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時の流れに身をまかせ♪

◇今日の文学講座で、私と同年配のすごく文学好きの女性が、お貸ししていたレマルクの「愛する時と死する時」を返して下さって、「もう、このラストがあまりにも理不尽で、爆撃で死んだとか戦闘で死んだとかならまだあきらめもつくけど、こんな死に方はもうあんまりで、私は腹が立って、夜、眠れませんでした」って。「いやあ、最近の小説とちがって、昔の小説や映画ってほんとに平気で、救いのないラストを作りますもんねえ」と言いながらも、つい、「わあ、そのみずみずしい感性、すごいなあ」としょうもない感心をしてしまった。そういう人がいて下さるのって、何だかうれしかった(笑)。
「れくいえむ」も読んでみてと、お勧めしておいたけど、あれはどうだろ、眠れなさるだろうか。

◇壁にかける十字架、先日街でフランスの作家が作ったという壁掛けみたいな陶器が、ちょうどよさそうだったので買っていたのだが、その前にお願いしていた私の大好きな芸術家の方が、「壁にかけても首にかけてもいい、アクセサリーだけど、ちゃんと冒涜にならないような十字架」というのをしっかり作って下さって、それはもう素敵だったのでもちろん買った。どことなく本当のロザリオっぽさを残して、十字架の部分はただぺったんこで、何の装飾もないのが逆に力強い。こじんまり、かつ、どっしりとして、まじめだけど、かわいいのが実にいい。さっそく壁にかけた。
首にかけてもしっくり来るのだが、先日買った、ヘビの顔のマフラーをこれにからめると絶妙で、行きつけのお店のオーナーの女性が、大受けで死ぬほど笑っていた。

◇夜は、母のところに、チョコレートと花を持って行った。花はカーネーションに絶対見えない変わったかたちのカーネーションと、花びらがふっくら厚い黄色のチューリップで、母の部屋だと暖か過ぎて長持ちしないかもしれないのが惜しいが、私の家で、カツジ猫と私にしか見てもらえないより、たくさんの人に見てもらえるから花はうれしいかもしれない。
ついでに、受付や夜勤のヘルパーさんにもチョコを渡したが、他の面会に来た人もあげていたみたいで、しばらくスタッフの皆さんはチョコをもてあますかもしれない(笑)。

そこの夜勤の職員の方の一人が水彩画が趣味とのことで、たくさん描いておられて、皆に好きなのを取っていいと言われたとのことで、私も何枚かいただいた。この宗像市のあちこちの風景を描いておられるのだが、どれを見てもものすごく、宗像らしくて絶対に他の町に見えないのがすごかった。というのは、私のただの思いこみだろうかしらん。でも、どうしても、よその町に見えない気がした。それは絵がうまいのか、宗像市という町にそれらしい特徴があるのか、どこの町もそれぞれそうなのか、よくわからないが。たとえば私の実家の近くもだいたい同じ程度の町や村なのだが、そこの風景と、この絵の風景は絶対に見間違えない気がする。

◇曽野綾子が産経新聞に書いた「介護は移民の人にやらせたらいいが、居住区は分けた方がいい」という内容のコラムが、ひどすぎると世界的に話題になってるようだ。介護の件も居住区の件も何から何まで私は反対としか言いようがないのだが、何かもうそれだけですまない妙ないらだちを感じる。「いまどきこんな」「世界で否定されていることを」「非常識な」という批判の嵐に、私もまったく同感なのだが、いったい何にこんなにイライラするんだろうかと自分でもふしぎでならない。

曽野綾子にしても石原慎太郎にしても私は小説はわりと好きだし、曽野綾子の発言はそれなりになるほどと思うこともこれまでにあった。しかし、どういうか、横町に住んでいる変わり者のおばさんやおじさんが口にするには、それなりに刺激的で面白いことでも、人の上に立って権力もあって何かを代表する立場だったら、もう少し考えてものを言えと思うし、それがいやなら人の上に立つなとも思う。
しかしまた、こういう言い方をする自分にも何だか嫌気がさすのは何でだろ。

◇多分、個人的な感情を書いた方が話がわかりやすいんだろうから書いてしまうと、私は職場や日常でものすごく失礼なことを男性から言われることがあった。昔はそういうことはよくあって、私はむしろ、あまり被害を受けなかった方だと思う。私の回りの男性たちは、だいたいにおいて私に対してそういう理不尽な攻撃はしなかった。
私にそういうことを言う男性と言うのは、だいたいの場合、私個人に対する敵意や反感や嫉妬があって、それもものすごく強いものではなかったと思うのだが(本当の敵ならもっと用心したはずで、そこにはたしかに一種の一方的ななれ合いや甘えがあった)、そういう感情をぶつける時に、明らかに私に対して結婚してない子どもがいない美人じゃないみたいな言い方を平気で普通にしていた。私は、そういうことばの内容で傷つくよりは、そういうことまで私に言わずにいられなくなるその男性の私への敵意や反感に傷ついていたと思う。
こんなことまで言わせるほど私を嫌わせるとは、自分にも原因はあるのだと思い、それを取り除きたいとどこかで望んでもいた気がする。

しかし、次第に世の中が変化して来て、女性にそういうことを言うものではないという流れが一般的になったとき、だいたい、そういう男性は、ひとりでに、そういう言い方を私に対してしなくなった。
私が本当にそういう男性を軽蔑し憎悪し徹底的に否定したのは(もちろん内心だけで表面は全然態度は変えなかったが)、その時点だった。
世の中の動きや常識が変化しただけで、あっさりやめられるような、そんないい加減な気持ちでこのクソ男は私に対して、あれだけ失礼なことを言っていたのかと思ったら、何を自分は耐えたり反省したりしていたのかと思わずにいられなかった。そんなことに費やした時間と感情のすべてを返せと叫びたかった。

もし、女性の権利が昔より認められて、そんなことを言うのは非常識だという常識が一般的になっても、その男性が以前と変わらず、私に失礼なことを言ったりしたりし続けていたなら、私は不愉快であっても、その男をそんなに嫌いにはならなかっただろう。
あれだけ私を傷つけることを言ったりしたりしたからには、世界中から弾劾されても職を失い死刑になっても私にそういう失礼な態度や発言を続けることに命をかけて執着しつづけてほしかった。
たかが世の中の動きや時の流れで、あっさり変えるような程度のことで、私にあれほど失礼なことの数々をしたり言ったりしていたのなら、それほどに私を軽く見ていたのなら、そのことの方が私には許せない。
世の中の流れがそうなっ

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カツジ猫