできた。
ただ命令のままに服従すること、それは思惟(しゆい)の経済であり(中略)吾々をして苦痛なしに活動を忘却させるものである。私を使役すべき上長者を見出さなかつたことが、私の一つの敗北だった。すべての人間が、無能からか、怯懦からか、それとも好んでさうしたのか、私に対して余りにも自由手腕を許してくれた、まるで我から進んで奴隷たることこそ、却って病める魂の誇りであり、身代りに受ける苦痛は却って最大の喜びであることに気づかないかの如くに。
(T・E・ロレンス『知恵の七柱』百三章「自己」-岩波新書『アラビアのロレンス』(中野好夫著)より引用-)
T・E・ロレンスは考古学者で文学者であっただけではなく、戦士としても人より優れた能力と克己力を備えていた。しかも、軍隊や組織を激しく嫌悪し、異郷である砂漠と、そこに住む人々を愛した。また、政治的駆け引きにおいても卓抜した能力を発揮した。無力な知識人ではなく、朴訥なだけの戦士でもなく、単に文明に疲れて未開の地に憧れた旅人でもない。理想にも現実にも、文明にも野性にも、たやすく傾倒することなく、ましてや、およそ尊敬する上司など持たなかったはずの彼にしてなお、このような発言をしているのを見ると(まあ、誰にも支配される心配がなくなったから、余裕ができて贅沢な悩みを言えるようになったってことも言えるだろうけれど)、あらためて「自らの思考を放棄して何者かに服従すること」の快感と魅力を思う。ちなみに、私がそんな欲望を持つ気になれない主な理由は、私に限らず誰にでも、そんなに全身で服従された相手はたまらんだろうと思うからだ。神様ならとにかく、人間にそんな十字架を負わせるものではない。そもそも、私が無神論者なのは、神様にだって、そんな負担はさせたら気の毒じゃないかという気持ちがどっかにあるからなのだと思う。もちろん、他人に服従されるのが苦にならないような程度の人間になんか、服従するのは願い下げだし。
とはいうものの、人間と生まれた以上は、何らかの上下の信頼関係、たとえば師弟関係や、親子関係、主従関係をまったく避けて通るわけには行かない。動物の親だって子どもにはきちんとしつけをする。ラッドが母親レイディにわがままいっぱいに育てられた自分の息子のウルフを、レイディが病気になって入院している間、教育する場面は、犬ながら大変立派である。タ-ヒュ-ンは書いている。
時間、忍耐、決意、知恵、気分の抑制、温和さ、――この六つが、子犬をしこむのに絶対に必要な条件である。このうちの三つをもち合わせている人があったら、その人は幸福な人である。ラッドは、犬だったので、この六つの条件を全部、十分に備えていた。
そして、ラッドの一貫した厳しさと優しさは、やがて甘やかされてわがままだった子犬のウルフの心にもしみこんで行く。
ウルフは、レイディがすきだったが、それよりもっと、この父親がすきになった。ラッドの訓練と、きびしいところのあるやさしさは、ウルフの行いばかりでなく、その心もちにも影響を与えたからだ。そのやりかたは、かわいがって、めんどうをみるかとおもうと、たちまちかんしゃくを起こすむら気のレイディの影響よりふかく、子犬の心にしみこんだ。
2 指導者への愛
犬の例から連想しては悪いかもしれないけれど、こういう、厳しいけれど本当に信頼し尊敬できる指導者に対する、深い愛情は人間にも当然生まれる。直接日常的に指導をうけているのでなくても、その能力や人柄に深く傾倒している場合には同様のことは起こる。時にそういう感情は、恋愛以上に激しいものとなることもある。その人から冷たく無視されたら悲しくて、にっこり笑いかけてもらえたらうれしくて、ばったり倒れて死んでしまいそうになるというような感情を、尊敬できる目上の人に対して抱くことは、一昔や二昔前なら決してそう珍しいことではなかった。少なくとも文学作品には、しばしば登場していたように思う。下村湖人『次郎物語』第三部(角川文庫)で、主人公の次郎が、中学校(今の高等学校)で師事した朝倉先生への感情などは、その典型の一つと言えよう。
朝倉先生には、室崎との事件以来、めったに会ったことがない。言葉を交す機会など、まるでなかった。それでも、彼の心に生きている先生は、いつも新鮮だった。たまたま廊下などですれちがったりすると、彼は処女のように、顔をあからめて敬礼した。先生は、それに対して、ただうなずくだけだったが、その微笑をふくんで澄みきっている眼が、何かとくべつの意味をもって彼を見ているように彼には感じられるのだった。彼が学校にいるかぎり、彼の意識の底には、いつもその眼があり、古ぼけた校舎もそれで光っていたし、彼の教室に出て来る凡庸な先生たちにも、それでいくらか我慢が出来ていたのである。
また、ジイドの『贋金つくり』(新潮文庫)は、繊細な少年たちが、尊敬できる知識人の年長の男性に対して抱く強い憧憬をよく描き出している。
こんな気持から、オリヴィエは、もどかしいほどの思いで迎えに飛んで来たと言って、エドワ-ルの喜びに油をそそぐどころではなく、迎えに来た言訳けがましく、その朝ちょうどこの界隈に来なければならない用事があったものだからと、こう話しておいた方が無難であると思った。気をまわしすぎる彼の心は、エドワ-ルがおそらく自分の来たことをうるさがっているのだろうと、そんな風に決めてしまうことに慣れていた。(略)オリヴィエの方では、自分のことを喋って、エドワ-ルに退屈がられたり、誤解されたりするのがこわかったので黙っていた。(略)その間にも、オリヴィエはエドワ-ルにむかって何も話すことがないので、情けなくなってしまった。
「コンドルセ中学校の前まで来たら、『もう家へ帰らなければなりません。さようなら』ということにしよう」と彼は心の中で何度もくり返していた。それが中学校の前まで来ると、成りゆきにまかせてプロヴァンス街の角までとなってしまう。(略)
これではまるで恋愛ではないか、と感じる人もいるだろう。省略した部分を読むとわかるが、相手の青年エドワ-ルもオリヴィエの好意を得たいと願って、気をつかっているため、一層その感じが強い。もともとジイドの作品には、同性愛的傾向が見えることがよくある。しかし、尊敬できる先生や指導者の前に出た時の緊張と興奮は、現代でも、このオリヴィエの心情とそんなに変わりはないのではないだろうか。
これらの場合は、相手の優れた能力や人格に対して、目下の者が一方的にはじめから抱く感情である。オルコット『若草物語』の四人姉妹たちが、父と母を神のように愛し信頼して、両親に導かれながら反省し成長していくのも、それと似た関係であると言っていいだろう。
だが、最初は反発し抵抗していた若者が、次第に目上の者の生き方に感銘を受け、影響され、強い尊敬や信頼に変わっていく例もまた少なくない。山本周五郎『赤ひげ診療譚』(新潮文庫)で、エリ-ト青年の保本登が、貧しい人々を対象とする診療所の型破りな医者新出去定に心服するようになる過程なども、その一つだろう。
狂女の出来事のあとでも、登の態度は変らなかった。どうしても見習医になる気持はなかったし、まだその施療所から出るつもりで、父に手紙をやったりした。けれども、心の奥のほうでは変化が起こっていたらしい。彼は赤髯に屈服したのである。狂女おゆみの手から危く救いだしてくれたこと、――それはまったく危い瞬間のこと であったし、人に知られたら弁解しようのない、けがらわしく恥かしいことであったが――それを誰にも知れないように始末してくれた点で、彼は大きな負債を赤髯に負ったわけであった。おかしなはなしだが、そのとき登は一種の安らぎを感じた。赤髯に負債を負ったことで、赤髯と自分との垣が除かれ、眼に見えないところで親しくむすびついたようにさえ思えたのだ。
この小説は黒沢明が「赤ひげ」の題名で映画化している。ちなみに黒沢監督は、このような、若者が心から信仰にも似た思いで敬愛する偉大な(一見そうは見えないが実はそうであるという場合も含めて)年長者を描くのが非常に好きだし、うまい。「七人の侍」しかり、「野良犬」しかり、「椿三十郎」しかり、私は全部見ていないから他にももっとあるかもしれない。そのような存在がやや弱くなった「デルス・ウザ-ラ」、そのような存在が消失したり崩壊したりした「影武者」や「乱」(「リア王」の翻案である)には、そういう意味での凄い切実さがあるが、それが作品としての鬼気や迫力を生むまでには至っていないのは、まだその消失や崩壊を黒沢監督が充分見つめきれていないからだろうか。
3 指導者冥利
エドワ-ルは少し違うとしても、朝倉先生や新出去定が、次郎や登を教育し自分の影響下におくことに、快感、といって悪ければ教育者としての喜びを感じていたという様子は特にない。あって悪いということではない。たしかに私は最初に、他人に信頼され崇拝されることへの気持ちの負担について語った。しかし、そういう負担に耐えて人の崇拝の対象でいつづけることのできる度量も、特に教育者には必要だろうし、更にはそうやって他人に影響を与えて変化させていくことで、自分の力を実感する喜びだって、あって悪くはない。そのような喜びに対して、あまりに禁欲的になってばかりいては、すべての教育は否定され、人類の発展はないだろう。人間関係そのものも稀薄になっていくだろう。
それで、喜びに満ちて人を教育し成長させている文章をここで紹介しようと思ったのだが、これがなかなか見つからない。言っておくけど、昔はごまんとあったのである。廊下を歩いていたら蹴飛ばすぐらい、そんじょそこらに転がっていた。何しろ私は、中学校の図書室で、ぐれていた生徒をやさしくしたり、ぶんなぐって厳しくしたり、あの手この手を使って改心させたというような、先生たちの成功談を書いた話をしょっちゅう目にしたものだから、その手の話にうんざりし、私は絶対改心なんかしないぞ、人にさせられるような改心なら、その前に自分で全部しといてやるわいと決心してしまったぐらいなのである。それでもう、日夜自分の欠点をさがし、直すべきところは皆直し、直せないところについては、ちゃんと点検して、いつ不意をつかれて誰かから、おまえにはこれこれこんな欠点があると言われても、そんなことは承知しておりますと言えるようになっておこうと心がけた。さぞかし嫌な生徒だったろうと思うし、そんな自分が教師になっているのは、自分が教師になれば少なくともこの世から自分以外の(したがって肉眼で自分に見える)教師が一人減るだろうと考えた以外の理由を思い出せない。
アメリカや日本の軍隊映画にしても、男の子の野球漫画、女の子のバレエ(踊りの方も球技の方も)漫画にしても、すべてスパルタ式の根性物が花盛りだった。殴ったり蹴っ飛ばしたりした上官や教官を最後には愛するようにならないと、人間らしくないと言わんばかりの作品のオンパレ-ドだった。本当にあんなにたくさんあったあの種の話は、この三十年間に皆どこに消えたのだろう?あんまり消えすぎたのも不気味な気がする。そのうちまたどこかから、わらわら現れるんではあるまいかと。
4 「言うことを聞けば、楽になる」
そういう作品の全部では決してないが、ある一部には、たとえば手のつけられない不良をぶったり蹴ったりして屈伏させながら言うことを聞かせ、やがて心から服従させていくといった教育談の中には、エロチックな要素がたしかにあったと私は思う。暴力や心理的なかけひきで、人をうちのめして自分の望むままに変えていくという点では。そして、そういう要素は、今では極めて正直なかたちで、つまりポルノ小説や映画の「飼育・調教もの」というジャンルになって残っている。何と言っても基本的には、レイプとアナルセックスとフェラチオと鞭打ちと浣腸とオナニ-とレスビアンといった、限られた数の要素をとっかえひっかえして独自性を出さねばならない分野だから、飼育や調教という、人間の多くがある種の快感を感じる設定は、使えば効果があるはずである。
サドのノ-ト風メモである『ソドム百二十日』をもとに、パゾリ-ニが緻密な構成の映画に仕上げた「ソドムの市」は、犠牲となる少年少女の中心メンバ-は最後まで苦痛のみを感じて決して飼育されきっていないところに、救いというか爽やかさというか(とてもそうは言えない映画だが、まあ強いて言えば)あるが、中には加害者の望み通りの成長をとげる少年もいるように、監督の計算は行き届いている。そして、この映画の注目すべきところは、実際の暴力行為以上に、中年女性四人によって毎晩語られる猥褻で恐ろしい話の数々が果たす大きな役割である。映画の中の少年少女も、私たち観客も、この女性たちが語ることばの力で犯される。もっと粗雑な作品の中でも、卑猥なことばの数々によって犠牲者が変化させられる設定のものはよくあるが、「ソドムの市」はその最も洗練された形式の一つであるといっていい。
そのような、飼育・調教もので使われる言葉の中でも、もはや定番といってもいいほどなのが、「ほら、気持ちよくなっただろう。もっと早くいうことを聞いていれば楽になっていたのに」という種の台詞である。「今度はそれほど痛まなかっただろう、どうだね、ドリ-?」「なあに、すぐ慣れてしまうさ、そしたら君もこれが好きになるんだよ」(作者不詳『ドリ-・モ-トンの想い出』 ロマン文庫)、「これでお前の苦しみは終わったのだ」「わたしの愛撫は激しかったが、それがお前に与えた苦痛を償ってあまりあるような快楽の味を、すぐにお前も識るようになるだろう」(作者不詳『好色なトルコ人』 ロマン文庫)、「大分素直になったようだな、大家の令夫人らしく、往生ぎわはきれいにすることだ」(団鬼六『花と蛇』 富士見文庫)エトセトラ、エトセトラ。
人が自分の守り、こだわってきたものを捨て、新しい何かに身をまかせることを示唆する、この種の台詞の数々に、なぜ多くの人が興奮し反応する(と思われている)のか。それは、真摯な教育者の体験談や、『若草物語』の明るさ、『赤ひげ診療譚』の清々しさ、アラビアのロレンスの述懐など、一見かけはなれた世界の数々とどこかで共通する、人間の心のある部分を刺激する何かに確かにかかわっている。
5 教育される不幸
ともあれ、その種の作品が少ない今、やや古いところで探すと、デフォ-の『ロビンソン・クル-ソ-』はそうであろう。孤島に漂着したイギリス人のロビンソンは、長い孤独の後に、たまたま助けた原住民のフライデ-を、文明人に生まれ変わらせようとして、教育する。
私は彼に、その辺に散らばっている頭蓋骨や、骨や、肉などを一山に集めさせて、その上に火を焚いて、凡てを灰にさせた。フライデ-はまだ人食い人種であることに変りなく、その肉を食べたがっていた。併し私は、彼が少しでもそういう気持を表わすと、ひどく怒って見せたので、彼は何も出来ずにいた。私は彼が若しそういうことをしたら、彼を殺してしまうということを彼に解らせたのだった。
ロビンソンの態度には、美しい野獣を飼いならすようなところが見え、現代から見ると白人の傲慢さも目につくが、もともと教育ということの中には、こういう要素があると言えば言える。そして、白人なり、男性なり、大人なり、その文学作品を鑑賞する層において圧倒的に多数である人々の嗜好に合致するように文学作品は書かれるから、「動物を調教する人間」「野蛮人を教育する文明人」と同様に、文学によく登場するのは「女を教育する男」であり、「子どもを教育する大人」であり、あるいはその合体である。映画「マイ・フェア・レディ」のもととなっているバ-ナ-ド・ショウの『ピグマリオン』(それにしても『ティファニ-で朝食を』もそうだが、どうして、ヘプパ-ン主演の映画のラストは原作と違って、いつも大甘に甘くなってしまうのだろう。「緑の館」の映画でラストにちゃんと彼女が焼き殺されたのなんか、考えて見れば勇気ある原作尊重である)、シェイクスピアの戯曲『じゃじゃ馬馴らし』、『源氏物語』の光源氏と紫上など、いずれもそれと言ってよい。ただ、これらの作品では往々にして、教育する方の思うままの理想的な人物に改造されたはずの女性たちが、そうやって成長することによって、教育者以上に豊かな深い存在となり、もはや教育者たちのコントロ-ルできない悲しみや愛を抱いて独自の生き方を始めるのだが。
そういう意味では、光源氏も『ピグマリオン』の言語学者も、理想的な女性を作ろうとしたことは、自分自身にも、その女性にも決して単純な幸福をもたらしはしなかった。教育者の能力が優れ、教育する対象が素材として卓越していても、いや、むしろ、そうであるがゆえに、人を教育し成長させるということは、その対象となった相手に悲しみや虚しさ、欲求やそれがかなわない絶望、自己を認識することの苦しさなどを与えることなのであり、不幸をもたらす場合も少なくないのである。
6 「白い犬」
教育ということには常に、この種の危険と恐怖がつきまとう。ロマン・ギャリの『白い犬』(角川文庫)などは、その極端な一例だろう。
主人公で語り手である「わたし」の家の飼い犬が、ある雨の日に、迷子になっていたらしい一匹のシェパ-ド犬を家に連れて来る。「半白のシェパ-ドで、六、七歳ぐらいの年齢だった。力に溢れ、聡明な印象を与えるみごとな犬である」。しかし、首輪をつけていない。「そいつは尾を振り、耳を立て、鋭く目を輝かせて、何か親しげな仕種か命令でも待っている犬がするように、注意深い態度をみせていた」。明らかに家の中に招き入れられることを待ち受けているのがわかって、「わたし」は犬を家に入れてやる。犬はバ-ティカと名づけられ、皆に愛される。強くて大きいが、「わたし」が飼っている猫たちにも優しく、訪問客にもおとなしく礼儀正しい。彼は家族や友人知人の人気者になる。
ところが、やがて、「わたし」は、この犬が黒人の郵便配達夫や、プ-ルを修理に来た従業員に対しては獰猛に襲いかかろうとするのに気づく。そして、このシェパ-ドは、黒人を差別する白人たちによって、黒人だけを襲ってかみ殺すように訓練された「白い犬」(毛色ではなく、そのような性質からの呼び名である)であることを知る。彼は知人の動物園に犬を連れて行き、年をとっているから無理かもしれないと言われるが、何とか矯正してほしいと頼んで犬を預ける。犬はなぜ閉じ込められているのか、不思議そうで、会いに行くたびに「わたし」の心は痛む。ところが、やがて、動物園の助手をしていた黒人の青年が犬の矯正を引き受け、粘り強い調教の結果、黒人を襲わないようにすることに成功する。
だが、この青年はもっと進んだ計画を持っていた。彼は「わたし」をしばらく犬から遠ざけておいて、その間に更に訓練を行い、前とは逆に白人を見たら襲う犬にバ-ティカをしつけ直すのである。犬は白人を襲うが、「わたし」を見た時に混乱し、そのまま狂ったように走り去って、「わたし」の妻の腕の中で死ぬ。
それほど有名な話ではない。虚構と現実の入り交じった語り口(作者の妻は映画俳優のジ-ン・セバ-グであり、他にも多くの人が実名で登場している)も必ずしも充分に成功しているとは言えない。しかし、主人に忠実で命令に従うことを生き甲斐とする、犬という動物の性質を考えると、この話は本当に切ない。
一瞬のうちに、犬はおどりかかってきた。わたしは手首を咬みつかれ、後方に転がった。首筋が壁にぶつかった・・・
わたしは頭を低くし、拳を前に突き出して、待っていた・・・
何も起こらなかった。
わたしは頭をあげた。
顔のすぐ前にわたしの母の目、忠実な犬の目が見えた。
バ-ティカはわたしを見つめていた。
戦いに倒れた戦友たちが、わたしのかたわらで死にかけている姿が思い浮かんだ。けれどもわたしは今後、絶望と、不可解さと、苦しみの表情がどのようなものになり得るか思い出したい場合、このときの犬の視線にそれをさぐるつもりだ。
バ-ティカは突然顔をあげ、悲痛な、暗い悲しみの叫びをあげた。
一瞬後、バ-ティカは外に出ていた。
これを読む人の多くはまた、人間の世界における、宗教的集団や思想的集団の洗脳や、軍隊での戦闘訓練、国家や民族単位でのさまざまな教育を思い出すのではあるまいか。
大韓航空機を爆破した金賢姫の『いま、女として』(文春文庫)をはじめとするいくつかの著作など、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の思想教育について書かれた本が最近多く出ている。読んで、考えさせられることは多い。しかし、これらの本を読んで「何と言う恐ろしい国だろう。日本に生まれてよかった」と考えるのは正しくないと思う。かたちや程度は違っても、私たちもまた、ひとつの国家、ひとつの文化の中にいて、その国や社会の教育を受け、それと気づかずにその影響をうけた、ものの見方、考え方をしているということを自覚するためにこそ、これらの本は読むべきだろう。
7 見抜くということ
さきほど、年長者や目上の人が、反抗的な若者を調教して更生させるといった文学が、現代では見つけにくくなっていると述べた。だが実は、それにかわって増えてきているのは、いわゆるカウンセリングものである。暴力や叱咤でもって相手を圧倒するのではなくて、病気を治療するように、相手の心理を解明し、立ち直るヒントをともに探るといった存在のカウンセラ-たちが、昔の教育者たちのような役割を作品の中で果している。対象との関係はク-ルだし、不必要な干渉はしないし、相手を激しく傷つけることはない。
しかし、私は、対象の心を把握し支配して、一定の方向に導くという点では、カウンセリングには、その昔の熱血教師の教育と共通するものは多いと感じている。少なくとも、その作業によって、カウンセラ-が味わうある種の陶酔は、教育者に似ているだろうし、人を支配するということに対する喜びでは同じ危険な要素を持つと思う。
私はそのことを責めるのではない。むしろ、そのような陶酔や快感があることを自覚していないカウンセラ-の方が危険だし、本当にそういう熱っぽい感情をまったく感じることのないカウンセラ-だったら、これまた別の意味で危険だろうと思う。自分が傷つくことを避け、対象と深く関わることを簡単に守れるカウンセラ-は、本当によっぽど優れた能力を持っているのでなかったら、結局は、悪い意味での職人風の、子どもにレッテルを貼って決まりきった処置をし、それで予想通りの反応が出たことに満足する、人間をなめた教育者と同様のものになってしまうだろう。
カウンセラ-と教育者が共通する点を持つと、私が感じる一つは、対象の心理や状況を「見抜く」ことの重要さである。その対象は(というかほとんどの人間は)大抵の場合、自分を見抜かれまいとしているから、「見抜く」ことはしばしば対象との戦いとなる。先にあげた、恋愛とも共通するほど深い敬愛や畏怖、あるいは恋愛そのものの場合でさえ、「見抜かれた」ということは、ポルノ小説でしばしば言われる(本当にそうかどうかはともかく)「いったん身体を許したら女はその男のものになる」という状況とも似た、「もうだめ、この人に私はすべてを知られてしまった」状態を呼びやすい。瞬間的、一時的なものでさえ、そのように自分の本質をずばりと指摘されることは、同様の感覚を人に持たせる。
「もし僕にそんな点があるなら改めるよ。だが僕は、ほんとうに意識してないんだ」
「じゃ、なお危険だね。君の人生には衝突や喧嘩が絶えないだろうよ」
「たっちゃん!」と彼はさけんだ。「いったい、僕にどうしろと言うのさ、それを具体的に教えて欲しいね」
「たとえば、相手がキュウリを落したときに君も落したりしないことだ」
ずばりと言った。俊三郎の頬はみるみる紅くなった。
たっちゃんは穴のあくほど彼の顔をみつめていた。
「あのやりかたには君の性格のあらゆる点が出ているよ。相馬の煮え切らない態度に飽き足りない君としては、当然のことかもしれない。俺は何もかもわかっていたんだ。俺は君らしいやりかただと思って黙っていた。しかし、それがどのくらい相手を傷けるかわからない。意識もしてないと言うなら、君はやっぱり子供だよ」(村上信彦『音高く流れぬ』第二部 三一書房)
だが、このように相手に見抜かれたからと言って、相手が自分のすべてを理解する能力を持っていると判断し、自分のすべてを相手にまかせてしまうことは、かなり危険なことでもある。カウンセラ-の人たちだって、基本的にはその時代と社会の要求するところに従い、その時点で最も力のある学説に基づいて発言し行動しているのであって、その時代や社会や学説が正しいかどうかは、誰にもわかりはしないのである。たとえば、この二三十年間の、同性愛に対する心理学者の対応の変化ひとつを見ても、そのことは明らかだろう。
8 精神科医の苦悩
そうは言っても、誰にも自分をまかせることなく、自分の判断のみを信じて生きる生き方もまた、アラビアのロレンスほどの人でさえ嘆いたように、決して楽ではない。自分の判断がまちがっていることもあり、孤立もするし、狂気も招くかもしれない。(だから、私は現実の生活では、教育もカウンセリングも否定するものではない。役に立つなら大いに利用すべきだと思う。風邪をひいたら安い風邪薬でも飲んだ方がいいし、占いやおみくじも気休めになるなら、いいところだけ信じたらいいのと同じように。両者に通ずるある不快感も、快感と紙一重というところもある。ただ、絶対的なものとして、それにとらわれるほどのものではない。元気になったら、離れて忘れるものだと思う。)
第一、そのように自分の判断基準のみをよりどころにして生きている人は、別に他人に迷惑をかけなくても、そのことだけで社会から葬られることだってあるのである・・・ということを書いたのがカミュの『異邦人』だが、この話の内容が現代でも決して古びていないことを、私はときどき、ほんとにほんとにほんとに、痛感させられる。それだけにまた、この小説の末尾に近く、死刑囚となった主人公が懺悔をすすめに来た司祭(いわば教育者、いわばカウンセラ-)を拒絶して追い返すくだりは、高校の時読んで、こんなに素晴らしい場面が本当に書かれていいのかしらと思うほど歓喜して以来、今でも強く印象に残っている。
時代はもっと新しいし、強烈さでも品格でも『異邦人』には劣るが、アラン・シリト-『長距離ランナ-の孤独』も、不良少年が教育者に教育されることなく終わる話で、同様の共感をいつも私の中に生む。
もっとも、ピ-タ-・シェ-ファ-の戯曲『エクウス』は、アイスピックで六頭の馬の目をつぶした少年の心理を精神科医が探って行くという内容なのにもかかわらず、教育やカウンセリングということへの不快感や危惧を、私に感じさせなかった。それは、私が両者に対して抱く疑問や不安の原点・・・人の内面を分析することへの嫌悪感と、治療し教育して社会復帰させるということへの不信感の二つが、主人公の精神科医ダイサ-ト(日下武史の名演)の内心の独白として的確に語られていたからに他ならない。
その夜、こんななまなましい夢を見たのです。私は古代ギリシヤの神官の長で、髭をはやした、立派な黄金の仮面をかぶっていた――アガメムノンのような。がっし りした円形の石のそばに立ち、鋭いナイフをかまえ、犠牲(いけにえ)をほうるきわ めて重要な儀式をおこなおうとしているのです、豊作や戦勝を祈るための。犠牲は大勢の子供たち―五百人ほどの少年少女です。アルゴスの平原に長い行列がのびている。アルゴスだとわかったのは赤い土の色からです。両脇には、同じく仮面をつけた介添の神官が二人立っています。ミケ-ナイ地方の仮面にも似た、ごつい、出目の仮面をかぶった、屈強な、疲れを知らぬ神官が。子供が一人づつ前に出てくると、うしろからむんずとつかみ、石の上へほうり投げる。すると私が、われながらあざやかなメスさばきで、さっとナイフで腹まで切りさく――型紙でもたつように。切り口を押しひろげ、腸を切りはなし、ぐいと引っ張りだすと、まだ熱いほやほやの内蔵がどろりと床へ流れでる。二人の神官は、象形文字でも読むかのように、腸が床に作った模様を読みとる。私はあきらかに、第一級の神官なのです、その外科的手腕のゆえに。ただ問題は、人には気づかれていないが、胸がむかついて気分が悪くなってきたことです。犠牲一人ごとに、ますますひどくなり、仮面の下で顔はあおざめてくる。もちろんプロらしく見せようと一所懸命です――せっせと裂いたり切ったりする。 二人の介添に私の苦悩を知られたら、――こんな胸くその悪い所業のくり返しが社会的になんの役にたつという私の秘かな疑念をさとられたら、次に石の上に横になるのはこの私ですものね。するとです、仮面が急にずりおちはじめました。二人はふり返り冷汗をかいた私のあおざめた顔を見ると――突然飛びだした黄金の仮面の目を血ばしらせ――私の手からナイフをもぎとると・・そこで目がさめました。
いいとも!取り除いてやろう!この子は、狂気から救われる。でも、それからどうなる?この子は、世間が自分を受け入れてくれる、と感じるようにはなるだろう。でもそれからどうなる?この子のような感情を、しっくいのように簡単につけ直すことができる、と思うのか?われわれが選んだ新しい対象にはりつけることが?ご覧、この子を!・・・この少年を、まじめな夫、実直なる市民、観念的な唯一神の信者にすることが私の望みだったかもしれない。ところがどうだ、結果はぬけがらを作ってしまっただけだ!・・・私が彼にこれからすることを、はっきり話しておきましょう! 私はあの少年の肉体の傷跡をなおしてやります。たなびくたてがみがあの子の精神に刻んだ鞭の跡も、消してやります。それが終ったら、あの子をピカピカのオ-トバイに乗せて、現代の世界に送りこむ。少年は、もう二度と馬の肉体にふれることはありますまい!私は、現代の「正常」という世界を、彼にあたえる。ただ肥らせるためだけに、動物を一生うす暗い所にとじこめて飼うことを良しとする世界を。「ヒヒ-ン」と馬がいななく野原を取りあげ、それにかわる正常な喜びの場として、大都市のはらわたを貫いて走る六車線の高速道路をやろう――もはや場所とはいえない、場所という観念さえ消失してしまった場所を。私は彼にあたえよう、肥沃な、この世の「正常」な世界を――海のあいだに横たわる大地はセメントでおおいつくされ、海そのものさえ死んでしまった世界を。(略)うまくいったところで、彼の陰部は、彼がきっと工員として送りこまれるにちがいない工場でできるプラスティック製品と同じようになるかもしれない。セックスでさえ、奇妙で隠微な不自然なものになる。おさえつけられ、人目をしのぶ、コソコソした抑制されたものに。せいぜいが官許の肉しか股に感じなくなる。しかし、私は、情熱をこめて、これに疑問を呈します!
自らも今や教育者のはしくれである私は、人を教育することに対する、この二つの恐れを自分が完全に失った時は、もはや教育者としては失格だろうなと、いつも漠然と感じている。
9 教唆と煽動
もう一人、文学作品の中で私がそんなに嫌いでないというか、読んでも気味が悪くて背筋がぞくぞくすることがないというか、もっと言うなら相当に好きと言っていい「教育者」は、シェイクスピアの戯曲『オセロ-』に登場する悪役のイアゴ-だ。もちろん彼は、高潔で勇猛な軍人オセロ-に、その相思相愛の妻で完全に貞淑なデズデモ-ナが浮気をしていると疑わせて、ついに妻を殺させてしまうという、いわばマイナス方向の教育者である。多分、世間や社会の常識や道徳に逆らい、世間の調和を乱すという彼のあまのじゃくさ(どうして彼が、こんな悪事を働くのかという動機は、この劇の中にははっきり書かれていない)と、それだけの危険を冒しているところが、許せる気持ちがするのだろう。
しばしば引用される有名なイアゴ-の台詞に、人間の性格を庭園に例え、どのようなものにするかは工夫次第だと述べるものがある。
この五体が庭だとすれば、その庭師はおのれの意志だ。だからそこにイラクサを植えようとチサの種を蒔こうと、ハッカを生やそうと麝香草を引っこ抜こうと、一種類だけ植えようと何種類でも蒔きちらそうと、ほったらかして荒れ放題にしようとせっせとこやしをやって育てようと――いいか、それを好きなようにやる力はおれたちの意志にあるんだ。
これは彼の近代性を象徴する台詞とされるが、同時に彼の教育者としての本質を示すものでもある。イアゴ-は「おのれの意志」と言っているが、言われている相手も含めて「オセロ-」の登場人物のすべては、イアゴ-のように自分自身を意識して管理したり操作したりはしなかった。結局はすべての登場人物の「庭師」となったのは、イアゴ-だったのである。彼はオセロ-をはじめとした周囲の人々すべての心理を的確に「見抜き」、思いのままに操る。この才能を別の方向に用いたら間違いなくイアゴ-はすぐれた教育者になっただろう。
これほど典型的ではなくても、シェイクスピアの戯曲の中には、人の心理をよく見抜いて、思う方向にその人を動かす場面がよく登場する。言うまでもなく、作者のシェイクスピア自身が、それだけ人の心理とその変化を的確に描き出すことができる才能を持っていたからである。
イアゴ-の場合は、教育というより教唆だが、同じ作者の戯曲『ジュリアス・シ-ザ-』のアントニ-の演説は、大群衆を相手にして、最初と最後で人々の心を真っ逆様に変えてしまう、いわば煽動というかたちでの教育である。ロ-マの民衆があまりに愚かに見えるのが問題にされることもあるが、アントニ-の演説はそれだけ人々の心を読み取り、効果を計算しているのである。これもまた、ヒトラ-の世論操作をはじめ、歴史にも類似の例を見ることができるだろう。ちなみに日本の軍記物『平家物語』の平重盛が他者を説得する際のテクニックにも、これと共通する行き届いた計算がある。
更にまたイアゴ-の場合には、彼が「教育する」オセロ-は上官であり年上である。このことはその気になれば、年齢や地位に関係なく人を教育することは可能なことを示している。そのような支配力、影響力は年長者や長上者だけが持つのではない。『車輪の下』のハイルナ-や、『プリティ・リ-グ』のメイのように、強烈な個性と魅力の持ち主が同年輩の同性に刺激を与えて、大きな影響力を発揮する場合もある。そして、イアゴ-が何度も得々として舞台から観客に向かって、自分がどのようにオセロ-たちの心をあやつるかという方法や計画を説明することからもわかるように、影響を与える方がそのことに快感を持つ場合があるのも、年長者や長上者の時と同様である。心理的な影響や教育を与えるのではないが、戦時下の少年たちが、捕虜となった黒人兵士に珍しい動物を飼うような気持ちで接して、そのことに喜びを感じる、大江健三郎「飼育」も、人間の、他者を育てる喜びが年齢の上下には関係ないことを示す一例になるだろう。
10 育てる喜び
私は、自分自身のかなり個人的な好悪や嗜好も示しつつ、「飼い馴らす」こと、教育することの持つ、性的なものも含めた危険な魅力について語ってきた。これまでの部分を読めば既にわかるように、私はそのような危険な魅力を充分に認識しないまま、安易に教育や飼育を肯定することを、決して好まない。それが、卑俗で怠惰な精神と結合して実施される時、どれだけ人や動物を傷つけ、社会に害毒を流すかは、想像を絶するものがあるとまで考えている。
しかし、私自身の中にも充分にある、人が何かを育て、それが成長していくことに、本能的に感じる喜びは、否定するつもりなどない。
ペットの飼い主が、ペットをついつい太らせてしまうのも、母親が自分の赤ん坊の身体の大きさや言葉の発達に一喜一憂するのも、私たちの心の中に根強く息づいている、自分の力によって何かを変化させ発展させていくことに対する快感だろう。「大きくなる」ということは、それの最も目に見えやすいかたちでもあるのだ。植物を育てるのも、銀行預金を増やすのも、たまごっちブ-ムも、その本能と結びついている。そして、私はこれは非常に健全な感覚であり、人類の発展するエネルギ-としても欠かせないものだと感じている。
フェミニズムが発展し、男女が平等になったとはいえ、私の周囲や後輩たちの家庭生活を見ていると、まだまだ子育ては夫よりも妻の仕事となっており、夫婦が同じ分野で仕事をしている、いわばライバル同士でもある場合などは特に、そのことによって研究の発展が停滞することに対する女性の方のストレスは強い。そういう時に、私が何よりもきついなあというか、困るなあというか、許せないなあというか、複雑な思いにかられるのは、子育てということがまったく苦痛で不当な労働というだけだったら、女性だってはっきり拒否して自分の権利を主張できるだろうが、現実はそうではないだろうなということだ。子育ては確かに苦労だが、石を運んだり穴を掘ったりする仕事ではない。それは一方で楽しいし、喜びであり、仕事や研究を放っておいてもとりくんでしまいたい誘惑でもあるのだ。ひとつの命が育ち、数カ月前にはかたちもなかったものが、日々大きくなっていくという面白さは、少々の仕事や論文には代えられない。いわゆる「子育てもの」の文学がブ-ムになっているというのも、この何事にも成果があがらず、自分の力を実感することの少ない現代社会の中で、自分の手で確かに育っていくものを持つ喜びが共有できるからだろう。(ただし、私はもはや少女小説としては大古典に属する『アンの娘リラ』程度しか実はこの方面の作品を読んでおらず、最近のものはまったく読んでいないので、大塚英志が文芸春秋社刊『「彼女たち」の連合赤軍』中の「出産本と『イグアナの娘』たち」で、これらの本を安易な母性肯定につながるものとして批判しているのが、どの程度あたっているのかは、今のところ判断できない。)
11 安らがせる喜び
赤ん坊などのように、無垢な相手の場合と異なり、相手が敵意や警戒心を抱いている場合には、まずそれを解くことが、「飼い馴らす」ことの第一段階となる。そして、飼い馴らされる側にとって、そのような警戒心を解くことが、どれだけ激しい苦痛と快感の入り交じったものとなるかは、これまで紹介してきたポルノ小説、カウンセリングや教育を描いた心理小説、洗脳や教唆を扱った政治小説などにもしばしば描かれてきた。
しかし、「育てる喜び」と同様に、相手が自分に心を許してくれる喜び、また相手に心を許す喜びは、本来、人間というか生き物のすべてが持っているものではあるまいか。それは、さまざまな意味で誤りがちな「飼い馴らし方」の一部や前段階に過ぎないのではなくて、それ自体が、もっと単純で強い本能のひとつなのではないだろうか。
ジャック・ロンドン『白い牙』(新潮文庫)に、強い人間不信を持つ獰猛な狼ホワイト・ファングが、後に愛する主人となるウィ-ドン・スコットに初めて頭を撫でられる部分の長い描写がある。『ジャック・ロンドン放浪記』(小学館)の旅行記にもうかがえる、作者自身の自由で荒々しい精神も、そこには反映しているだろう。ごく一部分だが、引用する。
ホワイト・ファングは妥協した。毛を逆だて、耳をぴたりと背おったまま唸っていた。だが、咬みつきもしなければ、とびつきもしなかった。手はおりてきた。だんだん、だんだん近づいてきた。逆だっている毛のさきにふれた。ホワイト・ファングは手の下ですくんだ。すると、手も一緒におりてきて、ますます近づいてきた。ホワイト・ファングは、ちぢみあがり、ほとんどふるえながら、ようよう自分をおさえていた。からだにふれて本能を犯すその手は、一つの責苦であった。人間の手で仕向けられた、これまでのすべての災いを一日で忘れてしまうことができなかったからだ。だが、ふれることが、今度の神の意志であったので、ホワイト・ファングはそれに従うように努力した。
手はあがったが、またおりてきて、軽くたたいたり撫でたりした。そしてそれがくり返しくり返しつづけられた。手があがるたびに、その下で毛が逆だった。そして、手がおりるたびに、耳はぴたりとうしろに背おわれ、うつろないがみ声がのどにわきあがった。ホワイト・ファングはいがみつづけて、たえず警告した。いがむことで、少しでも危害を受けたら仕返しをする用意ができているということを知らせた。神の真意は、いつ現われるかわからないのだ。穏やかな信頼を起こさせるような声が、いつ怒号にかわらないともかぎらないし、また、やさしく撫でている手が、いつ万力のようにがっちりと自分をつかまえて、刑罰を加えるかも知れないのだ。
だが、神は穏やかに話しつづけていた。手はやはりあがったりさがったりして軽くたたいているが、敵意はなかった。ホワイト・ファングは二つの感情を経験した。本能にとっては、手は不快なものであった。自分をおさえつけ、自由を望む意志にさからうからである。だが、からだには全然苦痛ではなかった。それどころか気持さえよかった。ぱたぱたと軽くたたく動作は徐々に、注意深く、耳のつけ根のあたりをこする運動にかわった。肉体の快感は、そのため少しまさってきさえした。だが、ホワイト・ファングはやはり恐れつづけていた。二つの感情のうちのどちらかが高まってきて、ゆさぶられるたびに苦しんだり楽しんだりしながら、不測の災いを予想して警戒していた。
とてもわかりやすい描写である。犬を飼った人ならもちろん、動物と関わったことのある人なら、これほどではなくても似た体験をきっと思い出せるだろう。同時にこれは、ポルノ小説以上に読む者に肉体的な実感で刺激を与えるし、思想小説や宗教小説以上に胸苦しい心理的な切実さで迫って来る。
おそらく、この文章は動物の感情をかなり正確に描いているだろう。だが、また、これを読んでいると私たち人間も動物と同じなのではないかということも奇妙に理解できるのである。
私たちは、「神の手」になることもあるだろう。ホワイト・ファングになることもあるだろう。そして、どちらの場合にも、「神の手」がまちがっていて、不幸な飼い馴らし方につながってしまう可能性はあるだろう。それでも、人間であり生き物であるならば、相手に心を許し許されるという、この快感を忘れてしまい、完全にそれから逃れることなどはできないのではないだろうか。ものを育てて成長させる喜びとともに、この喜びを忘れてしまったなら人類や生物は滅亡するのではないかとさえ、思わないではいられない。
(1998.1.18)