弟たちへの手紙(2)

自由な人々 吉川純子から吉川敏雄へ

あなたの手紙を読んで、胸がおどりました。姉さまと同じなのね! そう言ったら怒るでしょうけど。
 「束縛されるのは、いやなのです。きびしくでも、やさしくでも、“指導”されようとすると、抵抗せずにはいられない。何を言われても、はね返したくなる。僕はどっか、おかしいのでしょうか? でも、自由に生きたい。自分の上に一切の権力を認めたくない。」あなたはそう書いています。
 敏雄、それでいいのよ。あなたの回りの大人たちがどんな連中かは、姉さんも知っています。あの連中の「指導」がどんなものかも知っています。それを拒絶しようというあなたの気持は、自然です。
 でも、これで、有頂天にならないで。「自由に生きたい」とあなたは手紙の中で六回くり返していたけれど、本当に、それがどういうことか、知っているの? それは、ときには、束縛されているより、よっぽど苦しいことではないかと思いませんか?
 あなたは成績もトップ、スポーツも得意、皆の人気もあるという。家庭は裕福、父母はやさしく、どっちかというとかわいらしくて、魅力的な男の子。(おまけに美人の姉もいる!といいたいところだけど。)ところであなたの、自由に生きたい、という欲求は、右の条件と、どう、かかわりあってますか? それだけの条件が半分も欠けていたら、それでもまだあなたは、自由に生きたい、と思いますか?
 おそらく、そうではないでしょう。あなたは、姉さまにとてもよく似たずるさがある。すなわち、勝てると分っているたたかいでなくてはやらないこと。抵抗できて、何らかのプラスになると思う相手にしか、抵抗はしないこと。
 だって僕は、先生とけんかしてなぐられて、痛い目にあっただけでちっともプラスなんかなかったよ、などと逃口上はいわないでしょうね? たとえなぐられたって、あなたが先生の株をクラスでぐんと下げてしまったら、やっぱりあなたが勝つ場合だってあるのよ。そこまで勘定に入れて、あなたは抵抗しているはずよ。
 勝つと分っている『抵抗しかしないから、自分の有利な条件におぶさっているから、あなたが卑怯だなんて言ってるんじゃありません。何の根拠もなしに、「自由に生きたい」などとあなたが言って、あたりかまわず望みのない抵抗をしてたら、その方が、姉としてよっぽど恥ずかしいわ。
 敏雄、あなたの「自由に生きたい」というのは、結局、勝ちたいということではないの。自分より弱いくせに、形式によって守られて、上にたっている強いものを、実力でもってひきずり倒して、より強くなっていきたいということではないの。
 私が、こんなことを言うのは、あなたが「自由に生きる」なんてことばにうっとりなって、そのことばのカッコよさだけを大切にしはじめたら、困ると思うからです。センチメンタルにならないで。力のない者、弱い者は、自由に生きることなんかできません。
 あなたは、本当に、びくともしない、強い力にぶつかったことがありますか。あの手紙の文章からすると、あるのかもしれませんね。姉さまは、中学のとき、不良とけんかして、なぐられたことがあります。泣きはしなかったけれど、何一つ抵抗するひまもなく、ただなぐられたくやしさーというより、当惑は忘れられません。高校のときは、受験制度という、てこでも動かぬ壁の前で、先生たちにうさばらしの反抗をする空しさに、何度もひそかに歯ぎしりしました。そして、大学四年間、民青同盟の活動の中で、理論学習が充分でないばっかりに、納得できない方針も批判できず、実にわびしい日々をすごしました。姉さまは自由に生きるということは、意味もないヒステリックな反抗をすることでもなければ、すべてに無関心になって、自分のからに閉じこもってしまうことでもないと思います。それでは結局、ことばだけの「自由」に満足して、実際の自分の運命のかぎは、他人に預けているも同然です。そんなハリボテの自由に甘んじてはいけません。
 自由に生きようと思うなら、―強くなることです。賢くなることです。それとも、力をあわせることです。宙ぶらりんで空にういた、抽象的な「自由」なんて、この世の中にはありません。そんなものを求めて大切な時間を無駄にするのはよしなさい。
 世の中は、たたかいだらけです。そのたたかいを、一人で勝ちぬく力のあるものだけが、自由に生きることができます。姉さまにはそれはあります。おそらく、あなたにもあるでしょう。それを、もっともっと磨いて下さい。むちや、おりを拒否するものは、それにまさる訓練を自分に課さねばならないことを忘れないで。
 いくら、口で「自由に生きたい」といってみても、その願いがどんなに真実でも、それだけで、あなたを自由に生きさせてくれる人なんて、まず一人もいないでしょう。自由とは、ほしいと訴えて、与えてもらうたちのものではありません。奴隷解放だって、奴隷の望みに主人たちが心を動かされて行ったものでは決してないのだし、個々のそれについても、だらしない怠けものの奴隷は決して解放してもらえなかったのですからね。
 自由とは、自分の力でうばいとるしかないものです。まさかあなたは先生たちに「自由に生きたい」という有形無形のアピールをやってるんじゃないでしょうね。無駄ですよ。それより力をのばしなさい―あなた個人の能力でも、皆の団結でも。

愛国心の意味 小山典子から小山満へ

この頃ではもう、愛国心について、くよくよ考えることがありません。「自国を愛するということは、他の国をさげすむことではない」「日本を愛するからこそ、アメリカの侵略を憎み、佐藤政府を憎むのだ」などといつものことばで片づけています。
それにしても、大学に来て、自治会活動などをする中で、愛国心について私が感じていたモヤモヤは、かなりなくなってきたといってもいいようです。高校の頃、私は日本がどうしても好きになれず困ったものでした。特に、外国の記録映画の中などに、足の短い、顔の黄色い日本人がちょこちょこと立ち回るのを見ると、とたんに現実にひき戻されるようで、実にガックリさせられたものです。
 今、考えると、あれは、ひとつには、自分が社会的にまだ何の行動にも参加していなかったからだと思います。少なくとも、参加していることに気づいていなかった。
  「私は日本人であるより先に、小山典子である」と私はあの頃よく言いたがりました。けれど、あんなことばは、現実を無視したものでした。むしろ私の中の日本人という要素を徹底的に追求し、正確につかむことこそが、かえって私をいつわりの「日本人」、同胞意識から解放することができただろうと思います。
 大学に来て、アメリカの革命文学「義勇兵」―スペインのファシスト軍に対してたたかう各国の義勇兵たち、主として共産党員を描いたものですが―を読んだとき、その中にジャッキー・白井という日本人の義勇兵を見つけて、彼の描写はやはり外国人を描くとき特有の、ちょっとひやかすようなタッチでされていたにもかかわらず、私は胸がおどるようになつかしく、うれしく思いました。自分の息子のように誇りたく思いました。あれはたしかに、新しい私自身の同胞意識でした。
 国を愛する、ということが、既成の国家を愛する、ということとはちがう―それは、あなたのいうとおりです。しかし、では自分が生まれ育ったところを、山を、川を、愛することかというとー私にはよく分りません。
 アメリカのジェット機が頭上を飛びすぎるのは、見ていて、たしかに腹がたちます。日本人の一人として自分がアメリカに弾圧されているのはしゃくです。しかし、私は、アメリカが、日本を弾圧しているということよりも、私自身を日本人ぐるみ、弾圧してるということに腹がたつ、という方が自然です。その弾圧をはねかえすためには、日本人ぐるみでやられてる以上、日本人ぐるみで抵抗してやる、それははっきりしています。でも、それが愛国心でしょうかね?
 私は日本の伝統を愛します。日本の詩や和歌を守り育てたいと思う。しかし、それは、日本人としてというより、日本にたまたま生まれたが故に、それらの研究の条件にめぐまれ、したがて、それをやる任務を持つ一人の文学者としてなのです。
 かりに、私たちの手で、日本が社会主義国になったとしても、その国家へそそぐ私の愛情は、決して、祖国愛や愛国心とかで片づけられるものではないと思います。
 もしも、私が愛国心らしきものを、持ちうるとしたら、それは、私自身を大切にすること、この自分の良心を守るということ、それしかないと思います。状況によっては、故郷の山河を焼きほろぼさなくてはならぬときだってあるでしょう。やらねばならぬなら、私はそうするでしょう。そこでまた無理をして、愛国心の概念を考えるのは愚かというものです。
 私が今、自分の中で、愛国心として説明してきたもののすべては、結局皆どこか別の勘定にあてはまって説明がついてしまうのです。それ以外に愛国心というものを持ちうる人がいるのかどうか、私には分りません。明治百年で、とんでもない愛国心がふり回されて、けっこうアピールしている今、充分考えもしないでこんなことをいうのはひかえたいと思いますが、たとえ社会主義者であれ、国を愛するなどと、気軽にいう人は、どこか足りないところがあるんじゃなかろうかと思います。アラビアを愛し、アラブのために力をつくしたイギリス人、T・E・ロレンス、海に生きる水夫たち、故郷のないジプシーなどに私がいつも感じる崇敬にも似た激しい情熱は、そんなところから出ているのかもしれません。
 政府や国家が押しつけるインチキきわまる愛国心に対して真の愛国心を―共産党や、ジャッキー白井などにあらわされるそれを―かかげることは、私には、今はもう、できます。しかし、その真の愛国心とても、やはり幻ではないかという気がしてなりません。つきつめていけば「お茶づけが好きだ」という以上の愛国心なんて、見つからないような気がしてくるのです。

愛について 細川圭子から細川詩子へ

愛についてあたしにたずねてくるなんて、おカドちがいもいいとこだわ。姉さんは、この年になるまで、これといった恋愛なんてしたことなくってよ。
 そりゃ、男の子と遊んだわ。小学校でも、中学校でも、高校でも、あたしを好きになったらしい男の子が、いることはいたわ。あたし、その人たちに感謝してる。だって、そのおかげで、あたし、自分に自信がついたし、変な劣等感もたなくてすんでるもの。そして、その人たちを尊敬もしてる。たとえ、相手があたしであれ、人を愛せるって、立派なことだと思うからよ。あいにくとあたしはその人たちを特に好きではなかったし、愛されたからといって、特に楽しいことは、何ひとつなかったんだけど、だからといって、その人たちの愛が、ばかげていたとか、ちっとも思わないわ。
 ところで、あたしが他人を愛したことは? 残念ながら、これがノーなの。少くとも、現実の男性には、そして、手のとどく男性には、あたし、恋したことがない。テレビタレントとか、小説の主人公とか、そういうものには、めちゃくちゃに熱を上げるくせによ。結局、子供なのかしらね。
 ところで、あたし、昔から、あんたに、「同性愛の傾向あり」ってからかわれてたわね。実際、あたし、女の子の親友ってのが多かった。あたし、あんたにああいってからかわれても平気だったわ。正直行って、そんならそれでもいいと思ってたもの。あのころ、男女交際より女の子どうしのつきあいの方が、あたしよっぽど楽しかった。あたしの友人たちにも、楽しませてやったって、自信があるわ。ところが―いいこと、これからが肝心よ―あたし、一人っきりで、ベッドの中なんかで空想にふけるとき、女の子と愛しあうことなんか、想像もしなかった。いつも相手は男の人よ。じゃ、まったく健全ね―といいたいけれど、そうでもないのは、あたし、自分も男の子のつもりになっちゃうの。男の子になって、同性愛におちいってるの。
 これは、どういうことだと思う?
 その場合、私、いつでも、カヨワイ男性の方になって、相手にたよろうとしてるみたいなの。これは私の一つの願望の型なのね。男装して、男の人にかわいがられたい、という気持にも通ずるわ。「十二夜」のヴィーオーラは非常に原形的な、その型なのね。
 そういえば、女の友だちとつきあうときだって、私、カヨワイ男性タイプの友人だったわ。口はうまいし、よくしゃべるの。一見すごくしっかりしてて、皆の信頼もあついの。ところが意外と子供っぽくて、わがままで、気が弱くって、親友にはめちゃくちゃに甘えてしまうの。そんなところがまた、皆に好かれたらしいけど。どうしてそれを、男の人に適用できないの、って? それをこれから話そうというのよ。
 あたしは、現実よりも、小説をとおして恋を知って来たわ。ところが、小説に出てくる恋ってものは、どうしてどれもこれもああまでくだらないんでしょうね。特にあたしがたまらないのは、こと恋がはじまると、とたんに小説の話が中断してしまうことだったわ。主人公はいきなり別の世界にのめりこんでしまう。あたしは、あくびばっかりしていたわ。
 そんなこともあって、あたし、女というものは、決して男の世界に完全にはうけ入れてもらえないもんだって、思いこんでしまったの。また、それは決して錯覚とばかりは言えなかったわ。そして、それが、あたしには耐えられなかったの。ちがった世界のひとを、愛するということが。あたしは、同じ世界のひとを、愛したかった。ライバルや、同志になる可能性のあるひとを、愛したかった。
 詩っぺ、あたしは、男の世界のすばらしさを知っちまったのよ。それも極上のやつを、小説でね。そこにはたたかいがあったわ。冒険があったわ。陰謀がうずまき、熱い信頼がかわされ、血が流れ、涙が流れ、汗が流れていた。そこで、弱い者を敵の手からかばってやるとき、強い者に必死の抵抗をするとき、警戒をといて和解するとき、すべてが何と切実で、スケールが大きくて、美しかったか! あたしもそこにおどりこみたかった。そこで肩を並べてたたかう人々の中から、愛する人を見つけたかった。その人をかばい、かばわれ、ときには逆らいたかった。しかも―しかもね、詩っぺ、あたし、その日のたたかいがすんだら、その人にさえもいとまを告げて、まっしぐらに、自分の城へ、一人馬を駆りたかった。
 ふつうの恋では、あべこべよ。女は、城で、男を待つわ。女を自分の世界にひっぱりこんでくれる、まれな男性にしても、女が、自分の城へ男を連れて行かなければ、決して、満足しないわ。
 詩っぺ、あたしには分らない。愛には、すべてをうちあけることが、必要かしら? もし、そうなら、あたしには、人なんか愛せないわ。
 愛ということばに、そんな意味はないと思うの。男は、ずるいわ。自分の世界の苦しみを、逃げ出してきちゃ女にぶちまけて、それをなぐさめて送り出してくれるのが女の役目だと思ってる。そんな苦しみは自分で解決するか、男の世界の中で相談相手を選ぶべきよ。
 愛なんてことは、だいたい、すべて男の世界の中で発揮されるべきものなんだわ。慈悲だって、許しだって、理解だって、あこがれだって、征服欲だって、没我の精神だって―愛の要素をなすものは皆!
 だから、あたし、愛するには、二つの条件があるの。ひとつは、その人と、社会的に同じ世界に住むこと。もうひとつは(たとえ同居していても)あたし自身の城をもつこと。
 当然あたし、特定の一人だけを愛することってないと思うわ。社会的に同じ世界にいる場合、それはかえって不自然よ。私は他の人とそれほど差のあるつきあい方はしないでしょう。もしかしたら数人を同時に愛するかもしれない。家族制度につちゃよく考えてないけど、また、現実にあたしがどの程度妥協するかは分んないけど、一夫一婦制なんて、ナンセンスと思うわ。愛する相手も、かわると思う。そのときどきに、愛せる人を、あたしは愛していきたい。
 それというのも、さっきの二つの条件がみたされてる限り、あたしみたいに、人を好きになる人間はいないからよ。あたしはひねくれてるようで人なつこいの。皆がすぐ好きになるの。きらわれたときは悲しいけど、それでもやっぱり好きにならずにはいられない。その点では、情ないけど、誰にも負けない自信があるわ!

※「弟たちへの手紙」(3)に続きます。

Twitter Facebook
カツジ猫