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(32)クマ!

(木彫り熊・初任給・床の間)

十三年間片づけ作業

去年、叔母の十三回忌をした。叔母が亡くなって、その後のさまざまな手続きやマンションの片づけをしたのを思い出すが、「あれからずっと片づけをしていますよね」と、知り合いから何だかしみじみ言われたように、たしかにその後、田舎の家の処分なども引き続いて、サクラダ・ファミリアの建設もどきに、私の片づけ作業はいつ終わるかの先も見えず実に十三年間続いている。
そのときどきで、いろいろな局面に遭遇し、新しい展開があるので、単調で退屈というよりは、千変万化の景色の中を全速力でかけ抜けている感じだ。眼前にあらわれる巨大な怪物や深い霧を魔法の剣でばっさばっさと倒しながら進んで行ってる気分でもある。

それでも、夢中でかけ抜けている間に、いつの間にか母が亡くなり、田舎の新旧二軒の家の古い方は友人が買い取ってくれ、新しい方も今は人に貸し、叔母のマンションも手放したから、事態はそれなりに前進してはいると自分を慰めている。
三つの家はどれも大きく、そこには数代にわたる荷物が詰まっていた。人にさし上げたり処分したりしながら、結局私の今の家にやって来た物も多い。あっさり処分はしたくないのでなるべく人にあげたいが、迷惑にならないものでなければならないし、とにかくもう、どれを残すか残せるか、私の今の家のどこに置けるか、一時期私はいつも、朝から晩までそればかり考えていた。

目を閉じてシミュレーション

この十三年をふり返れば、それはまだわりと初期の段階で、田舎の古い方の家を空にしようとしていたころのことだ。
自分が生まれ育った家だから、相当に部屋数が多くても、目を半眼にして思い浮かべれば、どの部屋も、そこにある家具もほぼすべて思い出せる。昔ながらの和風の家で、そもそもそんなに家具もない。「あれは、あの人に」「あれはこの部屋に」と、何度も何度も頭の中で思い描いては、茶棚や置き床やたんすや書棚の行く先を確認していた。
しかし時には、見慣れ住み慣れた家だからこそ、空気のようにそこにあるのが自然になっていて、印象に残らず記憶の網にひっかからないものもある。

ほぼ、ぎちぎちに何とか今の家に、残したい家具を頭の中で配置してみて、よし何とか行けるぞと、一安心していたある日、私はいつものように心の目で、田舎の家の玄関、階段、応接間、そして二階の十八畳のお座敷と、眺めまわして再再々確認をしていた。そして座敷の床の間を思い浮かべたとたん、文字通り私は、声に出してぎゃっと言った。そこにあったものを、その瞬間まで魔法にかけられたように、私はまったく忘れていた。

クマの思い出

それは木彫りのクマだった。誰でも知ってる北海道の土産物のあのクマである。問題はそれが私がまたがって、足柄山の金太郎ごっこをやっても何の問題もないぐらい巨大なクマだということだった。
こういうクマの多くは、鮭をくわえているものだ。私が初めてこの手のクマを見たのは、まだ幼いときに連れて行ってもらった何かの博覧会で、多分アイヌのおじさんが制作実演していたものだった。鮮やかに彫刻刀で彫り上げた手のひらにのりそうなサイズのクマの上に、靴ブラシのようなもので、さっさっと靴墨のようなものを塗って、みるみるクマは黒くなり、くわえたシャケには、うっすらと一はきすると、薄いウロコの模様が浮かび上がるその様子に私はすっかり魅了された。あまり高いものでもなかったのか、その場で、そのクマを私は買ってもらい、いつも大事に飾っていて、実はそれも今、机の上にちゃんとある。

その百倍はあろうかという巨大なクマは、私が大学院を出て、ある地方市立大学に就職してまもなく、北海道の紀行を調査しに出かけた時、現地のどこかの駅の前にあった店で、私自身が買ったものである。
外国語専門学校から発展したという、その私立大学は、外国人の先生も多く、自由でとても良心的な学風だった。今はさすがに違うようだが、私がいた頃は、新任者は若い事務員でも大学者の老教授でも皆いっしょにごっちゃに並べて、学園通信か図書館報か何かそういうので紹介していた。きわめつきは、助手や講師で雇った若い先生には、まだ自分の勉強が必要だろうからと、授業時間の制限があって、やむを得ずそれ以上のコマを担当するときは(それだって決して多くはなかった)、何とその分は非常勤手当が加算されたのだ!

ついでに言っておくと、私立大学だから受験者も相当多く、入試の時にそれを担当教員で採点するのは徹夜になる大変な作業だった。しかし、それにはきっちりと特別手当がついて、問題作成と合わせると、ちょっとしたボーナスぐらいの額にはなった。問題作成や作成をしなくていい他の科目の先生方からうらやましがられることもあったが、そういう先生方が代わりにやる受験監督の際の手当も、ちゃんとそれなりの額だったと思う。
私はその大学に数年しかいなくて名古屋の県立大学に移り、さらにその数年後、再び九州の国立大学に移って、大学のランクとかを気にする先生たちからは、よく私立から県立、国立とランクが上がってよかったねみたいな感じで接されたが、私が一向そんな気になれなかったのは、諸手当や待遇は、実はその移動のたびに下がり続けて、特に受験の際の諸手当については国立大学はほとんど皆無に等しかったからで、まったく昇格したという感覚は持てなかった。
そんならなぜ移ったのだ、結局は大学のランクに目がくらんだんだろうと言われるかもしれないが、それはまた別の理由があり、話していると長くなるので、またあらためて書くことにする。ともあれ、クマの話に戻ろう。

初任給の買い物

その私立大学は、もちろん組合活動もきっちりしていて、先生方の人権や権利意識も高かった。私は生まれて初めてもらった俸給がとても高いと思ってうれしく、歓迎会で「こんなにもらっていいのかと思った」と挨拶して、何ちゅう意識の低いやつやという感じで、年上の先生方にあきれられた。
自分の専門の近世紀行の調査に、北海道に出かけたときも、だからふところは暖かで、心にも余裕があった。それからも何度か北海道には調査に行き、そのたびに感じた上野駅の夜行列車や青函連絡船の船旅の何とも言えない寂寥感と、それは奇妙にまじりあっていた。
北海道のどこの駅だったかさえ覚えていない。観光などは何もせず、ひたすら図書館で資料をあさるだけの旅だった。狭い店内にはいろんな土産物や美術品がむぞうさにつめこまれていて、その中に、その巨大なクマがいた。
多くの木彫りのクマとちがって、そのクマは鮭をくわえていなかった。かわりに、かっと口を開いて牙をむき、前足をパンチ寸前のかたちで持ちあげていた(「怒りぐま」というジャンルらしい)。何となく、その顔も全体のバランスも気に入って、値段を見たら十数万円、当時の私の給料のほぼひと月分だった。

田舎の床の間

私の田舎の大きな家は、その頃はもう祖父が死んで、祖母と母だけになっていた。古い家だが二階の十八畳敷のお座敷を祖母は自慢していて、ときどき訪れるお客さんにそこを見せたりしていた。かつて中国大陸で馬車や馬やそれを扱う使用人までいた、大きな邸宅にいた祖母は、そんな時代のことをまったく口にもしなかったが、その大広間とも言えない微妙な広さのお座敷は、最後に手元に残った、ささやかな誇りだったのかもしれない。「ろくに掃除もしていないのに、みっともない」と母はそんな祖母のことを怒っていた。

祖父のいた頃はそれなりに、床の間には掛け軸が下がっていたし、老人が亀と水辺で遊んでいる置物(かなり手の込んだ面白いもので、銀色の水の流れや、岩の上の翁の姿など、不思議な物語を感じさせるものだった。それ以後、似たものも見たことはない。私のおぼろな記憶の中にだけ、そのかたちが存在している)や、黒い大きな花びんなどがおいてあった。祖父の死後、どこかの骨董屋が訪れて、家じゅうの古い物を二束三文でかっさらって行き、母も古い家の管理にうんざりしていて、それを止めもしなかったらしく、床の間も壁もからっぽになっていた。
母も少しは気にしていたのか、近所の人たちと、その頃はまだ珍しかった中国旅行に行ったとき、「皆がお土産に大きなカメを買って背中にかついで帰ってるのを見てね、私も買おうかとちょっと思ったけど、床の間にカメは置くもんではないと昔よく言われてたのを思い出してねえ、結局やめた」と話したりした。私はその昔見た老人と亀の置き物の残像がどこかに残っていたのか、とっさに田舎の善男善女が巨大な亀を背中に背負って帰国するシュールな状況をぼんやり思い浮かべていたが、後で思えば、もちろんカメは瓶のことだったのだろう。

そういうわけで何となく、「空の床の間」は私の中にも意識されていて、初めての給料で、あそこに飾るものを買ってもいいのではないかと考えた私は、その場でクマを注文し、田舎の家に送ってもらった。母には連絡していたが、私自身は仕事で忙しくて帰れず、到着したクマは、隣家のおじさんに手伝ってもらって、狭い階段を運び上げられ、めでたく座敷の床の間に安置されたようだった。電話でその報告をして来た母によると、隣家のおじさんが「シャケがどこかにあるはずだ」と言って、皆で梱包材や包み紙の中を相当探したらしい。北海道の木彫りクマと鮭のイメージは、かくまで密接なものなのである。

守り神のように

それから何十年も、クマはそこにいた。置かれてしばらくして訪れた叔父が、二階に上がってそれを見たはずなのに何の感想ももらさなかったのを母は気にしていた。今思うと、ずっと学費の援助をしてくれた叔父と叔母にしてみれば、やっと就職したならまずはクマでなくても何かしかるべきお礼は、叔父たちの方にするべきではないかという気持ちもあったかもしれない。私がそれを思いもつかなかったのは、叔父と叔母の家には、あらゆるものがあったからで、どう考えても贈り物などする余地がなかったからだ。まあ叔父も、そんなけちなことを考える人のようでもないから、単にただ、どう感想を言っていいものかわからなかっただけかもしれない。

かつては村の人たちが集まって、何度も宴会や集会をした広間に、もう人が集まることはなかった。母の友人たちが集まってお茶を飲んだりしたことが何度かはあったのだろうか? そうだったらいいがと、私はクマのために思う。
お座敷に隣接した窓もない暗い九畳の部屋は、中学入学以来の私の部屋で、中学高校のころの私はときどき、隣りの座敷の大きな座卓で、勉強や仕事をしていた。夏などは吹き通る風でまるで船の甲板のような中、大の字になって昼寝をし、廊下のガラス戸から屋根に出て、急勾配の屋根の天守閣のような頂上まで上がり、瓦の上に寝転んで満天の星空を見たりした。そんな時間をクマと共有できなかったのは残念だが、そこにクマがいてくれると、まだそんな日々もどこかに残って息づいている気もした。

祖母はクマを見たことがあっただろうか。時間的にはまだいたはずだが、弱ってきた祖母は叔母の病院に入院していることも多かったからか、クマについての反応や感想を私は思い出せない。祖母が二階に上がらなくなってからは、ますます掃除をする者もいなくなり、私がときどき帰っては荷物を片づけたり掃除機をかける程度だった。それでも、クマの後ろの壁には、その後何十年かしてから、私は湯布院の画廊で買った、それなりの値段のする、青と黒の夜の木々を描いた大きな絵をかけた。
何か大きな額の買い物をするとき、私が何となく最優先するのは、やはりこの座敷だった。それがとっくに亡くなった祖母を喜ばせるだろうと、何となく思っていたふしもある。

その大きな絵の方は、狭いのを承知で、今の家の玄関にかけた。遠くから見る方がいいことはわかっていたが、そういう絵を至近距離でしか見られない玄関にかけると、まあそれしか選択の余地がなかった場所ではあるにせよ、異空間への窓のようで、それはそれで悪くなかった。
そこまでしていて、クマのことだけは私はさっぱり忘れていた。ひょっとしたら、もう座敷や床の間と一体化していて、切り離して考えられなかったのかもしれない。

メジャー片手にうろうろ

それからというものしばらく、クマのことばかり私は考えていた。残して行って家を買う人にまかせようとか、骨董屋さんを呼んで引き取ってもらおうとか。自分の今の家におこうとしても、どこをどう考えても、そんなスペースをひねり出せそうになかった。さすがの私も、つくづくせっぱつまったのである。
それでも、最初の給料で買ったこと、北海道の旅の思い出、座敷と床の間に凝縮された家族の関わりなどを思うと、どうせ私が死んだあとは適当に処分されてしまうにしても、やはり引き取るしかないという方に、次第に気持ちが傾いた。

それからは、メジャー片手に今の自分の家のあちこちを、うろうろ調べる日々が続いた。置けばいいってものではなく、それなりに周囲と調和した場所でなければいけないから難しい。どうせ初めから常識的な部屋ではないにしても、それなりのバランスというものはある。
クマは、今まで明るい広い場所にいたのだから、少しでもそういうところを確保してやりたかったのだが、それはもう、どうしても無理で、結局うす暗い居間の一角に、せめて堂々と鎮座するかたちで置くことにした。それでもどうなることかと心配だったが、運送屋さんに運んでもらってすえつけると、まあそう場違いな感じもしないで、奇妙に無難にとけこんで、ひとまず私はほっとした。

クマのルーツは?

大学時代の友人で、「週刊金曜日」を購読している女性がいる。なかなかちゃんと読めないとぼやいていて、読み終わったのをいつも私に束にして送ってくれるので、私もありがたく読んだあとで、「九条の会」で活動している仲間たちにもらってもらうことにしている。
クマが私の今の家の居間に落ちついてしばらくしたころ、その「週刊金曜日」の一冊に小さな囲み記事があって、北海道の木彫りのクマについて研究した初めての本が出版されたことが紹介されていた。土産物としてよく知られる分、芸術品としての評価はされて来なかったが、作者や作風もあって、それなりに注目されはじめているとかいうのである。

もちろん私はその本を買った。実は、クマの存在を思い出してあわてながら、どうしようかと迷っていた時期、ずっとぼやき相手にしていた、芸術家の女性がいて、彼女は私の懊悩を面白がりつつ同情しながらも、「クマぁ?あの、北海道の?」と私がなぜそこまで迷うのか半信半疑のようだった。「うちにも大きなのはあったけど、処分した」とも言っていたようだった。まあ普通そうだろう。
ぼやき相手にしてしまったからには、最後まで見届けていただこうと私は彼女をわが家に呼んでクマを見せた。すると彼女は意外なほど、「これはいいクマだ。とてもよくできている」「どうして、そんなに持って来たいとこだわるのか不思議だったけど、実物を見たらわかった」とほめてくれ、「これがあると家の中心ができた感じで、すごくいい」と言ってくれた。クマのためにはうれしかったが、アンティークや美術品を見る目がたしかな彼女が、それだけ認めてくれた、このクマの素性も私はだんだん気になりはじめていた。

最初においた位置から、その後少し横にずらしたのだが、置いたら最後動かせまいと覚悟していたのに、案外あっさりクマは動かせ、ひっくり返して台座の裏を見ることさえできた。しかし、どこにも銘や署名のたぐいは、まったく記されていなかった。
作者や作風がちがうのなら、その本を見たら何か手がかりがつかめるのかもしれない。そんな期待も大いにあった。
だが、届いた本の豊富な画像を見て行くと、たしかに明らかに作者たちによってクマの顔や目や毛並みの彫り方はちがい、特徴ははっきりしているのだが、このクマの流れだと、たしかに確定できるほどではなかった。とは言え、目に黒い玉をはめているものとか、明らかにこれはちがうという流派のものも多く、これに近いかといういくつかの系統まではしぼれたが、それ以上は無理だった。木彫りのクマの奥は深いと、あらためて知った。

出自や素性はわからなかったが、その本に収められたたくさんのクマの画像と比べても、私のクマは遜色なく、親バカならぬクマバカを発揮して口走ると、どのクマよりも立派に見えた。少なくとも私の好みには一番あった。丸くがっしりとした全体の姿といい、太い脚の毛のそよぎを、ぐいぐいと彫り上げたノミづかいといい、何の手も加えていない目といい、すべてが素朴で無駄がなく、スマートでお洒落であか抜けていて、見れば見るほど、ほれぼれとする。それほど巨大なわけでもない、こじんまりした大きさも慕わしい。

ともに暮らす喜び

もともと、家に引き取ると決めたとき、椅子にも背もたれにも踏み台にもできるし、と私は考えていた。実際に本棚の上の本を取るときは背中に乗っているし、横腹によりかかって本を読んだりもする。正月やクリスマスには、赤いリボンを巻いてやったりすることもある。
あまりにリアルなので、最初のころしばらくは、大きな犬がいるようで、ぎょっとすることもしょっちゅうだったが、最近はそういうこともなくなった。
心配なのは、以前の座敷に比べると空気の流通がわるくて、木が傷みはしないかということで、この手の芸術品を手入れするにはどうしたらいいのかと思いながら、せいぜいせっせと布でみがいてやっている。

それにしても、作者はどういう人なのだろう。素人目にも、このクマの完成度はすごく高いと思うのだが、彫り方の勢いのようなものから、若い人のような気もする。そして、ごちゃごちゃ人にこびない、かと言ってカリカリとんがらない、大らかで澄んだ精神を感じさせる。作り上げたものに、これだけはっきり、その人の姿があらわれることに驚きながら、それに影響されたように私も素直に、このクマと出あえて、いっしょに住める幸福をかみしめている。(2018.1.9.)

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