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原発シニア隊

テレビでちらと見たのですが、72歳の方の呼びかけで、原発に行って作業をしたいという、原発OBの方々を中心としたプロジェクトができてきているようですね。

私は、このように「行かなくてもいい」人たちが自発的に現場に入ることは、作業の実態が改善されることに大きくつながると思っているので、歓迎するし、賛成です。

賛否両論あるようですが、もちろんそれもいいことです。しかし、政府や現場が、なかなかこれを受け入れず、プロジェクトの方々に説明を求めたり話し合いをくりかえしているようなのを見ると、「ああ、またか」とため息が出ます。

またかと言っても、もちろん事柄はちがうんですが。
もう退職しましたが私の職場は大学で、昨今は大変きびしい忙しい状況が続いていました。学生のためのカリキュラムを考えようと思っても、人手不足でままならない状態がいつもありました。

そんな中で、ときどき若いと年寄りとを問わず、それこそ決死隊なみの決意で、時間とエネルギーをさいて、新しい授業や仕事を起こそうとしてくれる人がいました。もちろん、勝手にやるのではなく、大学全体や周囲の要望に応えるかたちでです。

私がいつもそこで死ぬほど理解できなかったのは、その時に周囲や上部や担当者が「とにかくやってみて。失敗したらフォローする」という対応を絶対しないことです。
計画のあらさがし(としか思えない)にかかり、細部までごちゃごちゃ文句をつけて、たたく。そして、それに対する解答の書類を出せと要求する。
何なんでしょうかね、あれは。自分も参加したいのか、それで協力しているつもりなのか。嫉妬してつぶしたいと思っているのかと思いたくなるぐらいですが、これは多分そうではない。失敗したとき不安だということはあるのかもしれない。

その中で計画がみがかれていくということも、むろんあるでしょうが、状況としてすごく忙しい中、決死の覚悟で身を削ってそういうことを申し出た人たちに、スタートラインにつくまでに、仕事にかかるまでに、すでに疲労困憊して消耗しつくすようなことをさせて、何がいったい面白いんだか。
見ているだけで私は、ひやひやし、頭に血がのぼりました。

実は私も、そういう計画を一度考えたことがあったのですが、例によって出したとたんに、あれこれ説明を求められ、私は「そこまでの余分な力はないので」と計画をすぐ取り下げてしまいました。
真剣に議論したのに、と担当者は怒ったし、「あれ、もったいないから何とかできないか」と何人かに言われもしましたが、こういう時のアイディアややる気というのは穴からちらと首を出す貴重な絶滅種の動物と同じで、見かけたとたんに引っぱり出して、保護しないと、即座に永遠に消えてなくなるのです。
こねまわし、ひねくりまわしていたら、実現するころにはしぼりかすしか残りません。全部がそうではないかもしれない、しかし、そういうものも多いのです。

大コケしたところで、たかが大学の授業でさえ、こうなのですから、原発の作業なら慎重になるのもまあわかります。しかし、やる方でも大学の授業とは比べ物にならない、決死の覚悟で思い立って、すでに相当の努力をしエネルギーをついやしているのに、さらにそれをすりへらし、やる気をそごうとしているとしか見えない、あの雰囲気が、おなじみなだけに、うんざりします。

若い人が何か思いついても、こうやって周囲がつぶすんでしょうね。そして「今の若い者は指示待ち」とかぼやくんでしょう。ムカムカします。

ついでに言うと、文部省や文科省が大学に何かをさせる時も、まったくこれで、さらに手が込んでいて、本来大学がまったく必要もなく、やる気もなかった計画を「やりませんか(=やれ)」と言ってきて、しょうがないからしぶしぶ引き受けると、今度は、その計画の膨大な資料を大学に作らせ提出させ、それに何やかや難癖つけて許可しない。さんざん苦労して許可が出たときには、まるで大学の方が必死で要請し、大変な難関を突破して獲得した計画のように、双方の頭の中で事実がすりかわっている。
トム・ソーヤーの板塀のペンキ塗りや、凄腕の仲人や、悪徳商人の手口を思わせるこのトリックに、誰も気づいていないようなのが私はいつもふしぎでたまらず、そのこと自体に論理も叡智も死に絶えたような深い憂鬱と絶望感を味わったものです。

いや、原発シニアの話から思いきりそれてしまいましたが、しかし、状況はまったく同じだと思いますよ。

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カツジ猫