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紀行全集のために(4) 八丈島編解説

もうあまりにも長いことほったらかして、出版社に迷惑かけまくりの「紀行全集」の解説原稿です。

もうこのまま使うかどうかわかりませんが、とにかく、この種の原稿を片っぱしからアップします。なお、まだ表記の整理もしていないのでお見苦しいですが、すみません。いずれ訂正しますが、とにかく急ぎます。(20023.3.30.)

 

 

八丈島編・解説

1 島って何?

〔ガラパゴスの島の数〕

 勤務先の大学で新入生相手に「フレッシュマンセミナー」という授業をした際に、「島」というテーマをとりあげたことがある。その時に「ガラパゴス諸島」の島の数をインターネットで検索したら、6つから223までの幅広い数があげられており、学生たちに「このような時、どのようにして正しい記事を選択するか」などと、インターネットも含めた情報収集について考えてもらうのに、いい資料となった。

 

〔島と大陸〕

 これだけの差が出るのは、記述する人によって「島」の定義がちがうため、珊瑚礁のような小さい岩礁を数えるかどうかに関わっているのだろう。

 この「島」の定義については、よく言われる「オーストラリアは最小の大陸、グリーンランドは最大の島」という通念がある程度で、世界でも日本でも必ずしも明確な大きさの規定はない。『島嶼大事典』(日外アソシエーツ株式会社編集 紀伊国屋書店 1991年)も、その凡例で、「日本国領土内の、島名を持つ4,950の島(岩礁を含む)と123の諸島・群島を収録した」と述べ、面積などの定義はしていない。また、「四方を海に囲まれた」というよくある定義をあえて破って、本土と陸続きの島や湖水の島も収録したこと、本州をはじめとした日本四島は除外したことも述べている。

 オーストラリアを大陸と島をわかつ基準とするなら、日本の領土はすべて島ということになる。その「小さな大陸」オーストラリアにしても、かつて本国であったイギリスとの関係、独自の自然風土といった性格は、本書でとりあげる八丈島とも共通する部分が多い。四方を海に囲まれた土地という最大公約数的な定義を利用するなら、地球上のすべての大陸は島といってもいいだろう。

 

2 鬼界が島に鬼はなく

〔千鳥の叫び〕

 江戸時代の歌舞伎「俊寛」(もとは浄瑠璃「平家女護島」の一部分)のクライマックスで、島の若い流人で貴族でもある成経が赦免されて帰国する時、ともに船に乗ろうとして役人から拒絶された島の娘で成経の恋人だった千鳥は、成経への愛、同行できない苦悩を、近松門左衛門の名台詞で痛切にうたいあげたあげく、役人の冷たさをなじって、

 

 鬼界が島に鬼はなく、鬼は都にありけるとや

 

 と叫ぶ。これは「国姓爺合戦」のような異国をも舞台にしたスケールの大きい作品を書く世界観を有した近松の才能を示すだけではなく、そのような作者を生んだ江戸時代の地方や異境への前向きな関心、それを支えた地方文化の発展などがあって生まれた台詞である。「平家女護島」の原典である「平家物語」では、成経たちが流される鬼界が島は、ひたすらに恐ろしい地獄として描かれていた。

 

 島には人稀なりけり。をのづから人はあれ共、衣装なければ此土の人にも似ず。言ふkとばをも聞知らず。身にはしきりに毛生ひつゝ、色黒うして牛のごとし。男は烏帽子も着ず、女は髪も下げざりけり。食する物もなければ、常にたゞ殺生をのみ先とす。賤が山田を返さねば米穀の類もなく、園の桑を取らざれば絹(ぱく)のたぐひもなかりけり。島の中には高き山有。とこしなへに火燃へ、硫黄と云物充ち満てり。かるがゆへに硫黄が島とは名づけたれ。雷常に鳴り上がり鳴り下り、麓には雨しげし。一日片時、人の命の堪へて有べきやうもなし。(「平家物語」巻二ノ八)

 

 鬼界が島は現在の喜界が島とも硫黄島とも言われるが、いずれにしても都を遠く離れた海上にあった。筑紫に左遷された菅原道真が雷神となり、讃岐に流された崇徳院が天狗となってともに、自分をそのような辺境に追いやった人々に祟ったと信じるほど「地方へ行く」ことが恐ろしい悲劇でしかなかった京都の人々にとっては、それほどにはるかな海上の孤島は、もはや人外魔境でしかなかっただろう。それにしても今の私たちが読めば、鬼界が島の恐ろしさは、都からの距離の長さ、噴煙をあげる火山といった自然環境はともかく、「農業をしない」「絹の服を着ない」から「男は烏帽子をかぶらない」「女は髪を長くたらしていない」のが、この世の地獄の理由となっているのに違和感を禁じ得ないだろう。それはまた、男が烏帽子をかぶらなくなり、女は髪を結うようになった江戸時代の人たちも共感しにくい感覚だったろう。

 

〔近代文学の継承〕

 千鳥をこのように叫ばせた赦免の船が来る前に、「平家女護島」は他の二人の流人、俊寛と康頼とともに成経ら若い二人の恋人が幸福そうに談笑する場面を観客に見せる。島での暮らしは貧しく、都は恋しいが、成経が心をこめて仲間の二人に語る島の娘千鳥の愛らしさに象徴される離島の暮らしは、決して悲惨なだけのものではない。彼らは心を許しあって静かに平和に暮らしており、「鬼が住むというこの島より、都から来た役人の冷酷さこそが鬼ではないか」と訴える千鳥の名文句は、このように描かれた島の生活の延長上にあって観客にも素直に共感できるのである。

 近代以降、菊池寛、芥川龍之介、吉川英治らによって、このような島の描き方はさまざまなかたちで、より強調されて踏襲された。菊池寛の短編小説「俊寛」(大正十年 新潮文庫「籐十郎の恋・恩讐の彼方へ」所収)は中でもダイナミックな傑作である。そのような近代文学の作家たちがおそらくは参考にしたであろう、このような感覚で描かれた演劇が江戸時代の比較的初期に生まれていたことは興味深い。

 

3 島に住む人

〔フライデーの描写〕

 「平家物語」での鬼界が島の描写にあらわれていた、「異なる文化はすなわち野蛮」と感じる意識は、もちろん日本だけのものではない。「島」を題材とした外国文学のさまざまにも、そういった面はよく登場する。

 中でも孤島を舞台にした文学としてあまりに有名なダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』(一七一九年 岩波文庫など)では、絶海の孤島でも可能な限り英国風の暮らしをしようとする主人公ロビンソンが、たまたま命を救った先住民の若者フライデー(金曜日に救ったから、その名が与えられた)に服を着せ英語を教え、文明人にしようとする。

 講談社版世界文学全集『ロビンソン・クルーソー』(一九六一年刊)は少年冒険文学を多く書いた南洋一郎氏が児童向きにまとめたものであり、フライデーと初めて会った日、眠る彼を観察するロビンソンの感想を次のように記している。

 

 蛮人とはいいながら、りっぱなわかものである。(略)顔も蛮人らしいたけだけしいみにくさは少しもなく、りんとした男らしさがあり(略)髪は黒々と長くたれて、もじゃもじゃにちぢれてなんかいない。(略)鼻は小さいが、アフリカや南洋の蛮人のようにぺちゃんこにあぐらをかいていない。

 

 南氏のこの本は全体が非常に生き生きとして面白い。フライデーのこの描写も例外ではない。だが、ここには平家物語と共通する、あくまで書き手の基準としての美意識や価値観が示され、白人に近い顔立ちや髪質が好ましいものとして描かれる。実は英語の原作にはここまでの描写はなく、南氏は読者である日本の子どもを喜ばせるために、あえてこのような描写をし、おそらくはそれに成功している。

 

〔近代文学のフライデー〕

 現代の文学ではフライデーに象徴される、島の人々の文化は征服者である白人の文化と比べて、悪でも野蛮でもない、もうひとつの文明として認められている。トゥルニェ『新ロビンソン・クルーソー』(岩波書店 一九八九年刊)では、ロビンソンの船は完全に沈没したため、難破した船体から物資を運び出すことができず、西欧文明を模した生活が送れないロビンソンは、フライデーによって島で生きていくための新しい生き方を学ぶのである。

 そのような新しい視点が生まれるのは、他の分野の学問の発展とも関わっている。文化人類学の祖レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』(一九五五年 中公クラシックス)では、ロビンソンがフライデーを教育して断固としてやめさせようとした食人の風習さえ、ひとつの文化として容認されているかに見える。更に近年の竹田英尚『文明と野蛮のディスクール』(二〇〇〇年 ミネルヴァ書房)では、南太平洋の先住民たちが食人の習慣を持っていたということ自体が、征服した民族が広めた虚構ではないかという推論が緻密な資料の検討によって行われている。

 

4 楽園か地獄か

〔文明に疲れたら〕

 そのような文明という概念の相対化とともに、時代が下るにしたがって島はむしろ、文明に疲れて傷ついた人々の心を癒す場所として文学に登場するようになる。サマセット・モーム『月と六ペンス』(一九一九年 新潮文庫)は画家ゴーギャンをモデルにしたとも言われるが、ややもすれば皮肉で冷たい筆致で描かれる文明社会に比べて、主人公が晩年を過ごす南太平洋の島とそこに住む女性は、素朴で大らかな存在として肯定的に描かれている。

 有吉佐和子『私は忘れない』(一九五九年 新潮文庫)も華やかな芸能世界で挫折した若い女性タレントが、伊豆の御蔵島で暮らす中で再出発の力を得る話で、彼女と島の人々が与え合う影響は単純に型にはまらず複雑に交流する。最後にいたって、「島を忘れないというのは、文明に置き去りにされた島の人々を忘れないという傲慢なものではなく、都会で暮らす自分が島で得たものを失わないで持ちつづけるということなのだ」と主人公が達する結論は深い。

 

〔進歩への絶望〕

 島を舞台とする文学には、文明社会や都会生活に対して、そのような個人的な拒否感や脱落意識だけでなく、もっと根本的な疑問を呈するものも多い。ジョナサン・スウィフト『ガリバー旅行記』(一九三九年 新潮文庫など)の最後で、ガリバーが漂着するのはフゥイヌムと呼ばれる馬たちの支配する島で、そこは人間世界の醜さなどガリバーの説明によっても理解することさえできずに困惑する高潔な馬たちが社会生活を営む理想郷として描かれている。この島に永住を望んでかなわなかったガリバーは、人間と文明に対する強い嫌悪と絶望を抱いたまま、故国に帰って行くのである。

 ヒュー・ロフティング『ドリトル先生月へゆく』(一九二八年 岩波少年文庫)の月世界も、この童話の中では宇宙に漂うひとつの島といってよい。そこには動植物すべての生き物が共存する世界が実現している。ドリトル先生シリーズの最後に近いこの話は、児童文学には似つかわしくない人間と世界への不信にみちており、よりよい世界を求めて地球で努力しつづけてきたドリトル先生には、ガリバーと共通する疲労と悲哀がただよっている。

 

〔都合よい保養地〕

 洋の東西を問わず、架空の島か否かを問わず、近現代の文学で島はこのように人間の世界に疲れ、共存できない人たちの憩いの場としてよく描かれる。日常生活とは異なる基準の中で、人々はやすらぎ、時には新しい自分を見出して再びもとの世界に復帰する。

 だがこれは島に限ったことではなく、砂漠でも密林でも同じことだが、一つの文明に疲れた人が、異なる文明の中で癒されるという図式は、その異なる文明に身を置く立場の者にとっては、時に複雑な気分になるものであることも忘れてはなるまい。中央からの敗北者、脱落者を抱え込まされることの多い島にとっては、「平家物語」の流人たちのように地獄扱いされて嫌悪されるのも心外だろうが、休息に都合のいい別天地として、島が抱える現実を見ないまま天国のように理想化されてしまうのも、決して幸福なことではあるまい。

 

〔文明の敗北〕

 先住民とその文化も含めた島の自然の再評価とともに、そこに既存の文明がとりこまれて消滅する恐怖を描く文学も、近現代には登場してくる。

 ロビンソン・クルーソーの影響下に生まれた文学の一つであるウィース『スイスのロビンソン』(一八一二年 岩波書店)はテレビアニメ「ふしぎな島のフローネ」の原案にもなった家族の漂流記で、危険や不幸もあるものの、島はさまざまな動植物にあふれた楽園のようである。ジュール・ベルヌ『十五少年漂流記』(一八八〇年 新潮文庫)、ロバート・バレンタイン『さんご島の三少年』なども、孤島に投げ出された少年たちが彼らだけで理想的な共同生活を築き上げていく過程を描く。これらの作品では島の自然と漂着した人たちの文明とに対立や矛盾はなく、両者は刺激し合って健全な発展を遂げる。

 だが、そのような文学の伝統を十分に意識しながら、島に漂着した少年たちの中で理性が敗北し狂気と野蛮が支配する恐怖を描くのがウィリアム・ゴールディング『蠅の王』(一九五〇年 新潮文庫)で、孤絶した環境での自然との一体化が人間の進歩と一致するとは限らないという、暗い現実と向き合っている。少年たちは最後に救われるが、彼らが帰る故国とそこを支配する従来の文明にも希望があるという明確な展望はない。

 その点ではSF小説の古典H.G.ウェルズ『モロー博士の島』(一八九六年 岩波文庫など)も同様で、狂気の学者が孤島で動物と人間を合体させて新種の生物を作ろうという試みの失敗を描くが、生き残った語り手の青年は帰国後の繁華な都会の中でも、しばしば島にいたような奇怪な半人間を見る幻覚に悩まされる。文明から隔絶された世界でも新しい生命や社会は誕生できない。しかしまた文明の地も、もはや決して安らぎの場所ではない。その点で、「モロー博士の島」や「蠅の王」には、めざす場所も帰る世界も存在しない、行き止まりの絶望だけがある。

 

5 八丈島紀行の周辺

〔海の紀行〕

 これまで述べてきたような、「島の文学」という性質のさまざまは、八丈島紀行にはどのようにあらわれるだろうか。

 その前に日本における、海を中心とした紀行についてふれておこう。

 四方を海に囲まれた日本では、いわゆる日本三景の松島、厳島、天橋立がすべて海を含んでいるように、美景と海が深く結びつく。海浜を散策し風景をめでる紀行は松島や江ノ島を題材とするものを中心に、かなりの数にのぼっている。それらの描く海浜の美景の描写には常套的な美文ではない写実性を見せるものも少なくない。

 また、関西から九州へ至る際に多くの旅人が海路を選ぶため、瀬戸内海の紀行も多い。平穏な海路だが、風の都合でしばしば港に滞留したり、引き返さざるを得ないこともあって旅人たちを歎かせている。江戸時代に書かれたこの地域の紀行には紀貫之「土佐日記」を意識しているものが多く、この作品の影響の大きさがわかる。

 

〔漂流記の特徴〕

 九州の国学者中島広足「樺島浪風記」(文政十一年)のように、難破や漂流の体験を記した紀行も多い。「樺島浪風記」は当人にとっては深刻でもごく小規模な難破だが、より大規模な漂流記も多く存在し、荒川秀俊氏の「異国漂流記集」(正編は昭和三七年 吉川弘文館、続編は昭和三九年 地人館)、「近世漂流記集」(一九六九年 法政大学出版社)など研究も進んでおり、「海表叢書」「海事史料叢書」、帝国文庫「漂流奇談全集」にも作品が収録されている。

 これらの作品の文学としての魅力は、現在の災害報道のニュース、パニックものやホラーものの映画などとも共通する悲惨な状況の報道であり、同じ江戸時代の、饑饉や地震を時には誇張や笑いさえまじえて記録する作品類とも共通する。かつて中村幸彦先生は中世以前の軍記物が果たしたと同じ役割を近世では災害物がになっていると言われたが、そのような読者の興味に応えている面がある。

 もう一つは、そのような危難に毅然として立ち向かう勇敢な主人公(作者)像の表出で、これも近世紀行全体に通じる、中世以前の紀行とは異なる新しい傾向である。

 

〔その他の島々〕

 漂流記ほどでなくても、蝦夷(北海道)、佐渡、隠岐などの島へ赴く紀行では、島へ到達する以前に航海の苦難を描く部分がよく登場する。そうやって到達した島の風物に作者が違和感を感じつつ、やがて興味を持ち受容にいたる過程もさまざまに描かれている。隠岐については刈谷図書館蔵「澳島記」(寛永十一年)、佐渡については東京大学図書館蔵「佐渡青葉日記」(中野養信 文政十三年)や川路聖(あきら)「島根のすさみ」(天保年間 東洋文庫)などがあるが、距離も文化の差もそれほどではなかったからか、島の生活や風物を詳しく記述する長編の作品は少ない。また蝦夷については既に私が「近世紀行文集成・蝦夷編」(葦書房)で紹介しており、琉球(沖縄)についてはまだ十分に調査していないので、ここでは述べない。

 

6 八丈島紀行の数と書誌

〔全体の概数〕

 「国書総目録」には八丈島関係と推測できる書が七十余点記される。「国立国語研究所報告Ⅰ 八丈島の言語調査」末尾の文献目録には二十一点、大間知篤三氏「八丈島 -民俗と社会-」末尾の古文献解題には二十五点が江戸期以前の書として上がる。重複するものもあるが、おおむねの数のめやすとなるだろう。

 この中には「八丈島年代記」(国会図書館所蔵 同名の別書を大間知氏も紹介する)、「八丈島御年貢納帳」(内閣文庫)、「伊豆七島明細記」(九州大学)、「八丈沖記」(豊橋市立図書館)など、文学作品とはいいがたい文書の類も多い。また、「八丈物産志」(国会図書館)、「八丈島図譜」(東北大学狩野文庫)などは、いずれも絵図を中心とする。

 

〔主要な作品〕

 これらの中で、江戸時代にもよく読まれて影響を与えている作品がいくつかある。

 まず「伊豆海島風土記」である。写本も多く残る大部の書で、大間知氏の解題では天明元、二年に佐藤行信、吉川秀道が巡検使として伊豆七島を廻った折の著とし、寛政三年の秋山章「南方海島志」(別名「伊豆海島志」。後に孫の萩原正夫が補修して明治三四年に「伊豆七島志」として刊行)もこれを基本とするという。私が見た限りではそれほどの記事の一致はない。しかし他の本にもこれに触れているものがあり、影響は大きい。六巻から成り、第一巻が八丈島、小島、青ヶ島、第二巻が大島、三宅島、新島、神津島、御蔵島、利島について述べ、三巻以降は草木や魚鳥類の図会である。

 次が「小寺応斎紀行」である。大間知氏解題は寛政八年、代官三河口太忠の八丈島渡海の際、従者応斎が記した作品で、「七島日記」の名で上野図書館に蔵されており、後に同じ作者が記した「文章もより優れてゐる」「私人の紀行の如く記した」改作「巡島日記」があることを紹介する。

「七島日記」は「伊豆日記」、「巡島日記」は「島日記」として昭和五一年に緑地社刊「伊豆諸島巡見記記録集」に翻刻紹介され、金山正好氏の作者と諸本についての精密な解題がある。詳しいことは金山氏の解題を見ていただきたい。

二点だけつけ加えると、第一に「伊豆日記」と「島日記」の間には大間知氏の述べられるほどの文学的な差はないものの、同一の記事における表現の差、記事そのものの異同は多く、重複する記事も多いとはいえ、やはり別の作品として両者を読むことが必要である。

第二に金山氏は「国書総目録」で主として「七島日記」「伊豆日記」「島めぐりの記」の書名を有するものについて調査して下さっているが、それ以外の書名や著者名が異なる八丈島紀行でも実は応斎のこの二紀行のいずれかである可能性が高い。たとえば私が見たものでは東北大学狩野文庫「八丈物語」、神宮文庫「八丈島紀行」が「伊豆日記」、京都大学谷村文庫「八丈島記行」、京都大学「八丈島記」(「国書総目録」では小野寺謙の自筆本とする)「八丈日記」が「島日記」だった。

蝦夷紀行でも同様の現象があるのだが、このような辺境の紀行については、書名が同じでも異なる内容のもの、書名が異なっても同じ内容のものが多く、書誌の検討は一筋縄では行かない。江戸時代の人々に著作権という概念はなく、特にこのような遠隔の地の貴重な情報については、他人の作品を書き写して自分の書いたものとすることに抵抗はなかったようだ。言いかえれば、膨大な数を有するかに見える八丈島紀行も、内容を検討すればいくつかの代表的な作品のみに整理できる可能性もある。

この他、近藤富蔵「八丈実記」も著名で膨大な作品で、「日本庶民生活史料集成」第一巻に所収され、小林亥一氏の解題がある。この作品にも、国会図書館「八丈の寝覚艸」のように異なる書名で同じ内容のものがある。

本書に紹介する中では、大原正矩「八丈志」が、多くの異本を有し、諸書に引用されているが、これについては作品の解説で述べる。

 

7 八丈島紀行の内容

〔嵐と凪ぎの恐ろしさ〕

 八丈島への航路は恵まれた状況にはなかった。「伊豆七嶋記」は早潮、黒潮という二つの潮流の恐ろしさについて述べ、「伊豆日記」などは赤潮という潮流をあげる。また、本書に収録する柳田誠之助「八丈覚書」が記すように、船着きの港も整備されたものではない。したがって船はまず三宅島に行って天気を見合わせ上陸を待った。しばしばその滞在は長引き、時には引き返すことさえ余儀なくされた。島役人斎藤喜六郎の文書を集めた「八丈島」には、このような事態は流人船の場合、流人のいらだちを招き反乱さえ招きかねなかったことが示されている。

 本書に収録する大原正矩「八丈志」も何度も嵐にあって引き返し、勇敢な船長の決断で危険を冒してようやく上陸したことを記す。小寺応斎も同様の苦難を述べるが、特に帰途では嵐以上に無風の凪の恐ろしさも思い知ったと述べている。

 

 又、空はれ、海のおもてなぎぬれば、船はやすきものとおもひしが、なぎの、風波よりもおそろしき事、はじめてしりぬ。(「伊豆日記」)

 

〔外洋との境界〕

 また、本書に収録する池則満「八丈島漂渡記」は漂流後、八丈島に着いて島の名を聞いた時、「情けない、もう帰れない」とショックを受ける。だが、一方では島民が彼らに向かって「仕合(しあわせ)なる人々かな。此島をはなれなば何しに助り給ふらん」と慰めるように、外洋に流れ出さなかったことを幸福と考える者もいた。

 

 助け船に参り候者に「孰れの地ぞ」と相尋ね候処、「八丈島」と相答候に付き、始めて承り、「未だ日本の内にてこれあるかな」と皆々安堵の思ひを成し、(竹谷彦八筆記、船頭音吉等談「八丈島漂流覚書」 嘉永七年)

 

 これらの記述が示すように八丈島は地の果ての辺境であると同時に、なお日本の内である最後の限界として人々に意識されていた。多くの八丈島紀行が冒頭で、

 

 夫れ伊豆国八丈島は浦賀より辰巳に当たり、海上凡そ三百里余、此間の島々を伊豆七島と云。(「八丈島雑記」 神戸大学住田文庫)

 

 などのように方位や距離の説明をするのも、一見味気ないように見えて、実は彼らの実感した島までの距離を改めて確認しているのかもしれない。

 

〔描かれない望郷の念〕

 八丈島紀行を記したのは、現地の役人、流人、漂流者などである。だが、そのいずれの作品からも激しい望郷の念や、島に対する嫌悪や拒絶はうかがえない。

 たとえば富士山によく似た山の八丈富士、島の産物として江戸へ送られる八丈縞の織物、かつてこの地で流人として果てた宇喜多秀家や源為朝の伝説などの記事が登場すると、おそらくそれにかこつけた望郷の念が語られると、読む方はつい自然に予測しては肩すかしを食うはめになる。八丈富士については応斎紀行が、

 

 げに、富士に似たるかなと思ふにつけても、国のかたなつかしく、かぎりなく、とほくも来ぬる事よと、

 

 と書いている程度で、激しい嘆きなどはまったく見えない。織物についても製造過程やそれに携わる女性たちの生活を細かく記するものが多く、それはあくまで現地の風俗への関心であり、織物が産物として本土へ送られていることについての特別な感懐はない。秀家や為朝に関しては記述自体が少ないし、冷静である。為朝は小島に為朝明神の社があって、そこに参詣することが多い分、秀家よりよく登場するが、その際も島の文化に彼が果たした役割について述べて、流人としての心情に触れるものはない。そういう点での常套的な文学性を期待すると失望させられるだろう。

 

〔仙境としての賞賛〕

 全体として八丈島紀行に登場する島の描写は、やや非現実的なほど肯定的で好意に満ちたものである。

 

 人、淳朴にして上古の風あり。(阿部将翁「豆嶼行記」)

 

 西山(八丈富士のこと)の月、麓の桜、清幽にして可愛(愛すべき)の地也。四季暖く、霜雪氷結の愁なし。五穀豊穣の地也。(細川宗仙「八丈記行」)

 

 本書に収録した中でも、「八丈島画記」は「なすは大ぼく(木)となる。はしごをかけてもぎとるなり」と、土地の豊饒を表現し、「八丈島漂渡記」も、気候は温暖、人は長命、島民は家族のようにむつまじく、男女は各自の生業に励むと、まるきり理想郷のような描き方である。

 阿部将翁が「上古の風」と言っているように、これは江戸時代の紀行全体に共通する、「辺土にこそ、現代の都会には失われた古代の美風が保存されている」という発想がその基本にあるだろう。だが、それを裏づけるだけの実感も、やはり八丈島はこれらの人々に与えていたにちがいない。

 

〔女性の描写〕

 とりわけ女性の美しさに関しては、すべての紀行が筆をさいている。本書に収録した「八丈志」では、作者の父が「不美人もいるが、肌が皆きめこまかで美しい。痘を病まないのと白粉をつけないのが理由だろう。男女とも若く見え、女は特にそうだ」と帰国後、人に語っているし、柳田誠之助「八丈覚書」も「伊豆海島風土記」が書く女の髪の長さには誇張があると批判した後に、「それでも椿油をつけるからか非常に艶がよく、長いものは四尺はある」と証言している。

 外見の若々しさについては細川宗仙「八丈記行」が、

 

 女は容顔よろし。色白く五拾才位ひ成る者、江都(江戸)の三拾才位と見るべし。

 

 と述べている。その他にも、竹谷彦八「八丈嶋漂流覚書」が、

 

 途中にても髪を木の枝に打ち掛け、櫛一枚を以て、ときたばね、かへるなり。

 

 女、男を愛する事、往古女護の嶋なる故か。誠に男を大切にする所也。譬ば国地より適々渡りし米、これ有り候ても、夫に食せ自分は薩摩芋の外、喰申さず候くらいの所也。夫故、漂流人へも信実也。

 

 と、本土の女性には見られないのびやかな振る舞いや、心の優しさに感銘を受けている。これは古くは「北条五代記」(天正元年から十八年ころの三浦茂信の見聞集で、巻五の四で八丈島に住んだことのある男の思い出話を紹介する。有朋堂文庫所収)でも強調される八丈島の女性の美しさと情け深さや、伝説の女護ヶ島とともすれば同一視されてきた伝統(『西鶴文学研究』所収、吉江久弥氏「女護島考」を参照されたい)も影響しているだろうが、少なくとも現地で実際に見た女性たちの姿が、そのような語り伝えを裏切るものでなかったことは確かだろう。

 その女たちが中心になって踊る盆踊りの様子も、挿絵を交えて八丈島の紀行にはよく登場する。

 

〔その他の行事〕

 盆踊り以外の年中行事のさまざまも、八丈島紀行は詳しく記している。その中には相撲や牛合わせといった男性が中心となるものも多い。「北条五代記」は女性の美しさに比して男性は醜いとするが、「八丈島漂渡記」には「島人の生質、男女とも色白く容儀よし」とこれを否定する記述があるし、小寺応斎は、島の男性はやせていても本土の人より力が強く、相撲を取ると島民の方が勝つと述べている。応斎はまた牛についても「肥ふとりて力つよく、国の牛にまされり。牛はそろそろとのみあるくものと思ひしに、島の牛のかける事、国の馬にかはらず」と驚いている。

 これらの自然や風俗を描く記述の中に、軽侮や恐怖はない。細川宗仙が出産について、「自ら仙境の地、産すべて軽し」と書くように、軽い尊敬さえ感じられる。

 本土のものより遙かに大きく、赤児をさらい人をたぶらかす魔性の山猫だの、鼠が多いために建てられる特殊な形状の蔵、食べると突然、木に登りたくなる毒きのこなどの記事もほとんどの紀行に登場する。しかし、そこに島の悲惨を記すといった暗さはなく、どこか楽しげに奇談を語る趣がある。宗仙が「仙境」と書くように、一種の理想郷を語る筆致と言ってさえいい。

 

〔貧しい食生活〕

 このように島の生活を描く八丈島紀行に、否定的な表現は少ないのだが、それは実際にどこまで現実だったのか。

 八丈島を象徴するものの一つにアシタバという草がある。現在でも健康食品や薬草として販売されるから知っている人は多いだろう。多くの紀行が挿絵入りで紹介するこの草は、小寺応斎が、

 

 (アシタバの雑炊は)島人のつねの食にて、飯はたえてくふ事なし。こゝろみにこひて、あぢはひ見るに、えもしれぬにほひして、ふた口とのんどをとほらず。かゝるものだに、あくまでにはなく、やくな、はまあした、あざみなどいふ物、又、海の藻いろいろ取て、潮水をもて煮て食とす。

 

 と記すように、島の食生活の貧しさの象徴でもあった。自然に恵まれ、動植物の生育が著しいことと矛盾するようだが、島の農作物が人口に比して乏しく、薩摩芋の栽培がとりいれられるまでは餓死する者も多かったという。本書に収録した「八丈裁衣織」は、島の土地が農耕に適さないこと、食料が不足し、饑饉の折は医者もいないことなどを綴っている。島によっては風土病もあり、害虫にも悩まされた。

 

 蠅の居る事、是又余分也。喰物を座に置ば、少しも明きのなきやふに止る也。客に喰物を出すには、壱人傍に居て、団扇を以て追也。夕方に天井を見れば、止りし事、身の毛のよだつ計(ばかり)也。(「八丈島漂流覚書」)

 

〔流人たちの暮らし〕

 このような中で流人たちはどのように暮らしていたのか。大隈三好氏は『流人の生活』(昭和四五年 雄山閣出版)や『伊豆七島流人史』(昭和四九年 雄山閣出版)などで、流人も階層によって大きく差があり、本土から家人が物資を送ってくれる場合は楽だったが、そうでない場合は苦しかったと記す。東京国立博物館蔵の写本「八丈島模様聞書」は八丈島の見聞記で、ここにも流人は三宅島までは公儀の扶持に預かったが、島へ上陸後は何の援助もなく、「才芸これ有る者、又は江戸より見継(みつぎ)等これ有る者は取り持ち宜しく候由、其の儀これ無き者は難渋、日々やとわれ暮し候由」などと、大隅氏と一致する記述が見える。

 神戸大学住田文庫蔵「八丈島雑記」は、序文で「嘘にあらず実にあらず、唯(ただ)見聞するを」著すと述べていて、その正確さは保障できないものの、流人たちの生活を次のように描いている。

 

 是等(こういった流人たち)は農業手伝、或は手細工、又は藁艸利(わらぞうり)を組、麦、粟、芋、さつま芋等に取替、漸々其の日の露命を繋ぐのみ。尤も、国地因みの者より見継(みつぎ)等これ有る者は格別也。右流人、常々の心懸には、天下泰平、御武運長久、次には御赦免のためとて、天気を見定め浜にて汐垢離を取、信心し、是等の事は先非を悔ひ、今心底改めて斯くの如く成るべし。

 

 更に小寺応斎は流人たちの哀れな状況を細かく述べる。

 

 けふは、このしまの流人、みなよびいだすことあるを見るに、おほかたはやせ衰ひ、色青ざめて、此の世のひとゝも覚えぬばかりにて、其のさま、いみじくあはれなり。されども、下ざまのものはいはじ(身分の低い庶民はともかくとして)、其の中には、尋常(よのつね)ならぬ(立派な身分の)人も有り、又、世のおぼえめでたく、時めきたりし人も有り、又、一山一寺をしりたる(支配していた)法師も有り、又、富有にひとゝ成りて(豊かに育って)世の憂きめしらぬひともありときくに、今は島の人にいやしめられ、(あした)草に露の命をつなぎて、かなしき星霜(としつき)をおくるも、「若(もし)御免(みゆるし)の有りて、一度(ひとたび)国に帰る事もや」と、それのみを頼みて明し暮すなるべし。かゝる憂きはづかしめを受くる事、是、誰があやまちぞや。皆、自らもとむること有りてしかり。さりとも、其の身のはぢは、しのばゞしのびても有なん、先祖、親族の名をけがす其の罪は、島の海よりもふかゝるべし。(「伊豆日記」より。「島日記」の記述もほぼ同じ)

 

 だが、いささか教訓めいたこの文章に、この書が板行されて流布したこと、報告書という性質もあることを思い合わせると、幕藩体制に逆らった者の末路を示そうとする作者の筆に誇張がないとは言い切れない。本書収録の「八丈志」の著者大原正矩の父は流人で、作品中にもよく登場するが、応斎が記した流人の相貌をその姿に重ねることは、不可能ではないが困難である。

 

〔細川宗仙の紀行〕

 そもそも流人たちは、本書に収録した「八丈島覚書」の柳田誠之助にしても、「八丈島画記」の国清にしても、島の実態については先行紀行を訂正し、多くの絵図を残すなどの興味や情熱を示しながら、流人としての自らの生活や心情をふしぎなほどに記さない。

 わずかにそれが見えるのは、細川宗仙「八丈記行」である。作者の宗仙は自ら紀行中に「我は去る安永四年、国法に背き罪を蒙りしより、五十四年の星霜を経ぬれば」と記し、大隈氏の「伊豆七島流人史」所収の、流人帳を基にした流人年表にもその名がある。そこには安永五年の十一月に流されて五十一年間島に居て赦免されたと記され、身分は「寄合医師」となっていて、「八丈記行」の末尾に「元寄合医師 細川宗仙記之」とあるのと一致する。「予が嶋に在し時、衆人の病を救んとて、牛に乗て往来せし事(中略)思ひ出して」と文中に述べているように島では医療も行っていた。東京大学蔵「伊豆七島記」に、「流人、文学あるか、又、医を心得たるか、筆算などよくするものは、島民、師としてもの学ぶにより、賤しめずとぞ」とあるように、島民からは一定の尊敬を得る立場だったかもしれない。

ただし、この「八丈記行」は、八丈島紀行として優れた作品とはとても言えない。11行書でわずか6丁と全体の量も少ない上、前半は大半が小寺応斎「伊豆日記」の要約である。だが、最後の年中行事の説明で「伊豆日記」からやや離れ、二月の行事になった時、そのまま自分の飢えの体験、赦免にいたるまでの日々を作者は語り出す。

 

二月に至り食物乏し。野びる、芹、其の外磯辺に行、蛎、小貝を取て食物のたしとす。又、左遷の人は、右の手伝をして露命をつなぐ。誠に楚の屈子が(たん)にさまよひ、身を洞羅に投んとしたるが、かくやと思ひつゞけぬ。時、文政丁亥、八丈神湊に三宅嶋船来る。嶋長、村長、右の船に公の赦し文を読上る。予、其の中に在ぬれば嗽ぎ鏡に寄ば、嵯残たる白髪の年、又、黒主の「鏡山いざ立寄て立行む年経ぬる身の老やしぬらん」と詠じ給ひしもかくなん、かわり果たる姿なれば、開雲霧、看青天面、骨髄に徹して有難く思ひぬ。既に壬六月十二日、貢の 御船、艤して江都に趣かんとす。妻子旧友に名残を告て岸に臨ば、扇を揚て船呼ぶさま、実にや、生別魂を銷すると示しも眼のあたりなり。はてしなければ艫綱を解き放せば、岸の上に集居し旧友妻子呼合声、喧し。夫より順風に帆を揚げ、(中略)程なく浦賀の湊に入ぬれば、檣は垣のごとにのぼり、陸は万商市廓軒を並て、

御仁政の徳沢、行届たる事、筆端に述がたし。

 四海みな君の器ぞ夏の月

と口ずさみつゝ、伝馬船おろして陸に登りて、ある茶店に憩ふ。

 

茶店の主人は親切だったが、宗仙は金がないので立ち去ろうとすると、主人が明神に奉納する額の字を書いてくれと頼み、宗仙はこれに応えて、また伝馬船に戻る。

この紀行の形状はどう見てもきわめて私的なものなのだが、それでも彼は自分の罪が何だったか、反省しているかどうかを語ろうとはせず、「御仁政」をたたえ、帰国を楽しむかのようだ。一方で長い年月を過ごした島には友人も妻子もいたようだが、そのことへの感情も記されてはいない。

他人の地誌の要約から年中行事の記述の途中で、自らの飢えの体験、赦免の日の描写へ移って行く過程も、彼のこの中途はんぱな心情の表出も、逆に八丈島での日々が流人たちに与えたものの大きさと重さ、簡単に整理できない複雑さを伝えるようである。

 

〔語れない心情〕

八丈島紀行の多くは、そこに到達するまでの距離の長さと、そこに滞在した時間の長さが印象に残る。流人の場合、数十年という流刑期間も珍しくない。自己の意志によらず、そのような長い期間を島ですごさざるを得なかった人たちにとって、島とは何であったのか。生きのびて帰国する時に感じるのはささやかな勝利感か、敗北感か、虚脱感か。自分にそのような運命を与えた者への怒りは消滅するのか、変質するのか、増幅するのか。八丈島紀行のほとんどすべては、それについて何も語ろうとしない。

これらの紀行の多くは、帰国して後に記された。小寺応斎ら役人たちのように、一定期間で帰国できるとわかっていればまた事情は異なるだろうが、漂流や流刑の場合、いたずらに望郷の念にかられ、島への嫌悪を高めることは生きる意欲を奪いさえする危険なものでもあったはずだ。島に居る間にそれを抱くことは制御せざるを得なかったろうし、折よく帰国して筆をとる頃には、逆に長く住んだ島への望郷の念さえも生まれていたかもしれない。島に対する拒否感は、帰国後の生活にいささかの幻滅さえ味わっているかもしれない状況では、薄れがちでもあったろう。

 

〔誰がために鐘は鳴る〕

冒頭に紹介したさまざまな島の文学、またソルジェニーツィンをはじめとする現代の流刑や亡命を題材とする文学作品のように、さまざまな理由から故郷をはなれ、異なる風土と文化の中で生きることを余儀なくされた人たちの、その場所に対する思いのさまざまが八丈島紀行の背後にはある。幕府への憤懣も過去への執着も語ることなく、ただひたすらに自分たちが過ごした八丈島について、そこの自然や生活を作者たちは書きとめた。彼らの目に映り、記憶にとどまる島の姿を十分に私たちが見て、忘れないことこそが、彼らの望みなのかもしれない。彼らがそこで暮らした島を知ることが、彼らを忘れないことになるのかもしれない。

有吉佐和子「私は忘れない」の主人公のように、それはまた、島にいないし、いたこともない人々にとっても、日々を生きていくために必要となることもある。

 

  何人も一島嶼にてはあらず

  何人もみずからにして全きはなし

  人はみな陸のひとくれ、本土のひとひら

  そのひとくれを波の来たりて洗いゆけば

  洗われしだけ欧州の土の失せるは

  さながらに岬の失せるなり

  汝が友どちや汝みずからの荘園の失せるなり

  何人のみまかりゆくもこれに似て

  みずからを殺ぐにひとし

  されば問うなかれ 誰が為に鐘は鳴るやと

  そは汝が為に鳴るなれば

 

 と告げるジョン・ダンの詩「誰がために鐘は鳴る」(一六二四年)をややゆるやかに解釈するなら、島は特殊な場所でも、遠い場所でもなく、そこで起こることのすべては、私たち誰にとっても決してひとごとではあるまい。

 

8 八丈島紀行の挿絵

 蝦夷紀行もそうなのだが、八丈島紀行は大量の挿画を持つものが多く、しかもそれが、少しづつ変化しながら他の紀行にも利用される場合がよくある。その影響関係は錯綜しており、系統立てた整理が望まれるものの、困難な作業であろう。この内、「伊豆日記」と「島日記」の諸本に関しては福井初美氏が福岡教育大学の卒業論文で検討し一定の成果をあげた。それによると、全体で二十四点の絵図(二十二点が共通、「島日記」のみが二点)について比較した時、「島日記」の絵には背景のないものがあり、これは写本の過程で省略されたのではなく、「伊豆日記」として刊行する際につけ加えられた可能性が高い。全体に「伊豆日記」の方が、「絵の描写が細かく、しっかりしていて、どことなく華やかさがある」と福井氏は観察し、毒きのこや山猫など伝説的要素の強い話をとり入れるなど読者への配慮があるとする。

 先に述べたように、「伊豆日記」「島日記」と内容が同一の写本は多数あり、そのほとんどにこれらの挿絵が入っていて、微妙に異なっているだけに強烈な既視感に襲われる。他の紀行でもこれらの挿絵を使用している可能性もある。ただし、本書に収録した「八丈島画記」の絵図はまったく別のものばかりで、「伊豆日記」や「島日記」との影響関係は見られなかった。(2008.10.18.)

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