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水の王子・「沖と」3

第三章 イザナミ

イザナミは、まちがっていた。
 クシマトは黒々と目の前にそびえ立つ波の壁を見て動きをとめたわけではない。
 そんなものに彼らは恐怖も興味も特に感じはしなかった。めったに見ない、珍しいものがあると漠然と意識しただけだ。
 彼らの動きをとめたのは、自分たちのはしに、くるみこんで運んでいる若者の、底しれぬ恐怖と驚き、それをかき消すほどに燃え上がった愛と決意と焦りだった。
 彼がとっさにふり向いて波に背を向け、今来た方角に目をこらすのをクシマトは見た。
 飛び去って離れて来たその場所に、戻りたい、帰らねばという熱意で全身が燃えているのを。
 その理由はよくわからない。あそこにいたら危険だと思ったから連れ出したのだが、では、あの波を越えてその先のどこか別の場所に行ったとしても、自分にはそれからどうしていいかは、まったくわからないことにクシマトは気がついた。彼がそこで幸せになる方法などましてやわかるはずがない。幸せでいるのかどうかさえ、きっとわからないだろう。
     ※
 あそこの、さっきまでいた場所の、小さな家と裏の湖、そこに住んでいた人々、どこにでもありそうな、いくらでも見たような村のすべてが、若者にとって、どんなに大切で、かけがえがないか。
 どんな苦痛や悲しみや恐怖が待っていたとしても、それでも彼はあそこに戻って、そこで最期を迎えたいのだ。
 それまでにできる限りのことを、どんなに無駄でも小さくても、やり続けながら死にたいのだ。
 とっくの昔に忘れていた、それに似た記憶の数々が、遠い星のかけらのようにクシマトの身体のあちこちで、小さくはじけて、またたいて消えた。
 あとに残った夜明けの灰色の空のような薄闇の中で、彼らにはおなじみの、いつもの思いだけが残った。
 自分たちには、決められない。
 この若者が望むなら、それに従っておくしかない。
 彼らには、どちらが前後ということもなかったから、空中に漂ったまま、進む方向だけをただ変えた。すっかり明るくなった夜明けの青い空の中を、村の方へとまっしぐらにすべって行った。
     ※
 「戻って行くな」小舟の上でイザナギが言った。「村に向かって」
 「何を考えているのでしょう」アマテラスが舟のかじに腕をあずけたまま、首をかしげる。
 「あれがマガツミたちの集まりだったら、何も考えてなんかいませんよ」イザナミが断言した。
 「それでも波よりは速いだろう。だが早く着いたところで、どうしようと言うのか」
 「村を守る気かもしれませんよ」アマテラスが言った。「人間が誰か中にいるようだし、その者の意志で動いているのかも」
 「たとえそうでも、村人たちをどれだけ助けられるというのだ? 昼までにはもう、あの村のあとなどは海岸のどこにも残ってはおるまい」
 「あなた、剣はお持ち?」イザナミが突然聞いた。
 「さっきから、その目で見てるじゃないか」
 「言い方がまずかったわ。それ、例の剣ですか?」
 「例のとは?」
 「何をうじうじ娘の前で照れていらっしゃるのよ」イザナミはかんしゃくを起こした。「ええ、アメノヌボコを溶かして二つにわけて、いっしょに作った、あの剣ですよ」
 「まあな」
 「笑わないでよ、アマテラス。笑っているような時ですか」
 「お言葉ですがお母さま」アマテラスは抗弁した「私、笑ってなどいません」
 「そうなの、私の気のせいかしら。このごろ時々こんなことがあるの」
 「笑い声なら私も聞いたぞ」イザナギが言った。
 「私ではありません」
 「いいの、わかった。あなたじゃないわ。アメノヌボコなんか、この世になければよかったと言った、あの生意気な若者ね」イザナミはいまいましげにつぶやいた。「私の中やお父さまの中のどこかにいるらしくて、時々ちょこちょこ出てくるから、うるさいったらありゃしない」
 「とりあえず、どっちに向かうか決めて下さい」アマテラスがそっけなくうながした。「あのマガツミのかたまりの後を追うんですか?」
 「とりあえず聞くが」イザナギが吐息をついた。「おまえの剣もそれなのか?」
 「ええ、あの頃は私たちも青春まっただ中で、たがいにのぼせ上がっていて、地上での仕事も絶好調でしたからね」
 「つまり、お二人とも、その時の思い出の剣を持って来られたというわけですか」アマテラスはせきばらいした。「それで、どっちに行くんです?」
 「だって、この剣が一番使い勝手がいいし、力も発揮できるのですよ。各方面にいろいろとね」イザナミは細い指でこめかみをもんだ。「どっちに行くかはちょっと待って、考えさせて」
 「時間がないぞ」イザナギがいらだつ。
 「あのマガツミのかたまりを見ていて、思い出したことがあるのです」イザナミは言った。「あの村は長い岬が両側に延びていて、どちらもかなりの高さがある。そちらの方から来る波は岬をきっと越せないでしょう」
 「だが、それだけに、入り江の中では波はものすごい勢いと高さになって押し寄せる。村は入り江の奥にあるから、それをまともに受けることになる」
 「あの、さっきのマガツミね」イザナミは早口に言った。「海のあちこちに、ああいうものがまだ残っているのなら、私たち二人の剣で多分かき集められますよ。それで岬と岬の間をふさいでしまえば、もしかしたら」
 「そうですね」アマテラスが即座に賛成した。「二つの岬にはさまれた入り江の入り口はもともとかなり浅いんです。大きな船がようやく抜けられるぐらいで。だから、もしああいうマガツミのかたまりが多く集められるなら、それを岬の間に積み上げて、波をさえぎるのは可能です」
 「さすがに長いことわにざめになって泳ぎ回っていただけのことはあるわ」イザナミは真剣にほめた。「そして、岬の外の両側はずっと草原だし、波はそちらに広がっても、村に流れ込むほどの量はないはず」
 「だが、そんなにたくさんのマガツミが、海のあちこちにうようよしてるものなのか?」イザナギが危ぶんだ。
 「それは私にはわかりません」
 「あなた方はしょせん、タカマガハラのお坊っちゃんと、入り江の中のわにざめにすぎない」イザナミは決めつけた。「この地上にも海中にも、土の底にも町の中にも、どれだけたくさんのマガツミがいるか知らないでしょう。はいて捨てて、束にして燃やすほど、うじゃうじゃいますよ。うわすべりで、うぬぼれで、できそこないで、考えなしで、臆病で、意気地なしで、欲張りで、自分じゃ何も決められない、くだらない生きものが。アメノヌボコのこの剣で、そのへんをかきまぜたら、あっという間に吸い寄せられて、さっき空をぷかぷか飛んでた、あのかたまりの十倍や二十倍すぐ集まるわ。自分たちがさえないだけに、きらきらまぶしい、こけおどしのものが、あの者たちは大好きなんだから」
 「波が近づいて来ています」アマテラスがさえぎった。「でも、私たち、あれに向かって飛ぶのですね。かき集めて入り江の口に積むのなら、波の手前で集める方が多分効率的でしょう」
 「波の向こうで集める方が、多く見つかりそうな気がするが」イザナギが眉を寄せる。「しかしまあ、それが全部さっきのあれのように空を飛んで波のこっちに越えてくれるかどうかわからんからな」
 「手前で充分集まりますったら」イザナミは断言した。「何をぐずぐずしているの、時間がないのよ、アマテラス!」
 「仰せのままに。言っておきますが、お母さまを信用するわけじゃありません」かじを回しながらアマテラスは言い返した。「ひとつ、お聞きしておきたいけど、お二人の中の若者は今笑ってるの? 黙ってるの?」
 「しーんとしてるわ。いつもこうよ」イザナミは舌打ちした。「ここぞという時はいっつも知らん顔をして気配を消してしまうんだから、ほんとに腹が立つったらない。もっと苦しめてやればよかった」
 「きっと賛成してるんだろう。それで黙っているんだよ」なかばあきらめ顔でイザナギがなだめた。

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