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毛皮がふわふわ。

◇ものすごい寒さで雪までちらつく、時にはふぶく一日でした。
このときとばかり、毛皮の半コートを着て出かけ、ついでにこれに合わせようと思って、この前死ぬ気で買った、けっこう高いジーンズ(あくまで私の基準では)の、すそを直してもらってたのを取りに行って来ました。帰りに寄ったよく行くお店の人から、「その毛皮とジーンズを着てると、都会のお金持ちに見えますよ」と言われて、「きゅうりが68円なのにびびって買えなかった金持ちかあ。バッグも靴もボロだしさ」と言ったら、「いや、その全部ばりばり高級品でそろえないとこが、金持ちっぽいんです」と、わけわからんほめ方をされました。

でもこの毛皮は、さすがに叔母の遺品だけあって、めっぽう軽くてあったかく、そして毎日みたいに着てなでてやってると、心なしかしまいこんでいた時より、顔色と言うか色つやがよくなって来た気がします。
カツジ猫に「ほれ」と着たままくっついてみたら、もう思いきり無関心な顔で無視されました。どうしてかなあ。毛皮のきれはしのついたおもちゃとか大好きなのに。「嫉妬してるんじゃないですか」と知人の一人から言われたが、もしかしたらあたってそうで恐いよ。

でも、そのジーンズは、立派なだけに、前のボタンもいっぱいついてて、しかも新品だからものすごく固い。忘れないようにしてトイレには早めに行かないと、マジで恐ろしいことになりかねないと思う。

◇雪の中を何とか家について、上の家の猫たちが心配になり、行ってみて寝床に毛布を補充したり、エサをやったりトイレを掃除したりして、やっと下の家に戻って来て自分の食事を作ったら、もう9時すぎ。先日安いからと衝動買いした大根といっしょに煮ようと買ってきていたブリにお湯をぶっかけて、適当にしょうゆや砂糖で味付けして、ぶり大根のにせものみたいなのが出来たので、朝のサラダの残りといっしょに食べました。
故キャラメル猫の命日に供える甘えびとカワハギも無事に買えて、ちょっと安心。でも上の家の掃除がまだ全然できていないし、庭もきれいにしないとなあ。

◇海外ドラマの「ナポレオンソロ」の第三シーズンですが、いつはちゃめちゃになるのかなと期待しすぎてるせいか、まだまるっきり、まともです。ほんとに私の目がなれて何を見ても驚かなくなっているのかしら。
むしろ、落ち着いて見るほどに、自分がこのドラマの何が好きだったのかが、あらためてよくわかって来るから恐い。
何しろ女の人が強い。妙齢の美女から小太りのおばさんから上品な奥さままで皆もう軒並みに強くて、わりとよく腕力でさえも男といい勝負してる。これは、あの時代としては本当に珍しかったはずです。今見ても全然古くない。「ポーロック館の地下牢」の奥さまなんて、「毒薬と老嬢」なんかの伝統を引く正統派の怪しいけど愛らしい老婦人の型にはまってるけど、またそれゆえに最高のキャラで、女優さんの演技も最高で、何度見ても笑えます。

毎回、大統領選だのオフブロードウェイだのの世界が華麗に?くり広げられていますが、それが今見てもあんまり古くもないのが、アメリカって変わってるようで変わってないのかもしれないと、変なところで感心もする。誇張してデフォルメするから、今も変わらない本質が描かれてしまうのかしらん。

◇そして女の人もですが、ど田舎の素朴そのものの土地の人が、ときどき敵の組織の一員で、ものすごく間抜けなまのびした対応でソロやイリヤをうんざりさせた直後、一人になったとたんに最新鋭の機器を引っ張り出して本部と連絡するとか、まあベタな展開だし、007でもよくありましたけど、何だかひいき目でなく、このドラマの場合、ステレオタイプの田舎者をバカにしてるととんでもないぞって、メッセージがひそかにこもってそうな気配がするのよね、いやマジで。
女であると同様に田舎に住んでいたから私は、手あかのついた「純朴なだまされやすいアホな農民」の描き方にときどきうんざりしていて、「ナポレオンソロ」のそういう描写って、何だか痛烈なそれへのアンチテーゼみたいな気がすることがよくある。なぜだろう。この感覚は本能的なものだけに、まちがいじゃないって思うのだけど。

このドラマには、女や子どもや老人や田舎者をさげすむ気配が、ちらっともない。むしろ、そういうもののすべてが「手ごわいぞ、バカにしてるとひどい目にあうぞ」と視聴者に言い聞かせてる気がする。「ポーロック館」で、奥さまの恐さにまだ気づかないイリヤが「鎖をといてくれたらうれしいんですが」と、頼んでみて、奥さんがしれっと「主人が怒るからだめよ」と言ってるのなんか、完全に主役側がバカにされてるじゃんか。まあ、あの回の主役は完璧に奥さまではありますが(笑)。

◇それと、これは字幕を見るまでまったく気がつかなかったし、今も十分わかってないかもしれないけど、吹き替えではわからなかったことは、イリヤのロシア人ってのが、プロレタリアートだのブルジョアだのということばもソロとイリヤはけっこう連発して、ものすごくネタになってるのですね。特に最初のころはイリヤはかなり強いロシアなまりでしゃべってるらしいし。

私は最近、映画の方の「アンクルから来た男」のファンの方々のツイッターとかのぞいていて、腐女子的空想、妄想も楽しく読んでいて、でもその中で痛感するのは、前にも一度書きましたが、旧ソ連やら共産主義やらへのあこがれにも近い好感が高まってることです。
もう滅びてしまったからこそ、何か武者小路実篤の「新しき村」とか、もうめちゃくちゃなことを言うと日本の特攻隊とか白虎隊とかナチスの制服に対するような(すげえひっくくり方)、妙ななつかしさ、恐いもの見たさ、みたいなものも含めて。

そしてそこには、たしかに今の時代と世界が失っているかもしれないものへの追憶やら哀しみやらもあったりなんかもするわけで、あるドラマの方のソロやイリヤのファンの方が、二人を分析して、ソロさんは生活様式だけじゃなく思考や発想がブルジョアジーなのに比べて、イリヤにはいつも自分の有能さを誰かにちゃんと利用してもらいたいというような、「使われる人」の姿勢があり、野心のようなものが感じられない、こういう、共産主義の社会にとてもふさわしいような彼を見ていると、人間の理性を信じて作られたそういう体制が、現実に存在する場所はどうやらどこにもなさそうだということが、とても切ない、と書いておられて(いやー、原文そのまま引用したいのですけど、いいのかどうかよくわからなくて)、あの一見軽薄きわまるドラマから、こういう洞察が生まれ

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カツジ猫