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(44)残された手帳

私が小学校高学年のころだったと思うが、家の横に離れを作った。二部屋のうちの一つを私の部屋にするというので喜んだが、できてみたら、奥の部屋が祖父の書斎で、私の部屋はその手前で、ガラスのはまった板戸で区切られているだけだったし、その板戸も何だか立て付けが悪くてしっかり閉まらず、おまけに母がいっしょに私の部屋を使うことになったので、何となく期待したのとはちがった。

それで、中学に入ったとき、誰も使っていない二階の九畳の、窓もない暗い部屋を私は自分の部屋にして、大学に行って家を離れるまで、そこで暮らした。
部屋の奥には、大きな古いたんすがあって、その一番上の開き戸の中には、いろんなものが押しこまれていた。母の世代の女性では珍しく、というよりほぼ皆無だった野球ファンの母のらしい、素朴な土人形の野球選手の像などもあった。今のフィギュアのようなものだったのだろう。

それと混じって、古い手紙や手帳や写真も入っていた。家族や親戚のものではなかった。私は何となく、先住者への遠慮のようなものを感じて、特に調べたり見たりしなかったが、一度母は、それらの手紙や手帳や写真が、戦時中に近くにあった航空隊の基地から、うちに遊びに来ていた学徒兵たちの遺品だと話した。長崎出身の私の家は、いい加減だがキリスト教徒っぽい家庭で、同じクリスチャンの家の学徒兵などが時々遊びに来ていたらしい。彼らは皆、終戦直前に特攻隊として出撃して行った。整備兵か何かで後に残った一人に、彼らは家族へ渡してくれと遺品の数々を託したらしい。頼まれたその人は、結局それをそのまま、わが家に置いて行ったようだった。「いいかげんな人だったからね」と、母は少し怒ったように、その人のことを私に評した。

その家は数年前に友人に売却した。たんすは、そのまた数年前に、知り合いの大工さんにもらってもらった。祖父の死後に骨董屋が来て家じゅうの珍しいものを持って行ったとかで、その時持ち出されたのかどうかはわからないが、野球選手のフィギュアも、学徒兵たちの遺品も、もうその時はたんすの中には残っていなかった。

当時の母と叔母の写真を、ごく最近になって古い荷物の中から見つけたが、丸いメガネをかけた母も、叔母も、ぼさっと素朴な田舎の女学生で、とても阿川弘之の小説「雲の墓標」で、学徒兵たちがほのかな思いを寄せる、地元のお屋敷のお嬢さんのようには見えない。
それでも、どうやら私の家に近い、その航空基地と同じところの学徒兵を主人公にした「雲の墓標」を高校生のころに読んだとき、私は身近な親しみを感じた。よく知っている人たちの話を読むようで、何もかもがなつかしくて、切なくて、彼らの運命や、とりまく時代が、言いようもなく腹立たしかった。阿川弘之は保守的な作家だと思うが、どんなリベラルな反戦小説よりも、私に強く二度と戦争は起こさないと決意させ続けたのは、あの小説の中の青年たちだった。

今、七十歳を超えて読み直すと、若者たちの手紙や日記の中でしか登場しない、彼らに国文学を教え、彼らの手紙を読んでその運命に心を痛める大学教授の味わったであろう苦しみも、ぎりぎりと胸にせまる。同じ国文学の教授として、若い教え子たちから、こんな手紙をもらわなくてすむ自分の幸せを、身のすくむ思いでかみしめることもある。

母は、その若者たちのことを、そう多く話したわけではない。私も深く聞きただしたわけではない。記憶違いもあるかもしれない。だが母が、涼しい目の美しい青年が写っている古い小さな写真を見て、彼が下を向いて本を読んでいるときか何かに、名前を呼んで声をかけて、顔を上げた瞬間をとった写真がこれだと言ったのを覚えている。彼はちょっと怒ったと、母は笑っていた。きれいで、まじめな人だったと母は言った。山下さんと、その名を言ったような気がするのだが、さだかではない。たしか母が熱を上げていた六大学野球の選手も山下と言った気がするので、それとごっちゃになっている可能性もある。
もちろん、その写真も今はもうない。

ここ数年、その田舎の実家から運びこんだものも含めて、膨大な荷物の山の仕分けと処分に私は忙殺されている。ようやくそれも終盤にさしかかって、祖父母の代からの手紙や日記を捨てる勇気もなく読み直す時間もなく、とりあえずまとめながら、私は絶対こんな手紙も日記も残さないぞと内心ひそかに毒づいていたりしたとき、茶封筒にむぞうさに入った黒い手帳と小さいビラが出て来た。「ありがとうございました」と封筒に書かれた文字はサインペンかマジックインキのようだから、これは最近のものなのだろう。

小さな印刷されたビラは、米軍が日本国民に無条件降伏を呼びかける内容で、いつ誰がどう使ったのかわからない。保存状態がすごくいいのか、奇妙なほどに新しい。
手帳の方は、昭和十九年に発行された海軍手帳で、あちこちに色刷りの美人画や風景画も入っていて、小さいなりに洒落てもいる。ほとんど使われておらず、名前も何も書かれていない。ただ、三月の中頃と四月の初めあたりの数日だけ、鉛筆書きでかなり長い日記のような記述がある。

これが、田舎の家のたんすにあったものの一部が、何かの理由で残ったものかどうか、それも私はわからない。
ただ、その記述は、どうやら特攻隊として出撃する前の数日に書き留められたもののようだ。鉛筆で書かれた、その走り書きを読んでいると、「雲の墓標」を読んだときに似た、そしてもっと生々しく荒々しい感情が、わきあがって私をゆさぶる。

以下に、その全文を紹介する。略してあるのは、航空機の編隊や機内のメンバーを表にして記している、メモのような部分である。□の部分は読めなかった。〔 〕の部分は上から消してあるが読める、いわゆる「ミセケチ」である。

「三月十五日 曇后晴 久し振りに□作業でいきなり三種航法とかケフイだったが雨でない ホツとする 大阪被爆 B29九〇機 14期作業三十名来る ノンビリした一日
3月28日 基地訓練を兼ねB29に対する美保空ヒタイ 但し12PcfGの巡視の為延期 航道訓練50 空中ヒタイ1h
3月29日 0700発 美保空向けヒタイ 4D2l 関門付近で不時着の為離れ己が三機引張って美保に行く
3月30日 14.26 又宇佐に向出発 特攻用の為 3l①2機引張る ミスト多し 途中山下大尉の錯□□にして尚此の大錯誤にて中国山脈を越て 実に膽を冷す 岩国空 不時着
3月31日 深夜B29の空襲に馴れぬ釣床の夢を破らる 0715発予定 ミストの為二度も引返す 村セ学□不時着 機体沈没 人員助かる 1430発 宇佐空着 藤にヒー坊 ニャン子 面会に来る」

「4月1日 昼V作業中 突如出撃命令下る 搭乗割
(略)
□□ 悲壮なり 而も□許りとは考へさせられる
4月2日 早朝出撃 昨夜送別会にて飲み過ぎ頭痛い ヒー坊見送りに来る 藤、長、若、高、等ホロリとする 酒も行った よく喧嘩した仲丈に却って印象深く辛かった
而し天候不良にて引返す
V作業取止
4月3日 第一次特攻隊 宇佐八幡護皇隊 姫路護皇白鷺隊 出撃 總員Vにて送る 壮なる哉 愈々次は己だ。 夜14期に種々話す。
4月5日 第二次八幡護皇隊 辺 隊長以下13分隊長 隊 □田大イ 野中中イ □ 豊島 田中 黒木 etc 其他Pも古いもの許り 本隊の精鋭をすぐる 愈々全力を投じての出撃 悲壮なり アヽ何故己は行かぬか 悲し
(略)
4月5(ママ)日 第三次攻撃隊編成 隊長山田大イ以下□隊總員と云っても云(ママ)い程 古い所は全部出る。V機整備 身の回り整備に追はる。
夜 U・Rに最后の宴 中山少イと行く
4月6日 三次先発として三機出発 うまく間に合へばと思ったが脚が入らず己のV機のみ引返し予備機出発をも止められ実に身の不運に泣く。
後聞せば此日宇佐空特攻隊出撃 その出発は間に合ったとのこと 実に残念の極み 今一度 藤、田、長、等に会ひたかった。
V機整備 宇神参拝 ヒー坊面会に来る。藤の追憶。夕方の記者で別府に行く。多幸福にもお別れ 歓待楽し。
4月7日 曇 朝一番にて帰る 駅にてヒー坊 愛子氏送らる 会食 一三〇〇発進 亦もエンヂン不調にて引返し単機にて発 途中天候極めて悪く難航 一四一七発 一五五〇着 如何にも前線の基地の感じ 隊長山下大イ以下分隊長成田大イ藤井大イ キ下の諸兄壮烈に突入自爆せし旨聞く。感激に堪へず 断乎後に續かん
中隊 出水に不時着。
4月8日 曇 本隊着 一機壊す 休養 明日出撃らしい
4月9日 雨 朝来雨 ゴロゴロ寝て暮す 夜 突如〔又も〕帰隊の発表あり 泣くに泣けず
4月10日 雨 ゴロゴロ暮す 〔又も〕出撃と決る
4月11日 晴 午前中V機整備 午后第二回攻撃隊発表あり 己は一小隊一番機偵察員の重責を荷った。男子の本懐 之に過ぐるものなし
總出撃機 本隊より十二機 芳井中尉指揮官 己はその後席 指揮官機偵察員だ。(略)
明日は愈々体当り。總數四九九機の出撃 日本最后の總攻撃 今后かゝる大作戦の行はれることはないといふ。己の一代の栄誉 嬉し。
歴史は流れる。偉大なる歴史が。美しき母なる国の為に華と散る。何の思ひ残すこともない。
己の生涯は余りにも恵まれ且つ美しかった。
今此のよき死場所を得て心からの嬉しさを感ずる、明日は空母に体当り。祖国よ安かれ 我が両親よ、許されよ
長官の訓示あり 姓名申告。先任順は芳井中イの次。夜 当隊司令以下の送別の宴あり
4月12日 最后の夢は安らかに、かくて今日は明く 我が生涯最后の朝 隊長分隊長の後を追って断乎突入だ。
天皇陛下萬歳!!」

最後の「天皇陛下萬歳!!」は一ページ全部を使って大きく書かれている。その前のページが一枚破られているが、何か書かれていたのかどうかはわからない。

特攻隊が本当は志願したのではなく強制だったとか、すごくいやがって苦しんだ者もいるとかいう話も最近では聞くが、それはむしろ勇気のある人たちだったと思う。死ななくてはならないのなら、このような肯定と昂揚の中でそれに立ち向かおうと思うのがきっと正しい方策だろう。ついでに言うなら、慰安婦や売春婦が楽しんでいた、苦しいばかりではなかったという言い方にいくらかでも事実に近いものがあるなら、それもまた、こういうことだろう。人は拒否し続け嫌悪し続け否定し続けていては、そもそも生きていられない。

そんなことのすべてもこめて、私はこの手帳の前に頭を垂れる。戦い続けて死ぬことを強制された中での、やむを得ないものとは言え、この熱と、この透明さと、この激しさに匹敵する思いを、平和を守り生き続けることを特に強制されるのでもない今、私は生み出し、守れるか。しいられた強さに負けない、自由な心の生む強さで、戦争をくいとめられる力を保てるか。子どものころから若い時から問い続けてきた自分への問いを、あらためて、私は今、自分自身につきつける。

この手帳をどうしたらいいのだろう。名前も何もなく、渡すべき人もわからない。
断捨離は絶対にできない、この消しゴムでこすれば消える鉛筆書きの文章を、どうやって私は残そう。
どうやって守って、人に手渡せばいいのだろう。

ここまで書いたのが二月のことで、私はしばらく、そのままにしていた。ブログにもアップしたが、当然予想していたように、名乗り出る本人も遺族もいなかった。
折から私の住む町では市長選挙が行われ、自民党推薦で日本会議の一員でもある本命の候補者に対して、私が代表をつとめる「むなかた九条の会」など、さまざまな政党や市民団体が協力して、安倍政権に対決し、市民との対話と情報公開を約束する新人候補を擁して選挙運動を始めた。
四月の末に投票が行われ、私たちの候補は残念ながら当選しなかった。だが、その間、これまでになかったほどさまざまな政党や団体や個人が協力して、ある意味では一寸先はわからない前代未聞の共同戦線で、分裂も崩壊もすることなく最後まで候補者はじめ全員が、意気軒高としていられたのは、奇跡に近いことだったと、ひそかに私は考えている。

誰が中心か責任者かもともすればわからないほど混沌とした体制のスタッフの中で、元気にがんばっていた一人は社民党の地域の責任者の一人で、陽気で元気な男性だった。彼は私が見せたこの手帳にいたく感銘し、よかったら講演に使いたいから貸してもらえないだろうかと頼んだ。
私はもちろん承諾し、ついでに、この手帳を彼にもらってもらうことにした。どう考えても私が持ち続けているよりは、その方が多くの人の目にふれるし、名前もわからない持ち主の心にもかなうと思ったからである。

彼に手渡すにあたって、デパートで新しく、手帳を入れるケースを買った。紅色のふちがついた、銀色のケースが、どこやら飛行機の色にも似て、よいのではないかと思って選んだ。私の文章のコピーもつけて、彼に渡した。平和を守り続けた政党のための、新しい戦いに飛び立って行く、この手帳の出発を祝して。(2018.5.25.)

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カツジ猫