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(19)おほほほほ

(お茶くみ・男女差別・急須)

緑茶よりココア

子どものころ、緑茶が飲めなかった。祖母や母が淹れてくれる甘いココアが大好きで、叔父が同じココアのことをエッセイに書いているのを見て、昔からわが家ではそうだったのかとあらためて思ったことがある。
私もいろいろ甘やかされていて、毎日食事のときは、特別に白湯を大きなやかんに用意してもらって、それを飲んでいた。使っていたのがコップか湯のみか、それはなぜかまったく覚えていない。

白湯はいったん煮沸したのをさましたもので、母や祖母は、それを「にさまし」と呼んでいた。たまに私が変な味がするといって飲まなかったら、母は祖母がやかんを充分洗わなかったと考えたのか、怒って即座にやかんの中身を庭先にぶちまけた。一度祖母がその後で「おかしいねえ(そんなはずはないのに)」という感じで、空のやかんをのぞきこんでいたのを覚えている。
祖母はそんな時にいっさい文句を言わなかったし、晩年に身体が弱ってから大和撫子のキャラを捨てて、祖父とどなりあいつかみあいの大喧嘩をするようになるまでは、いつももの静かで優しくてどこか貴族のようだった。母も祖父母も私は三者三様にまったくちがって大好きだったが、一番尊敬していたのは祖母だったかもしれない。

研究室のお茶くみ

そんな風だったから成長しても私は緑茶を飲まなかった。別に特に嫌いではないが、わざわざ飲もうという感覚はまったくなかった。
大学の研究室で、皆がいつもお茶を飲み、それを淹れて配るのが常に女性の学生や院生であると暗黙のうちに定まっていたのを徹底的に私が無視して、結果としてお茶くみを拒否しつくしたのも、だから特に高尚な理念でも信念でもなく、第一お茶の淹れ方も知らなかったし知る気もなかったからである。
もしかしたら、それでいろいろ、嫌味を言われたり批判されたりしていたのかもしれない。私はまったく気づかなかったから、つくづく思うが、無意識の非常識というものは、ある意味最強である。そう言えば何度か、「お茶が飲みたいなあ」と先輩の男性が言ってたような気もするが、それで自分がお茶を淹れなければならないのかもしれないということに、私の頭の中では回路がまったくつながらなかった。

旅先での給仕役

だが、そうも言っていられなくなったのが、院生になって教授や先輩後輩といろんな資料調査の旅行に出かけた時の宿の食事だった。十数人の食事の席で、女性が私ひとりだと、旅館の人は「お願いします」と私の前に、飯櫃と汁鍋と急須をおいていなくなる。皆も当然のように私に茶碗をさしだすので、結局毎回食事のたびに、私は十数人の飯と汁と茶をよそったり汲んだりしつづけるはめになった。昼間は資料調査も力仕事も、まったく男性と同じかそれ以上にこなしていてもである。
そういう旅行で女性が私一人という状況はかなり長く続いたので(つまり大学院に進学した女性は当時はものすごく少なかった)、私はいったいあの時期に自分がどうやって自分の食事をしていたのか、今でも謎だ。
資料調査に参加するのをやめようという選択肢は考えなかった。だが、ずっと後になって、やはり私の専門分野では女性一人だった後輩が、教授の部屋での研究会にあまり出ないと言う話を聞き、後に彼女から「皆にお茶をつぐのでノートをとるひまもなかった」のが研究会をやめた理由と聞いたときは、自分自身の体験とも重なってはらわたが煮えくりかえる思いがした。それを何とかできなかった先輩としての自分を、私は今でも許せていない。

それ以後、いろんな職場や会議で、似たようなさまざまな状況に出くわした。とりわけ困ったのが、自分がお茶をつがないでいることはできても、その場にいる他の女性がせっせと皆にお茶をつぐのを、やめさせるわけには行かないことだった。私よりずっと高齢の女性教授が足取りもおぼつかない中、皆にお茶をついで回っていたり、会議に参加したばかりの新人女性教員が、彼女の現時点では最優先の全力を注ぐべき仕事のはずである、ややこしい議事内容のメモをとるのも質問するのもそっちのけで、ひたすらお茶をつぎ続けたりという、私の目からはグロテスクとしか見えない状況にもよく遭遇した。

どこにでもいる船幽霊

イエス・キリストの話をうっとり聞いていた妹マリアに、給仕をしろと怒った姉マルタにイエスが放っておけと言ったとかいうけれど、そのマルタと似た心境でお茶をつぐ女性にもしばしば会った。第一、叔母がそうだった。医学博士で保健所長で、家庭でもやはり医者の叔父が家事のいろいろをしてくれていた、当時としては大いに進歩的だった叔母だが、思想とか社会的関心とかいうことになると、皆無というほど関心がなく、適当に周囲に合わせて生きている人だった。
私の母はその逆だった。教員免許は持っていて非常勤で勤めていたことはあるし、祖父の病院の事務もしていたが、これといった肩書きも地位も終生ない人だった。だが、その社会的関心や政治的意識や独自の見解や確固たる哲学は、冗談ではなく先進国の大統領や国連事務総長でもつとまるレベルだったと今でも思う。

そんな母と私が、法事か何かの席で、親戚の男性たちと、天下国家だったか日本文化だったか国際情勢だったか、その種のことを熱くなって丁々発止と論じていたことがある。話の内容はなかなか質が高く、皆、興にのりまくって楽しんでいた。同席していた叔母は話に加わる知識も才気もなかったので、明らかに蚊帳の外だったのだが、それで彼女がどうしたかというと、急須をひしとつかんで、「お茶は?」「○○ちゃん、お茶は?」とひとり一人に聞いて、湯のみをひきよせては注ぎ、配り、限りなく会話のじゃまをしながら自分の存在をアピールし、そうすることで、その場に参加しようとし続けた。
後に、女子学生の一人がそれとまったく同じ状況で同じ態度をコンパの席でとったことがある。私はそのとき叔母のことを思い出し、ああマルタがここにもと思ったものだ。それ以後次第に私は性格も口も悪くなったようで、この種の反応や行為によって自己主張する女性のことを船幽霊と呼ぶようになった。海上で船のそばに浮かんできて、限りなくひしゃくで船に水をつぎこみ、沈没させる妖怪で、対処法は底の抜けたひしゃくを渡すしかないという、あれである。

口には出せない

私の救えないところは、ここまでいろいろこだわりながら、自分の研究室で自分の指導学生たちが、研究会のときなどに、女性だけがお茶をつぎ、男子学生が平気でそれを飲む状況に、一言も口を出せないことだった。そういうことを私の方から強制したくはないのだった。
今でも、さまざまな民主的な集まりで、ともすれば女性たちがせっせとお茶やお菓子のサービスをするのを見るたび、私は大げさでなく、肌をむかれ爪をはがされるような苦痛を感じるが、それを口に出して言うことができない。

そのリベラルな集会で、最近よく話題になるのが、日の丸をどう見るかということで、いたずらに敵視せず、デモや集会にもっと取り入れてもいいのではという声もある一方、見るのも絶対いやだという拒否反応も非常に強い。
私自身は日の丸にそう拒否感はないのだが、だが、それが踏み絵として強制される中で、さまざまな苦衷や懊悩を味わった人たちにとって、そう簡単に、こびりつき、しみついた嫌悪感が消せないのも、自分のお茶の体験から理解できる。
理屈ではなく、さまざまな葛藤のまつわる不快な思い出から、私は徹底的にお茶というものが嫌いになりつくした。だから、学生時代にも就職後も、友人と同居していた時期はともかく、一人でいた時代にはお茶を買ったことはなかった気がする。

手をのばせばお茶ばかり

田舎の実家にはもちろん、普通にお茶があった。それどころか、叔母はお中元やお歳暮やその他で極上のお茶をもらうことが多く、余ったお茶をいつも田舎の家に持って来てくれていた。祖父母も母も、それを喜んで飲んでいた。
祖父母が亡くなった後、一人暮らしをしていた母は、昔の習慣で帰省した私にお茶をすすめはしなかったが、「こんなにおいしいお茶が飲めるのは幸せだ」と、その場にいない叔母に感謝し、「来るお客さんが皆、ここのお茶はおいしい、と感心する」と自慢していた。その一方で、「もっと早く思いきって持って来てくれたらいいのに、ものすごく上等のお茶なのに、古くなっているから味が落ちているのが、すごくもったいない」という文句も、ときどき口にしていた。

叔母が亡くなり、母が亡くなると、田舎の家のあちこちからは使いきれないままだった上等のお茶がいくつも、豪勢な錦の模様や金ぴかの茶筒に入ったまま出て来た。母がぼやいていた通り、かなりもう古いものも多かった。
人にあげるわけには行かず、かと言って捨てるのも惜しく、さりとて私が飲む気にもなれない。片づけが進んで物が減っていくのにつれて、引き潮のあとの砂浜に残る貝殻のように、あちこちに高級な茶筒が目立ちはじめた。
困ったことに、お茶を飲む習慣がない私には、母とちがって、それらのお茶がどの程度まだ飲めるのか味が落ちているのかさえもわからない。家のリフォームや工事のときに来てもらう工事関係者や職人さんに出すお茶は、結局新しく買うことになって、それをまた、私がその後飲まないから、そのままたまって行くことになる。輪ゴムをかけた使いかけの新茶の袋が、これまた家のあちこちに、いくつも増えてきてしまった。

一度、お茶の古くなったのを燃やしてくゆらす香炉というのを見つけて買ってみたが、これもあまり香りがただようわけでもなく、結局人にあげてしまった。夏の間、冷茶にして飲んではどうかと、茶こしつきのやかんを買って毎朝大量に作って冷蔵庫で冷やしてみたが、場所ふさぎだし面倒なわりには、やっていて楽しくなかった。
あちこちに散在するお茶の缶や袋を見続けている内に、結局これは思いきりカッコよくお茶を飲むようにするしかないという気になった。味は好きでもない、ろくな思い出はひとつもないとなれば、あとはもう、これから楽しい思い出を作るべく、せいぜいカッコよくお茶を飲むしかないではないか。

商品券の使いみち

ちょうどそのころ、叔母や母が遺したデパートの商品券の束の始末にも私は迷っていた。けっこうな額なのだが、何しろものすごく昔のもので、使えるかどうかも怪しい。おっかなびっくりデパートに持って行って使ってみたら大丈夫だったが、今度はそれで何を買うかの決断がつかなくなった。けっこうなと言っても何十万もあるわけではないから、そう大きな買い物ができるわけではない。かと言って消耗品で使ってしまうのは何となく申し訳ない気がする。
これを、残ったお茶を飲みほす計画にあてることにしたら、何となく叔母も母も満足しそうな気がした。というわけで、私は少し時間があるとき、商品券を持ってデパートに行き、ふだんは足も踏みいれない和風食器の売り場を探した。
ちなみに、急須は何度か買ったことがあるし、人にもらったものもある。しかし、今回は思いきり特別なものをと思って見て回ると、やがて期間限定の特別な棚にある会津地方かどこかの、錫のメッキとやらの銀色の丸い急須が目に留まった。大きさや雰囲気も手ごろだし、店員と相談して、いくつかある型のひとつを選んだ。普通の銀色のと、青みがかったのとどちらにしようか少し迷ったが、まあ基本的なのがいいかと、銀色のにした。

帰ってから、お湯をわかして、茶葉を淹れ、これも昔田舎の家で使っていた、懐かしい大ぶりの、熱帯魚の模様がついた湯のみで飲んでみた。味もまあまあで、急須の感じも悪くなかった。商品券がまだ残っていたので、この際と思って、私はそれから一週間ほどの間に、迷ったもう一つの青みがかった同じ品と、それぞれの揃いの小さい茶筒を買った。二軒ある家の両方で使いたかったのと、袋のままの茶葉を使うたびにきっちり入れて、なくなると補充して行く茶筒がほしかったのである。
それで商品券は、すべてなくなった。

溶けてゆく過去

これだけの荷物を片づけるにあたっては、今あるものを使うのが、私の基本姿勢である。しかし、これほど長い年月のこだわりや行きがかりがしみついて、からみついた、私とお茶との関係を、すっぱり断ち切って新しいものにするには、このくらいの投資と散財が必要だと私は思ったし、その判断はまちがってはいなかった。
今、新しい小さな家と、古い普通の家の二つで、片づけや仕事にはげみながら、私は時々休憩して、真新しい美しい錫の急須に茶筒から茶葉を淹れて飲む。使う湯のみは、銀色のには、大ぶりな熱帯魚模様の湯のみ、青みがかった方のには、ふた付きの南天の実と葉の模様の、これも昔、祖母がお客に出していた湯のみである。南天の白い実は、少し盛り上がっていて、かわいい。どちらも毎日のように使われていたのに、汚れひとつなくまっ白なのは驚くほどで、祖母の手入れのほどがしのばれる。

最初に飲んだ夜には、お茶に慣れていなかったせいか、目が冴えて眠れず往生した。しかし日に日にそれも慣れたし、毎朝起き抜けにお湯をわかして淹れて飲むお茶の味は格別と思えるようにまでなった。そして、家のあちこちから限りなく出現するお茶は、確実に減って行っている。
古いソファや新しい椅子に座って、多分かなり味の落ちているお茶を、それでも香りを楽しんで飲み干す内に、長い間、お茶と充分知り合う間もなく、不愉快な思い出ばかりが積もり積もった長い時間が、ひとりでに遠ざかって消えて行く。誰につぐこともなく、つがれることもなく、自分のために自分のお茶を急須から湯のみに注いで飲む時間は、私にもう余分なことを考えさせない。さまざまなものによって隔てられてきた昔ながらの知り合いと、初めてゆっくり二人きりで語り合えるような幸せがそこにはある。
おほほほほ。気がつくと私はお茶をすすりながら、一人で目を細めて笑っている。(2017.7.2.)

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カツジ猫